044:旅立ち
宿屋の客室のドアが、静かにノックされた。
マリラは、ベッドで静かに寝息を立てている少女を起こさないよう、そっと立ち上がり、ドアを開けた。
「……どう、あの子の具合」
「だいぶ落ち着いたわ」
ジェスとライは、部屋に入り、そっと様子を窺う。
「もう二日も熱を出したまま寝込んでるからな……。余程怖い思いをしたのか……」
ライは腕組みをした。こんな子供に、ひどいものだ。
「それもあるだろうけど……疲れているのもあるんじゃないかな。ライから聞いた話では、色々な冒険者パーティの依頼に同行してたんだろう? 普通、冒険者は毎日依頼を立て続けに受けたりはしないよ。けど、この子は……」
「そもそもこの子、どこの子なの?」
マリラのもっともな疑問に、ジェスもライも首を振った。
あの後――奴隷たちは解放され、無理矢理攫われてきた人々は、街の自営団達によって家に帰された。だが、気絶してしまったアイリスは、送り届けるべき場所が分からない。
放っておけなかったジェス達は、アイリスを宿まで連れ帰り、看病をしていた。
マリラがアイリスの看病をしている間、ライとジェスは、手がかりを聞きまわったが、一人旅をしており、どこのパーティにも属していなかったアイリスの情報は、名前以外掴めなかった。
「本当にこの子が、噂の、神官の少女なんだよな?」
ライが見る限り、こうして眠る姿はただの子供だ。
「それは間違いないよ。僕の傷を魔法で治してくれた……」
ジェスは、眠るアイリスを見下ろした。
眠り続けて四日目の朝――アイリスは目を覚ました。
ゆっくりと起き上がり、そして、自分の眠っていたベッドに突っ伏して眠っている金髪の女性を見下ろした。
同じ宿屋の部屋の床には、狐色の髪をした背の高い青年と、黒髪の青年――アイリスが最初にこの街に来た時、道を案内してくれた人だ――が眠っていた。
アイリスは少しずつ理解する。この人達が、自分をあの恐ろしい場所から助けてくれて――そして、今も助けてくれているのだということを。
アイリスが体を動かすと、金髪の女性が目を覚ます。
「あれっ……目を覚ましたのね? ええと……アイリスちゃんだっけ?」
「あ……はい、あの、ありがとうござ……」
「起きて! ジェス、ライ! アイリスちゃんが目を覚ましたわよ!」
アイリスが礼を言おうとする前に、彼女は床で寝ている二人を起こす。目を擦りながら起きた二人は、起きたアイリスを見てほっとしたように笑う。
「良かった、気がついたんだね」
「ん、気分はどうだ?」
三人からかけられる優しい言葉に――アイリスは、やっと、笑った。
「……神託……ねえ」
ジェス達は、アイリスがこの街に来た経緯、冒険者の魔物退治に同行している理由を聞いた。話を全て聞いて、そして、ライはこめかみを指で押しながらそう言った。
「……信じていただけないとは思いますが……」
「いや、俺は別にお嬢さんが嘘をついてるとは思ってねえが」
嘘をついているかどうかくらい、見れば大体分かる。
ただ、それにしてもあんまりだと思うだけだ。
旅慣れていないどころか、ろくに世間を知らない少女を、こんな人の多い街に放り出したということに対してだ。人の多い街には、良い人間も悪い人間も集まる。
修道院の対応が不適切なのか――こんな子供に神託を出した龍とやらが不親切なのか。
「……今の話で、何か分かる、マリラ?」
「『導くべき者』のこと? いくら何でも……私だって龍の教えには詳しくないし」
マリラも首を振った。
確かに、様々な伝説には、神託や特別な力を授かった者が登場する。その真偽はさておくが、アイリスの話はあまりにも曖昧だ。
「探すにしても、世界は広いし……ほら」
マリラは自分の荷物から、地図を出した。
「これがフォレスタニアの地図よ。今いるギールがここで、アルテミジア修道院はこの辺ね。……この地図に描かれている範囲だけじゃないわ、海を越えた先には別の大陸も広がっているし」
「……。」
アイリスは俯いた。
それでも、アイリスは行かなくてはいけない――そして、戻る場所もないのだ。
「……私は、それでも……」
アイリスは、ゆっくりとベッドから立ち上がった。ジェスはアイリスの青く澄んだ瞳を見て、そっと話しかけた。
「……ねえ、アイリス、良かったら、僕達と行かない?」
「えっ?」
予想外の言葉に、アイリスは驚いた。
「僕達は、君の言う『導くべき者』ではないんだろうけど。僕達も、あてや目的があって旅をしているわけじゃないんだ。依頼を請けて、色々な場所を移動している。君だって、どこに行くかは決まってないんだったら、一緒に行こうよ」
それで、旅の途中、目的となる『導くべき者』を見つけられたら、その人と行けばいい。
「そうね――何にせよ、一人旅は危険だし。ジェスやライは旅慣れてるから、まずはその辺のことを教わるといいかも」
「おいおい、いいのか?」
ライはジェスとマリラに尋ねた。ライとしては、アイリスに危険な旅をさせるよりは、どこかの教会などに預かってもらった方がいいと考えていた。
だが、確かに放っておいたら、意外と行動力のあるこの少女はまた旅に出かねないし、また誰に攫われるかもわからない。
「まあ、いっか。……って、俺たちで勝手に盛り上がってても仕方ない。お嬢さんの意思次第だな。どうする?」
問われたアイリスは、自分に手を差し伸べてくれている冒険者の青年に、戸惑いながら聞き返す。
「……いいんですか? 私……ご迷惑を……」
「ううん。仲間が多い方が楽しいよ」
ジェスの後ろで、ライとマリラもアイリスを迎えてくれた。
アイリスはその手を取って――そして、彼女の旅は、ここから始まった。
「熱下がったわね。もう大丈夫?」
「はい」
アイリスはすっきりした顔で笑った。
「ありがとうございました」
「いいのよ、仲間じゃない」
マリラはそう言ってアイリスの頭を撫でる。
ずっと雨が降っていたから閉め切っていた部屋の窓を、アイリスは大きく開けた。
青空に、虹がかかっている。
「あら、珍しい」
「綺麗ですね」
そうして窓から身を乗り出して空を眺めれば、隣の部屋の窓も開き、同じようにジェスとライが首を出す。
アイリスは、笑顔で手を振った。
あれから旅をして一年、アイリスが再び、神託や天啓を聞くことはなかった。
ただ、旅は、苦しいことがあっても、仲間達がいれば楽しいと思えて――この旅は、間違いではないと、アイリスは心からそう思う。
アイリスのパーティ参加のエピソードに続き、次回から修道院編がスタートします。




