069:王女
レイチェラのドレスに血がついているのを見て、アルロスは卒倒しそうになった。
「れれれ、レイチェラ様―っ!」
「静かになさい、兵士が情けない! これは私の血ではありません」
暗殺者に襲われたレイチェラだったが、剣の腕は相手より勝っていた。返り討ちにし、相手に切りつけたが、取り押さえることはできなかった。
「賊は逃がしてしまいましたが。すぐに追いなさい!」
「はいいっ!」
アルロスは廊下を全力疾走していく。もはや近衛の兵士長が聞いて呆れる狼狽ぶりである。まあ、ここの所、失態続きなので仕方ないが。
それにしても――レオンハートが侵入した一件で、城の警備はだいぶ強化したはずだ。それでなお、続いて賊の侵入を許すとは考えにくい。
(……内部に手引きしたものがいると考えるのが妥当ね)
二年前、レオンハートを暗殺しようとした存在にはレイチェラも気付いている。だが、レイチェラを襲ってくる相手というのは、これが初めてだ。
王位は剣の腕が立てば、女でも問題なく与えられるが、どうしてもその性質上、男子に与えられる向きが強い。
レオンハートさえいなくなれば、レイチェラが即位すると期待するものは多いが、その逆――レイチェラさえいなければレオンハートが即位する、と考えるものはあまりいない。悔しいことに、まともに試合をすれば、レオンハートが即位できると考えているものが多数だからだ。
(この状況で……私の命を狙って、得をする者がいたかしら?)
レイチェラはそう考えたが、思いつかない。
とにかく汚れた服を替えようと、改めて自室に戻ろうとしたとき、呼び止められる。
「失礼いたします、レイチェラ殿下」
「あなたは……?」
そこにいたのは、国王付きの侍女であった。王の身辺の世話をするため、国王の病気を知る限られた人間でもある。
「陛下から手紙を預かって参りました……」
「手紙?」
レイチェラは不思議に思いながら、手紙を受け取る。さっきも会ったばかりというのに、何なのだろう?
自室に戻り、開くと、そこには間違いない王の筆跡で――だいぶ、手が震えるのか、文字は揺れていたが――こう書かれていた。
『今夜、誰にも気付かれないよう、供をつけずに我が部屋にくるように』
ジェスが国王を見張っている間、時々声運びの番を代わりながら、ライ、マリラ、アイリスは部屋で待っていた。
しかしそれにしても、最近はこの豪勢な部屋でのんびりしている時間が長いような気がする。部屋が広いので四人でいても窮屈ではないが、体は鈍ってしまいそうだ。
マリラはその間、アルロスが持ってきた書状を読んでいた。王位を決める試合についての詳細が書かれている。別に読みたいから読むわけではない。暇なのだ。
『一つ、王位継承権を持つ者は必ず試合を行う。
一つ、魔法の使用は、自身、他人共に認めない。治癒の魔法を施すのは、試合を終了させ、勝者を決定させた後とする。
一つ、王位継承権を持つ者が三名以上の場合は、勝ち抜き戦にて剣の腕が優れている者を決定する。試合順は年齢の低い継承権を持つ者から行うものとする。
一つ、万が一にも審判の判断、および、次期王として選ばれた者が相応しくないとする場合は、現王がその者の素質を剣を持って判断するものとする。
一つ、今回の試合の審判は、第一兵士隊長であるジャズデンが務める。』
マリラはそれらの試合の取り決めを読んで、ふーんと声を上げた。
「色々細かい決まりがあるものねえ」
「そりゃ、国の王がそれで決まるんだ」
剣の試合が、王位を決定するのに相応しい判断基準かはおいておいて、その試合には様々な規定がある。
「次の王は姉上で決まりだろ」
ライはため息をついた。
「剣の腕も申し分ないし、姉上は王位に執心されているから」
「そうなの?」
「ああ。急に戻ってきた俺が王位を継ぐことを警戒してんのは明らかだ。……アルロスも姉上についてれば問題はねえだろ」
自分が試合に出なければ、試合はレイチェラと、足の悪いファルトアスの試合のみになる。どうしたってファルトアスに勝ち目はない。
(馬鹿げてるぜ。剣の腕を一番に考えるこの国は、足が悪いってだけで、王の正妻である王妃が生んだ第一王子を、冷遇するんだからな……)
広い世界を知った今だからこそ、ライは特にそう思う。
夜になった。ライ達三人は寝ずに待ち構えているが、未だに王の動きはないらしい。
王がどこかに出て行くか、または王に秘薬が運ばれてくれば、すぐジェスが連絡してくれる手はずになっていたのだが。
やきもきしながら連絡を持っていた三人だったが、急に声運びからジェスの声が聞こえる。
『あっ……王様の部屋に、レイチェラ様が来てる』
「えっ……ライさんに代わります、どうぞ!」
アイリスはすぐにライに声運びの筒をライに渡す。ライは急いで筒を耳に当てた。
『レイチェラ様、一人みたいだけど、でも、こんな夜中に来るなんておかしいよね?』
「何か手に持ってないか?」
『……持ってない。あ、レイチェラ様が王様の体を支えて起こした……出て行くよ?』
こんな深夜に謁見などするわけがない。王が秘密で、自ら出て行こうとするということは――期待が高まる。
「よし! 俺たちはすぐ部屋を出る。ジェスも見張りはやめて合流してくれ」
そしてライは急いで声運びを置き、仲間を振り返った。
「行くぞ」
「分かってる!」
マリラが杖を構えると、せえの、でアイリスとライが勢いよく部屋の扉を開いた。
すかさず、マリラは〈眠りの雲〉の呪文を唱え、部屋の前に立っている衛兵を眠らせた――。
廊下を走る。できるだけ音を立てないようにと気遣わなくとも、毛足の長い絨毯の敷かれた廊下は、足音がしなかった。
「部屋はこっちだ! 今から走れば追いつける」
「はい」
あの弱った国王を支えながらでは、それほど早くも歩けない。普通なら広くて迷ってしまいそうな王城だが、ライにとっては見知った場所だ。
「っ!」
素早く曲がり角で身を隠す。
曲がろうとした先に、ガルドラ王がいたのだ。レイチェラに支えられて、ゆっくりと歩いている。
(どこへ向かおうとしている?)
宝物庫の方向ではないのは確かだ。
まさかこれでトイレなどといったことはないだろう。お供に、わざわざ王女を付けるのだ。王家の者にしか話せない秘密なのだ。
気配を殺して潜んでいると、ジェスがそこに追いついた。城の屋根ごしに再びライの部屋に戻り、そこから同じルートを辿ってきたらしい。
「あっちって、謁見の間の方?」
小声でジェスが聞くのに、ライは頷く。
廊下は広く見通しがいい。見失わないギリギリの距離を保つため、王が角を曲がったところで、ライ達は再び走り出した。
だが、その時、天井が外れ、そこから人が飛び出してきた。
音もなく不意打ちで振り下ろされる刃を、ジェスは間一髪で躱す。
「……ちっ、さすがに、一筋縄じゃいかないね」
「!」
急襲してきた相手の顔を見て、一行は驚いた。
以前遺跡で出会った、紫の髪に赤い瞳を持つ、女盗賊のベルガだった。




