075:おとぎ話
「な、何なの!」
レイチェラは思わず震えた。
魔法使いの彼女がいきなり倒れたかと思うと、今度は叫びだし、そしてアルロスを、信じられない力で吹き飛ばした。
彼女の金の髪は蛇のようにうねうねと独りでに動き、理性の欠片さえ感じられない目は、爛々と赤く光る。四つん這いとなって、奇妙な唸り声を上げていた。
「ぐう……」
あれはまるで獣――いや、魔物ではないか。
「マリラ!」
ライは必死に呼び掛けた。だが、聞いている様子はない。
見ている間にもマリラの手からは爪が伸び、異形の姿へと変わっていく。
一刻も早く、薬を飲ませなければ、マリラは完全に魔物になってしまうかもしれない。
「姉上――俺は、王位はいらねえ」
「レオンハート……」
ライは、視線をマリラに向けたまま、レイチェラに静かに告げた。
「友達も守れず逃げ出した俺に、国を背負う資格はない」
「! ……あれは」
何のことを言っているか気付いたレイチェラは、はっとした。
ライは、小瓶を握りしめた。二度と――大切な人を失うものか。
「万が一の事があれば、後は頼む」
そしてライは、一直線に駆け出した。
マリラは魔物の本能に支配されたまま、倒れるアルロスに近付いていく。
アルロスは背中を強く打ち付けて動けず、自分に食いかかろうという形相のマリラに、背筋が凍った。
「マリラ!」
そこにライが割って入る。マリラは、ライを見たが――それは自分の近くにいる獲物としか認識できない。
マリラは、鋭い爪を伸ばし、ライに襲いかかった。
「くっ!」
ライは避ける。アルロスを吹き飛ばした様子からして、今のマリラの力は、女のそれではない。
隙をついて、秘薬を無理矢理飲ませる――。まず、どうにかマリラを抑えこまないといけない。
「無理だ、レオン、素手だなんて……」
アルロスは呻いたが、ライはそれを無視した。
マリラの爪による攻撃をかわしつつ、足払いをかけようとするが、今のマリラは、スピードも元とは比べものにならない。
ライは攻撃をかわすのがやっとで、元々レイチェラとの戦いでかなり疲弊していた。
(くそっ……体が思うようについてこねえ……)
ぜえぜえと息があがる。だが――
「ぐうう………うううああっ!」
マリラが唸る。その細い喉から出るにも関わらず、それはもはや魔物の唸り声だったが――ライは確かに、そこに苦しそうな叫びを感じた。
(俺の苦しさなんて……!)
ずっと呪いに耐えてきたマリラに比べたら、どうってことはない。
ライは小瓶の栓を抜いた。
頭を狙った一撃、マリラの右手の爪がかすめるのを、ライは半身を捻ってギリギリ避ける。素早く小瓶の中身を口に含み、邪魔な空瓶を放り投げた。
「シャアッッ!」
マリラが左手を突きだし、首を裂こうと飛びかかってくる。
ライはそれを、避けるのではなく、急所を外すように肩で受けた。
レイチェラが悲鳴を上げる。右肩に刃のような爪が刺さり、肉を貫く。ライは痛みを堪えながらマリラのローブを掴んだ。ライが攻撃の勢いで倒れるのにあわせ、マリラも床に倒れる。
マリラの左手は、ライの右肩で固定している。暴れる体を無理矢理床に押さえつける。肉に更に深く爪が突き刺さったが、それでマリラの爪はもう動かない。
(大人しく、しやがれっ!)
仰向けに寝転がる格好となったマリラの頭に、ライは勢いよく頭突きをくらわせた。
痛みに、マリラが唸る。その瞬間、ライは自分の口をマリラのそれに重ねて、薬を口移しで流し込んだ。
マリラの喉が、ごくりと鳴る音が、確かに聞こえた。
瞬間、劇的な変化が起きた。
マリラの体から赤い光が放たれたと思うと、かっと体中が熱くなる。小さく悲鳴を上げたが、すぐに眠りに落ちるように大人しくなった。
「……!」
顔の痣が、みるみる消えていく。呪いは黒い煙となり、宿主から離れて、霧散する。
赤い光が収まり、波打っていた長い金髪が静かに床に流れた。
ライはマリラを抱え起こし、揺さぶった。
「おい、マリラ! 目を覚ませ!」
マリラはしばらく動かなかったが、ライが懸命に揺さぶり続け、小さく呻いて目を開ける。
「うっ……何か、気持ち悪い……」
「マリラ! 大丈夫なのか!」
そのやり取りをレイチェラは見て――力が抜けた。
(彼女が気持ち悪いのは、貴方が揺さぶり過ぎたからじゃ……)
マリラは顔色も良く、意識もはっきりしている。
そこに、ジェスとアイリスが飛び込んできた。
「マリラ! ライ!」
「大丈夫ですか!」
二人は、ボロボロのマリラとライに急いで駆け寄る。
「ライさん、怪我して……!」
「俺は後でいい、それより」
マリラの治療を優先しようとしたライに、当のマリラは首を振った。
「大丈夫。何だかよく覚えてないけど、すごく気分がいいの」
そしてマリラは、自分の痣を隠していた包帯をほどく。そこには、もとの白い肌があった。
「良かった……!」
ジェスは喜び、アイリスは目を潤ませている。ライもほっと息をついた。
呪いが解けたことを喜び合っている四人のもとに、やって来る者がいた。
「……これはなかなか予想外の事態だな」
謁見の間に現れたのは、杖をついた、深い青の瞳の青年。
「……兄上」
「ファルトアス王子!」
ファルトアスは、荒れた謁見の間をぐるりと見回した。後ろには、第一兵士隊長のジャズデンも控えている。
そこでライ達は現実に直面する。
眠らせただけとはいえ、王に危害を加えた。王城内で暴れ、王女とも剣を交えて、さらに王家の至宝まで奪っている。
その状況で、自分達の前にいるのは、王国最強の兵士――。
東の空が白みかけていた。
王城の壁を越えたザンドは、人目のない路地まで逃げ込むと、自分の体を覆うローブを地面に敷き、その上にそっとベルガを寝かせた。
逃げ出す際に、王城の見張りの兵士に見つかり追われたが、〈強化〉の呪文を体中に刻んだザンドの脚力で、簡単に振り切った。
「うっ……」
そこでベルガが目を覚ます。一度意識を失ったので、〈狂戦士〉の呪文の効果は切れているはずだ。
「……大丈夫か」
「ここは? アタシは王子を殺したのかい?」
ザンドは首を横に振る。
「そうか……。失敗しちまったね……不味いね、王女の暗殺もできなかったし……報酬はないが、もう逃げた方がいいだろうね」
そう言って、すっと立ち上がり、首を振る。
「……ベルガ?」
ザンドは不審に思って尋ねた。もう〈狂戦士〉の呪文の効果は切れているはずだから、傷が痛むはずなのだが。
「……何だい、ザンド……あれ?」
そこでベルガも、自分の体の異常に気付いた。体がまったく痛まない。ベルガは自分の体を見下ろし、触った。
肌は確かに血で濡れていた。しかし、先程の戦闘でついたはずの傷、それどころか、昼間に王女につけられた傷さえ、きれいに消えていた。
呪いを解いたのは王子様のキスでした――サブタイトルの由来はそんなところから。




