007:渡し舟
クロニカの街を目指して進むジェス達の前には、ごうごうと音を立てて流れる川があった。
「気を付けてくださいね」
アイリスは、小さな舟で川に漕ぎ出す三人の無事を祈った。
「渡し舟が出てないですって?」
川沿いの小さな漁村についた一行は、青竜の川を渡る舟が出ていないと聞いて困惑した。
魔法学園のあるクロニカの街は、ギールの街より北西にあり、その間には、青竜の川と呼ばれる大きな川が流れている。流れも速く、川幅も広いため、泳いで渡るのはまず無理だ。
マリラが学園から冒険者の街に来た時の記憶では、この川沿いにある漁村で、川を渡るための舟を出しているはずだった。村にとってはその渡し舟の運賃が、主要な収入源の一つになっている。
「出したいのはやまやまなんだが、ここのところ、魔物が出て川に舟を出せないんだ」
「魔物……」
「大きな蛇みたいな魔物でな。漁師も何人もやられた……」
そう言った村人の男は、生々しい腕の傷跡を見せた。アイリスが小さな悲鳴を上げ、咄嗟に手で口を覆う。
「じゃ、漁もできないから大変じゃないのか? 魔物退治を冒険者ギルドに依頼したりは?」
ライはそう尋ねた。
「勿論そうしたんだが。なかなか引き受け手がないんだ。こんな村じゃ、大した報酬も用意できなくて……」
ライはそれを聞いて仕方がないかもしれないと頷いた。一般に水中の魔物退治は難しい。水の中に引きずりこまれてしまえば、もはや逃げ場はないからだ。相応の報酬をかけなければ、引き受けようという冒険者はいないだろう――普通は。
「……それはお困りでしょう。もし良ければ、僕たちに詳しい話を聞かせてもらえませんか」
ジェスがそう言うのを聞いて、ライは仕方ねえなあとため息をついた。
成功報酬の銀貨十枚に加え、渡し舟の代金はタダ。
そんな条件で、ジェス達は魔物退治を請け負った。見合わない報酬だ。村人にとって死活問題なのだから、報酬についてはもっと足元をみることもできただろう。だが、漁ができなくなり、日々の生活に困っている村にそんな交渉をしようとしないのが、このジェスという男である。
「お前のお人好しは、もはや病気の域だ」
ライはそう毒づきながら、漁師から借りた銛の具合を確かめる。銛には太い綱が結びつけられている。
「でも、僕たちは川の向こうに渡らないといけないからね」
舟に、ジェスとライ、マリラが乗り込む。アイリスは舟に乗りこまず、三人を見送った。
アイリスは、疲労しきった顔で、三人を心配そうに見つめた。
「さて、と……」
舟を漕ぎながら、魔物が現れないか周囲を警戒する。漁師の話では、凶暴な性格で、人が現れればすぐに襲ってくるという話だった。
「……来た」
ジェスは櫂を置き、剣を構えた。ライとマリラも、身構える。舟の右側で、ぶくぶくと不自然に泡立っているところがある。次の瞬間、ぬらぬらとした大きな魔物が、水面から一気に飛び出してきた。
巨大な水蛇の魔物だ。大きな口を開け、舟の上の人間たちを喰らおうと飛びかかる。
「おいおいおい!」
あんなのに攻撃されたら、舟ごとひっくり返ってしまいかねない。ジェスは大胆にも舟から飛び出し、大きく振りかぶって水蛇に切りつけた。
ギャアアア!
素早い一撃は水蛇の顔面に当たった。だが、不安定な舟の上では十分に勢いがつかなかったのか、致命傷になるほどではない。ジェスはそのまま川の中に落ちる。
「ぷはっ!」
ジェスは水面から顔を出して息を吸う。その後ろから、怒り狂った蛇がその首を飲み込もうと襲い掛かる。
「潜って!」
マリラの鋭い声に、ジェスは咄嗟に水の中に潜る。水面の中に潜ると、太い水蛇の胴体と――水面の上が大きく明るくなるのが見えた。マリラの放った〈火球〉の呪文が、間一髪で水蛇の頭を弾き飛ばしたのだ。
「危ねえな……」
ライは若干冷や汗をかいた。ジェスの首が水蛇に飲まれそうになったのもそうだが、ジェスが水に潜るのがあと少し遅れていれば、〈火球〉の呪文で顔面黒コゲだったかもしれない。
ジェスはその隙に素早く川の中を泳ぎ、舟のところまで戻ってきていた。川に浸かったまま、舟の縁につかまっている。
「どうだ?」
「よし、行くぞ!」
ライは再び襲い掛かってくる水蛇を十分引きつけてから、銛を投げつける。銛は水蛇の胴に刺さった。ぬるぬるとした臭いのある液体が傷口から流れ出す。
ギャワアアア!
水蛇が再び咆哮したが、襲い掛かる時のそれではなく、苦痛に悶えるような叫び声だ。その声に手応えを感じたライは、手を上げて合図した。
「今だ! 引くぞ!」
村の漁師達が総出で、綱を引く。その綱は、水蛇に刺さる銛に結び付けてあった。水蛇が暴れて銛が抜けそうになるたび、マリラが〈火球〉の呪文をぶつけて弱らせる。
それから数十分の格闘の末、水蛇はとうとう川岸に引き摺り上げられた。なおも暴れる水蛇の首に、ジェスが渾身の力で剣を振り下ろした。
「やったぞ!」
村の人々が歓声を上げる。ライとジェスは互いに拳を打ち合わせた。魔法の連続使用で疲れたマリラは、舟を下りるとその場に座り込んだ。
「マリラさん、大丈夫ですか?」
駆け寄ってくるアイリスに、マリラは頷いた。
「アイリスこそ、もう大丈夫?」
「少し休みましたから」
アイリスは、水蛇に襲われて怪我をした漁師たちの傷を〈癒し〉の魔法で治していたのだ。水蛇との戦いに、協力してもらうためだ。
疲れて座り込む魔法の使い手二人を、ライは腕を組んで見ていた。
「なあ、マリラ」
「何よ」
それから村で一晩休んだ一行は、次の日、渡し舟に乗せてもらって川を渡っていた。その舟の上で、ライはマリラに疑問に思っていることを尋ねてみた。
「魔法って、一体どういう力なんだ?」
「どうって……」
「例えば俺がマリラやアイリスの真似をして呪文を唱えても、何も起こらないだろ? マリラだって魔法の呪文自体はたくさん知ってるはずなのに、使うのは数種類だ」
「そうね」
「でもって、魔法を使った後の魔法使いは程度によるけど大抵消耗してる。本人がやってることは杖振り回して、呪文を唱えてるだけなのに」
「杖振り回すだけって……まあいいわ」
マリラは金髪をかき上げ、少し考えて話し始めた。
「魔法ってのはそもそも、この世界に満ちている力を使うことなの。その力自体は世界自体に常に満ちているわけ。その力に意味を持たせるのが呪文」
マリラは舟から身を乗り出し、川の水を掌にすくった。
「呪文を口で唱えたり、または魔法陣や魔導書に書いたりすることで、力は意味を持つ。けど、それを制御するのは術者の精神力なのよ」
指の隙間から、ぽたぽたと水の雫が落ちる。
「魔法使いの訓練をしていない人が魔法の呪文だけ唱えてもうまくいかないのは、意味を持たせた力を制御できないから」
「……それで?」
「特に口頭で呪文を唱える場合、制御のタイミングは方向性を持たせたその一瞬だからね。大抵の場合、力は拡散してしまって、目に見えて発動するところまでいかない」
マリラは掌に溜めた水を、放り投げるように川へ放った。川にいくつか波紋ができたが、すぐに流れに飲まれて見えなくなる。
もしかしてこの水は何かの比喩だったのか? とライは今更ながら考えた。
「はあ……」
「だから魔法の道具や、実力を越えた呪文を唱えるのは本当に危険なのよ。自分自身がその魔法の力で壊れてしまいかねない。ちなみに杖は制御の補助をする役目があるの。アイリスのロザリオもそうね」
「え、えっと……」
話を振られたアイリスは、曖昧に頷いた。
「まあ、私の使う古代語魔法と違って、アイリスの神聖魔法は、力の捉え方が違うんだけど……」
「いや、よーく分かった。ありがとう」
ライは話を遮った。これ以上聞いても理解できそうにない。
掌を前にしてストップする仕草に、マリラは憮然とした表情を向けた。
「聞いてきたのはそっちでしょ」
「いや……」
「ははは。あなた達、仲がいいんですねえ」
舟を漕いでいた漁師は、そう言って笑った。