040:雨の日
アイリスは苦しそうな咳をして、宿のベッドで横になっていた。マリラが、布巾を冷たい水で絞り、熱を持った額に乗せてやる。
「すみません……」
「いいのよ」
そうしているところに、ドアがノックされる。マリラが開けると、ジェスとライがそれぞれ薬と果物を買って戻ってきたところだった。雨の中を急いで行ってきたから、二人の肩は濡れている。
「ありがと、二人とも」
「じゃ、水もらってくるよ」
そう言ってジェスは一階に降りていく。ライは部屋の椅子に座って、果物の皮をナイフで器用に剥き始めた。
「ありがとうございます……」
そう言ってはまた咳き込む。ライも何でもないというように肩を竦めた。
アイリスはギールの街で熱を出した。ここのところ疲れが溜まっていたのと、聖域にいた分、半年分の季節が一気に進み、体感として急に寒くなったように感じていたことが原因の風邪だった。
こうして宿に泊まり、三人はアイリスの看病をしてくれている。
申し訳ないと思いながら、アイリスは彼らの優しさに、温かい気持ちでいっぱいになる。
仲間になった時も、こうだったと思い出しながら。
アイリス・リリーは、もとは貴族の生まれだった。しかし、四歳の時、アイリスの家は、没落してしまった。
両親の行方は分からない。上の姉たちは、貴族の血筋を取り込みたいと考えた貴族の家に嫁いでいったが、まだ幼いアイリスは引き受け手がなく、それなりの寄付金と共に、修道院に送られた――というのが、アイリスの聞いている、実家に関する全てである。
しかしアイリスは、幼かったため、それらのことを覚えていない。
アイリスにとって最初の記憶は、初めて修道院に入った時に見上げた、聖なる龍の像である。
「今日から君はここで暮らすことになる。何も心配はいらない。分からないことがあったら私やお姉さんたちに聞くんだよ」
そう優しく語りながら、幼いアイリスの手を引いているのは、アルテミジア修道院の院長、マルソだ。
「……」
アイリスはきょろきょろと辺りを見回しながら、ついていく。
手を引いてくれるこの人は、アイリスに合わせてゆっくりと歩いてくれる。だから優しい人なのだと、アイリスは感じていたが、まったく知らない場所に、不安が隠し切れない。
「ここが毎日お祈りをする礼拝堂だよ。あれは聖龍。私たちを見守ってくださっているんだよ」
「みまもる……」
アイリスはその大きな龍の顔が見下ろしてくるのを、怖いと感じた。やや怯えた表情のアイリスに、マルソは子供だから仕方ないだろうと思った。
「さあ、こうやってお祈りをして」
「……」
院長が祈りを捧げるので、アイリスはそれに倣う。
こうして、アイリスの修道女としての生活は始まった。
当然のことながら、アイリスは修道院でもっとも幼い子供だった。同情した他の修道女やマルソ院長は、アイリスに優しかった。
毎朝日の出と共に起き、神への祈りを捧げ、修道院で掃除や食事の準備などを行う。まだ遊びたい盛りだろうに、文句を言わず言いつけに従うアイリスは、修道女からの評判が良かった。
マルソ院長は時間をみつけては、アイリスに神話や聖龍の意思について読み聞かせ、アイリスに教育を施した。
アイリスはそれらを素直に聞き、暇があれば礼拝堂に一人向かって、祈りを捧げた。
「……あの子、朝と夕の礼拝だけでなくて、一人で時々礼拝堂でずっと祈りを捧げているんですって」
「へえ……そういえば、院長から借りた本を、何度も何度も繰り返して読んでいるって」
「熱心ねえ……。まあ、あの子にとっては、ここで神に仕える以外、行く場所がないもの……仕方ないのかもしれないわね」
「可哀想に……」
そんな風に、囁かれていた。
アイリスが、十歳の時だった。
「助けてくれっ!」
夜が明けて間もない時間、アイリスが他の修道女と共に、庭の掃除をしていた時、修道院の敷地にばたばたと入ってくる人がいた。
「な、何者です!」
「こ、ここは教会だろっ! 魔物にやられたんだっ!」
修道女はその男を見て、きゃあ、と悲鳴を上げた。
男は、背中にもう一人別の男を背負っていた。だがその背負われていた方の男は血まみれで、弱い息をしている。
「な、なあ! 早くしないと死んじまう!」
「……っ、院長先生を呼んで参ります」
修道女は慌てて、手にしていた箒を放りだして走って行った。
その場に残されたアイリスは血の臭いにくらりとしながら、何とかしないと、と思った。
せめて血を拭いてあげた方がいいだろうか。アイリスはそっと怪我をしている男に近付いた。
担いで走ってきた男の方も、息も絶え絶えという様子だった。ぐったりとした男一人を担いで逃げてくるなど、並大抵のことではない。それほど必死だったのだろう。
(――聖龍さま、どうか――この人を助けてあげてください)
アイリスは、そう祈った。その時だった。
修道女から連絡を受け、彼女とマルソ院長は急いで門のところに走った。この修道院で、〈癒し〉の魔法をはじめとした、神聖魔法の奇跡が使えるのは院長だけだったからだ。
だが、彼らは驚くべき光景を目にする。
「――あれは」
アイリスは、その手に優しい光を灯し、神聖語の呪文を唱えていた。背負われていた男の怪我は塞がり、またもう一人の男の体も軽くなる。
アイリスは、自分が何をしたのか理解する間もなく、その場で気絶した。
それからアイリスが目を覚ましたのは夕方だった。
「……起きましたか、アイリス」
「ミザリーさん……」
アイリスと、同室の修道女であるミザリーの表情は硬かった。アイリスは、一瞬、自分が大寝坊をしてしまったのではないかと慌てたが、すぐに朝のことを思い出す。
「あ、あの……怪我をしていた方たちは」
「あの冒険者達なら、礼を言って明るいうちに帰りました」
ミザリーはそう言って部屋を出ていく。
残されたアイリスは、何か自分はひどく悪いことをしたような気になっていたが、すぐにミザリーがマルソ院長を連れてきて、自分が何をしたのか思い出した。
「素晴らしい、アイリス……! 君はいつも熱心に祈りを捧げていた。君は、龍の意志が聴こえるようになったのだよ」
「え……」
そんなはずはない。神聖魔法は、気の遠くなるほど祈りを捧げ、修行を積んで身に付けることができると聞かされてきた。
確かにアイリスは幼い時よりこの修道院で暮らしてきたが、それでも六年足らずである。それより長い間、この修道院で修行を積んでいる人は多くいる。
「わ、私……」
だが、そう言いながら、アイリスは確かに感じとっていた。
世界に満ちているといわれる、大きな慈愛の意思を。その声を聴き、語りかければ、おのずと唱えるべき祈りの言葉――神聖語が自分の口から聴こえてくる。
それからも、アイリスの生活は変わらなかった。
他の修道女たちと共に、神に仕えるべく規則正しい毎日を送っていた。
一つ変わったことがあれば、マルソ院長が特別に、アイリスに神聖魔法の修行をつけるようになったことだ。
アイリスは龍に愛されている。院長はそう言った。
実際、院長ほどではないものの、〈癒し〉や〈浄化〉の呪文が使えるようになったアイリスは、時折訪れる、怪我や病気の治療を求める人々に対応することもあった。
人々は、こんな子供が魔法を使うのかと訝しがるのだが、実際にアイリスが呪文を唱えてみせると、驚いて賛辞の言葉を口にする。
「すごいわね、アイリスは」
「そんなこと、ないです……」
同室のミザリーは、アイリスにそう言ったが、アイリスは慌てて首を振った。
「だってアイリス、まだ十二歳でしょう? 勿体ないわね……もし、ご家族が知ったら、あなたを誇りに思ったでしょうに」
「……いいえ、私の家族は、この修道院の皆さんです」
アイリスは本心からそう言った。顔も知らない、血の繋がっているという家族より、幼い時より自分を育ててくれた院長たちを、自分の親のように思っていた。
「……そう」
ミザリーは、笑顔のアイリスに、微笑み返した。
この翌日――激しく雨が降る日――アイリスは神託を聞くことになる。
ここからしばらく、アイリスがパーティに参加するまでの、過去の話です。




