135:魔法の刺青
その日、ライが宿に戻ってきたのは、日が沈んでだいぶ遅くなった頃だった。アイリスは眠っており、ザンドは一人で本を読んでいた。
ライの顔に疲労の色が濃いのは、随分多くの人に話を聞き込んできたからだけではないだろう。
「……有益な情報はあったか?」
「何とも言えないが……俺達は勘違いをしてたのかもな」
ライは頭を掻いた。ザンドも頷く。
「アイリスは寝てるのか……明日起きたら、何て言うかな」
「それでも言うしかないだろう」
ザンドは、本のページをめくりながら言う。
「ちっ……お前も気付いてたのかよ」
「推測だ」
ザンドの手にしている本の背には、『竜の神秘』という題が書かれていた。同じ本をマリラが読んでいるのを、見たことがある。竜に関する様々なことが書かれた本だ。
「……まあいい。俺も寝る」
ライはベッドに横になると、疲れているのかすぐに眠りについた。
次の日、アイリスは朝早く目覚めると、眠っているライを起こさないようにそっと宿を出た。
朝の静かで張りつめた空気が、心地いい。アイリスは綺麗に整備された石畳の道を歩き、教会へ向かった。
朝早いためか、教会には、誰もいなかった。白い大理石を削り出して作られた聖龍像の前に跪いて、祈りを捧げる。
聖龍の意思は世界中に満ちて、命あるものを見守っている。だから、祈りはどこで捧げても同じなのだが、修道院で育ったアイリスにとっては、神殿の聖龍像というのは、心が落ち着く存在の一つだった。
ジェスの無事を、そして、ジェスのために動いているはずのマリラの無事を祈る。
そうして祈っていると、ふと、後ろに気配を感じた。振り向くと、そこにいたのはザンドだった。
「ザンドさんも、朝のお祈りを?」
「いや。俺は神官じゃない」
「神官じゃなくても、聖龍の加護は命あるものに与えられますよ」
ザンドは首を振った。龍は創造主であることは認めるが、祈りを捧げて守ってもらえるとは思っていない。
「俺はお前を追ってきた」
「え……。あ、あの、すみません。勝手に出てきて、ご心配をかけましたか?」
アイリスは聞いた。仲間達はアイリスの朝の礼拝の習慣を知っているので、敢えてライを起こしてまで声をかけようとは思わなかったのだが、ザンドは急にいなくなったアイリスを探しに来てくれたのかもしれない。
「いや。俺は、お前達に興味があるからついてきている。特にお前の事は、不思議だと思うからな」
「それ、以前も言ってましたね……。どういうことなのか、詳しく聞いてもいいですか?」
「俺もよく分かっていないぞ」
「いいんです。お話している間に、分かることもあるかもしれませんし」
アイリスとザンドは、教会の長椅子に並んで座った。
「……そうか。神官というのは、教会で人の懺悔を聞いたりするそうだな。人の話を聞くのは得意か」
「わ、私はそんな大層なことはできませんが」
「何故だ? それほど神聖魔法が使えるなら、かなり位が高い神官に匹敵するはずだぞ」
褒められなれていないアイリスは顔を赤くした。
「い、いえ……とにかく、ザンドさんのお話、聞かせてください」
ザンドは、見事な装飾の凝らされた、教会の飾り硝子の窓を眺めながら話し始めた。
「俺は――俺とベルガは、元々は奴隷だった」
「奴隷……」
アイリスも、奴隷として売られそうになったことがある。悲しいことだが、奴隷の売買は、今でも確かに存在するのだ。
「子供の時に、住んでいた村が貧しくてな。口減らしに売られた。だが、幸運にも、俺とベルガはまとめて、ある金持ちの魔法使いに買われた」
奴隷として、ひどい扱いを受けることも覚悟していた。事実、ベルガとザンドは買い手がつくまでの間、奴隷市場でろくな食事も与えられずに、家畜のように鎖に繋がれていた。
しかし、驚いた事に、自分達二人を買った魔法使いの主人とその妻は、二人に十分な食事と温かい寝床、綺麗な服を与え、まるで実の子供のように扱った。
「子供だった俺とベルガは当然、その主人に懐いた」
「……はい」
「しかし……主人は、最愛の妻を失ってから、人が変わってしまった。俺達のことを放っておくようになった」
「えっ……」
「最初から、奴隷として酷く扱われていたら、俺達は耐えられたのかもしれない。だが……」
ザンドは、遠くを見つめた。
「結局のところ、生きていくために、俺達はそこから逃げ出した。だが、子供が二人、生きていくのは簡単なことではない。俺が魔法の呪文を刺青で体に彫ったのは、それだけ強くならなければいけなかったからだ。常に、戦えるように」
「そう、なんですね……。」
アイリスは、そっとザンドの火傷の痕に触れた。かつて刺青だった、その痕に。
「ザンドさんは、そうやって、心を削ってまで、ベルガさんのこと、守ろうとしたんですね」
「……守、る?」
その言葉を、ザンドは呆然と繰り返した。
「……違う。守られたのは、俺の方だ……」
そのために、心を削ったのも。
ザンドは、聖龍像を見つめた。
「アイリス」
「はい」
「……神官でなくても、罪を犯した俺でも、祈っていいのか」
ザンドの声は、震えていた。アイリスは、柔らかな笑顔で答える。
「勿論です」
ザンドは手を組んで、祈った。
最愛の人の、無事を。
アイリスとザンドは教会を出ようとした。だが、そこに、ライが血相を変えて走ってきた。
「アイリス! ザンドもか! やっぱりここにいたか……!」
息を切らして走ってきたライに、アイリスは目を丸くした。
「どうしたんですか?」
「黒い竜が……! ジェスが、飛んできたんだ!」