072:狂戦士
オロンは、やっとのことで言葉を発した。
「……何故、私が殿下のご命令とはいえ、そのようなことをしなくてはならないのです」
貴族が王子に向ける言葉ではないが、自分は王女の婚約者である。それもその王女は、次期国王になるのだ。
「なぜ剣の柄を握ることができない?」
ファルトアスの厳しい追及に、彼は何もかも知っているとオロンは考えた。オロンの手下は、第二王子の剣の柄に毒を塗る中で捕まったのは間違いない。だが、奴とてそこで主の名前を言ってはいないだろうし、仮に吐いていたとしても、知らぬで通る話のはずだ。
「……毒が塗られているからですよ」
「ほう?」
ファルトアスは面白そうに聞いた。
「殿下は私を害そうとしているのですか。貴方の姉君の婚約者に当たるこの私を」
こう言えば、筋は通るはずだ。ファルトアスにとってレイチェラは異母兄弟で、王位を争う敵同士なのだから、オロンを害する理由はつく。
「毒か、何故そうと?」
「剣の柄が不自然に光っていたもので。それに、僅かに剣から嫌な臭いが……」
そう言って、オロンは剣をまじまじと見た。しかし――オロンの渡した毒に特有の、妙な臭いがしないことに気付く。
そこでオロンははっとする。ファルトアスもオロンの表情が変わったのに気付き、薄く笑った。
「そうだ。この剣に塗られているのはただの油だ。不正を疑われては困るから、これはそもそも私の剣なのだがな。さて、もう一度聞こうか」
ファルトアスはオロンを、深い青の瞳で見据えた。
「お前は何故この剣に、毒が塗られているなどと言う?」
オロンは今度こそ、完全に言葉を失った。
「くっ……!」
狂った様子で突き進んでくるベルガに、ジェスは押されていた。
防御などまるで考える様子のないベルガに、牽制は効かない。また、先程までの、傷を庇う様子もない。
そのベルガの腕の傷――ジェス達は知るよしもなかったが、それはレイチェラがベルガにつけたものだった――から、血が吹き出した。限界以上に体を酷使し、傷口が開いたのだ。
「ぐうう……があっ!」
獣のような形相で迫るベルガは、動けない程度に痛めつけるなどといったことでは効果はないだろう。そもそも痛みを感じている様子がない。
「……っ!」
激しい一撃が振り下ろされる。剣で受けきれないと判断したジェスは一旦後ろに跳び、ベルガから距離を取る。ベルガはすぐに追撃してくる。
(絶対に避けないというなら!)
ジェスはベルガの突き出す曲刀を避けずに、自分もまっすぐ剣を突き出した。
ジェスもまた回避を捨てた。しかし、ベルガの武器が曲刀なのに対し、ジェスの武器は長剣。
その武器の長さの差で、ベルガの刃がジェスに届くより、ジェスの剣がベルガの腕を刺す方が早かった。
ベルガが曲刀を落とす。ジェスは素早くそれを蹴り飛ばした。相手はこれで武器を失ったと、ジェスは一息つく。
しかし――狂戦士化したベルガにそんなことは関係なかった。
「があっ!」
両の腕に浅くない傷を負っているにもかかわらず、その血濡れた腕を突き出し、爪でなおもジェスを殺そうとしたのだ。
ジェスはその様子に戦慄し、一瞬反応が遅れる。引っかかれたというより、すさまじい力で押されたことで、ジェスはよろける。
「ま、まだやるのか! もう勝ち目はない、止めるんだ!」
ジェスはベルガに言うが、耳には入らない。激しく動くたびに、ベルガの傷口は血を流す。ベルガの攻撃を避けるジェスだが、剣を持っていることも構わず突っ込むベルガの身には、傷が増える一方だった。
(さっきから出血が……! このままじゃ、彼女は死ぬぞ!)
ジェスもまた、激しい戦闘が続いたことにより、息があがってきていた。このままベルガの攻撃を避け続けられる自身はない。
動きが鈍ったジェスにベルガがつかみかかり、壁へと押し付けるように叩きつけた。そして、完全に獣と化した状態で、ジェスの肩口に強く噛みついた。
肉を食いちぎられるほどの激しい痛みに、ジェスは叫んだ。
「もう止めさせてください!」
アイリスはほとんど悲鳴のような声を上げて、ザンドに訴えた。
「このままじゃ、ジェスさんも、ベルガさんも!」
「……。」
「お願いですから! 魔法をもう止めて!」
返事のないザンドに、アイリスは必死に叫んだ。するとザンドは、ぼそりと話した。
「……ここでベルガが負けて捕まれば、待っているのはどちらにしろ、死だ」
それであれば、ベルガが死を賭して戦う意味があるというのか。
「ぐあーっ!」
話す二人の後ろで、ジェスが悲鳴を上げた。慌てて振り返れば、ジェスにベルガが噛みついている。アイリスは口を覆った。
そして、ボロボロになり、ただの獣と化したベルガを見るザンドの顔にも――僅かな、苦しみのような表情がよぎったのを、アイリスは見た。
ジェスを助けたい。しかし、アイリスではあのベルガには太刀打ちできない。アイリスはある決意と共に、強く手を握りしめた。
「ザンドさん! あなたなら、あの状態のベルガさんを抱えて逃げられるはずです」
「……無理だ」
ザンドは足に傷を負っている。しかしアイリスは、青く澄んだ瞳で、ザンドを見つめた。
「約束してください」
このままでは喉を食い千切られる。ジェスは必死にベルガを離そうとしたが、激痛に体が動かず、恐ろしい力で押さえつけられていた。
「くっ……!」
だが――ベルガを、素早く近付いてきたザンドが強く後ろから殴り、気絶させた。
「ぐっ……」
急に離されたジェスは、ずるずると壁にもたれたまま、その場に座り込んだ。
「ジェスさん!」
アイリスが急いで駆け寄る。ジェスが薄目を開けて見たのは、気絶したベルガを小脇に抱えたザンドだった。
「……」
ザンドはジェスを無表情に見下ろしていたが、ぽつりと独り言のように呟く。
「狂戦士化したベルガとさえ渡り合うとはな。ドラゴニアの王女も王子も、大した剣の腕前だ……」
「えっ……?」
そしてザンドは、アイリスを何とも言えない目で見ると――ベルガを抱えて、一跳びで窓から飛び出し、その場から逃げた。
驚くジェスに、アイリスは傷を癒しながら、謝った。
「……ザンドさんの傷を治したんです。治った足で、ベルガさんをここから連れて行くことを、約束させて……」
「……。」
「逃がしてしまいました……怒っていますか?」
怒ってはいないが、それは随分と危険な賭けだった。
そこで狂戦士化したベルガの身より、ザンドがジェスを殺すことを優先したら。またはザンドが一人で逃げてしまったら。最悪の場合、アイリスがザンドに襲われたら。
アイリスだってそれくらいは理解していたはずだ。
ジェスが驚きながらアイリスを見ると、アイリスは俯いた。
「あの二人のことはよく分かりません。でも、ザンドさんは、ベルガさんを大切にしている気がするんです……」
「……。」
砂漠の遺跡で、アイリスはしばらくベルガとザンドと行動を共にしていた。もちろんその卑劣さも十分知っているはずだが、それでも何か思うところがあったのだろうか。
しかし今は、それを追求している場合ではない。
「行こう、マリラとライが心配だから……」
「はい」
二人は立ち上がり、謁見の間へと急いだ。




