122:猫
船は、行きと同じくドラゴニア領の島に停泊していた。
船は、島へ運ぶ分の荷物を下ろしたり、また、水を補給したりするために一日ほどこの島に留まる。
ジェス達一行は、船を下りて、地面を踏みしめ、緑の匂いを吸い込んだ。
「ここは暖かいから、一年中花が咲いてるんですね」
アイリスは、南の島に咲く色とりどりの花を眺めた。ここの花は、大きくて色が鮮やかで、香りも強いのが特徴だ。
「この島は、貴族が水遊びにも来るんだぜ」
ライが説明する。島は貿易の船の停泊所であると共に、風光明媚な観光地であり、貴族の別荘地などとしても人気の場所だという。
マリラはそれで、前回訪れた時に、ライがこの島に下りなかったのだと納得した。貴族が多くいる島なら、ライが王子だと知っている相手に会わないとも限らない。
「へえ。暖かいし、確かにのんびりしたくなるね。今回は急ぐ旅でもないし、何日かゆっくりしていく?」
「ま、ここは貴族向けの島だからな……それなりの金がねえと厳しいぜ」
ジェスの提案に、ライは苦笑した。
まあ、せっかく来たのだからと、一行は島の周りをのんびり散歩し始めた。
「やっぱり冒険者は少ないわね」
島にいるのは、優雅に遊ぶ貴族とそのお付き、または島に住んで彼らをもてなしている、宿や店の主人達といったところだ。時折、剣を提げた戦士も見かけるが、あれは貴族付きの護衛だろう。
散歩しているうちに暑い日差しに疲れ、マリラは木陰で休むと言った。
「……黒いローブ着てるから、暑いんじゃねえか?」
「うるさい」
ライの軽口に反発しつつも、マリラも内心ではそう思っていた。ローブは魔法使いの正装だが、南国の太陽には向かないだろう。
「飲み物買ってこようか、喉乾いたね」
ジェスはそう言い、ライとアイリスと共に、食べ物を出す屋台の方へと向かった。
マリラがそうして木陰で休んでいると、不意に声をかけられた。
「お嬢さん、お一人ですか?」
振り返ると、銀髪の男性が立っている。年は三十過ぎといったところか。
相手がどういう人物なのか掴めず、マリラは戸惑う。白いシャツに、多くの金のアクセサリーを付けている。身に付けているものは値の張りそうなものだが、しかし、貴族のようにすました感じはない。
汁気の多い果物に植物の茎を刺してその果汁を直接飲むという、この島名物の飲み物を、男はマリラに差し出す。
「宜しければどうぞ」
「……いえ、結構です」
喉は渇いていたが、知らない男から飲み物をもらうマリラではない。
断られた男は、気にする様子もなく、マリラの隣に座る。距離が近い。マリラは若干にじるようにして距離を取った。
「お嬢さんは見たところ、魔法使いのようですね」
「ええ、まあ」
「魔法使いの方がここに来るのは珍しい。観光でしたら、ご案内しましょうか。良い場所を知っていますよ」
「……いえ」
馴れ馴れしい男に、マリラはここを立ち去りたかったが、仲間を待っているため、ここを離れるのは少し躊躇われる。しかし男は、マリラが去らないのをいいことに、さらに口説こうとしてくる。
「俺はジェドラールといいます。貴女は?」
「……なぜ名乗らなくてはならないのですか?」
「美しい女性が一人でいたら、名前を尋ねるのが礼儀でしょう」
ぶわっ、とマリラの腕に鳥肌が立った。
確かにこの男は客観的に見れば顔立ちも整っているし、女性を遊ばせるのに十分な金も持っていそうだが――だめ、生理的に受け付けないわ、こいつ。
マリラはさっと立ち上がると、きつい目で男を見下ろした。
「失礼しますね。私、連れがいるものですから」
言い放ち、ローブの裾を翻して立ち去るマリラに、ジェドラールはほう、と息をついた。
「……いい女なだけじゃなく、気が強いなんて、堪んないね」
マリラは仕方なく、仲間を探して歩いた。幸い、すぐにアイリスの姿を見つける。
「あっ、マリラさん」
アイリスが、手に果物を持って駆け寄ってくる。
「どれにしようか迷っちゃいました。これが名物ですって、お店の方が」
渡されたのは、さっきジェドラールに差し出されたのと同じ、果物をそのまま使った飲み物だった。
一瞬、マリラはさっきのことを思い出して嫌な顔をしそうになるが、すぐに笑顔で受けとる。
「ありがとう。あら、美味しいのね。……二人は?」
「お昼ご飯を買ってるんですけど、お店が混んでるみたいでもう少しかかりそうです」
「ふうん……きゃっ、何?」
その時、マリラの足元にふわふわとした感触があった。
驚いて見ると、銀褐色の毛並みの猫が、足元にすりよっている。
「わあ、猫ちゃん!」
アイリスは嬉しそうにしゃがみこんで猫を撫でる。猫も嬉しそうに、にゃー、と鳴いた。
「あら、可愛いわね。でもどうしたのかしら?」
マリラも屈んで猫を撫でた。猫はごろごろと喉を鳴らす。人懐こいし毛つやもいい。首輪をしているので、貴族の飼い猫かもしれないな、とマリラは考えた。
猫は、みーみー、と寂しそうに鳴いて見上げてくる。
「迷子でしょうか?」
「そうかもね」
マリラも動物は嫌いではない。故郷の村でも鼠避けに猫を飼っていたので扱いは慣れている。マリラは猫をひょいと抱き上げる。
「にゃー……」
「ん?」
マリラは猫にどことなく違和感を覚えた。この大きさからすればもう成猫のはずだが、抱き上げると胸にすりよってくる振る舞いは、まるで子猫のような……。
そこに、ジェスがバスケットに入れた食事を持ってやってきた。
「遅くなっちゃった。ライはまだ屋台に並んでるけど、もうすぐ来るよ。あれ、猫?」
ジェスはマリラの腕の中の猫を見つけた。
「そうなんです、迷い猫みたいで」
「へえ。可愛いね」
ジェスが猫に手を伸ばすと、猫はふーっ、と牙を見せて威嚇した。ジェスは驚いて手を引っ込める。
「どうしたんでしょう? 私とマリラさんにはおとなしかったのに」
アイリスが首を傾げていると、そこに、島の名物の魚料理を持ったライが来る。
「お、いたいた。こんな日向で何やってんだよ、早く木陰で飯にしよーぜ」
「あ、ライ、猫がさ」
「猫?」
ライはマリラの腕の中にいる、銀褐色の猫を見た。猫もまた、ライを見る。ライは怪訝な顔で猫を見つめていたが、やがてはっとした顔になる。
「……お、おい、その猫……」
「はっ?」
ライが震える指で猫を指差した瞬間――猫はぱっと逃げ出した。
ライはアイリスに持っていた食事を渡すと、全速力で猫を追い始めた。
「待てコラ!」
よく分からなかったが、ただ事ではない様子に、ジェスもサンドイッチの入ったバスケットをマリラに渡し、ライを追う。
マリラとアイリスの二人は、その場にぽかーんと取り残された。
「テメエ、何してやがんだコラ!」
「どうしたんだよ?」
青筋立てて猫を追うライに、ジェスが追い付いた。
「いいからアイツ……猫を捕まえろ!」
「? うん、まあ……」
状況は飲み込めなかったが、どうやら猫を捕まえないと、ライが止まらないらしい。
ジェスとライは二手から追い、猫の退路を塞ぐ。猫も猫で、ジグザグに曲がりながら必死に逃げる。
「こ、の、ヤロっ!」
鬼気迫る勢いでライが手を伸ばすのを避け、猫はばっと跳躍した。近くの木につかまり、爪を立てて上っていく。
「木に上りやがった!」
猫は、とりあえず逃げ切った、と息をついた。その瞬間。
「うん、捕まえたよ」
猫と変わらない身軽さで木を上ったジェスが、猫をしっかりと捕まえていた。
ジェスから猫を手渡されたライは、猫を思い切り揺さぶる。
「おいコラ、何してやがった!」
「ライ、何か知らないけど可哀想なんじゃ……」
がくがく揺さぶられた猫は観念し、呪文を呟いた。あっという間に猫のいた空間に代わりに男が出現し、ぐったりした様子で地面に突っ伏す。
「おい……久々に会っていきなりこれかよ……勘弁してくれ、殿下」
「そりゃこっちのセリフだ!」
ライはその男性に怒鳴る。
突如現れた銀髪の男性に、ジェスは事態が飲み込めない。
「この人誰? さっきの猫は?」
「こいつが! 猫に魔法で化けてたんだよ!」
ライがそう言うと、ジェスは目を丸くした。そんなことができるのかと、尋ねようとした時、ジェスは背後から殺気を感じた。
「ふうん……猫に……そう……」
「マ、マリラ……」
冷え冷えとした声を聞き、ジェスとライは硬直した。つー、と冷や汗が流れる。
その怒りが自分に向けられているものではないと分かっていても、恐ろしくて振り向けない。
「や、やあ、お嬢さん」
男――ジェドラールは、いつの間にかやって来ていたマリラに向かって、強張った愛想笑いを浮かべたが、マリラの手には、杖がしっかりと握られている。マリラはそれを――鈍器として振り上げた。
「――――この、ド変態野郎がっ!」
南国の島に、哀れな男の悲鳴が響きわたった。