143:失望
エデルは、真っ赤になって俯くマリラをフォローした。
「……魔法のことはよく分からないが、ここまで、変身の魔法を使いこなせるようになった、マリラはすごいと思う……その、そんなに落ち込まなくても」
「は、恥ずかしいのよ」
エデルが女性で良かった。
結局あの後マリラは、エデルに体と杖を支えてもらった状態で、どうにか杖を握って呪文を唱え、元の姿に戻った。すると人間の姿に戻ったマリラは裸だったわけで――エデルは何も言わず、すぐにローブを差し出してくれた。
「……あのおっさん、杖なしで〈変化〉と〈解除〉を使いこなしてたのね……。さすが、テンペラストの名を持つだけのことはあるわ……」
マリラはぶつぶつと呟きながら、絶対に使いこなしてやると気合を入れた。
もちろん、ジェスを人間の姿に戻すための練習という、当初の目的も忘れてはいない。だが、これはマリラのプライドの問題だった。
(ここまで来たら、絶対に使いこなす!)
妙な気合を入れて燃えるマリラの横で、エデルは淡々と食事の準備を進めた。
エデルはその日、剣の素振りを終えると、真っ直ぐマームの村に向かった。魔物退治も、必要ないほど、周辺の魔物は狩り尽くしたからだ。
そこでエデルは剣を斧に持ちかえ、薪を割っていた。
「儂らより力があるとはいえ、お嬢さんに薪を割ってもらうのは、何だか申し訳ないね」
「そうですか? 私の国では、女でも薪割りをしますよ」
ドラゴニアでは、男が兵役で不在にすることが多いため、家の仕事は力仕事であっても、大抵は女がこなす。エデルにとっては、薪割りも、剣の素振りの延長線上だ。
「いい子だねえ、エデルちゃんは。帰ってきたのに挨拶一つしに来ない、あんな娘とは大違いだ」
笑いながら言われた老人の言葉に、エデルの纏う空気が静かに変わった。
斧がすっ、と降り下ろされる。そこから、彼は背筋が凍るほどの殺気を感じた。
斧は真っ直ぐ木に落ちる。パコン、と薪の割れる音がした。
「……私は、マリラに救われました。彼女が認めてくれるなら――私は彼女を、友人だと思っています」
「……い、いや、そんなつもりは……」
エデルの言葉は静かなものだったが、老人は冷や汗を流し、そこからそそくさと去っていった。
「……うちの旦那が、変な事言って、悪かったのう」
薪割りを終えたエデルに、老婆がお茶を勧めてくれた。農作業を終えた婦人達も集まり、休憩となる。
「……いえ。私が余計な事を言って、マリラの立場を悪くしたのでなければ良いのですが」
「あなたが気にすることじゃない……それに、マリラちゃんだって、気にしないでいたらいいのに」
「いや、嫌な思いをしたのは、マリラの方じゃよ」
老婆は息をついた。
「あの子がここに帰らぬのは、儂らの責任じゃ」
「……何が、あったのですか?」
エデルは、問い掛けた。
故郷がなくなったエデルと違い、マリラには、こうして帰るべき場所が存在しているはずなのに――しかし、ここには、マリラを阻む壁が立ちはだかっているかのようだ。
自分とは違うが、マリラも故郷を失っているというなら、それを取り戻してやりたい。そんな思いで尋ねた。
老婆は、薄曇りの灰色の空を見上げて話し始めた。
「……マリラはね、賢い子だったんだ」
「……この村は、聖母草を売って、生活している。食料はほぼ、村に来る商人から、聖母草を売る代わりに、買っていてね」
当時、村はその商人に支配されているも同然だったという。
「食料をもたらす商人には強く出られず、村は貧しくてね……。マリラも、子供だというのに、よく働いたよ」
「マリラちゃんが働いたのは、叔母から逃げるためってのもあったわよ。つまらないことで、よく折檻されてたから」
明日食べるものさえままならないほどの生活で、生じた不満の矛先は、弱い者に向かう。
エデルは、暗鬱な気持ちでそれを聞いた。
「しかし、それほど、貧しいようには見えませんが……」
エデルが尋ねると、老婆は言った。
「リドルさんがこの村に来てからさ。彼は聖母草がここから離れた場所――特に、隣の大陸では高く売れると考えてね、直接、港町に出向いて売ってくれたんだ。食料も安く買い付けてくれた」
「私達は、村から出ないからね……商人の言われるがままだったよ」
商人は、村人の無知につけこみ、かなり暴利をはたらいていたようだ。
だから、リドルという知恵者を得て、村の暮らしぶりは、ここ一年で格段に上がったのだという。
「分かりました……では、マリラのいた時、村はかなり貧しかったと」
「そう。そんな時、聖母草が不作になった年があった」
子供だというのに、マリラは賢かった。
村の畑から、どれだけ聖母草が取れるか。それを売ればいくらになるか。それでどれだけの食料が買えるか。――村人が生き残るのに、食料は足りるのか。
村人の誰もが不安に思っていた。マリラはそれらを計算し、このままでは食糧は足りないという結果を明らかにした。
「このままじゃみんな、死んじゃうわ!」
少女だったマリラは、村の中心で叫んだ。
「マリラ、滅多なこと言うんじゃない!」
マリラの父は、マリラを怒鳴りつけた。
「だって、本当じゃない! 去年よりずっと聖母草が取れないことは、分かってるでしょう!」
分かりきっていた。しかし――皆が、目を逸らしている事実だった。
「皆でこの村を出て、別の土地に行きましょう! そこなら、飢えて死ぬことはないわよ!」
「馬鹿な、儂らが先祖代々守ってきた、聖母草はどうなるんだ!」
村人の一人が言った。マリラは叫んだ。
「その私達が皆死んだら、聖母草も何もないじゃない! 聖母草を食べて生きていけるわけじゃないのよ!」
マリラは、当然の事を言ったつもりだった。
どうして分かってくれないのか、必死で訴えた。
だが――マリラの頬に、するどい痛みが走る。
「お前は、この村で、聖母草に育てられた恩も忘れたのか! 聖母草を捨てろというなら、お前など、村人ではない! そんなに言うならお前だけが死ねばいいだろう!」
「……なっ」
顔を殴られ、きつい言葉を浴びせられたマリラは、呆然と、周りを見渡した。
だが――マリラを助ける者はいない。
「そうだ! 馬鹿げたことを!」
「村を出ていけだって? 子供が何を言うか!」
村人達は――少女のマリラを取り囲み、次々に非難した。
マリラはその言葉を聞きながら――目に涙を溜め、走り出した。
「……それから、マリラは」
「勿論マリラはただの子供だったから、一人で村を出ていける訳もなくて……その後も、同じように父親と暮らしていたけどね」
「儂らは、マリラに酷い態度を取り続けた。マリラが悪いのではなく、やがて来る飢えの恐怖に対して、それを明らかにしたマリラへ、八つ当たりをしていたに過ぎない」
「それで……その年は、乗り切れたのですか?」
エデルが尋ねると、老婆は首を横に振った。
「本当なら、とうに儂らは死んでいた……」
しかし、偶然に村を、一人の貴族が通りかかる。
それが村と、マリラの運命を変えた。
「貴族の方は、儂らの惨状を見て、冬を越せるだけの麦を恵んでくださった……。そしてその方は魔法使いでもあったらしい。マリラを見て、魔法の素質があると言った」
――魔法の学園で学ばないか? 君には才能がある。
マリラは魔法使いに言われた言葉に、すぐに頷いた。
そしてマリラは、一度も振り返ることなく、村を出たという。
それは魔法を学ぶためではなく、村から逃げるためだったに違いないと、誰もが思った。
「……。」
話を聞き終え、エデルは、ため息をついた。
「……そんなことが」
「魔法学園とやらは、火事でなくなったそうだけど、マリラがこの村に帰ってこないのは当然よ……あら?」
婦人は、木の上に視線をやった。つられて、エデルも同じ方を見る。
枝の上に、珍しい、美しい金色の鳥が止まっていた。その鳥は、黒い布を、スカーフのように喉のあたりに巻いていた。
エデルと視線が合うと、鳥はぱっと飛び立っていく。
「あれは! すみません、失礼します」
エデルは、お茶のカップを置くと、急いで鳥を追って、村の外に走り出した。
金の鳥は、村の外まで来ると、滑空して降り立ち――その足が地面に触れる瞬間、その姿が溶けた。
鳥が消えた時にそこにいたのは、金の髪をなびかせ、黒いローブに身を包んだマリラだった。
「マリラ!」
「……どうかしら。姿を変えるのも、だいぶ上手くなったものでしょう?」
追ってきたエデルに背を向けたまま、マリラは言った。
「マリラ、私は……その」
「気にしなくていいわ。村人なら、皆知ってることよ」
マリラは少し乱れた髪をかきあげた。
鳥になって、久しぶりに見て回った村の様子は、確かに変わっていた。聞いた話の通り、リドルが中心となって、この村の食糧事情を改善したのだろう。
マリラは気にしない様子でいたが、エデルは謝った。
「……すまない」
マリラにとって辛い過去を、自分が勝手に聞いてしまった。
「だから気にしないで。私だって悪かったのよ。故郷を離れるなんて簡単な事じゃない。母と子の命を守り続けてきた、聖母草は村の誇りだった。それを捨てろなんて言えば、怒りもするわ」
「……だが」
「第一、父は元々、私を嫌っていたから。あの件はきっかけに過ぎないの」
「それは違う!」
急に弾かれたように言ったエデルに、マリラは目を丸くした。
「……え?」
「いいのか? マリラはそれで……」
風が吹き抜け、木の葉がざわざわと音を立てた。
紫の水晶が転がるように、マリラの瞳が揺れた。