074:真の忠誠
冷たく、深い青の瞳で見下ろされ、オロンはただ呆然としていた。
ファルトアス殿下が王になる?
その言葉は、信じられないものだった。
あの剣の姫と呼ばれたレイチェラ殿下、そして冒険者としてその腕を鍛えたレオンハート殿下に、この足の不自由な男が勝つというのか?
ファルトアスは、もう言うことはないというように、オロンに背を向けた。すると、中の様子を窺っていたのか、すぐにジャズデンが部下を引き連れて入ってきた。
ファルトアスが命じるまでもなく、兵士に引き摺られるようにして、オロンは連れ出されていった。
「……どうしようもない男でしたな」
ジャズデンが言うと、ファルトアスはふん、と鼻を鳴らした。
「あれの父は立派だったが、息子達はあれに限らず、随分な小物だ。もはやロンドベル公爵家は終わりだろう」
ジャズデンは頷き、そして、暗殺者が城から逃亡するところを王城の警備兵が見たという報告をした。
「……そうか。姉上のことだ、万が一ということはあるまいが、明日に差し障りがあっては不味い。様子を見に行く」
「はっ」
杖をついて部屋を出て行くファルトアスに、ジャズデンは従った。その右足を引き摺っているにも関わらず、歩き方は堂々としたものだ。
ファルトアスは、生まれつき右足が満足に動かない。正妃が産んだ男子であると期待されていた分、周囲の落胆は大きかった。
ドラゴニア王家の者ならば必須である剣の稽古は、ファルトアスには与えられなかった。それどころか、周囲の貴族達、まして王さえも、ファルトアスにはまったく目をかけなかった。
しかし、母である正妃と、伯父である宰相は、ファルトアスに王族として相応しい教育を施した。おそらく二人は、ファルトアスが王となれなくとも、例えば大臣などの要職として国を支えられるようにと考えたのだろう。
実際にファルトアスは、与えられた課題を優秀な成績でこなしていた。
ある貴族などはこう言ったものだ。剣の国に生まれなければ、例えば隣のフォレスタニア王国であれば、智に優れた、素晴らしい王となれたものだろう、と。
その同情の込められた声を――ファルトアスは全く見当違いなど思っていた。
剣の稽古に縛られない分、自身の学びたいことをいくらでも学ぶことができた。
周囲の貴族達が擦り寄ってこない分、自分の利得のためでなく、真に王家への忠誠を持つ者を見極めることができた。
自分に向けられる視線が、負の感情のものが多いからこそ、人間をよく観察する機会を持つことができた。
今やファルトアスは、ジャズデンのように、自分に忠誠を誓い、優秀な人間を従え、城のうちのことを把握していた。
(レオンハートが王になるために帰ってきたなどと、馬鹿な事を言う者もいるが――)
あの弟は、そんな野心を持つ男ではない。そして、王として立つには、優しすぎる。大局を見て、小を切り捨てるような判断は、彼にはできない。自分を慕う者のために、自分の身を賭けるような男だ。
姉のレイチェラも似たようなもので、情に流されやすい。
二人とも人間として付き合うならば、自分より魅力的であろうが、王として頂くには、周囲はもとより、何より本人達が苦しむだろう。
そして何より、自国について学ぶ中、ファルトアスは思ったのだ。
自分ならもっと上手く、この国を治められる、と。
「この私を作ったのだから、動かぬ足も、そう悪くはないものだな」
「……殿下のようにお強い方は、そうは居られませぬ」
ファルトアスとジャズデンは、離宮を出て、王城へ向かった。
レイチェラは驚いていた。
弟のレオンハートは確かに腕を上げた。しかし、まだ自分には及ばない。
レオンハートにとっては苦しい剣の打ち合いのはずだ。その中で、まさか自ら、従者の危機に武器を手放すとは――。
その判断は正しいといえた。魔法使いの彼女をアルロスが抑えていれば、二対一で戦うことになり、もはや勝ち目はないからだ。
しかし、それが瞬時にできるものだろうか?
それは、冷静な判断というより、彼女の危機に勝手に体が動いたというように見えた。
そして、あの遠慮のないやり取り。レイチェラは、レオンハートと彼女の関係が、主と従者のそれではないと知り、困惑した。
「レイチェラ様っ!」
アルロスの焦った声に我に返ったレイチェラは、自分に迫る巨大な火の玉を見た。
放たれた火球を、ライはギリギリで避けると同時にそのまま駆け出す。
対してレイチェラは、小さく悲鳴を上げて大きく距離を取って逃げた。
(よし!)
剣筋は見極めて、紙一重で避けられる剣の王女も、炎を避けたのは始めてなのだろう。
対してライは、マリラの火球が自分に飛んでくるなんて、もはや慣れたものだ。
大きく隙のできたレイチェラを突破し、ライは玉座へと一直線に走る。
「いけない!」
「はっ!」
ライの目的は玉座の近くに転がっている秘薬の瓶だが、アルロスとレイチェラはそうは思わない。ガルドラ王を守るべく、レイチェラはライを追って走った。
マリラが再び呪文を唱える。杖の先から、炎が放たれた。
「させるか!」
アルロスはマリラの放つ炎を避けて、その杖を奪おうと迫った。だが、マリラは慌てる様子はない。
「読み通りよ!」
炎の塊が着弾した場所から、ジュワアア、と激しく湯気が立ち上ぼり、アルロスの視界を遮る。
先程までの水の魔法で、謁見の間には巨大な水溜まりができていた。そこに高温の炎の塊を叩き込んだので、水が一瞬にして湯気となったのだ。
「ぐ、熱っ!」
湯気は避けようがない。たまらず顔を覆うアルロスに、マリラは〈眠りの雲〉の呪文を唱えた――が。
「ううっ!」
心臓を掴まれるような、急な発作がマリラを襲った。
ライが秘薬の瓶を掴むと同時に、胸を押さえて杖を取り落としたマリラが視界に入る。
「マリラ!」
叫んで駆け寄ろうとしたライの首筋に、ぴたりと冷たい剣が当てられた。
「そこまでよ」
レイチェラが追い付き、ライにレイピアを真っ直ぐに向けていた。
「どけ!」
「今の状況が分かって言っているの?」
呆れるレイチェラの肩越しに、ライの視線は、うずくまるマリラと、それに近付くアルロスに向けられていた。
アルロスは、急に倒れたマリラに、近付いていく。
急に倒れたのは不審に思った。しかし、あれだけ呪文を使ったのだから、精神力の限界が来たのだろう――そう判断したのだ。
「観念して、大人しく――」
「あ、あ、あっ……」
マリラはぶるぶると震えている。その様子に違和感を覚えたアルロスだったが、髪をつかんで、顔をこちらに向けさせる。だが、その顔を見たアルロスはぎょっとした。
顔は古代文字のような模様でびっしりと黒く覆われ――目が赤く光っていた。
「あ、あ、ああああーっ!!」
マリラは叫んだ――おぞましい衝動がせり上がってくる。
腕が勝手に動き、自分の前の人間を、弾き飛ばした――マリラが見たのはそこまでだった。
そこでマリラの意識は、真っ黒に塗り潰された。




