137:竜の本能
アイリスは、体中の力が抜け、うずくまった。
「な、なにが……」
体に力が入らない。意識が遠ざかっていきそうになるのを、無理矢理、意志の力で繋ぎ止める。
外からライの悲鳴が聞こえてきた。そして、ジェスはアイリスの前から飛び去って行き――こちらが震えるほどの大きな声で、吠えたのだ。
塔の天井にいたザンドが、引きちぎられたロープを手に、窓から入って来た。焦った顔をしている。
「ザンドさん、何が」
「……魔物、だ」
ザンドは、倒れそうになるアイリスの体を抱え上げた。
「……えっ?」
「ここにいては危ない。塔を下りる」
そのまま、階段を駆け下りていく。アイリスは慌ててザンドに捕まりながら、尋ねた。
「魔物って、どういうことなんですか?」
「……俺達は、このディーネで、空を飛ぶ黒い魔物の話を聞いた。俺達は黒竜を探す上で、『空を飛ぶ黒い魔物』を見なかったかと尋ねて回っていたから、それが黒竜だと思った」
「はい」
竜の姿を実際に見たことがある者は少ない。教会には聖龍像があるところも少なくないので、竜がどのような姿か想像がつく者も多いだろうが、最初にジェスを見た者は魔物と勘違いしてもおかしくない。その配慮があって、あえてそう聞きまわっていた。
「だが、この都ですらそう言われることに俺は違和感を覚えた。奴も、そう思っていたようだが」
「え……?」
アイリスは意味が分からず聞き返す。
「ここは魔法研究都市だ。竜や、魔物について研究している者も少なくない。その辺の冒険者ならばいざ知らず、この都の人間が、竜と魔物を見間違えるとは思えない」
「! じゃあ……」
アイリスも理解したらしく、ザンドの方を見た。
「ああ。この都で聞いた、『鏡張りの塔を破壊した黒い翼』というのは、黒竜ではなく、本当に魔物だったのだろう」
つまり、ジェス、黒竜とは別に――すぐ近くに、巨大な空飛ぶ魔物が存在したのだ。
そしてそれが今――ライを襲った。
「そんな! ライさんは!」
「……」
ザンドは答えず、階段をただ走り下りた。
ライを捕まえた魔物を、黒竜は凄まじい勢いで追った。首に結わえたロープは、いとも簡単に引きちぎり、真っ直ぐに竜は、魔物を追って飛んだ。先ほどまでの、ふらついた飛び方ではない。
竜本来の、力強い飛翔から、逃れられる存在などない。
ライは、肩の痛みに耐えながら、必死に魔物から逃れる方法を考えた。しかし、空をすごい速さで飛び回っている中、下手に魔物から離れたところで、遥か下に叩きつけられるだけだ。
そして――
(ジェス……なのか?)
ライはどうにか首を動かして、こちらに迫る黒い竜を見た。
ガアアアアア―――!
竜は咆哮しながら、翼を力強く振るわせ、牙を見せて魔物を追う。今や魔物は、ライを連れ去るためというより、竜から逃れるために急旋回、急上昇を繰り返していた。
空中を無茶苦茶に振り回され、ライの意識は飛びそうになる。その中でも、竜の姿が、視界の端に時々入る。
(ジェス……お前……)
空を自在に飛び、魔物を追うその姿は。
牙を剥き出し、獲物を追う獣のようで――
塔を下りきったアイリスとザンドは、固唾を飲んで、竜と魔物の空中戦を見ていた。ライはまだ、魔物に捕まったままだ。
「ライさんは……」
「……」
ザンドは、魔法で強化した視力で、目を凝らす。しかし、どうにかできる状況ではない。都の上空で黒竜が魔物を追い回しているため、遠くに連れ去られることはないだろうが――。
「ジェスさんが、助けてくれます、よね?」
「……どうだろうか」
ザンドは、酷な返事をするしかなかった。
「で、でも! ジェスさんは、あの魔物を追って――」
「黒竜が魔物を倒そうとしているのは確かだが、それが人間であった頃の奴の行動原理と同じだと思わない方がいい」
「えっ?」
ザンドは、昨日読み直した、竜に関する文献を思い出す。
「魔物が、命あるものを喰らおうとするのが、その本能のようなものだとすれば――竜は、魔物を消し去ろうとするのがその本能だ」
世界を創造した龍の力を受け継ぐ竜――それが、世界の力の歪みを正そうとするのは、自然なことなのかもしれない。
「今の黒竜に、見えているのは――魔物だけかもしれない」
アイリスが息を飲む。
黒竜が、大きく旋回し、ついにその爪が、魔物の右翼を捕らえた――
「っ!」
激しい衝撃を受け、視界が回転する。
魔物の体が傾ぎ、黒い羽が散る。ライは魔物と共に、空を回転しながら落ちる。
魔物の力が弱まった隙に、ライはどうにか肩に食い込んだ鉤爪を外そうと試みるが、空中では力が入らない。
(ザンドの〈強化〉の魔法も、効果が切れたか……くそっ!)
為すすべもなく、魔物と共に落ちていくが、魔物はどうにか体勢を保つ。無理矢理に羽ばたくが――そのような弱った翼で、竜から逃れられるはずもない。
「!」
回り込んだ黒竜が、正面から魔物に向かい合う。
ライはそこで初めて、ジェス――黒竜を正面から見た。
黒竜が口を開き、その前に、闇を集めたような漆黒の輝く炎が生まれた。それは膨らみ、銀の火の粉を散らす。
ライの目が見開かれた。
(不味い――!)
「駄目―――っ!」
アイリスが絶叫した。
だが、その叫びも空しく――竜の放ったブレスは、魔物を貫き、塵にした。
空中で爆発が起き――その爆発の中心から、放り出されたライの姿を、ザンドは見つけた。
へたりこんだアイリスをその場に残し、その落下地点へ、一目散に走っていく。
「ジェスさん……!」
竜は、翼を上下させて宙に浮かび、その場に佇んでいた。
――その体に、光の矢が飛ぶ。
「!」
都の防衛用の魔導具から放たれた攻撃魔法が、黒竜の鋼鉄のような鱗に弾かれた。
アイリスは、はっと都を振り返る。
(都が、ジェスさんを危険と判断した……!)
巨大な魔物を一撃で消し去った、あの闇のブレスを見てしまえば――それが都を攻撃するかもしれないと恐れるのは、どうしようもないことかもしれない。
「止めて! ジェスさんを、攻撃しないで……!」
アイリスは涙を溜めて、空を見上げる。
ジェスの体が傷つくことはない。だけど――あの優しいジェスは、自分が攻撃されたら――。
アイリスが手を伸ばすのも空しく、黒竜はしばらく、攻撃を受けながら、空に佇んで、湖上都市を見下ろしていたが――そして、身を翻して、空の彼方に飛び去って行く。
「…………っ!」
泣いている場合ではない。アイリスは自分に言い聞かせる。
振り切るように涙を拭い、疲れきった体を動かし、ザンドを追う。
(ライさん、無事でいて!)
竜の炎が放たれると同時に、ライの視界は一瞬で真っ暗に塗りつぶされた。
それが、闇の色なのか――それとも、目が潰れたのか――。
全身の皮が剥け、弾け、血が流れ――全身の感覚が一瞬にして消えて、それは分からなかった。
(……死ぬ、のか……?)
今までとは違う、圧倒的な力に押しつぶされるような――それでいて、何からも解放されたかのような――。
最後に思い出したのは、麦畑のように揺れる金色の髪。くるくると表情を変える水晶のような紫の瞳。
(マ……リラ……)
回転しながら落下したライの体は、遥か下の湖に叩きつけられた。