155:母の祈り
人間の放った攻撃魔法が、白竜の体にぶつかり、爆発して大きな音を立てた。
その中で――白竜は、自分の傍の小さな鳴き声を聞いた。
「きゅう……ぴい」
ついに生まれたのだ――だが、その声は、苦し気だった。
白竜は決意する。
このままいつまでも抱きしめ続けているわけにはないかない。
『愚かな人間どもめ――!』
白竜はそう吠えると、残っていた僅かな力を振絞り、全身から光を放った。
しかし、それは直接人間を攻撃するためのものではない。眩しい光に人間の目が眩んだ一瞬の隙をついて、白竜は我が子を抱いて飛び去った。
「逃がすか!」
一人が、目を瞑ったまま、攻撃魔法を唱えた。それは白竜の右翼に命中し、必死の力で飛んでいた白竜はそれを受けて落ちる。抱いた我が子を庇いながら、白竜はごろごろと山の斜面を落ちた。
白竜の視界は、ぼやけていた。
もともと、卵を孵すというのは、それだけで命がけの行為である。その上で戦闘をして魔法力を使い、傷ついた白竜は、もはや死ぬ直前だった。
(ああ、でも、早くしないと、あの人間が……追ってくる)
気力で、どうにか閉じかけた瞳を開く。白竜の傍には――生まれたばかりの子竜がいた。
そこで白竜は、初めて我が子を見た。
眠る子竜は、夜空のような漆黒の鱗を持っていた。
『ああ……』
その姿を見ただけで、白竜の目からは涙が溢れた。
命と引き換えにでも、この子を守ろう。
そのためには、我が子を人間の目から隠すしかない。あの人間が追ってきた時、もう戦い通せる力はないのだから。
光を操り、幻で覆って包み隠す技も、白竜にはあった。しかし、それでは白竜が息絶えた時、魔法の効果が切れて、無防備な子竜は人目に晒される。
白竜は決意し、残ったすべての力を注いで、古代語を唱えた。
『――この子を、人間の姿に』
呪文を唱えると、眠る子竜の体はみるみる縮み、人間の赤ん坊の姿へと変わる。美しい漆黒は、子供の瞳と髪の色に受け継がれた。
人間を選んだのは、あの人間達に見つかった後、襲われる可能性を考えたからだ。
子鹿や子兎に変えたら、竜と気付かれないまでも、単なる獲物として狙われかねない。いかにあの人間達といえども、同族の子供を食べはしないだろう。
呪文を唱え終え、がっくりと崩れ落ちた白竜は、必死に我が子に語りかけた。
『愛している、愛しているわ、私の大切な子。傍に居られなくてごめんなさい。愛している、愛している、愛している――』
祈るような声と共に流れる大粒の涙が、小さな体を濡らす。
人間が近付く気配がした。白竜は、断腸の思いで、人間の姿となった我が子を、茂みの中に隠した。
「いたぞ、あそこだ!」
「手間取らせやがって!」
人間達が来る。白竜は、もはや体を動かすこともできないが、その瞳だけは人間達を睨みつけていた。
トドメを刺そうと近づいてきた人間達はしかし――白竜の後ろを見ると、慌てて逃げ出した。
飛来してきたのは、魔法力を回復させて飛んできた黒竜だった。
『何があった!』
凄まじい勢いで飛来してきた黒竜は、ボロボロに傷ついた白竜の傍に下り立った。衝撃波で、近くの木が揺れる。
『ああ……』
しかし、白竜はもう、話す体力さえ残っていなかった。しかし、黒竜に精一杯伝える。
『我が子は……あなたと同じ黒竜……』
『生まれたのか!』
黒竜は、必死に辺りを見渡す。
『今……人間の……』
姿になっている、と続けようとした。黒竜の力ならば元に戻すことなど造作もない。そして、後を託そうとした。
しかし、白竜は限界を迎え、そのままがくりと項垂れ、動かなくなる。
『目を覚ませ!』
いくら呼びかけても、白竜が再び目を開けることはなかった。
黒竜は事情を察する。瀕死まで傷ついた白竜、武器を持って襲い掛かって来た人間。
そして最後の、白竜の言葉――。
黒竜は激しい怒りを覚え、その場を飛び立つ。
『人間よ、我が子を返せ! 我が子を――』
その時、近くの村では、収穫を祝う祭りが行われていた。この年は、魔物が少なく、作物もたっぷり収穫できた。
大きなアノンの村ほどではないが、この村でもそれなりの祭りが行われるのだ。
浮かれていた村に、走って逃げてきた冒険者がいた。焦った顔で、息を切らせている。
「あれ? 昨日、この村に泊まってた冒険者達じゃ――」
その後ろに、空を飛来する巨大な何かが見えた。
魔物の影かと、村人達は戦慄する。だが――それは影ではなく、夜を切り取ったような漆黒の竜だった。
『人間よ、我が子を、返せ――』
咆哮の声は、村人達には理解できない。
竜の下り立った衝撃で、村が揺れる。そして竜は、我が子の姿を探し、村々の建物を壊す。
「やめろ!」
村人達は、慌てて、手に農具を持って、竜の前に立ちはだかる。だが――
『どけ!』
竜は闇の息を吹きかけ、一瞬のうちに、人々は消し炭となる。
家が崩れる音、竜の咆哮、逃げ惑う悲鳴が村に響き渡る。
村中を探しても、我が子の姿はない。
怒りに我を忘れた黒竜は、村々を潰し、圧倒的な力で蹂躙していく。村中が炎に包まれ、消えていく。
「やめてえええっ!」
黒竜の前に、赤い髪の女性が両手を広げて立ちはだかる。黒竜は、その目ざわりな人間を、一息で吹き飛ばした。
その人間が、真っ黒に燃え尽きて崩れた後ろで――小さな女の子が震えていた。
黒竜は、それを見て我に返る。
幼い少女もまた、夕日のような赤い髪をしており――今、自分が消し飛ばした女の、子供だと分かった。
『……。』
黒竜のつがいであった白竜も、死して子を守ろうとした。
その最期の姿が、黒竜の脳裏によぎる。
我が子を奪った人間は許せない。
だが――今の自分は、その人間と同じであった。
震える子供に背を向け、黒竜は空へと飛び立つ。
『――我が子は、もういないのか』
いかに幼い竜といえど、生まれたのであれば、その強い魔法力の気配で気付くはずだ。この近くに、自分以外の竜の気配はない。
もう、我が子は失われた――。
黒竜は絶望の思いで、焼け跡と化した村を飛び立つ。
飛んでいく竜の、幻に――ジェスは必死に手を伸ばした。
(父さん……! 母さん……!)
竜の記憶が、圧倒的なまでの悲しみが、ジェスに流れ込んでくる。
それだけではない、ジェスに連なる全ての竜の知識が、ジェスの中を通り抜けていく。脳が焼き切れてしまいそうで、真っ白になる。
(僕は――僕は)
(世界を創った、闇龍に連なる――)
(この世の闇を司る――)
(黒の竜――)
ジェスは深い、深い、真っ黒の空間に沈んでいく。水面の上には、黒竜が残っていた。
ライ、マリラ、アイリスの三人は、ついに山の頂上に辿りついた。
今は休火山となった噴火口の前に居たのは、巨大な黒い竜。
竜は、銀の瞳で、現れた三人を見下ろした。
「ジェス!」
三人は口々に、ジェスの名前を呼んで近付いた。
しかし――
黒竜は翼を広げて立ち上がり、山に響く咆哮を上げた。
アイリスとマリラは小さく悲鳴を上げる。巻き起こった風で小石が飛び、ライは咄嗟に一歩前に出た。
「おい、ジェス――?」
『何用だ、人間!』
古代語で放たれた言葉に――マリラの目が見開かれる。
ライとアイリスも、言葉の意味こそ分からなかったが、それが古代語であることは分かった。
「ジェスさんが……古代語を、話して、る……?」
「おい、一体……?」
ライが、マリラを振り返るが、マリラは震えていた。
「嘘、でしょ……、ジェス?」
マリラに、ジェスが何と言っていたか聞く余裕はなかった。
黒竜が飛び上がり、そして三人に向かって急降下してきた。