157:名を呼ぶもの
ジェスさんと、戦ってください――
そう、言い放ったアイリスは、〈護り〉の呪文を唱え、黒竜のブレスの前に、透明の壁を作り上げる。
「無理よ!」
攻撃の威力が高ければ高いほど、対抗する壁を作り出すには術者に負荷がかかる。マリラは、闇のブレスの攻撃力から想像して、アイリスの力ではそれを受け止めきれないと考えた。
しかし――マリラの予想に反し、闇の炎は、ライとマリラに届くことはなく、上に向かって逸れた。
「……そうか……」
炎が、自分達の前で防がれるのではなく、上に逸れたのを見て、ライは気付く。
アイリスは、壁を垂直に張ったのではない。斜めに受け流すように張ったのだ。
さらに素早く、ライに向かって、〈癒し〉の呪文を唱える。ライの傷が回復していく。
アイリスは、自分と黒竜とライを頂点にした、三角形を作るような位置に移動していた。どちらにもすぐ魔法をかけられるぎりぎりの距離だ。
「……アイリス」
ライは、アイリスがずっと戦いに参加していたことに、今更ながら気付く。竜の尾の攻撃をまともに受けて、この程度の傷で済んだはずがない。アイリスが、咄嗟に魔法で援護していたのだ。
(とはいえ、防ぎきれなかったようだが……)
マリラの魔法の援護は期待できない。マリラには、できるだけ早く〈変化〉の呪文を完成させてもらい、この戦いを終わらせなくてはいけない。精神力を温存するためにも、これ以上魔法は使わない方がいい。
ライは、小声でマリラに声をかけた。
「ありがとう。後は、〈変化〉の呪文に集中してくれ」
「……ライ」
心配そうに言うマリラに、ライはちょっと口の端を吊り上げて笑ってみせた。
そしてライは、折れて短くなった風切りの剣を、鞘に収めた。そして、目の前の黒竜を見据える。
「行くぜ、ジェス!」
ライは地を蹴り、一直線に走り出した。
そして――ライは、腰から一振りの剣を抜く。
白銀の刀身は、ライが振るった一瞬だけ、白と緑の輝きを宿した。
ライの手に握られているのは――ジェスの魔法剣だ。
「ライさん!」
アイリスが〈祝福〉の魔法を、ライの持つ魔法剣に向けて唱える。ライの剣が聖なる輝きに包まれた。
竜の口から黒い炎が吹かれる。ライはそれを左に飛んで躱す。広範囲に向けられた炎は、一跳びで避けきれるものではないが、ライの右側に、アイリスが障壁を張り、ライにかかる部分の炎を弾き返す。
一気に黒竜の懐に入ると、押しつぶす勢いで、竜の爪が振るわれた。体が大きい割に速い。だが、ライはそれを避けながら、更に竜の体に近付き、剣の柄を両手で握ると、思いきり横薙ぎに振るった。
輝く剣が、鱗に守られていない竜の腹にぶつかる。無敵の防御力を誇る鱗に弾かれない一撃は効いているようで、黒竜が呻くように吠えた。
素早い動きで続けざまにもう一撃を叩き込む。だが、その剣は竜に痛みを与えながらも、血を流させることはない。
(アイリスの〈祝福〉か――)
聖なる力を宿した剣は、歪んだ存在である魔物に対しては、絶大な攻撃力を持つ。
しかし、聖なる力は、本来、生きとし生けるものを愛し、慈悲を与える聖龍の力だ。その力が、生命を傷付けることはない。
つまり、この聖剣は、命あるものを傷付けることはない!
竜の尾による攻撃が来る。ライはその巨大な尾を避けるため、黒竜から距離を取るのではなく、体ごと黒竜にぶつかっていく。竜は巨体ゆえ、近づいてきた相手には攻撃がしにくい。
「はああ――っ!」
隙を逃さず、更にライは、竜の膝を蹴って飛び上がり、ドラゴニア剣術の流れるような動きで、攻撃の構えに入る。
ライに足りなかったのは、ジェスと戦う覚悟だった。相手を傷つけないように戦おうとすれば、どうしても動きが制限されて、その動きが鈍る。
だが――アイリスの言葉を聞いて吹っ切れた。
ジェスと戦う。それは、ジェスを相手に戦うということじゃない。
ジェスと共に戦うということだ。
「これくらい耐えろよ、ジェス!」
お前は、俺が認めた相手なんだからな!
光の剣が、再び竜の腹を叩く。
「……っ」
限界まで、精神を集中させ、魔法を練り上げる。
賢者の杖の先に、力が集まっていくのが分かる。凄まじい力が、杖から放たれようとしていた。
『――彼の者を、人間の姿に変え給え』
呪文を唱え続けながら、マリラは――目の前で、ライとジェスが戦う光景に、二つの光景を思い出していた。
一つは、ジェスとライが、剣の稽古で手合わせをする光景。仲がいいからこそ、全力でぶつかり合う、その二人の姿。
そしてもう一つは――いつか見た、ドラゴニアの歴史に語られる、古い言い伝え。
ドラゴニア初代の王は、剣を以って、竜にその力を認めさせ、竜との友情を勝ち取った。
目の前の光景は、遠い物語の挿絵を見ているようで。
「はあっ!」
ライが、飛び上がって、更に剣を押し込む。
そして、竜が一歩後退した瞬間に、ライは折れた風切りの剣を抜いて、その短くなった柄だけの剣を、真上に放り投げた。
「アイリス!」
「はい!」
アイリスが、風切りの剣に向け、〈祝福〉の呪文を唱える。
祝福された剣の欠片は、光の魔法もかくやというほどの強い光を放ち――黒竜の目を眩ませる。
黒竜が目を閉じた、その瞬間を逃さず、マリラは呪文を放った。凄まじい力の奔流が、七色の光となって、黒竜を包み込む。
『ぐっ、ぐあああああ』
山を揺るがすほどの咆哮を上げ、黒竜が悶え苦しむ。しかしマリラは、更に賢者の杖に、自分の精神力を注ぎ込んだ。
「抵抗しないで、ジェス! 人間の時のことを、思い出して!」
ライは、魔法に巻き込まれないように離れながらも、黒竜に呼び掛けた。
「ジェス!」
「ジェスさん!」
アイリスもまた、ジェスの名前を呼ぶ。
虹色の光に包まれながら、黒竜は叫んだ。
深く、深く沈む意識の中で、ジェスはその声を聞いた。
――ジェス! ジェス! ジェスさん!
(……。)
ジェスは、目を開ける。
体を回転させ、宙を蹴り、声のする方へ――上へと泳ぐ。ぷはっと息をして、水面から上に顔を出すと――そこには、相変わらず真っ黒な空間で、水面の上に立つ黒竜がいた。
(……。)
黒竜は、上を見上げている。
仲間達の声が、その何もない空間に、響いていた。声がするたび、水面には波紋が浮かぶ。
(……僕の名前を、呼んでいる)
(そうみたいだね)
(呼んで、くれているんだ)
ジェスは、濡れた手で目を拭うと、再び水面の上に立ち、黒竜に向かい合った。
黒竜は、ジェスを見下ろすと、首を傾げるようにする。
(君は竜だ。例え人間の姿を取ろうとしても、それだけは変わらない事実だよ)
(分かってる。僕は竜だ)
流れ込んだたくさんの記憶を、ジェスは受け止めている。もはやジェスにとっては、竜の体の動かし方も、魔法の力の使い方も、慣れたものだ。世界に関する知識も――当たり前のように馴染んでいる。
(でも、ライも、マリラも、アイリスも――竜である僕を、呼んでくれている)
(……。)
(あとはもう、僕が選ぶだけなんだ)
ジェスはそう言って、ゆっくりと黒竜に近付いていき、黒竜に触れた。触れた瞬間、ジェスの体と黒竜の体の輪郭はぼやけ、重なり――一つになる。
黒竜は――ジェス自身は、何もかも分かった顔で、それを受け入れた。
(――竜は本来、名前を持たないものだ)
(うん。だから、名前を呼んでもらえる僕は――幸せなんだと思う)
記憶を共有し、始祖たる龍に連なる竜は、個々を表す名を持たない。
――ジェス、ジェス!
――ジェスさんっ!
仲間が自分の名前を呼ぶ声は、今も響いている。ジェスは、その声に応えた。
「今、行くよ」
人と竜が重なった時――そこに残ったのは、人の姿のジェスだった。
バキバキと激しい音を立てて、七色の光を放出し続ける賢者の杖に、異変が起きた。
「あっ……!」
折れた杖と繋ぐ繋ぎ目に、亀裂が入る。マリラは慌てて、そこを握るようにして繋ぎ止めた。
「駄目……! もう少し……!」
マリラが、どうにか杖の出力を制御しようとする時、黒竜の体を包む光が、一際大きく膨らむ。杖から力を放出するのではなく、黒竜の方へ、力が吸い込まれていく。そんな錯覚を覚えるほど――杖はますます強く光を放った。
「!」
黒竜を包んでいた光が、空に向かって突き上げるように放たれる。光の柱が雲を突き抜けると同時に、マリラの手の中で、賢者の杖は粉々に砕けた。
「あっ……」
木片が舞う。だが、その先で、光の中――黒竜の影が、みるみる縮んでいくのが見えた。
巨大な翼や尾は畳まれるように吸い込まれ、手足は細長い人間のそれになる。
光の中に浮かぶ影が、完全に青年のそれになった時――光は全て天に吸い込まれ、消え失せる。
光の中心から表れたのは――三人がよく知る、黒髪の青年。
「ジェス!」
気絶したように倒れ込むジェスを、ライが駆け寄って支えた。マリラとアイリスも走って近付き、その横から顔を覗き込む。
「うっ……」
ジェスは小さく呻くと、目を開けた。その目は漆黒だったが、その奥に、星のような銀色が舞っていた。
三人は、緊張して、ジェスの言葉を待った。
やがて、ジェスは――自分を見上げる三人の顔を見て――夜空のような双黒の瞳から、静かに涙を流した。
「……僕は、……」
ジェスは、言葉が続かなかった。
竜として、三人を攻撃していた時のことを、覚えていたからだ。遥かな記憶に流されて、自分自身の記憶を見失っていた時のことが、後悔として押し寄せる。
そんなジェスを安心させるように、マリラは微笑んだ。
「大丈夫よ、ジェス」
ライは軽くジェスの肩を小突き、肩を竦める。
「ああ、俺たちは仲間だろ」
「みんな――」
震えるジェスの手を、アイリスは優しく取った。
「ジェスさん、おかえりなさい」