036:大樹
迫る風の刃を、火蜥蜴はぴくりと察知し、素早く木の陰に逃げる。近くの木の幹に、大きく傷がつく。
「ガア!」
火蜥蜴は炎を吐こうと息を吸うような様子を見せたが、彼らはここで戦うつもりはない。左右にいたジェスとライが飛び出し、火蜥蜴を攻撃して牽制する。
いかに口から火を吹くといっても、その口は一つしかない。火蜥蜴は身を翻して逃げ始めた。思惑通りだ。
「行くぞ!」
全員が一方の方向から追っては、炎の餌食になりかねない。ジェスとライはまた左右に距離を取りながら、真横を走るように魔物を追い、マリラ、ドラン、アイリスの三人は後ろから追いかけていく。
「はっ!」
時折、火蜥蜴が別の方向に逃げようとすれば、ドランがすかさず弓を打って、行く手を阻み、ライとジェスが追い打ちをかけるように攻撃する。
火蜥蜴がジェスかライに向かって火を吹こうとすれば、火を吹かれた方は素早く距離を取って躱し、もう一方が後ろから攻撃する。
息の合った戦いに、ドランは感心した。
「いい腕をしているな、彼らは」
「……ええ」
しかし、火蜥蜴の方も自分が追い詰められていることを理解していた。前方に走りながら、口を大きく開ける。
大口を開けながら前に向かって走る姿は滑稽にも見えたが、ジェスとライはぎょっとした。
この魔物は、火を吹く前は息を吸うようだ。前に走りながら口を大きく開けるということは、追い風を飲み込むような恰好になり、それはすなわち、大きく空気を飲み込むということになる。
ギャオオオオン!
叫び声と共に、火蜥蜴は体を一杯に膨らませながら、前方に向かって大きく炎を吐いた。
そして自らその炎の中に突っ込んでいく。
「くっ」
一瞬にして、前方の木々が炎に包まれた。熱気に思わず足を止める。こんな火の海の中を追いかけることはできない。
「まずい、この勢いじゃ、森全体に火が広がるかも……!」
今まで火蜥蜴が吹いていた炎は、せいぜい近くの木を黒く燃やす程度だった。だが、さっきの炎は木の枝に赤く光る火をつけ、激しく燃え上がらせている。
そして、その炎の中から、全身を赤く輝かせた火蜥蜴が飛び出した。
「あっ!」
燃え上がる炎に、魔物の姿を見失っていた。だが魔物は、輝く炎の中に潜んでいたのだ。
不意を突かれたライは、燃え上がる炎の塊の体当たりを、正面から受けた。
「ライ!」
「ぐあっ……!」
火蜥蜴は体を燃やしたまま、ライの上に馬乗りになっている。
ジェスは剣を振りかぶり、ライの上から火蜥蜴を追い払おうと駆けていった。ドランも矢を射る。
「グウ、ウ……!」
火蜥蜴は息を吸った。炎を吹く前兆だ。だが、ジェスは真正面から火蜥蜴に向かっていく。ライの手足を踏みつけるその魔物の足が、炎に包まれているからだ。
(炎を吹かれたとしても、見極めながら避ければ!)
だが、火蜥蜴はジェスの予想に反し、炎を吹かず、ライを放して大きく跳躍する。勢いでライは痛みに呻きながら転がった。
「あっ!」
勢いよくライと火蜥蜴に向かって走っていたジェスは、跳び上がった火蜥蜴に後ろを取られた格好になる。
慌てて振り返るが、火蜥蜴はその口を大きく開けていた。
(まず、い……!)
炎がジェスを包もうとしたその瞬間、ジェスの前に見えない壁が現れた。炎は壁に阻まれて四散する。
「なっ……?」
ジェスは目の前で起きたことが理解できない。火蜥蜴もまた、自分の炎が効かなかったことを悟り、ぱっと身を翻して燃え盛る炎の中に飛び込む。
「何が起きた」
困惑したのはドランとマリラも一緒だった。その後ろで、アイリスが膝をついた。
「アイリス?」
アイリスは、ひどく疲労した様子だったが、呟いた。
「良かった……」
「まさか、今のはお嬢さんが」
ドランの言葉にアイリスは、分からないというように首を傾げた。
「……聞こえたんです。守りたいって、声が」
神は、生けるものを愛し、守ろうとしてくれる。アイリスが聴いたのはそんな意思の声であり――いつも最前線で戦って、危険から自分を守ってくれる仲間のことを、守りたいという、アイリス自身の声でもある。
だから、唱えるべき祈りの呪文は、自然に口から流れた。
アイリスの〈護り〉の魔法で、危機を逃れたジェスだったが、火の中の魔物を追うことはできず、また火が燃え広がるのを止めることもできずにいた。
「このままじゃ……」
困惑するジェスに、マリラは高らかに声をあげた。
「ジェス、ライ! あとは任せたわよ!」
マリラは杖を振り上げた。
精神を集中し、全力で〈疾風〉の呪文を唱える。風の刃が燃え盛る炎の中に飛んでいく。
「何を……」
敵の姿が見えず、狙いが定められないのに、どうするつもりか。ドランは風を操る魔法使いを見た。
だが、マリラが狙っているのは、魔物そのものではない。
燃え上がる木々、さらには近くの木々の枝さえも風で切り刻み、地面に落とす。どさどさと燃える枝が落ちる。
「そうか、燃え広がるのを防ぐために……」
ライは火傷の痛みに呻きながらも、短剣を手に立ち上がる。
「それだけじゃないわ」
そのまま、風の流れを操り、炎の周りから空気を奪う。
それはちょうど、前の遺跡の戦いで、マリラが風を送って炎を大きくしたのと逆で、空気を遮断して炎の勢いを弱める。
「ガアア!」
火はみるみるうちに弱まり、そして自分を守るものの無くなった魔物は、一目散に逃げ出した。
「はあっ……」
そこまでで、マリラは力を使い果たし、風を操るのを止める。
「あとは……」
「分かってる!」
マリラとアイリスをそこに残し、ジェス、ライ、ドランは逃げる魔物を追いかけた。
火蜥蜴は必死に逃げ出した。
自分の中の炎を保つための空気を奪われ、さらには落ちた枝で叩かれ、魔物は傷だらけだった。
追ってくる戦士たちに炎を吹きかける余裕もなく、必死に走る。走り、とうとう周りに隠れるところのない、開けた平原に出る。
「よし!」
ジェスは剣で切りかかる。魔物はその一撃を避けようとしたが、勢い余って大木に叩きつけられる。
逃げ場を求め、火蜥蜴は大木によじ登った。
「させない!」
ドランが矢を放つ。矢は火蜥蜴を大木に縫い止めるようにその体を貫いた。
魔物は身を捩るが、さらにライも短剣を投げ、火蜥蜴のその顎を貫いて木の幹に固定した。
「グウウ、ウ!」
いくら身を捩っても、自分を貫く矢と短剣は抜けない。ならば燃やし尽くしてしまおうと、火蜥蜴は炎を吐きだそうとした。
だが、短剣は魔物が思うより深く刺さっており、口を開けることのできない火蜥蜴は、吹きだそうとした炎でみるみる体を風船のように膨らませていく。
「やべ、離れろ!」
ライが咄嗟に叫んだのと同時に、火蜥蜴は大きな音を立てて爆発した。
「大丈夫ですか?」
遅れて走ってきたマリラとアイリスは、大木の幹の一部が燃えているのを見て驚いた。
あれが、火蜥蜴だったものと理解するまで時間はかからなかった。
「ちょっと、消さないとまずいんじゃないの?」
この大木が、燃えて倒れてきたら、どれほどの被害になるか。
ジェス達は急いで炎を消そうとしたが――。
「……あれ」
しかし大木についた火は、それ以上燃え上がることもなく、静かに消えていった。
それどころか、幹には焦げた跡さえない。
「……?」
ジェスは燃えていたはずの部分に触れた。確かに熱い。燃えていたのは確かのはずだが。
「不思議ね……」
アイリスも、幹に触れた。そして、目を閉じる。
「この樹、力を感じます……。神聖な……」
「え……」
アイリスは雲の上にも届きそうな大樹を見上げた。
かつて――聖なる龍が命あるものを生み出した時、最初に創り出したといわれる命。すべての植物の始祖である樹。
「……これは、もしかして、世界樹……?」
アイリスの呟きに答えるように、森の木々がさらさらと揺れた。




