154:竜の記憶
ディーネから逃げるように飛び去り、赤の山に来たジェスは、山の頂上で、体を丸めていた。
(周囲の魔物はあらかた倒したし……僕から逃げたみたいだ……)
赤の山に来るまでの間、人里を避けるように飛んだため、何度か上空から魔物を見つけた。
魔物を見つけ次第――ジェスは急降下し、竜の息で、または鋭い爪で、ある時は尻尾を薙ぎ払って、それらを倒してきた。
人間の時、冒険者として活動していた時も、魔物を見つければ倒すようにしてきた。
だがそれは、魔物を倒すこと自体が依頼であったり、また向こうから襲ってくれば倒さざるを得なかったり、必要に迫られて戦ってきたはずだ。
今のジェスは、そうするのが当たり前というように――魔物を倒そうとしていた。
それを、ジェスはどこかで分かっていた。
(僕が、竜だからだ……)
ドラゴニアの港町で、巨大な双頭の水蛇の魔物を見た時にもわき上がってきた、魔物を倒さなければという使命感。
(魔法剣をきっかけに、僕は竜として持っていた闇の力を、解放できるようになった――それと共に、僕には竜としての意識が混ざり込んできていた)
赤の山の頂上で一人、体を丸めて大人しくしているジェスは、考える時間だけは山ほどあった。
目を逸らしていた、自分が何者なのかという現実に、向き合わざるを得なかった。
苦しくなり、ジェスは目を固く瞑った。
(あれ?)
ジェスは気が付いた時、真っ黒の空間にいた。
ふと見下ろすと、自分の体は、見慣れた人間のそれだった。足元は、水面のようになっていて、ジェスが歩くたび、静かに波紋が広がった。
(……ああ、これ、夢だ)
ジェスは唐突に理解した。
いつの間に眠ってしまったのか――ジェスは夢の中で苦笑する。
人間の体の方が、まだ動かしやすいな――そう思いながら、ジェスは夢の中を歩いていく。水が張られた、どこまでも真っ黒な空間に、ジェスはバーテバラル山で入った神龍の神殿を思い出す。
あそこも水盆だらけだったっけ、何に使うのか分からなかったけど。不思議に重い扉を、仲間四人で押して開けた時のことを思い出すと――ジェスは苦しくなって胸を押さえた。
(……何を苦しんでいるんだい?)
唐突に語りかけられ、ジェスは顔を上げた。
はっと顔を上げた時――そこにいたのは、黒い竜だった。
(……僕?)
黒い竜と、黒髪の人間が、向かい合った瞬間――水面に静かに、細波が走った。
(……そうだね、僕は君だ)
竜のジェスが、人のジェスに穏やかに話しかけた。
(どうして僕が、僕に話しかけてくるんだ)
夢の中だからといってしまえば何でもありだが――ジェスは少し怒ったように言い返した。
(怒っているね。竜の意識に、仲間を殺されたと思っているのかい)
(……!)
(僕は君自身だよ。分かるのは当然だよ)
ジェスは、黒竜を睨んだ。
黒竜は、ジェスの声で話しかけてくる。
(混乱するのは当然だ。君は十八年もの間、竜としての記憶を押さえつけて生きてきた。十八年も経てば、まだかなり若いとはいえ、竜としての力は完全に成長する。急に流れ込んできた魔法力や意識は、辛かっただろう)
(……なんなんだ……君は僕の癖に、僕より多くのことを知ってるみたいな言い方だ)
(知っているよ。竜だからね)
黒竜は、何ということのないように言った。
(竜は、他の生き物とは違い、記憶を貰うんだ)
(記憶……?)
(龍の意志を受け継ぐためのものだ。世界を発展させ、守るという意志をね。だから、親である竜から、世界に関する記憶を受け継ぐんだよ。本当は成長と共に、徐々に覚醒していくものなんだけど)
ここでジェスは、はっとした。
自分が竜であるなら、当然竜の親がいて、自分は卵から生まれたということになる。
(僕の、親……)
(竜の記憶を探るといい。それくらいのことは思い出せるようになるよ――その代わり、君のちっぽけな人間としての記憶は、恐らく取り込まれてしまうだろうね)
(えっ……)
ジェスが絶句した瞬間、足元が沈んだ。
今まで立っていた水面が、波打って、ジェスを飲み込む。対して黒竜は、翼を広げて悠々と、荒れ狂う水の上に浮かんでいた。
(待ってくれ! 僕は……)
仲間達の顔が浮かぶ。
竜としての悠久の記憶を思い出せば、彼らと過ごした日々を、忘れてしまうのか。胸が張り裂けるような思いがした。
(でも……)
その仲間を、ジェスは手にかけてしまった。
もう、仲間だと言えるはずもない。
ならば、いっそ、忘れてしまった方がいいのだろうか――
ジェスの一瞬の逡巡を見透かすように、容赦なく黒竜はジェスを記憶の海に沈めた。
切り立った山の上、白い竜が、飛んでいく黒い竜を見送った。
白竜の鱗は、朝日を受けてキラキラと輝くだけでなく、それ自身から光を放っていた。
『……私の愛しい子』
白竜の体に包まれる、大きな卵があった。白竜はそれを顎で撫でるようにしながら、魔法力を込める。漏れた光の魔法力が、辺りを優しく照らした。
卵が答えるように、少し動く気配があった。白竜は集中して力を込めながらも、嬉しく思う。
『やっと会えるのね』
切り立った山が連なり、人がほとんど踏み入らないこの地で、白竜と黒竜のつがいは、代わる代わる一つの卵を温めていた。
白竜は、慌ただしく飛んでいった黒竜が帰ってくるのと、我が子が生まれるのとどちらが先だろうかと考える。この調子では、あと数日のうちにでも生まれそうだった。
『まったく無理して卵を抱き続けるから、肝心な時に居られないのよ』
黒竜は、連続して長い時間卵に魔法力を送り続け、ふらふらになってしまっていた。このままでは飛ぶこともままならなくなってしまいそうだったので、白竜が半ば強引に追い立てて、魔法力の回復に向かわせたのだ。
白竜はそんなことを呟くと、さて我が子は、母である自分の光の性質と、父である黒竜の闇の性質、どちらを受け継ぐかなと考えていた。
白竜が卵を温めて数日――ついにその卵の固い殻に、内側からひびが入る。殻の破れる音に、白竜は喜びでいっぱいになった。
『まあ!』
この子は、白竜と黒竜にとって、初めての子だった。白竜は、自分の親がそうしてくれたように、殻が破れるのを待った。
その時だった。
「いたぜ! 卵を持った竜だ!」
白竜のいる場所に、急に八人ほどの人間が現れた。
はっ、と白竜は声のした方を見る。
「すげえ、卵、孵るところじゃないか?」
「よし、弱っている今だ、親子とも捕らえて大儲けだ!」
人間達の言うことは、白竜には分からなかったが、武器を振り上げて迫り、攻撃魔法をぶつけてくる彼らの意図はすぐに分かった。
『こんな時に――!』
白竜は咄嗟に、卵を庇った。今、我が子を下手に動かすわけにはいかない。卵を抱えて体を丸くした白竜に、容赦なく刃が突き立てられ、矢が刺さる。
魔法力の弱っている白竜は、抵抗できなかった。いや、抵抗するだけの力がないわけではないが、人間達に、万一にも、まだ柔らかく小さな我が子を傷付けさせるわけにはいかない。複数人で迫る彼らを相手にした時、そのうちの一人でも我が子に触れさせないようにするのは難しい。
パリパリ、と殻の割れる音は続く。ゆっくりとだが、卵は孵ろうとしていた。
(ああ……!)
白竜は必死に考える。
待ち望んでいた我が子の誕生だが、今この状況で、防御となる殻がなくなるのは、不味い。
とはいえ、我が子の鱗が十分に固くなり、飛べるようになるまで、自分が人間達の攻撃を受け止めきれる自信もなかった。
白竜は、必死に残る力を振絞り、首を動かして、光の息を放つ。それは冒険者達にぶつかったが、勢いのないブレスは、彼らに当たったものの、即死させるに至らなかった。
それどころか――
「ははは、便利なもんだな、竜ってのは」
白竜を傷付けた剣についた竜の血を舐めて自らの傷を回復している男は、残忍な笑みを浮かべていた。