144:故郷
朝早く、家の戸が叩かれる音に、男は目を覚ました。
こんな朝早く、誰が訪ねてきたのだといぶかしがりながら、彼は戸を開ける。
家の前に立っていた相手を見て、男は言葉を失った。
「……お久しぶりね」
「マリラ……」
そこにいたのは、彼の娘だった。
だが、彼が言葉を失ったのは、久しぶりに娘が訪れたからではない。美しく成長した娘を見て――とうの昔に死んだ妻が、現れたと、一瞬思ったからだ。
「……今、起きたとこで。寒いから、暖炉に火を……」
「……いいわ」
マリラが暖炉に杖を向け、呪文を唱えると、一瞬で大きな炎が燃え上がった。
父親は驚き、マリラを振り返る。マリラは、背を丸めて暖炉に薪をくべようとしていた父親から、目を逸らした。
マリラが大人になったように、父は年老いていた。
「……そ、そうか。何か食べるか」
「いらないわ」
父はこんなに、おどおどと話す人だったろうか。こんなに小さかったろうか。
家も記憶よりずっと小さい。こんな狭い家で、親子二人が暮らしていたのだと思うと驚きだ。
「…………。」
マリラと父親は互いに黙り、一言も発しなかった。だが、先に父親が、口を開いた。
「すまなかった」
「…………。」
マリラには分からない。
父が何に対して謝っているのか、そして、何を話すべきか。
分からないから、言いたいことだけを言うしかない。
「私、やるべきことがあるのよ。もう、すぐに発つわ」
「そうか……」
「村に来たのは、リドル先生を訪ねたからよ。もう二度と、来ないと思う」
「……そうだな」
話すうちに、マリラは苛々してきた。
弱々しく項垂れるばかりの父親に、こうも高圧的に接していては、マリラが悪者みたいではないか。
「……一緒に旅をしている、仲間がいるのよ」
マリラは、窓の外を見ながら、なるべく穏やかな声になるように言った。見てはいないが、父が、顔を上げた気配がする。
「彼らは、私の大切な人だし、私も彼らが大切。……皆に会えて本当に良かった、そういう人達がいるの」
村での生活は、マリラにとって暗い記憶ばかりだ。今さらどんなに謝られたとしても、それが埋まることはないだろう。
だが――村で生まれなければ、今のマリラは存在しない。存在しなければ、仲間とは出会えなかった。
彼らがいなければ、マリラは今でも、故郷を憎み続けたかもしれなかった。
「生んで、育ててくれて、ありがとう。さようなら……お父さん」
家から出てきたマリラの顔を見て、エデルは何も言わなかった。何も言う必要がないと思う程、その顔は穏やかだった。
そして、二人は、リドルの家に向かった。
リドルは、マリラに、双頭の蛇が絡み付いた杖を渡した。杖の真ん中には裂け目があったが、よく見なければ分からないほど、滑らかに修復されている。
マリラはそれを確かめるように握る。杖に触れている指先が痺れるようだ。強い魔法力を感じた。
「お見事です、先生。折れていたとは、思えません……」
「いえ。繋ぎましたが、芯は折れたままです。使う魔法にもよりますが、使えて一回と考えるべきでしょう」
「……充分です」
この杖で、ジェスを助ける。そのための力は、手に入った。
「私は、すぐにギールに向かいます。先生、本当にありがとうございました」
礼をして、すぐに出て行こうとするマリラを、リドルは呼び止めた。
「その前に、一つ話をさせてください。エデルさん」
壁際で待っていたエデルは、自分が呼び掛けられたことに意外な顔をした。
「私ですか?」
「はい。エデルさん、この村に住む気はありませんか?」
リドルの提案に、エデルは驚いた。
「この村は、今、私という強い魔法使いがいることで成り立っている状態です。村が、一人の商人や、魔法使いに依存することなくやっていくためには、まず、村の外に行ける、強い人が必要なのです」
「え、しかし……」
「勿論、あなたの自由にしてもらって構いません。ですが、あなたがこの村で過ごしている時は、とても穏やかな、いい表情をしていたように思うのです」
言われて、エデルは、自分の顔に手をやった。
確かに――久しぶりの穏やかな生活ではあった。自分を鍛え、戦いに身を投じ続けていたエデルからすれば、――それこそ、故郷にいた時のような。
「……私は、その……」
エデルが迷っていると、奥の部屋から、若草のローブの青年と、臙脂のローブの少女が出てきた。
「私は嬉しいわ! この村、他に若い女の子がいないんだもの!」
「こら、お前は。……でも、皆さん、歓迎されると思いますよ。勿論、私も」
温かな笑顔を向けられ、エデルは、ぱちぱちと目を瞬かせ――そしてマリラの方を見た。
「エデル……」
迷っているのが、はっきりと分かる。
かつての貧しく、雰囲気の悪い村ならば、マリラは反対しただろう。
だが、村は変わりつつある。エデルならば、その村を、率いていけるかもしれない。
剣の強さだけに頼っていては、彼女の心は擦りきれてしまう。
人に囲まれた穏やかな日々が彼女を支えるなら――それはマリラにとっても嬉しい。
マリラの柔らかな微笑みに、エデルは美しく口元を綻ばせた。
「だが、まず、私はマリラをギールまで送らなければな」
「そうね、護衛としてそれはお願いしたいわ。でもエデルはそうすると、一人でまたここまで来ないといけないわね」
ギールからここまでは、相当な距離がある。道中の魔物はエデルの敵ではないが、行き来するのはそれなりに大変だ。
マリラとエデルの話を聞き、リドルが杖を出した。
「マリラは、私がギールまで送りましょう。〈転移〉の魔法でならば、一瞬です」
「え……宜しいのですか?」
マリラが聞くと、リドルは頷いた。
「急ぐ旅なのでしょう? あなたの仲間によろしく伝えてください。さあ、マリラ、ギールの街を強く思い浮かべて下さい」
マリラは頷き、ギールの街の冒険者の店――仲間と何度も食事をし、話をして盛り上がった場所を、鮮明に思い浮かべた。
リドルが呪文を唱えると、マリラの周りに風が渦巻き、光の粒が輝いた。
光がマリラを覆い、姿が消える瞬間、エデルは礼を言った。
「……ありがとう、マリラ」
光に包まれたマリラが、最後に小さく手を振ったのが見えた。