139:雲の村
白銀の谷は、別名、牙の谷とも呼ばれる。谷の両側の山が、牙のように鋭く切り立っているためだ。
ギールを出て、六日。マリラとエデルは、マームの村に辿り着いた。
「ここにマリラの先生が住んでいるのか……魔法の研究をする人というのは、もっと都市に住むものだと、思っていたが」
「そうね……」
マリラは、複雑な思いで村を見つめた。
山の合間のため、村の上には常に厚い雲がかかり、薄暗い。
「……行きましょう」
マリラは、静かに村へ入っていった。
辺境の村のため、外部との交流が少ない。元々人も少なく、外から旅人が来れば、すぐに村人が気付く。
「誰だ、アンタら。また、魔法使いか――ん?」
村の入り口近くで、薪割りをしていた初老の男は、ぶっきらぼうに尋ねたが、マリラの顔を見て、驚いた声をあげた。
「お前、マリラか? ……随分、久しぶりだな。今、父ちゃん達は畑にいるが」
「呼んでこなくても結構です」
マリラは静かに返すと、村を見渡した。見覚えのない、新しい家が一つ、出来ている。
「リドル先生がここに住んでいらっしゃると聞いたわ。あそこかしら」
「ああ、リドルさんならあの家で、学校をやってるよ」
マリラはすたすたと、リドルの家に向かって歩き出す。エデルは、男に軽く会釈すると、マリラについて行った。
「マリラ、ここの出身だったのか?」
「……ええ」
マリラの声は、村の空気のように冷えていて、エデルは黙るしかなかった。
突然訪れたマリラを、リドルは快く迎え入れた。
「会えて嬉しいですよ、マリラさん」
「先生も、お元気そうで何よりです。この村で、魔法の学校を作ったと、伺いましたが……」
リドルは頷いた。
「見ての通り、小さなものです。生徒も二人いるのですが、今は、村の方々と畑にいますよ」
この家は、学び場と、リドルや生徒の生活の場を兼ねているのだろう。古代語の辞書や魔術書が数冊置いてある他は、普通の民家と変わりない。
マリラは聞かずにはいられなかった。
「……失礼ですが、どうして、学校を作るのにこの村を選んだのですか?」
不便だし、こんな所では人も来ないだろう。ギールの街近くの方が、ずっと活気がある。
リドルは、目を細めてマリラに語りかけた。
「君は、クロニカの歴史を知っていますか?」
「……いいえ」
「魔法学園クロニカは、古代魔法王国の崩壊後、魔法が戦争のために使われた歴史を省みて、純粋に学問を行うための場所として創設されたのです」
そのために、クロニカは、あえて都市から離れた場所に作られたという。もっとも、学園の長い歴史の間に、クロニカ自体が学園を中心とした都市になってしまったのだが。
「アルバトロの一件では、多くの有望な魔法使いの命が失われました。同じ過ちが繰り返されないよう、魔法を、技ではなく、その心を学ぶ場所として、新しい学び場を、一から作りたかったのです」
「……。」
リドルらしいと、マリラは思った。
「君とは、あの事件以来でしたから、ゆっくりと魔法について語り合いたいものですね」
「すみません、先生、実は――」
マリラは、リドルの話を遮り、エデルの方を見た。
エデルは頷き、一礼してその場を出ていく。
「――実は、先生に、お願いがあって参りました」
マリラの真剣な表情に、リドルも椅子に座り直して、正面から向き合った。
エデルは、村の中を歩いていた。
どうやら、席を外した方が良さそうだった。ひとまず目的の村までマリラを送り届け、護衛の自分にはすることもないので、ゆっくりしていた。
「……静かな村だな」
山の麓の、家と家畜小屋、そして畑ばかりの、小さな村だ。一目見た時から思っていたが、エデルの故郷に、似ている。
「……。」
感傷を振り払い、エデルは散歩を続けた。
実はエデルにはもう一つ、気になっていることがあった。
村に入った時から、爽やかな香りがしていたのだ。清涼感のある香りだ。
エデルは、近くにいた村人に、その事を尋ねてみた。
「爽やか? いや、分かんないね……」
「そうですか。花……いえ、草のような香りなのですが」
そう言うと、村人はああ、と納得した。
「村の者は鼻が慣れちまってるから分かんないな。きっと聖母草だよ」
そういって村人は、近くの畑を指差した。背の低い草が生えている。
「始めて見る草ですね」
各地を旅しているエデルは、それなりに植物にも詳しい。そのエデルも見たことがないので、珍しい草なのかと聞くと、村人は胸を張った。
「珍しいさ。世界でここにしか生えない」
「ここだけ? それは凄いですね」
「ああ。この村は、あの山のお陰で、ずっと雲がかかる。曇りの場所でないと、駄目になる草だからな」
「へえ……」
エデルは、不思議な薬草を見つめた。
マリラは、荷物から、折れた賢者の杖を出した。リドルの目が驚きに見開かれる。
「――何故、これが、ここに!」
「……先生。私達はあの時、この杖を学園と共に燃やしました」
マリラは、自分の杖を取りだし、呪文を唱えた。杖の先端に炎が灯る。
「しかし――この杖は燃えないのです」
マリラは火を、賢者の杖に近付けた。しかし、木でできているはずの賢者の杖は、焦げることもなく、そのままだった。
「なんと……」
「先生は仰いましたね、賢者の杖は、世界樹から作られたと」
世界樹――聖龍が初めに創った生命と伝えられる、偉大なる樹だ。
「世界樹は、その身に強い魔法の力を宿しており、火がついても、燃えることはないようなのです」
「それは……初めて聞く話です。いえ、そもそも、世界樹というのは伝説の存在で、この杖が本当に世界樹から作られているなんて……」
「私も知りませんでした。この目で世界樹を見るまで……」
かつて、ここより南東の村で、マリラ達は巨大な樹を見た。
時間の流れの異なる不思議な場所にあったその大樹は、魔物の吐く炎に、傷一つつかなかったのだ。
「物理的な圧力――例えば、刃物などで傷つけることはできます。ライも普通の剣で、この杖を折ったわけですからね。これは、後から生まれた他の生き物が、世界樹を糧に生きていくためだと思います」
「……。」
リドルは、驚きに言葉が出なかった。
「ですから、この杖は、学園の跡地で燃えずに残りました。拾われたものを、偶然、私が預かりました」
リドルは、マリラから杖を受け取ると、不思議な杖を、魅入られたように眺めた。
「またこの杖を見ることになるとは……運命とは、数奇なものです」
「……先生に、この杖を、直して頂きたいのです」
リドルは、マリラの言葉を予想していたようだった。
賢者の杖は、世界樹から作られた→11話参照。
世界樹は、燃えることはないようなのです→36話参照。