128:狂気
「アイリス、アイリス!」
自分を呼ぶ声に、アイリスは目を開けた。
「気が付いたのね、アイリス!」
「あっ……」
アイリスは、路地の奥で、マリラとライに抱えられていた。
「一体何があったんだ? ジェスは――」
「そうです! ジェスさんが」
起きたことを思い出し、焦って話そうとしたアイリスは、殴られた背中が痛み、小さく呻いた。
マリラは手持ちの聖水を出し、アイリスに少し飲ませて落ち着かせた。傷の痛みが癒される。
ジェスが崖から落ちた一件以降、もし自分がいないところで怪我をしても応急処置ができるように、アイリスは聖水を作って、一人一人に持たせるようにしていた。
「あ、ありがとうございます……」
「もとはアイリスの魔法でしょ。それより――」
「ジェスさんが、攫われたんです、ベルガさんとザンドさんに」
アイリスの言葉を聞いて、マリラとライは息を飲んだ。
「間違いないのか?」
「顔を見ました……確かに、あの二人でした」
ジェスが襲われた経緯を話すと、ライは舌打ちをした。
「ジェスの性格を利用しやがって……」
ジェスがお人好しなのは、最初会った時に見抜かれている。
「急いで探さないと!」
「ああ。アイリスは宿で待っててくれ」
アイリスは首を振った。
「大丈夫です! 私も探します」
「――分かった」
三人は、ジェスが連れて行かれた路地の奥の方へと走った。何か手がかりがないか、探す。
「くそっ……やっぱりジェスを、ドラゴニアの王子だと思ってるのか?」
ライの言葉には、自分を責める響きがあったので、マリラはぴしゃりと言った。
「そんなことは、奴らを捕まえて聞き出せばいいわ!」
アイリスは、走りながらジェスの無事を祈る。だが、祈っても、今までにないほど心がかき乱されていくのが分かる。
(――とても、嫌な予感がする……ジェスさん――!)
「……うっ!」
ジェスは激しい痛みに、目を覚ました。
体がひどく寒く、震えている。目の前がチカチカした。
(ここは……)
ジェスが体を動かすと、手首の鎖がジャラリと鳴った。そしてジェスは、自分が壁に繋がれていることに気が付く。
「……おや、薬が切れたのか。目が覚めたね」
「ベルガ!」
自分の前にいたのは、紫の髪の女盗賊、ベルガだった。横には、ザンドもいる。魔法使いのローブを着ていたが、いつも目深に被っているフードはしておらず、顔に彫られた古代語の刺青が露わになっていた。
ベルガは赤い瞳を輝かせて愉悦の表情を浮かべ、対するザンドは気持ちが悪くなるほどの無表情だった。
ジェスは、自分の状況を把握しようと、まだ痺れる体をどうにか動かして周りを見た。
ジェスは、鎧を脱がされ、上半身裸の状態で、石の壁に繋がれていた。両手首と足首を鎖で壁に固定され、磔にされている。足元には大きな盥が置かれていた。右の腕には、深い切り傷があり、血を流している。
石の冷たい壁で覆われた小部屋は、窓もなく、黴の匂いがする。牢のようなこの場所に、ジェスは見覚えがあった。
「……ここは、奴隷市場……?」
かつて、ジェスは奴隷市場を潰すための依頼で、市場に潜入するために、奴隷としてわざと捕まったことがあった。
「くく、ご名答だね。今は使われてはいないけどね」
ベルガは小振りの小刀を見せつけるように、ジェスの鼻先でちらつかせた。血がついている。恐らく、ジェスをあれで切りつけたのだ。
「……僕を捕まえて、ドラゴニア王家への人質にでもするつもりなのか」
ジェスは荒い息をつきながら、ベルガを見た。ベルガは哄笑した。笑い声が石造りの小部屋で反響する。
「あはははは! まったくあのババア、殺す相手の顔も知らないままでアタシに依頼するんだから、笑っちまう! ちゃんと調べたらすぐに分かることだったってのにさ、ドラゴニアの第二王子は、緑の瞳の情熱的な美青年――、吟遊詩人も歌っているってのにさ!」
「……なっ」
ジェスはさもおかしそうに、腹をかかえて笑うベルガを、信じられないというように見た。
(ベルガはもう、僕が王子じゃないって知ってる……?)
「じゃあ……どうして、こんな……うあっ!」
ジェスは痛みに呻いた。ベルガが小刀で、ジェスの左腕を刺したからだ。
血が流れ、それは、ジェスの足元に置かれた盥に落ちる。
「……くくっ、くくく、あはははは!」
狂ったように笑うベルガに、ジェスは寒気を感じた。
このまま嬲り殺されるのか? 何故?
「何が目的だ!」
この状況でできることは、声をあげることだけだ。ジェスは精一杯声を張って、ベルガに問いかけた。しかしベルガは、血のように赤い瞳を細め、小刀の血をべろりと舐めた。
「分かっていないんだねえ……自分が何なのか、さ」
その言葉は、小刀の傷より深く、ジェスの心を抉った。
それは、ジェスがずっと考えていたことだったからだ。
ふん、とベルガは小刀をザンドに渡した。
「限界まで血を絞れ。殺すなよ」
「……。」
ザンドは、無表情な顔でしばらく小刀を見ていたが、ゆっくりジェスに近付き、その口に布を押し込んだ。声をあげられなくなったジェスに、ザンドは容赦なく刃を向けた。
マリラは、掲げていた杖を下げて、悔しそうに首を振った。
「駄目だわ……」
ジェスがどこに行ったか、手がかりは見つからない。
マリラは風の魔法で、街中の音を拾って、ジェスやベルガの声が聞こえないか試してみた。だが、ここは賑やかな街中だ。多くの人の声や物音が聞こえすぎて、とても特定の声を見つけ出せはしない。
「……くそっ、目撃情報もねえ……」
「門番の方に聞きましたが、今のところ街の外に出た人はいないようです。でも……」
体中に〈強化〉の呪文が刻まれたザンドの身体能力をもってすれば、街を囲む壁を軽々と飛び越えていてもおかしくない。
夜は更けていく。ジェスが攫われてから三人は街中を駆け回ったが、未だ手がかりは見つからない。
マリラは不安で、自分を落ち着かせようと、気休めを言った。
「……ジェスが本気で戦えば、ベルガやザンドには負けないわよね?」
「戦える状況にあればな……」
ベルガは盗賊だ。毒を盛るくらいのことはしただろう。ザンドも魔法使いだ。本来、正面から剣士と戦うなんてことはしない。
アイリスは、泣かないようにと、涙の滲んだ目を空に向けた。その時だった。
「――あれ、見てください!」
大量の血を流し、ジェスは意識が朦朧としていた。
ベルガは、そんなジェスの様子に満足そうに笑うと、縛っていた鎖を外す。傷だらけのジェスは、どさりと床に倒れた。
「さて、こんだけ弱ってれば、そろそろいいんじゃないか」
「……本当にやるのか」
盥に集めたジェスの血を、瓶に移していたザンドは、淡々と言った。遠のく意識の中、ジェスは、ザンドがやっと喋ったな、などと思っていた。
(――み、んな)
ジェスの頭の中に浮かぶのは、仲間達の姿だった。
アイリスは、大丈夫だったかな。
マリラとライがついているから、安心だよね。
今頃、僕を探して、走り回ってるんだろうな。
ごめん、だけど、僕……。
ザンドが、床に転がるジェスに向けて、杖を向けていた。
(魔法……? 何の……)
ザンドの杖の先から、白い光が、ジェスに向かって吹き出された。
アイリスが指さした先を、ライとマリラだけでなく、街中の人々が見ていた。
街の一角から、巨大な光が噴き出していた。
闇を思わせる、紫と黒の混じり合った光の奔流は、空に向かって勢いよく吹き出し、夜空に溶けて銀の粒を振らせる。
街の人々は、一体何事かと、それを見ていた。
きれーい、と誰かが言う声が聞こえる。
だが、その闇の魔法の輝きを見た三人は、同じことを思った。
「ジェス、だ」
そこにいるのか。
三人は、光の吹き出す先に向かって、全速力で向かった。