110:憎しみの先
「!」
卵を抱えたまま、ジェスは崖下へと投げ出された。
崩れた石が、いくつも共に落ちてきた。
「ぐあっ!」
それらはジェスの卵を抱く腕や頭に容赦なくぶつかる。巨大な岩が、ゴロリと転がってくるのが見えた。
(あれにぶつかれば――死ぬ!)
咄嗟にジェスは、足を突き出して、自分のすぐ傍にある、崖の斜面を力一杯蹴った。足首に激しい痛みが走る。
しかし、蹴った反動で、ジェスと卵が落ちていく軌道がほんの少し変わる。そのすぐ横を、岩がかすめて落ちていった。さっと血の気が引く。
ジェスが落ちたのは、幸が不幸か、真っ直ぐ壁のように切り立っている、山の西側だった。だから、崖から落ちたジェスは、山の岩盤に叩きつけられることもなく――どこまでも真っ直ぐ落下した。
目を開けることもできない程の風が下から吹き付ける。落下の速度に耐えられず、ジェスは意識を失った。
緑竜は、高い声で鳴くと、その場から素早く飛び去る。
「ジェスさん!」
崩れた崖の下を覗こうとするアイリスを、マリラは、自分もそうしたい衝動を抑えて、必死に掴んで止める。火薬の爆発はまだ続いている。崩れかけの崖に今近付けば、アイリスまで落ちるかもしれない。
やがて、爆発が止み、崖崩れも落ち着いた時――ライは、拳を地面に強く叩きつけた。
「くそっ……!」
この高さから落ちれば――まず助からない。
マリラもアイリスも、その場に座り込んだまま震えていた。
後ろを見れば、ワンス、ニケ、ドラドが転がっていた。呻き声を上げているところを見れば、死んではいないらしい。爆発で飛んできた石でも当たったのかもしれない。
ジェスに剣を折られたその時と同じ姿勢で座り込んでいたエデルは――竜が去ったことを、理解し、呆けたようにぽつりと呟いた。
「何故……ジェスは、そこまでして、竜を……」
それを聞き、ライは激高してエデルの胸倉を掴んだ。
「そもそも! お前らのせいだろうが――!」
ライが食ってかかっても、エデルはされるがままだった。
「……そうだな、竜を殺そうとしたのは事実だ。山が崩れたのも私達のしたことだ」
何もかもどうでもいいというように、エデルは力なく言った。
「憎いなら殺せばいい」
「……!」
「竜を殺そうと――強さを求めたのに、このザマだ」
その様子に、ライはカッとなったが、マリラが、ライの拳を掴んで止めた。マリラもまた、強い感情のこもった瞳でエデルを見たが、ライに首を振って見せる。
「マリラ、……こいつは!」
「……違う」
マリラはそう言って、エデルを掴むライの手を、外からそっと握って、離すように促す。
唇を噛んだままのマリラも、同じ気持ちのはずだった。そのマリラに止められれば、ライも手を放すしかなくなる。
「エデル」
マリラは、ライとエデルの間に割って入り、エデルを正面から見据えると――右手を振り上げた。
パン、と乾いた音が響く。
「……」
マリラは、エデルの頬を、平手打ちしていた。
エデルの美しい顔は、しっかりと赤くなっていたが――それでも、たかが女の力の平手打ちだ。エデルは自嘲めいた顔を浮かべる。
「それで許すというのか、仲間が死んだのに」
「許すわけじゃない。だけど、ジェスのしたことを、踏みにじるわけにはいかない」
「何、を……」
「分からないの!」
マリラはほとんど叫ぶように言った。
「何でジェスが貴女と、あんな戦い方をしたと思っているのよ! 私が魔法で貴女を眠らせることだってできた! 四人で一気にかかることもできた! それでもああして、ジェスが剣で貴女を止めようとしたのは――貴女を、助けようとしていたからじゃない!」
竜を殺そうとし、それを阻むライやアイリスまでも斬ろうとしたエデル。
狂気に囚われたエデルをその場だけ抑え込んだとしても、その剣の強さがある限り、どこかでまた、罪を重ね続ける。
それをジェスは、止めようとした。
「強い剣士は……剣を交わせば、相手の心のうちが分かる……」
ライは、そう聞いたことがある。
「ジェスは、……エデルの心を救おうとしたのか……」
本当に、どこまで。
どこまでお人好しなんだ。
アイリスは、立ち上がった。
そして、祈りを捧げると――振り向いた。
「……マリラさん、ライさん、行きましょう」
アイリスの水色の髪が、風に流れる。
「アイリス……?」
「ジェスさんは、きっと生きています」
そう言い放つアイリスに、マリラは、言葉が出なかった。
この高さから落ちたのだ。助かるはずがない。
「だけど……」
「諦めちゃ、駄目なんです――私、この目で見るまで諦めません」
そう言うアイリスの瞳には、強い光が宿っていた。
目の前の現実から逃げているのではない、決意を込めた、強い瞳を、ライとマリラは受け止めた。
「……。ああ、そうだな」
ライは、空を仰いだ。
「俺たちの依頼は、竜と卵を守ることだ。ジェスが体張って依頼を請けている途中で、俺たちだけ投げ出すわけには――」
「――いかない、わね」
マリラは、震える声で答えた。そのマリラの背を、ライがそっと支える。アイリスも二人の所に駆け寄り、頷く。
「そいつら起こして、山から下りてできるだけ遠くに逃げることだな。もし、竜の卵が割れていたら――竜はお前らを殺しにくるはずだ。卵を温めていない、全力の竜に、あんな攻撃は効かないぜ」
そう言い残し、三人は、山を下りていく。山を下りて西側に回り、仲間を探しに向かうと。
その様子を――エデルは呆然と見ていた。
なんて――なんて強い。
自分の持っている強さなど――強い風の前では、吹けば飛んでしまうようなものではないか。
彼らにあって、自分にないもの。
(仲間が――いるからなのか)
一人佇むエデルの赤い髪が、風に吹かれてたなびいた。