016:聖水
魔法学園での戦いから数日後、一行は冒険者の街、ギールに戻ってきていた。
のんびりと街を歩いている途中、アイリスが露店で売られている小瓶を見つけて手に取った。
「これ、買ってもいいですか?」
アイリスが手に取ったのは、片手で持てるほどの小さなガラスの瓶だ。香水などを入れるにはちょうどいいかもしれない。
「いいけど、何に使うの?」
「ええと……水を入れて持ち歩きたくて」
アイリスは少し照れたように言った。
「聖水を作る、練習なんです」
聖水は、その名の通り聖なる力が込められた水だ。だが、意外とその定義は曖昧だ。
神官が自ら力を込めて水を清めたものを指すこともあれば、いわれのある聖なる山の湧水などを、そのまま聖水と呼ぶこともある。
そんなものだから、一口に聖水といっても、効果もまちまちだ。飲めば傷が癒える、撒けば魔物を寄せ付けなくなるといった効果のあるものから、何となく普通の水よりおいしい、といった程度のものまで様々だ。
ちなみにほとんどの聖水は、体の疲れが取れるという程度である。それでも教会で売っているそれはなかなかの値段だ。
「そういえばアイリス、水の入った小瓶を持ち歩いてたわね」
「ええ、この前、割ってしまったんですけど」
実は、水に聖なる癒しの力を込めて、聖水を作る練習――修行と呼ぶ方が相応しいかもしれない――をしていたのだという。
「はあ……すごいな、アイリスは」
ライが関心して言うと、アイリスはそんなことないですよ、と謙遜した。
「ジェスさんやライさんだって、剣のお稽古をいつもしていますし、マリラさんだって魔導書を読んでお勉強してますから」
「え? あ、まあ……そうか……」
そう言われてみればそうなのだが、アイリスの真面目さは、ライからしてみれば尊敬に値する。
その日の夜、宿で水の入った小瓶を前に、祈りの呪文を唱えて集中するアイリスを、マリラは邪魔しないようにと見ていた。
「はあ、はあ……」
集中して呪文を唱え、疲れたのだろう。アイリスの使う神聖魔法は、マリラの使う古代語魔法とは力の捉え方こそ違うが、術者の精神力を必要とし、疲れるのは同じである。
アイリスが小瓶をしまい、今日の練習を止めたところで、マリラは声をかけた。
「お疲れさま」
「まだ、うまくできないんですけど……」
「〈祝福〉の呪文だったかしら? 結構難しいんでしょう」
アイリスは頷いた。
「はい。もっと練習しないと」
本来、まだ幼いアイリスが、〈癒し〉などの神聖魔法を使いこなしている時点で驚きなのだが、まあこの一途さが、龍にも愛されるかもしれないなと、マリラは考えた。
「じゃあ、そろそろ寝ましょうか」
「はい、おやすみなさい」
宿の隣の部屋では、武器の手入れをしているジェスと、久しぶりのベッドに嬉しそうに横になるライがいた。
ちなみに、野宿をする場合は寝起きを共にしても気にはしないが、宿をとれる場合はさすがに男女で部屋を分けている。
「アイリスは真面目だよなあ」
昼のことを思い出し、ライが話し始めた。
「そうだね。僕も知らなかったよ、聖水を作る練習してるなんて」
「それもあるけど。教会で売ってる聖水なんか、はっきり言って、大概ただの水だぜ? 形だけ清めの儀式をしてるかなんか知らねえけどさ、あんなのほとんど気持ちの問題だよ」
「そうなんだ?」
剣を磨くジェスに、ライはそうだよ、と答えた。
ただの水を高値で売る方も売る方だが、買う方も買う方だとライは考える。高い金出して買ったのだから効いてくれないと、という気持ちで飲むから、効いたような気がするのだ。
「教会の聖水を飲んだことないから知らないな。ライはあるの?」
「俺もねえな……けど、その辺の裏事情は知ってる」
権力を持つ組織で、内部の腐敗と無縁でいられることは少ない。教会もその例に漏れないのだ。
「でもアイリスの聖水なら、本当に傷を癒してくれそうだね」
「そうだな……」
聖水の良いところは、それが誰でも使えることである。それさえ持っていれば、魔法の使えないジェスやライだって、人の傷を癒せるのだ。
それはこのパーティにとって良いことだろう。
現在、治癒ができるのはアイリスだけだ。もちろん、冒険者として野営の知識はあるので、傷の手当ができないわけではないが、致命傷を負った時に〈癒し〉の魔法が使える神官がいるのは心強い。
だが、アイリス自身が怪我をした時に、それを治せる者がいない。そんなことにならないよう、ジェスやライといった前衛が後衛を守るのだが、万が一ということはある。
「聖水ができることは、何よりもアイリスの為になる、か」
まあ、アイリスのことだから、そんなこと考えてもいないんだろうけど。
ふと、返事がないので、横のジェスを見ると、ジェスはいつの間にかベッドの上で眠りについていた。
相変わらず、寝つきがとんでもなく良い、とライは苦笑して、部屋の明かりを消した。
翌朝、ジェスが起きていくと、アイリスが宿の前の花壇に水をやっていた。
「おはよう、アイリス」
「おはようございます」
アイリスは、空になった小瓶を手に笑った。
「それ」
ジェスがアイリスの小瓶を手に指さすと、アイリスは頷いた。
「お水が勿体ないので」
ちゃんと聖水にできたのならばともかく、そうでなければただの水だ。あまり置いておくと腐ってしまう。だから、水はいつも入れ替えているのだが、どうせなら花にやろうということらしい。
「そうか」
まだライとマリラは起きてこない。宿で眠れた日はいつもそうだ。アイリスは修道院での生活が長かったため、朝はいつも早い。
ジェスは軽く運動をして、剣の素振りを始めた。アイリスは花壇の横にちょこんと座り、朝の祈りを始めた。
露に濡れた花が、朝日を受けてとても輝いているように見えた。ジェスの記憶では、昨日まで萎れていたと思うのに。
聖なる龍に仕える、神官か……。
アイリスが祈りを捧げる姿はとても美しく、一つの絵のようだと、ジェスは思った。