150:水鏡
「ジェス、さん――!」
崩れ行く地下室で、アイリスは必死に叫んで、黒竜に姿を変えて飛び立とうとするジェスに手を伸ばした。
その叫び声は――人より遥かに聴力の優れた竜に、聞こえていないはずがなかった。
自分を呼んでいる。必死な声で。
聞きなれた声だった気がする。鈴を転がすような、綺麗な声だ。
しかし、体は――引き裂かれるように痛み、体の中は息苦しいほどの熱量が渦巻いている。
(……行かないと)
どこに?
(……このままじゃ、巻き込む)
なにを?
急激に力を解放されたジェスの体は、外からも内からも悲鳴を上げていた。
膨れ上がる魔力に、体がついていかないし、体の動かし方も分からない。そして、散々傷つけられた体は、竜となった今でも激しく痛み、今も血を流し続けていた。
激痛の中で、ジェスが感じていたのは――底の知れない恐怖だった。
自分の体がどうなっているのか分からない。
自分の力がどうなっているのか分からない。
ただ、制御しきれない程の激しい力だけを感じる。
強い力は常に、破壊へと向かう。
大切なものを、この手で壊してしまいそうな、そんな予感がして――ジェスは、慌てて逃げ出した。
『わあああああっ!』
得体の知れない恐怖に叫んだはずなのに、自分から聞こえてきたのは、獣のような咆哮だった。
背中に感じる違和感を振り払おうと必死に動かすと、体が浮かぶ。
風が自分を包むと同時に、自分でも分からないままにジェスは破れた翼を必死に動かしていた。
空を飛んでいく黒竜を、アイリス達は必死に見上げていたのだが、ジェスには知るよしもない。
その時のジェスに、自分が空を飛んでいるという自覚はなかった。ただただ、強い風が自分に向かって吹き付けているという感覚しかない。突き刺さるような突風に傷が痛むが、ジェスはただ、逃げだした。
(遠くに行かないと――行かないと!)
そうでなければ――
――闇の力が、君を押し潰してしまう。
朝日を背に、飛んだ後――街から随分離れたところで、ジェスはバランスを崩し、失速した。
木をなぎ倒し、ジェスは森の中に不時着した。木の枝がジェスを刺したが、鋼鉄にも勝る強度を持つ竜の鱗が逆に尖った枝を砕いた。
『ああ……ううう』
しかし、ベルガ達につけられた傷は癒えていない。ジェスはその場にごろごろと転がった。
『……っ、何なんだ……』
ジェスは荒い息を吐きながら、体を動かそうとしたが、うまくいかない。大量に血を流していたせいで、くらくらするのもあったが、ジェスはまだ、人間の体の感覚で手足を動かそうとしていた。
その時、体の奥から、どくん、と何かがせりあがってきた。
『ぐっ……うううっ!』
まるで喉に何かがつまっているようだ。ジェスはそれを吐き出そうとぜえぜえともがく。
竜本来の強い魔法力が、急激に解放され、ジェスの中で渦巻いているため、歪みがかかっているのだった。
咆哮と共に、ジェスは歪んだ魔法力を自分から切り離して放出する。目に見えない波動が、ジェスを中心に広がり、周囲の木を薙ぎ倒した。
次の瞬間――ジェスの目の前で、闇が集まり、形を取った。
『!』
闇は凝縮され、鳥に似た形の、黒い巨大な魔物となる。ジェスの魔法力から生まれた魔物は、飛び立っていった。
満身創痍で、体も満足に動かせないジェスだったが――その光景を見た時に、ジェスの意識に、強烈に語りかけてくるものがあった。
あれを倒さなければ。
(……駄目だ、あんな大きな魔物、今の僕じゃ……)
あれは僕の生み出した歪みだ。
あの魔物を倒さなければ。
(何なんだ!)
ジェスは必死に自我を保とうとした。
だのに――自分の奥から、うるさく語りかけてくるものがある。体が勝手に動こうとする。
あの魔物を――
(いや、魔物を倒さないと――近くの街に被害が出るんだ……)
ジェスは無理矢理に、自分を納得させた。そうして自分の意識と、語りかけてくる何かを同調させなければ、自分が壊れてしまうような感覚があったのだ。
――朦朧とした意識の中、ジェスは魔物を追って――飛び立った。
(……何だよ、これ……)
ジェスは、呆然としていた。
湖上都市ディーネの湖の上、ゆっくりと翼を上下に動かして空中に浮かんでいるジェスは、自分の姿を――初めて見た。
湖に映るのは、黒く巨大な竜だった。
傷はアイリスの魔法で癒えた。流した血と痛みのせいで朦朧としていた意識は、今ははっきりしている。
また、黒い鳥の魔物を倒したことで、体の奥からうるさく命じていた意識も、黙っていた。
だからジェスは――ここで初めて、冷静になって、自分の姿と、状況を知ることができたのだ。
(僕は……僕は……人間じゃない)
竜だ。
あの吹き出すような力は――竜の力だ。
そして――。
湖に、赤い血が広がって沈んでいく。
全身に深い傷を負ったライが、湖の上に浮かんでいた。
体のあちこちが千切れ飛び、大量の血を流し、ぴくりとも動く様子がない。
『あ……あ……』
ジェスにも分かっていた。
あれは魔物がつけた傷じゃない。
僕の力で、巻き込んだ。
腕を互いに磨いて、一緒に旅をしてきた。
背中を預けて戦える、大切な親友を、僕は。
『ライを……僕は……殺した……?』
その呟きを聞く者はいなかった。
次の瞬間、ジェスの体に、次々に光の矢が飛んでくる。
ジェスはそして――無我夢中で翼を震わせ、飛んでいく。
『ここにいたら駄目だ! 僕は、僕は人を――』
ただ、とにかく人から離れようと、必死だった。
そうしなければ、仲間を殺した事実に、押しつぶされそうだった。