149:最愛
「いやあああああ―――っ!」
刺青を切り裂かれたベルガは、絶叫して、ザンドの腕の中で暴れた。そんなベルガを押さえつけ、舌を噛まないように、口の中に布を押し込みながら、ザンドは必死に耳元で叫び続けた。
「姉さん! 姉さん! 俺の声を聞いてくれ!」
なおもベルガは暴れる。赤い瞳から、涙をぼろぼろ零しながら。
抑え込むべきじゃなかった。魔法で無理矢理に記憶を封じ続けたところで、精神力を擦り減らし、心を蝕んでいく。
「姉さん! ルカ姉さん! 俺が――俺が傍にいる! だから」
どうかもう、自分を傷つけるのを止めてくれ。
二人の子供が、研究部屋から走って逃げだした後――頭から血を流しながらも、フォンベルグは、最後の力を振り絞り、転がっている杖に手を伸ばした。
「ピア……もう、一度……」
君の声を。
そして、開発したばかりの、死んだ彼女の心を、取り出す呪文を唱えた。あとは、氷漬けにして保存している彼女の体を取り出し、魔物化の呪いをかけた上で、取り出した心と定着させれば完成だった。
だが、それらの呪文を唱える前に、フォンベルグは意識を失う。
その後――器を持たないピアの心が、無人の屋敷に溜まった魔法力の歪みと反応して、幽霊のような存在として彷徨うことを、フォンベルグは知らない。
「!」
屋敷中の、明かりが消えた。そして、勝手に屋敷を掃除していた箒が、不意に動きを止め、パタリと床に倒れた。
屋敷の明かりや一人で働く箒は、フォンベルグの魔法だった。それが止まったということは――フォンベルグの死を、意味した。
「あたしが、あたしが!」
もはや意味を成す言葉を発せないルカを、サンは必死に自分の部屋に閉じ込めて、ベッドに寝かせた。
「大丈夫、姉さん……」
そう言いながら、サンは必死に考えた。
何が大丈夫なものか。
この屋敷は、人嫌いのフォンベルグが、街から離れたところに建てたものだ。外に出かける時は、フォンベルグが〈転移〉の魔法で、街まで直接飛んでいた。
ピアの死後、フォンベルグが魔物で訪問客を追い払うようになって数年、今やこの屋敷を訪れる者は皆無だ。食べ物もいつか尽きてしまう。
それどころか、守りの力を失ったこの屋敷はもはや、いつ魔物に襲撃されてもおかしくない。
生き延びるためには、屋敷を出て行かなくてはいけなかった。
だが、どうやって?
子供が二人、外に出たところで、魔物に喰い殺される。
(俺は死んでもいい! だけど姉さんだけは!)
奴隷市場で、要領が悪くて殴られてばかりのサンを、いつも庇ってくれた。
この家に来たばかりの時、ピアやフォンベルグにうまく懐けなかった自分を、一生懸命に助けてくれた。
そして――さっきも、殺されそうになった自分を助けてくれた。
何があっても、ルカだけは守らなくてはいけない。
どんな手を使っても――。
サンは、魔導書のある部屋に向かうと、必死に魔法を探す。
遭遇した魔物と戦ったところで、子供の自分に勝ち目はない。とにかく逃げるしかない。そのためには、逃げ足が速くなる魔法が欲しかった。
また、魔物と実戦するにあたって、呪文の詠唱が遅いのは致命的だ。サンは本を読むのは得意だが、呪文の詠唱はそこまででもない。そうなれば――予め、呪文を古代語で刻んでおくしかない。
(……っ)
サンは、魔道具を取り出した。フォンベルグが、魔法陣を描くのに使っていた、特殊なペンだ。インクをつけていないのにも関わらず、どこにでも字を書くことができる。
サンはそれを、自分の体に押し当てた――。
体が熱っぽい。全身に〈強化〉の魔法を刻んだサンは、目を覚ましたルカに呼び掛けた。
「逃げよう、姉さん」
「……。」
ルカはベッドの上で、力なく首を振った。
「サンだけが……行って。あたし、フォンベルグ様を殺した……。もう……生きていけないよ」
「そんなことない……」
だが、いくら言っても、ルカは動こうとしなかった。
「辛いの、もう……こんなことなら、死んだ方がマシだよ、あたし」
ルカは憔悴していた。サンの残したパンとスープも、食べようとしない。
「……分かった、姉さん」
「え?」
サンは、ペンを取り出した。そして、そのペンを、ルカの肩につける。ルカはされるがままになっていた。
「辛いことを忘れる、魔法をかける。……姉さんはもう、この屋敷で起きたことを、忘れたままになる」
「……。え」
「〈忘却〉の魔法は、何かのきっかけで思い出すことがある。だから――家族であったことも、忘れよう」
ペンが、わずかな痛みと共に、ルカの肩に古代語の呪文を刻んでいく。
こうして――ルカとサンは、名前を捨てて、家族の記憶も捨てた。魔法の効果で、何もかも忘れたルカ――ベルガは、壁にかかった肖像画を見ると、首を傾げた。
「ザンド。何か、書くもの持ってる?」
「……。」
ザンドがベルガにペンを渡すと、ベルガは、肖像画の顔を黒く塗り潰していった。
「あっ……何を!」
「さあ?」
ただ、何となく無性にそうしたくなっただけだ、とベルガは言った。ザンドはそんなベルガを見ているのが耐えられなくなり、ベルガが、ピアの顔を塗りつぶそうとしたところで止めた。
「何するの?」
「……。」
だが――ザンドはうまく言葉が出てこない。
無意識のうちに、ベルガは、過去の記憶を封じ込めようと、肖像画を塗りつぶしているのが、ザンドには理解できたからだ。
ベルガは鼻を鳴らすと、ふん、とつまらなそうにペンを投げ捨てた。
それからも、子供が二人、生きていくのは容易なことではなかった。生きていくために盗みもしたし、正しいことばかりでは身を守れなかった。
だけど、いつしかベルガは――自ら危険に、暗がりに身を投じていくようになった。しかし、それを止めるべきザンドの思考にはいつしか靄がかかり、何も考えないまま、ベルガに従うだけになっていた。
「姉さんは、無意識のうちに、自分を罰そうとしていたんだ――罪の意識があった。だから、罪を重ねて、誰かに罰してもらおうとしていた――」
「う……うううっ」
泣き崩れるベルガは、あの時と変わらない。少女の時のままだ。顔をぐしゃぐしゃにしている。
「傍にいるから――ずっと傍にいるから」
「サ……サン……?」
ベルガ――ルカの口から、懐かしい名前が聞こえた。
サンは、ルカの体を離すと、向き合うようにして再び抱きしめる。そして、ゆっくりと頷いた。
宿の部屋で、アイリスは一人目を覚ました。
部屋のベッドで一眠りしているうちに、すっかり夜になっていた。
「…………。」
暗い部屋を見回すが、ライもザンドもいなかった。そっと部屋を出ると、ライは、ブラッタとまだ話していて、アイリスに気付いて振り返る。
「……あの、ザンドさんは?」
「ん? ……そういや、まだ戻ってないな」
ライが言うと、ブラッタは少し困った顔をした。
「……うむ。もうそろそろ、戸締まりをしたいが、お客様がまだ外にいるのに、鍵を閉めるわけにもいかないな」
「私、ちょっと外を見てきます」
「あ、おい」
ライは止めたが、アイリスは大丈夫です、と答えて、アイリスはそう言って、外に出た。
砂漠の夜特有の、冷たい空気に、身が引き締まった。
月が、空の端に浮かんでいる。月明かりが、砂漠と遺跡の輪郭を照らし出し、幻想的な美しさだった。
「……。」
キョロキョロと首を動かして、周りを見渡していると、上から視線を感じた。
見上げると――月を背に、屋根の上に立っているザンドと――彼の腕に抱えられて眠る、ベルガを見つけた。
「!」
アイリスは驚いた。
「すまないな――だが、黒竜には、お前達がいる」
ザンドは、そう言った。
それで、アイリスは、全てが分かった。
「ザンドさん……ベルガさんと――行くんですね」
ザンドは頷いた。
「アイリス。ありがとう――」
きっとこの神官の少女は、とうに見抜いていたのだと思う。ザンドが、ベルガを誰よりも大切にしていたこと。そして、ベルガも、そうだったこと。
アイリスは、穏やかな笑みで二人を見上げた。
ザンドはベルガを抱えたまま、月を背に、跳び上がると――屋根の上を駆けていき、一瞬のうちに見えなくなった。
そこに、宿からライが出てくる。
「おい、アイリス? ザンドはいたか?」
「……はい。そして、行ってしまいました」
「はあ? どこに……」
ライは尋ねる。アイリスは、月を見上げて答えた。
「一番、大切な人のところへ」