138:黒の記憶
マリラとエデルは、ギールの街を出て北に向かっていた。
目的地は、リドルがいるマームの村だ。
「マームの村というのは、この地図には書かれていないが……」
「小さな村なのよ。白銀の谷にあるの」
白銀の谷は、この大陸の北端にある二つの高い山の谷間だ。クロニカや、幻惑の森よりも更に北にあり、土地も痩せていて、ほとんど人は住まない。
道中、何度も魔物に襲われたが、二人の敵ではなかった。
マリラが風の魔法で雑魚を蹴散らし、エデルが素早い剣さばきで、残りの魔物を片付ける。
こうして二人は、特に大きな障害もなく、川を越え、どんどん北に進んでいた。
「今日はそろそろ休みましょう」
マリラは、日が暮れてきたので、野営の準備をする。携帯食料で、簡単な食事を済ませると、マリラはエデルに言った。
「昨日は私が先に寝たから、今日は先にエデルが寝てちょうだい」
「……いや、その」
エデルは、ふうと息をついた。
「……私は、あまり屋外では眠れなくて。一人で旅をしていた期間が長いから……」
「え? じゃあ昨日の夜、寝てなかったの?」
マリラが驚いて尋ねると、エデルはすまなさそうに言った。
「まったく寝ていない訳ではないんだが。マリラが、あまりに自然に、交代で火の番をしようと言ったから、その……悪くて」
ほとんど、目を閉じていただけだというエデルに、マリラは呆れた。
「だから、マリラが、一晩寝てもらっていて構わない。白銀の谷くらいまでなら、それでも私は耐えられる」
「そんなの駄目に決まってるでしょ。何なら、眠れる魔法をかけてあげるわ」
「えっ……しかし、これは私の問題で」
悪いと言うエデルに、マリラは気にしなくていいわ、と笑った。
「実は、ライも、結構繊細なのよね……。ちょっとしたことで、すぐ起きるのよ。それでいて、朝は弱いんだけど」
マリラがくすくすと笑うのを見て、エデルは少し遠い目をした。
「……。本当に、仲がいいんだな」
「え? ……まあ、そうね」
「……私にも、仲間がいれば良かったのか」
エデルは膝を抱えた。急に、弱々しい様子になったエデルを見て、マリラはエデルの傍に寄ることにした。火を挟んで向かい合わせに座っていたのを、隣に座り直す。
「……私で良かったら、話、聞きましょうか?」
「マリラ……」
エデルは、はあ、と息をついた。抱えた膝に顔を埋める様子は、まるで子供のようだった。
「……私は、ドラゴニアの生まれなんだが」
「ええ」
「故郷は、小さな農村だった。だが……私がまだ、五つくらいの時、皆、死んでしまった」
マリラはそっと、エデルの肩に手を置いた。
「公には、魔物に滅ぼされたということになっている……村の惨状を見た、兵士がそう記録したから」
「え?」
マリラは聞き返した。引っ掛かる言い方だ。
「本当は――突然飛んできた黒い竜が、私の村を焼いたんだ」
「!」
黒い竜。その言葉を聞き、マリラはぎくりとした。
「竜は……ドラゴニアでは、王家との繋がりの強い存在として、好意的に受け入れられている。だが、私は……確かに黒竜が村を……母を焼くのを……この目で見た」
「ま、待って、それ――いつのことなの?」
「え? あ、ああ……ちょうど十八年ほど前になる」
十八年前という言葉に、マリラは記憶に引っ掛かるものがあった。
「……それって、アノンの西にあった村、かしら」
「知っているのか?」
「ええ……ウィンガの街の町長さんから、滅んだ村の話を聞いたことがあるの。でも――竜、だったなんて」
どうにか取り繕いながら、マリラは考えていた。
黒竜。ジェスと関係があるのか?
だけど――あのジェスが、村や人を襲うなんて、とても考えられない。
エデルの話に出てきたのは、きっと別の竜だろう。
「マリラ?」
エデルが、どうしたのかという顔でマリラを見ていた。
「あ、いえ、驚いただけ……でも、それは……辛かったでしょう」
「……そうだな。言い訳するわけではないが……私がバーテバラルの山で、竜を殺すことに拘ったのは、そのためだ」
「でも、あれは、緑竜だったわ。エデルの村を襲ったのとは違うんじゃ……」
エデルは、唇を噛んだ。
「何だろうな……やはり、私は竜が許せない。魔物が人を襲うのは、魔物がそういう存在だからだ。だが……あの竜は、そういった本能とか、必要とかとは違うところで……殺すために殺していた」
殺した村人達を食べるわけでもなく、ただただ、破壊のために。
エデルの心には、崩れていく母の後ろで、尻餅をついて震える自分を、睨みつける銀の瞳が、深く刻み込まれている。
「私の中で、竜は邪悪なものでしかなかった――」
「…………。」
マリラは何と言っていいか分からない。黙ってしまったマリラに、エデルは、少し無理にでも笑おうとした。
「だが……あの緑竜は、ジェスを助けたんだったな。全ての竜が邪悪ではない……。私が言うのも何だが、彼が助かって、良かった」
「ええ……」
「彼にも会って、謝らないといけないな。出来れば、また手合わせしたい」
そう言うエデルの瞳には、少し憧れのようなものが宿っていた。マリラはそれを感じ取って、聞いてみる。
「ん……ひょっとして、ジェスの事、好きなの?」
「えっ?」
エデルは予想もしなかったマリラの言葉に、顔を上げた。
「いや……剣士として尊敬はしているが、男性として意識したことはない」
「……。」
マリラは何も言えない。ばっさりだった。
「聞いてもらえて、少し楽になった。ありがとう」
「ううん……。」
焚き火がパチパチと音を立て、火の粉を散らす。
エデルはゆっくりと目を閉じた。
「……エデル?」
返事はない。エデルは静かに寝息を立てていた。
「……あなたはもっと、誰かと一緒にいて、話さないと駄目よ」
どんなに冷徹に、強くなろうとしても、人間は感情から逃れられない。
他愛ない会話をして、笑って、そうでなければ、生きていけない。
(私が……そうだったから)
マリラの灰色の記憶も――仲間と過ごす日々の中で、癒された。