041:神託
その日は朝から雨が降っていた。日の出る時間になっても暗いが、長年規則正しい生活をしていれば、自然と目が覚めるようになる。
雨の日は庭を掃いたり、畑に水をやったりする必要がない。今日は料理の当番でもないので、朝の祈りの時間まで、部屋でゆっくりしていても構わないのだが、アイリスは着替えて礼拝堂に向かった。
時間が余れば、アイリスは礼拝堂で祈りを捧げている。マルソ院長もそうするよう勧めていた。
まだ誰もいない礼拝堂は、静まりかえっている。聞こえるのは、雨の音ばかりだ。アイリスは聖龍の像の前に跪き、手を合わせて祈った。
「…………。」
私は――皆が呼ぶような、聖女などではありません。
どうして――私に、修道院の姉さまたちよりも先に――魔法の力を使わせてくださるのですか。
アイリスはそう心の中で問いかけた。
その心の声に応えるかのように、くぐもった声が聞こえた。
(――よ)
「……え?」
アイリスは急に声が聞こえてきて、戸惑い、辺りを見回した。だが、誰もいない。
礼拝堂に人が入ってきたなら、扉の音で気が付くはずだ。礼拝堂の扉は重く、音を立てずに開けることなどできないのだから。
声は続く。
(――聖女アイリスよ)
その声は、龍の像から聞こえてくるように聞こえた。
(――お前には役目がある)
(――世界に旅立ち、導くべき者を導くのだ)
「え……」
くぐもったような低い声は、そうはっきり告げた。
「導くべき、者?」
(聖女アイリス――導くべき者を、導くのだ)
声は繰り返す。アイリスは慌てた。
「導くべき者……とは、何なのですか?」
だが、その答えは返ってこなかった。
呆然としているアイリスの元に、朝の礼拝を仕切るため、マルソ院長がやってきた。
様子のおかしいアイリスに、マルソは何かあったのか尋ねる。アイリスはこの話を告げるべきか迷ったが、自分一人で抱え込むことなどできず、正直に話す。
「今、不思議な声が聞こえました……。世界に旅立って、導くべき者を導きなさい、と……」
「何と、神託を?」
マルソは驚く。だが、幼い時より修行を積み、この若さで癒しの魔法を使う彼女ならば、とも思う。何より、アイリスは嘘をついているように見えない。
「わ、分かりません! 神託だなんて、そんな……!」
「私も神託を受けたことはない。しかし、だとするならば……アイリス。君はすぐにでも旅立つべきなのだろう」
アイリスは驚きのあまり、声も出なかった。
それから三日後、アイリスは修道院に来る商人の一団に連れられ、幼い時より過ごしてきた修道院を旅立った。
生活に必要な物を、修道院ですべて自給自足で賄うことはできない。時折、冒険者の護衛つきの商人が、必要な物を売りにくるのだ。
「……。」
アイリスは荷台に乗りながら、不安そうに何度も修道院を振り返った。
「これからギールの街に行くけど、それからアンタはどうすんだい?」
商人はアイリスにそう尋ねた。修道院の外には魔物もいる。院長はまずアイリスを安全に外に連れ出すために、護衛つきで別の街へと旅立たせたが――その先のことは何も分からなかった。
その導くべき者、というのがどこの誰で、何に対して導くべきか、まったく分からない。だから旅の道筋は、アイリス自身が決めるべきだろう、ということだった。
それが龍の意思だというのなら――龍の加護がある。
そう院長は告げたが、アイリスは不安だった。
「……どうしていいか、私には……」
アイリスは、俯いた。何より、修道院以外の世界を、アイリスは知らなかった。
ギールの街についたアイリスは、驚いた。
様々な恰好の人々が、忙しく往来している。活気のある街だ。
自分をここまで案内してくれた商人によれば、ここは冒険者が多く集まる街だという。
冒険者――この旅をし、時に魔物とも戦うという。
アイリスは修道院で、魔物は生あるものを喰らう世界の歪みであり、聖龍の意思に反するものと教わった。
その魔物を倒す冒険者というのは、神に仕える自分達と立場は違えど、世界の平和を守る存在であるように思える。
とりあえず、色々な人に会ってみよう、とアイリスは考えた。ここは多くの人が行き来するようだし、『導くべき者』が誰かは分からないが、会えばそれと分かるのかもしれない。
しかし、街を歩いたことのないアイリスは、ふらふらと周りを見回しながら、歩いていて――
「きゃっ」
「おい、どこ見てるんだ!」
「ご、ごめんなさい……」
人にぶつかり、尻餅をついて転んでしまう。アイリスは慌てて謝ったが、その相手はすぐに立ち去ってしまう。
手をついて立ち上がろうとするアイリスに、手を差し出す人がいた。
「……大丈夫?」
「あ、ありがとうございます」
アイリスはその手を取って立ち上がり、慌てて頭を下げた。
手を差し出してくれた青年は冒険者らしく、腰に剣を提げている。黒髪の優しそうな青年だった。
「一人なの? 迷子?」
「え、あの……はい、一人です。迷子……ではないですが、私、ここに来たばかりなので」
「そうなんだ。どこか行きたい場所があるなら、案内しようか?」
「え、えっと」
青年は親切にそう話してくれたが、アイリスは行きたい場所も分からない。
「じゃ、じゃあ……あの、冒険者の人がたくさん集まる場所に……」
「冒険者?」
青年は、アイリスを見て意外そうにそう言ったが、すぐに笑って、じゃあ冒険者の店に案内するよ、と言った。
「僕もちょうど、近くまで行くところだったから」
「はい、ありがとうございます」
良かった、とアイリスは思った。
不安だらけの旅だが、彼の笑顔に、少し心が軽くなった。
店の前で青年と別れたアイリスは、冒険者で賑わう店におずおずと入る。しばらくアイリスは周りを見ていた。
依頼がいくつか掲示板のようなところに張り出されている。
「おい、マスター、この魔物退治の依頼、請けさせてくれ」
鎧を着て武器を背負った、いかにも戦士という風貌の男が、そう話しているのに、アイリスは近づいた。
「あの、すみません……私もその依頼に、ついて行ってもよろしいでしょうか?」
話しかけられた戦士の男は、アイリスを見下ろす。
「はあ? 子供が何言ってんだ。遊びじゃないんだ、帰れ帰れ」
アイリスは首を振った。
「私は……あの、神官、なんです」
「はあ?」
アイリスは、彼の手に包帯が巻かれている部分にそっと触れ、〈癒し〉の呪文を唱えた。男はしばらく怪訝な顔でアイリスを見ていたが――傷の痛みが瞬く間に消えたのに気付き、驚いた顔をした。
「どおりゃあっ!」
気合と共に振り下ろされた斧が、魔物の腹を裂いた。戦士の男達が、武器を振るい、次々に魔物を倒していく。
「……っ」
アイリスは初めて見る戦いの様子に怯えたが、目を逸らす訳にはいかないと必死にその様子を後ろで見守っていた。
理由の一つは、もし戦士たちが傷を負えば、素早く〈癒し〉の魔法をかけられるように身構えるためだ。
もう一つの理由は、そうして戦う姿を見て――彼らが『導くべき者』なのかを見極めようとしたからだった。
それは、何の手がかりもない旅だった。
アイリスは、冒険者のパーティの魔物退治に同行しては、求められるままその怪我を治した。
一緒にいても何も感じられるものがなければ、アイリスはまた別のパーティの所に向かい、同行させてほしいと頼み込む。
(聖女アイリスよ)
その声を聞いたのは確かだ。
だが、アイリスには、自分が特別な力を持った聖女などとはとても思えなかった。




