112:竜の言葉
『…………』
最近、何度もこの夢を見ている。
誰かが、自分に何度も、真っ暗な意識の中で語りかけてくる。
『…………愛している』
『愛している』
『……愛して、いる』
待って。
その言葉しか知らないんだ。
行かないで……。
何も分からないまま、誰かが自分から離れていくところで――ジェスは目を覚ます。
冷たい雫が顔に落ち、ジェスは目を覚ました。
「うっ……」
気が付くと共に、体に痛みが走る。特に、左足首は激しく痛んだ。
ここはどこだろう、とジェスはぼんやり考える。暗く湿った、洞窟のような場所だが――上から木漏れ日が差し込んでいた。
痛む足を庇いながら、ゆっくりと体を起こした。壁に手をつき、もたれかかる。
「そうだ、竜の卵と山から落ちて……ライ? マリラ? アイリス?」
仲間の名前を呼びながら辺りを見回すと――ふと、自分が触っていた壁が緑色に輝いていることに気が付いた。
緑に輝く、美しい鱗。
ゆっくりと視線を上げていくと――そこには緑竜がいて、ジェスを見下ろしていた。
「うわっ!」
思わず驚いて飛びのくが、足がズキリ、と痛んでどうにもならない。
(ああそっか……竜の卵と一緒に落ちる時、無理な姿勢で、岩盤を蹴ったから……)
この痛みの具合からして、骨を折ってしまっているのだろう。
そしてジェスは、改めて緑竜を、恐る恐る見上げた。
「……え、えっと……」
深い海のような碧の瞳は、ジェスを見ていた。そしてその大きな口が開かれる。
身構えるジェスだったが、竜の口からは、ブレスが吐き出されることもなく――不思議な響きが聞こえた。洞窟の壁に反射して、音楽のようにも聞こえる。
『…………』
「……あ、あの」
話しかけられているらしいが、意味が分からず、ジェスは困惑する。そんなジェスを見て、竜はもう一度口を開く。
『…………』
「……あれ、古代語?」
竜が話している不思議な音が、古代語であることにジェスは気が付く。ジェスはマリラの呪文を何度も聞いているので、古代語の持つ独特の響きを知っていた。しかし、だからといって理解できるわけではない。
(あれ? 竜って古代語で話すんだ? そうなのかな……困ったな、僕、古代語分からないんだけど……竜の方がこっちの言葉が分かればいいんだけど)
そうしてジェスは、恐る恐る現代語で話しかけてみた。
「えっと、……竜さん、こんにちは……」
今度は竜が奇妙な顔をした――ように見えた。
そして、ぐふっ、と息を吐き出すと――多分ため息だ――そっぽを向いてしまう。現代語は通じないらしい。
そこでジェスは、竜の抱いている卵に気が付いた。
「あっ、卵……ってことは!」
ようやくジェスは自分の状況を理解した。
恐らく、卵を抱いたまま落ちた自分を、竜が空中で受け止めて助けてくれたのだ。正確には、竜が卵を助けたところに、たまたま自分がくっついていただけなのだろうが。
そしてこの洞窟のような場所に隠れて、卵を温め続けているのだろう。
「ありがとうございます! 卵も助かって良かった!」
ジェスが笑顔を浮かべてそう言うと、竜はふん、と息を吐いた。
何を言っているかは、雰囲気で通じたらしい。
とりあえず、竜は卵を温めることに集中したい様子なので、ジェスも自分の様子を確かめた。
まずは自分の体の具合。エデルとの戦いであちこち負傷していた傷は、血は止まってはいたが、じくじくと痛む。何より、崖から落ちた時に折った左足首が酷い。少しでも力を入れれば痛むし、熱を持っている。
(はあ……痛いなあ……最近はアイリスにすぐ怪我を治してもらってるから忘れてたけど……)
幸い、荷物も一緒に落ちていてくれていた。中にあった布を取り出して、足首を固定する。化膿しそうな深い傷は、水を少しだけ振りかけて洗った。
次にジェスは、自分の今いる洞窟の様子を探った。
ジェスがいるのは、洞窟のうち、天井が崩れて大きな穴が開いた場所だった。恐らく竜は、空を飛んで上の穴から入ってきたのだろうが、地面から天井までは、大人が肩車しても届かないというような高さだった。
普段のジェスの身軽さなら、ごつごつした岩の突き出した洞窟の壁を上って、上まで行くこともできたが、足を怪我している今は、とても無理そうだった。
洞窟の中を歩いて洞窟の出口に向かうのも、すぐ無理だと分かった。壁伝いに這うようにしながら、洞窟の出口がないか、探したのだが、少し進んだところで、洞窟の壁が崩れて塞がってしまっていた。岩の間の僅かな隙間しかない。
魔法剣を最大の威力でぶつければ、岩の壁くらいは吹き飛ばすこともできそうだったが、そんなことをして洞窟が崩れたら元も子もない。
(自力で洞窟から出るのは無理か……ここで仲間を待つしか、ないかな……皆も無事だといいんだけど)
さて、そうなれば――どこまでここで耐えられるかという問題だ。
まず飲み水。これは荷物にある分だけでは、二日くらいしか持たない。
ジェスは自分の寝ていた辺りに、水が滴っていたことを思い出す。
それを集めようと、自分の着替えを、水が滴る辺りに置いておく。他に容器があればいいのだが、今はこの布が吸った水を絞るしかない。
あとは食べ物だが、手持ちは旅用の干し肉しかなかった。これでも少しずつ食べれば、何日かは持つが、それよりはこれを少しずつ餌にして、鼠などの小動物を罠にかけた方がいいだろう。幸い火起こしの道具もある。
荷物をあさりながら、あれこれと作業を始めたジェスを、竜は奇妙なものを見る目で見ていた。
(……妙な人間だ)
こちらの卵を命がけで守ったかと思うと――このような状況でも、落ち着いた様子でやるべき事をやっている。
(しばらく目を覚まさなかったが、この分なら、数日放っておいても大丈夫そうだ)
もうしばらくすれば、卵は孵るだろうという予感が竜にはあった。卵は絶えず振動し、中から新しい命の存在を伝えてくる。色々とあったが、卵は元気なようだった。
この人間が、あそこで卵を咄嗟に守らなければ、崖が崩れた時に、卵は岩にぶつかって死んでいただろうし、そもそも彼らが止めなければ、自分達を狙って襲い掛かってきた人間に、自分と卵は殺されていたかもしれない。
それくらいのことは、竜も理解している。
だから竜は、卵が無事に孵れば、この人間を連れてこの穴倉から出るつもりでいたのだが――どうにもこの人間は、あの金髪の娘と違い、自分の言葉を解さないらしい。
まあ、別に口で説明してやる必要もないだろう。適当に引っ掴んで、人里近くに放り出せばいいのだし。
そう竜が考えていると――人間は何を考えたのか、自分に向かって、ある古代語を話しかけてきた。
『愛している』
『…………。』
人間の突然の愛の告白に、竜は面食らった。
「あれ、通じてない? 間違ってないと思うんだけどな……。これしか言葉、分からないんだけど……」
人間はぶつぶつと、竜の知らない言葉で何か言っている。竜は呆れて吠えた。
『そのような言葉、初対面の相手に使うものではないわ!』
「う、うわっ? あれ? 何か怒ってる? おかしいな、悪い意味の言葉じゃないはずなんだけどなあ……」
『何が言いたいのだ、お前は』
「お詫びと、お礼を言いたいだけなんだけどなあ……やっぱり、いきなり『好き』じゃ、伝わらないか……」
『我の知らない言葉で話すな!』
「何か分からないけど、ごめんなさい!」
竜の吠える声に――近くの鳥が、怯えて逃げた。