147:忘れた想い
ザンドは、カステールの街を歩き回っていた。急ぎ足で、周りを見渡す。
(―――どこだ)
日が暮れても、ザンドは必死に周りを見渡し続けた。小さな路地の多い街を、走って探し回る。
やがて、夜となり、通りの人がまばらになる。大都市のディーネや酒場の多いギールと違い、この街では夜になるとかなり暗い。それでも、ザンドは休まずに街を探し回る。
はっ、としたのは、紫の髪が、曲がり角の向こうに引っ込むのがチラリと見えた時だ。
「!」
ザンドは走った。すると、気配を察したのか、向こう側も走って逃げたのが分かる。
「逃がさない」
ザンドは一度立ち止まると、呪文を唱えた。そして次の瞬間には、獣の如き速さで飛び出す。すぐに相手に追いつき、壁を蹴って飛び越えて、前に立ちはだかった。
「っ!」
相手は暗がりの中、曲刀を振るった。ザンドはそれを軽く避け――逆に、相手の武器を持つ腕を掴み、捻り上げる。
「くっ……うう」
細い腕は、ザンドに掴まれて、いとも簡単に武器を取り落とした。男のザンドなら、魔法を使わなくても勝てるほどの、弱い力だ。
「……。」
ザンドは自分から逃げようともがく相手を、しばらくそのまま抑えていた。やがて――彼女は、きっ、と鋭い赤い瞳をザンドに向けた。
「……奴らに突き出すなら、好きにすればいい」
吐き捨てたベルガを、ザンドは首を振って、後ろから抱きしめた。驚くほど細い体だ。はっ、と驚いて再び逃げようとする気配があった。
ザンドはそんなベルガの首の後ろに額をつけたまま、絞り出すような声で言った。
「俺が間違っていた」
ベルガは、ザンドに捕まえられたまま、乾いた笑いをあげた。
「……はっ、奴らにほだされて、アタシに悪党を止めろって言いにきたか? 馬鹿だね、あんなお人好しには付き合いきれない」
「……違う」
「どうだか、随分楽しそうだったじゃないか。奴らの仲間とやらになればいいじゃないか――」
ベルガの言葉に、ザンドは気付く。
ベルガは見たのだ。ザンドが、ライとアイリスと共に旅をしていたのを。そして、いくらザンドが探しても見つからなかったのは、向こうが隠れていたからなのだと。
ザンドは、ベルガを抱きしめたまま、懐から小さなナイフを取り出す。ベルガは一瞬、その刃の煌めきにぎくりとしたが、すぐに投げやりな態度になった。
「裏切り者は、殺すってのか――」
「……傍にいる」
「は? 心中する気か? 傑作だね」
壊れたような笑いを漏らすベルガの――その肩の防具を、ザンドはずらす。そこにあったのは、古代語で彫られた刺青だった。
ザンドはその刺青に、そっと刃を当てた。するとベルガ自身は――ぎょっとしてその、刺青を見た。
「……な、何だ、これ、呪文……?」
自分の体に彫られたはずの呪文に、ベルガは驚いたように目を見開く。そう。ベルガはこの呪文の存在を、忘れている。
ザンドは、ぐっ、と痛みを堪えるような顔をした――まるでそのナイフが、ザンド自身を切り裂くかのように、胸が痛む。
「……思い出してくれ、ベルガ」
ザンドは、ベルガの肩の刺青の上を――ナイフで裂いた。
どんなに辛いことがあっても、俺が傍にいる。
美しい花が咲く庭園を、ドレスを着た桃色の髪の女性と、小さな女の子が散歩していた。女性は、特にきれいに咲いた花を一輪取ると、女の子の紫の髪に挿してやる。
「ありがとう、ピア様!」
「とっても可愛いわ、ルカ」
ピア――と呼ばれた女性は、女の子が満面の笑みを浮かべるのに、嬉しそうに微笑み返した。
「そろそろフォンベルグ様が、お仕事を終える頃だから、お家に入ってご飯の支度をしましょう。ルカは、サンを呼んできて頂戴な」
「はあい!」
そう言って、ルカと呼ばれた女の子は、走って先に屋敷に入っていく。今日のご飯は、ピア様と一緒に下ごしらえをした鶏肉のパイだ。今頃は魔法の竈が、美味しく焼き上げてくれている。
ルカはぱたぱたと廊下を走っていく途中、壁にかけられた真新しい、大きな肖像画を横目で見た。この絵を見る度、とっても暖かい気持ちになる。
「サン、サン、ご飯だよっ!」
そう言いながら、ルカは、弟のサンの部屋に入った。サンはいつものように、部屋の隅でじっと座って本を読んでいた。
「え……あ、姉さん」
「もうっ、またカーテン閉めっぱなし! こんな薄暗いところで本ばっかり読んでたら、サンにはキノコが生えるよ!」
「……」
ルカのあんまりな言い分に、サンは口を尖らせた。
「だって、フォンベルグ様のこの本、とっても面白いよ」
そう言って、本を名残惜しそうに閉じる弟に、ルカは膨れた。
フォンベルグ様――ルカとサンの主であるフォンベルグ・テンペラストは、とても高名な魔法使いだった。
この屋敷の仕事部屋で、魔法に関する本を書いており、そしてそれが、とても素晴らしい内容であり、高値で取引されているらしいことは、子供であるルカにも何となくわかっていた。
しかし、その内容が分かるというかというと別だ。そんな魔法の難しい本を、『面白い』といって読みふけっているサンに、フォンベルグも少し驚きながら、嬉しそうにしていた。ちょっとした嫉妬を覚えてしまうのは仕方がない。
(あたしだって、フォンベルグ様の書いたご本が読めるようになって、サンみたいに、可愛がってもらいたいもん……)
そう思うくらい、ルカは、自分の主人であるフォンベルグが好きだった。フォンベルグと、その妻であるピアは、奴隷市場からルカとサンの姉弟を助け出し、子供のように可愛がってくれている。
そんなことを考えて俯くルカに、サンは聞いた。
「ご飯じゃなかったの?」
「あっ、そうだよ! 行こう」
ルカは、食卓に向かう前に、サンの部屋に風を通そうと、カーテンを開け、窓をぱっと開いた。そこからは、花の咲く庭が良く見える。
そこから見えたものに、ルカは悲鳴を上げた。
「ピア様!」
ピアが、さっきまでルカと一緒にいた庭で、倒れていた。
ルカは、ずっとしゃくりあげていた。その横で、サンもまた、目を真っ赤に腫らしている。
「うっ……ぐすっ……うっ」
病に倒れたピアは、どれだけ手を尽くしても、助からなかった。眠るように穏やかな顔をしたピアの亡骸の横で、あらゆる感情が抜け落ちてしまったかのようなフォンベルグが項垂れている。
ピアが息を引き取った後、一昼夜、ずっとそうしていたが――やがて、フォンベルグの口から、ぼそりと言葉が零れた。
「……めない」
「フォンベルグ……様?」
「認めない―――!」
絶叫したようにフォンベルグが叫ぶ。鬼気迫る形相に、ルカとサンは背筋が凍った。
フォンベルグが古代語の呪文を唱えると、とてつもない冷気が吹き荒れ、冷たい風がピアの周りを包んだ。瞬く間に、ピアの体を、透明な氷が覆い、まるで透明なガラスの箱の中に閉じ込められたようになる。
「えっ? ピア様っ!」
あんなにお病気で苦しんだのに――こんな寒そうなところに閉じ込めたら、可哀想だ。ルカは咄嗟にそう思い、手を伸ばしたが――。
「触るなっ!」
フォンベルグが、今までに聞いたこともないような、荒々しい声でルカを制した。サンもまた、びくりと震える。
『認めない、認めない、認めないぞ……必ず起こす……何があっても……君を……』
憑りつかれたように、古代語で話すフォンベルグの目には、ピアだけが映っていた。
ルカもサンも、部屋の寒さに震えていたが、それだけではない、得体の知れない震えが、体の奥からせり上がってきた。