090:心の傷
「失礼致します」
扉の外から、声をかけられる。その声はよく知った相手のものだったが、他に誰がいるか分からないので、レオンハートは、素っ気なく命じた。
「入れ」
扉が開き、従者のセルビィがうやうやしく夜食を運んでくる。セルビィが部屋の扉を閉じたところで、レオンハートは、いつものくだけた調子に戻った。
「あー、腹減った」
「レオンったら、こんな時間に、こんなに食べたら太るよ?」
セルビィの方も、レオンハートに調子を合わせた。外では王子とその従者として振る舞っているが、二人だけの時――そこにセルビィの兄のアルロスが加わることもあるが――は、こうしてお互いに気安く話していた。
セルビィとしては、幼馴染とはいえ、生まれながら自分の主にあたる人に、敬語を使うのは当然と思っている。だが、その主自身が望むなら、あえて気安く話して、緊張を強いられているレオンハートの心を解すのも、従者の役目とも考えていた。
「いいんだよ。さっきの夕食会なんか、気まずくてロクに食ってないから」
「相手は、リューベ侯爵家当主と、レイチェラ殿下の婚約者の……誰だっけ?」
「ロンドベルな。あれ嫌な奴だなー。なあ、セルもちょっと食っていけよ、寂しいし」
「はは、でも僕もなかなか忙しいし」
そう言ったセルビィの腹が、ぐぐぐ、と鳴った。レオンハートは、ニヤリと笑い、セルビィも照れたように笑った。
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
「おーう」
レオンハートは、紅茶を啜る。そしてセルビィは、ふんわりと焼かれた焼き菓子を一つ取って、口に放る。甘い菓子を頬張って、幸せそうに笑ったセルビィの顔が――次の瞬間、急激に歪む。
「ぐ、ぐうっ!」
「セル?」
どさ、とセルビィは床に倒れ、喉を掻きむしりながら、激しく痙攣する。その様子にただ事ではないと、レオンハートは急いでセルビィを起こし――床に転がった菓子を見てはっとする。
「駄目だ、吐け!」
「ぐ……ぐあっ、レオ……」
ぜえぜえと息をするセルビィの口から吐き出されたのは、真っ赤な血で――それは止まらない。
「誰か! 誰か来てくれ!」
部屋の外に向かって大声で叫ぶ。すぐに衛兵が飛んできたが、しかし、どうすることもできない。その間も、セルビィの震えと吐血は止まらず――徐々に、その動きが弱々しくなっていく。
「セル! おい、セルビィ!」
「殿下、駄目です! 毒が仕込まれていた可能性があります! ここから離れて下さい!」
「ど……毒」
レオンハートは、改めて突き付けられた事実に呆然とする。
あの菓子に、毒が。
俺の食べるはずだった菓子に、俺を狙った毒が。
『なあ、セルもちょっと食っていけよ』
そう誘ったのは、俺だ。
床に転がったまま、もうぴくりとも動かないセルビィ。
俺の、せいで。
目の前が真っ暗になった――と思った時、左頬に、鋭い痛みが走って、見えていた全てのものがかき消えた。
「ライ!」
「っ!」
ライが目を覚ました時、最初に見たのは、ぜえぜえと息を切らしながら、拳を振り上げているマリラだった。
「……こ、これは……」
状況が飲み込めず、尋ねると、頬に痛みが走る。自分を覗き込んでいる位置関係から言うと、マリラが自分を、握り拳で殴ったのだと思うが――
「目を覚ましたのね! しっかりして!」
「……どういう」
そこで、体を起こし、目の前のものを見る。そこにいたのは、白い毛に包まれた、猿のような魔物――その毛は、体から放たれる冷気で揺れ動いている。
マリラは息も苦しそうに床に座り込みながら、ライを見ていた。アイリスとジェスは、少し後ろで倒れている。そこでライは、自分達の置かれている状況を思い出した。
「そうか、俺たちはあの魔物と戦って……? いや?」
「精神攻撃よ! 〈悪夢〉の魔法に近いものを使ってくる……! あの目を見ちゃ駄目!」
「悪夢、だって……?」
そう言うマリラの顔も真っ青なのは、部屋が異常に寒いせいだけではないだろう。
「私はぎりぎりで耐えたけど……皆は……!」
「……ちっ」
マリラは魔法を使うから、自分自身に魔法が使われた時の抵抗の仕方も多少は心得ている。だが、ライ、ジェス、アイリスは、それをまともに喰らってしまった。
体に直接ダメージはないが、こうして気を失い、戦闘不能になったところを狙われたらひとたまりもない。ただ、幸いにも、夢を見ているのに近い状態なので、体に衝撃を与えると解けてしまうようだ。だから魔物の方は、ジェス達に悪夢を見せながら、動けなくなったところを直接殺しにはこなかった。
しかし、部屋は氷の洞窟のような寒さだ。こんな所で気絶していたら凍死してしまう。魔物の狙いは、精神攻撃で四人を沈め、自身から放つ冷気で死に追いやることなのだろう。
その魔物は――正気を保っているマリラとライに、再び光る目を向けた。
「きゃあっ!」
マリラは、必死に自分の魔力を集中させて抵抗するが――一瞬、幻を見た。
自分の体が、黒い呪いの痣に包まれ、おぞましい姿に変わっていくのを――。
「違う! 私は……!」
必死にそれを振り払い、震える手を確認する。
大丈夫。私は――もう呪われてはいない。そう言い聞かせる。
そしてライは――。
「ライ! 何やって!」
「……はっ……痛みで目が覚めるんだろ……」
そう言いながら、自分の腕に剣を突き立てていた。鮮血が流れ、床に雫が落ちる。
「……あの、クソッタレな夢を見せたのは、お前か……」
「ライ?」
「マリラ……二人を連れてここから離れろ……アイリスも悪夢を見てる……ジェスは蹴飛ばしてでも起こせ」
そしてライは――一人魔物に向かって駆け出して行った。
「!」
魔物は口を開け、更に冷たい空気を吐き出した。息をするのが苦しくなるほどの寒さに、ライの体が強張る。その隙を見逃さず、魔物はもう一度目を怪しく光らせた。
「う……うあああああっ!」
ライは再び自身の腕に剣を突き立て、歯を食いしばって持ちこたえる。マリラは悲鳴を上げた。
「駄目、そんなに血を流したら!」
「……知るか! お前らを犠牲にするわけにはいかないんだ!」
足のふらついたライに、更に魔物は赤い光を浴びせる。ライは、剣を取り落として蹲る。
「止めろ! もう……もう止めろ! 俺は……俺は!」
「ライ!」
吐き出すような声は苦しそうで、それでもライは剣を掴む。それは相手を攻撃するためというより、正気を取り戻すため、自分に痛みを与えるためにだった。
アイリスはがたがたと震え、悪夢に脅かされているのか、涙を流しながら気を失っている。流れた涙が、床の上で凍りつき始めていた。
ジェスもまた、これだけ騒いでいるのに、目を覚ます気配がない。
マリラは、かろうじて意識を保っているが、止まらない震えに体を覆う。
(駄目、これ以上は……精神が集中できない……!)
耐えてはいるが、マリラの目の前には、二つの景色がちらついていた。
白い猿の魔物と戦う目の前の光景。
そして、次々に呼び起こされる、過去の記憶。
普段忘れているようなことまで、繰り返し繰り返し、それを見せつけられる。
(悪い子だね! お前なんか魔物に食べられてしまえばいいんだ!)
(あの娘は娼館に売るしかないさ、そうでもしなければこの寒さは乗り切れないでしょう、飢え死にさせるよりマシだ――盗み聞きしていたのか? こっちに来い!)
(へえ、貧乏人の村娘が、学園に? 笑わせる、汚い服だな)
マリラもまた、強く爪を立てて拳を握り、その痛みでどうにか過去の光景を振り払う。振り払っても、胸の奥が痛み、息が苦しくなる。
「早く……アイリスと、ジェスを起こさないと……」
だが、再びマリラが見た目の前の光景は――
ぼろぼろになりながら、魔物の前に膝をつく、ライの姿だった。左腕は、血まみれの傷だらけだったが、それは全て、ライが自分でつけた傷だ――。
そのライは、朦朧とした意識でうわ言を話しながら、それでも剣で自分を刺し続けようとしていた。すぐ目の前に魔物がいるのに。
「……止めろ……俺は、本当は死ぬはずだったんだ……もう俺の前で……止めてくれ……」
「……ライ?」
「嫌だ……嫌だ、止めてくれえええ!」
止まらない悪夢に、目を閉じたまま、無茶苦茶に剣を、自分に体に突き立てようとしていて――
「駄目っ、ライ!」
マリラは絶叫した。
(……マリラ、さん……?)
アイリスは、聞きなれた声に、目を覚ました。瞼に薄い氷の幕が張って目を開くのには苦労したが、それでも目を擦って、ぼんやりとした意識で周りを見た。
どさり、と音を立て――ライの体が床に倒れるのが、見えた。
まものの めが あやしく ひかった!
ジェスはねむってしまった!
ライはこんらんした!
アイリスはねむってしまった!
ライはこんらん している!
ライの こうげき!
ライに 10のダメージ!
なお、セルビィって誰だっけと思った方は80話参照。




