136:手負いの竜
ライ、アイリス、ザンドの三人は、人をかき分けながら走っていた。竜が飛んでいるという、都の東側の地区へと急ぐ。人々は空を見上げ、口々に騒いでいた。
「――本当に、ジェスさんなんですか?」
「……確かめよう」
ザンドは、素早く〈強化〉の呪文を唱えた。視力と聴力を格段に強化させ、空に目を凝らす。
夜が明けたばかりの青い空に、黒い翼を羽ばたかせている存在。ザンドは凄い速さで飛ぶそれの、形を注意深く観察する。
「……間違いない、あれは、黒竜だ」
「だが……何だか、飛び方、おかしいよな?」
アイリスも空を見上げるが、黒い影は、凄い速度で飛んでこそいるが、よろめいたり、急に止まったり、落ちそうになってはまた浮かび上がったりと、飛び方が定まらない。
ザンドは更に意識を集中させ、遥か上空の竜の姿を見た。
「……恐らく、体が傷ついているため、飛ぶ姿勢が保てないのだろう」
「えっ……?」
「俺とベルガは、人間の姿だった黒竜に、かなり傷をつけていた。竜の姿に戻ったが、傷は癒えてはいないのだろう……。本来、傷つくはずもない鱗が割れ、翼も折れている……」
「そんな!」
アイリスは声を上げた。
「おい、不味いぞ!」
ライは声を上げた。傷ついてふらつく黒竜が、急にバランスを崩し、街に向かって落ちてきた。人々が、悲鳴を上げて逃げる。
だが、黒竜は、すんでのところで翼を動かして持ち直し、地面への衝突を避けた。しかし、その巨体は、鏡張りの塔にぶつかり、衝撃で割れた破片がバラバラと落ちてきた。
「ジェスさん!」
アイリスは声の限りに叫んだが、黒竜は再び上空へと飛び上がる。
「……近くで声が聞こえた。竜とはいえ、街を破壊する気なら、用意していた魔法陣を使っての攻撃もやむを得ないと言っている」
ザンドが、ライに耳打ちした。
「ちっ……ジェスにそんな意思があるかよ! 見れば分かるだろ、うまく飛べないだけだって!」
アイリスは空を見上げながら、泣きそうな顔で言った。
「〈癒し〉の魔法で、ジェスさんを治したいですけど……! あんなに遠かったら、魔法が届かない!」
「塔に上っても、無理か?」
ザンドが尋ねた。
「ジェスさんの姿が、はっきり見える範囲まで近付ければ……でも、あんなに速く動いていたら、狙いが……」
「なら、ジェスを捕まえたらいいのか……」
ライはぐっと拳を握りしめた。
ライとザンドは、塔の階段を駆け上がっていた。ザンドは〈強化〉の魔法で身体能力を上げ、アイリスを抱えながら、階段を軽々と上がる。
「ザンド! ジェスはどうなってる!」
「今は上空を飛んでいる。さすがに竜に手を出すのは恐ろしいのか、都の人間も、様子を見ているな」
途中、慌てて塔を下り、避難する人々とすれ違った。全速力で階段を駆け上がり、塔の頂上につく。
頂上の小部屋の窓を開け、ライは窓枠に足をかけた。下を見下ろすと、さすがに、目も眩むような高さだった。
「準備はいいか、アイリス」
アイリスは、ロザリオを握りしめ、緊張した顔で頷く。
ザンドが〈強化〉の呪文をライに向かって唱えた。ライの体が、かっと熱くなる。体の奥から、力が沸いてくる。
「近付いてきた!」
滅茶苦茶に飛ぶジェスが、ライ達のいる塔に近付く。
ライは思いきり、空を飛ぶジェスを目がけ、窓から飛び出した。
いくら脚力が強化されたとはいえ、素早く空を飛ぶジェスのところまで、一跳びでは行けない。
空を切って、落下するライに狙いを定め、アイリスが呪文を唱える。
ライの足元に、透明な足場が出現した。ライはそれを思いきり踏み、さらに高く飛び上がった。
(ちっ……確かに足場はあるが、見えないと怖いな……)
ライの足場を作ったのは、アイリスの〈護り〉の呪文だ。
剣や魔法の攻撃を受け止めるほどの頑丈な壁を作る魔法を今、アイリスは、ライの足元に目がけて、素早く展開している。
「ライさんを守るんです」
アイリスはそう念じながら、意識を集中する。呪文を唱える時に思うのは、いつも通り、仲間を攻撃から守るイメージだ。
守りの壁は、目には見えない。だが、ライはそこにある壁を信じ、ジェス目掛けて跳び上がった。
「ジェス!」
この声が、聞こえているかどうか。
ライの手は、ジェスの尾をもう少しのところで捕まえようとしたが、高速で飛ぶジェスに追いつけず、手が空を切った。
落下しそうになるライの足元に、再び透明な床が作られる。足で感触を確かめると、蹴って跳び上がり、さらに高く跳ぶ。
「ジェス! 今――助ける!」
ライの思いに答えるように、上空に、周囲が白く輝く壁が見えた。アイリスの〈護り〉でできた壁だ。輝いているのは〈祝福〉で、壁の周りの空気に含まれる水を、聖水に変えたからなのだろう。
(俺の目に、見えるように、光るようにしてくれたか……! だが、このタイミングで魔法を二重で唱えるなんて!)
アイリスは――やはり、神聖魔法の天才だろう。
ライは、アイリスが作ってくれた壁を目がけて、手を伸ばす。そこに手をついて、空中で方向を転換し、ジェス目がけて飛び込んだ。
「ぐっ!」
竜の背に落ちたライは、全身を固い鱗にぶつけた。
「ジェス! 聞こえるか! 俺だ、ライだ!」
だが、ジェスはなおも暴れるように空をすごい速さで飛び回っている。そうして必死に風に乗っていなければ、落ちてしまうからだろうか。ライは片手でジェスの体にしがみつきながら、もう片手で、腰に縛り付けたロープを掴んだ。
ザンドもまた、塔の窓から外に出て、屋根の上に立っていた。
「やったか」
ライが黒竜の背に乗った。ここまでが計画の第一段階だ。そしてライは、先に鉤をつけたロープを、魔法で強化された怪力を持って、ザンドのいる方に投げた。
正確に投げられたそれを、ザンドは素早くつかむと、塔の屋根に括りつけた。
ライもまた、振り落とされないようにジェスの体の上を這うように移動し、竜の首元に、ロープの片端を巻きつけた。
これで、塔と竜が、繋がれた形となる。
「来るぞ、アイリス!」
アイリスは全力で意識を集中した。次に呪文を唱えれば、最大の出力で魔法が発動できるように。
黒竜は今も飛び回っている。塔の周りを竜が飛ぶ度に、ロープは塔に巻き付く。段々とジェスが近付いてくる。
充分にロープが短くなった段階で、ザンドは全力でロープを引いた。竜の体が、空中で引っ張られたように、一瞬止まる。
「今だ!」
ライが叫び、ジェスの背から飛び降りる。それと同時に、白く強い光が、塔の最上階の部屋から吹きあがった。
アイリスが力の限り唱えた、〈癒し〉の魔法が、ジェスの巨体を包み込む。
「……なんて、力だ」
巨大な体につけられた、無数の深い傷が、みるみる塞がれていく。
その光景に、ザンドは、驚いた。
あの弱く泣いていた少女が、まさかここまでの――。
優しい輝きに包まれ、ジェスの傷が治っていくのを見て、ライは安堵して息をついた。
「はっ……」
空中にいたライは、素早く、もう一つの鉤付きロープを投げていた。ロープの先の鉤爪は、塔の窓に引っかかり、ライは塔にぶら下がる形になる。
あれほど暴れるように動いていたジェスが、アイリスの光に包まれると、ゆっくりと羽を上下させながら、空中に留まっていた。銀色の瞳は閉じられている。竜の表情を見慣れているわけでもないが――ライの気のせいでなければ、穏やかな表情をしているように見える。
「……体の痛みがなくなれば、混乱も落ち着いて、正気を取り戻してくれたらいいんだが……」
ライは、とりあえずアイリスのいる部屋まで戻ろうと、ロープを使って、塔の外壁をよじ登る。こんな目も眩む高さの場所で、いつまでもぶら下がっていたくはない。
アイリスは、よろめいて床に手をついた。
さすがに、精神力が限界だ。それでもアイリスは、顔を上げ、窓の外にいる、黒い竜に呼び掛けた。
「ジェスさん」
竜が、そっと目を開く。すぐ近くに、巨大な竜の顔があった。魔物よりも体がずっと大きく、鋭い牙も爪もある。だが、怖くはなかった。
小さい頃から、龍の像を見慣れ、信仰してきたこともあるだろうが――ここにいるのは、仲間のジェスなのだ。
「……ジェスさん」
もう一度呼びかける。ジェスの口が、くぐもった音を立てて、開いて、何かを言おうとした――だが、それは、外から聞こえたライの悲鳴で遮られた。
壁を上っていたライは、突如飛んできた黒い影に、反応できなかった。肩に、刃物で刺されたような鋭い痛みが走る。
「ぐあっ!」
そのまま、強い力で上に引っ張られ、ライの体は、再び宙を舞っていた。
塔の天井にいたザンドが、驚いた顔をしてこちらを見上げているのが小さく見えた。
ライは、必死に首を動かした。
巨大な翼を持つ、鷲のような黒い魔物が――ライの肩を掴み、上空へと飛んでいた。
(魔物……! それも、かなり大きいぞ……!)
両肩を、掴まれたままのライは、どうすることもできない。そのままぐんぐんと、上空へ運ばれていく。
このまま、どこかに運ばれて喰われるのか。だが、魔物は突如動きを止めると、急速に方向を変えて滑空した。
「ぐあっ……!」
魔物が体を捻ったせいで、より深く鉤爪が刺さる。ライはされるがままだった。
強い風圧で、まともに目を開けていられない。
だが、視界の端に――もう一つの黒く巨大な翼が、こちらに向かって、猛然と迫ってくるのが見えた。
竜の咆哮が――都中に響いた。