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桜の樹になろう

作者: 三塚未尋

 僕が彼女に惹かれた理由は、ひとえに、彼女の堂々とした立ち姿にあった。

 ある年の春……いつものように、暇に任せて公園を散策していると、敷地を囲うように植えられた緑の木々の中に、彼女が立っていることに初めて気づいた。

 周りの樹は緑の葉でできた傘を差しているのに、彼女を覆う色だけが、眼にも鮮やかな桃色だった。公園の木々の中でぽつんと浮いた存在である彼女は、それなのに恥ずかしがりもせずに、豊満な体をピンと伸ばして、春の日差しを一身に浴びて、楽しんでいた。

 彼女のあの姿に、僕は息が苦しくなるほどの憧憬を感じた。自分とは別種のものへ変わりたいという、変身願望と言ってもいい。それはつまり、自己否定であり、自己嫌悪の表れに他ならない。

 僕は、僕自身が大嫌いだった。

 なに一つとして取り得のない自分……。

 容姿が優れているわけでもなく、人当たりのいい、他人から好感を持たれる性格でもない。なにか特定の分野に対して、幅広い知識を持っているとも言えない。

 褒める部分が、どこにも見当たらない僕……。

 かえって、悪い部分のほうが探しやすい。

 物心ついた頃には、周囲の人間と上手に付き合えないようになっていた。他人に対して上手に自分を表現できなくて、いつも相手の気分を害さぬよう、言動には気をつけているつもりだった。たとえそれが、自分の本心とは正反対のものであっても。だから僕に話しかけてくれる人はいたけど、彼らの相手をしていた僕は、本物の僕じゃない。無個性の仮面をかぶった、ちっぽけな人間だ。

 いつも僕は周りの人たちとズレていた。僕という個人と僕以外の世界の間には、深くて暗い溝か、決して乗り越えられない分厚い壁が存在していた。

 彼女と出会うまでにも、何回か、僕は溶け込もうと努力した。世界……みんなの、輪の中に。

 僕にとって世界に溶け込むということは、世界に受け入れられるということと同義だった。だから僕の行なったことは、まったく全て、すでに人に認められている、どこかの誰かの真似事に過ぎなかった。

 社会的に賞賛される努力ばかりではない。

 他人から高評価を得るために、聖人のように、自分の気持ちを押し殺して、周りに奉仕しようとした。あるいは他人から蔑まれるために、無知な子どものように、自分勝手な行いを働こうとした。

 ……でも、結局、僕はどれも最後まで、やり遂げることができなかった。

 純粋に滅私奉公して生きるために、自分を捨てるなんてことはできなかった。反対に、他人を傷つければ、僕自身にも痛みが走った。

 善人になるには自分が大事すぎた。

 悪人になるには他人が大事すぎた。

 良い人間にも悪い人間にも、なりきれない。

 何にもなれないまま、僕はいつしか、自分のそんな性質を呪うようになっていた。そうして長い間、僕は相変わらず世界から一人、浮いたまま生きてきた。

 今にして思えば、僕はずっと……どこかがおかしかったのだ。体は五体満足だけど、頭の一部分――あるいは全体――が狂っていたに違いない。だから僕は、他人と同じように振る舞えなかったのだ。喜怒哀楽は、他人の持ち物でしかなかった。

 きっと、そんな僕だから、彼女に憧れを抱いたのだろう。

 僕と違って、堂々と生きている彼女。

 公園に一本だけ立っている、桜の樹……。

 初めて彼女に出会ってから、毎日、僕は彼女のもとを訪れた。朱色の花弁を咲かせていなくても、彼女の美しさは変わらない。彼女を見ることが僕の日課になった。そしてすぐ、一日の終わりに彼女に話しかけることが、また一つ、新たな日課になっていた。

 もちろん、相手が人間ではないことを僕は理解していた。人語を解さず、決して僕の言葉に反応してくれないことも、知っていた。それでも彼女に言葉を投げかけていると、気分が徐々に楽になっていった。

 周囲の人間の言動や、僕自身に降りかかってきた出来事……。最初の頃、そういう僕の話を、彼女は黙って聞いていた。しかしある日、返事をしてくれるようになった。桜の樹が普通の人間――僕がそう呼ばれていいのかは判らないが――と話すようになったのだ。不思議なこともあるものだなぁ、と思ったけれど、決して不気味ではなかった。むしろ嬉しいとさえ思った。彼女は逃げもせず、ドッシリと地面に根を張って、僕の話を全て聞いてくれた。

 彼女は話の最中、意見を言ってくれたり、慰めたりしてくれる。それが涙が出るほど幸せだったから、日に日に、僕と彼女が言葉を交わす時間は長くなっていった。夏場なんて、夜通し話し込むことも、しばしばあった。

 そうして、彼女と出会ってから迎える、何度目かの冬に……僕たちは一つになった。その頃の僕はもう生きているのがつらくて、四六時中、死んでしまいたいと思うようになっていた。振り返ってみると、うつ状態に陥っていたのだろう。実際、消えて無くなってしまいたいと、彼女に何度も漏らしていた。

 でも、死ぬのは恐い。だから、生きていたくない。相反する二つの欲求に板挟みにされて、僕の精神は削りカスを散らしながら、見る見るうちに磨り減っていた。

 そんなふうに、出会った頃にも増して後ろ向きな僕に、あの時、彼女は誘ってくれたのだ。

「じゃあ、わたしとひとつになる?」

 ――ひとつになる?

「そう。それで、あなたは死ぬけど、わたしと生きていくの。ずっと、ずっと……痛みなんてなくて、眠るように、お日様の光を浴びながら、永遠の時間の中で、あなたは生き続ける」

 それはどれほどの幸せだろうか。苦痛だらけのこの世界から隔絶され、彼女と二人きりで、生きていく。いつしか、僕は頷いていた。

 彼女が枝を揺らした。

「もう戻れないけど、それでもいいの?」

 ――きみと、ひとつになりたい。

 彼女はひときわ枝葉を震わせて、幹の最も太い部分を、左右に大きく割り開いてくれた。彼女の内側には、底知れぬ暗闇が広がっていた。僕は、身につけていた全てをその場で脱ぎ捨て、彼女の中へ踏み込み、全身をズブブッと埋没させた。

 開いていた彼女の幹が閉じると、僕の視界は真っ黒に塗りつぶされる。

 すぐに僕の腹部に鈍い痛みが走った。触ってみると、ごわついた触手が僕のへそのくぼみに突き刺さっていた。地面を這う彼女の逞しい根が、脳裏によぎった。僕の腹部の皮膚の下層を浸食していく、彼女の指……。

 痛みはすぐに消え、入れ替わりに、血液が体内循環の途中で、体外へと抜けていく感覚がした。すぐに僕には、彼女が僕の血を吸っているのだと察することができた。

 恐くはなかった。母の胎盤で眠っていた頃という、僕という人間の原始の時代を、想起させられる。

 彼女の内側は暖かく、濃密な液体に満ちていて、僕を安心させてくれた。また、彼女と繋がっているへそでは、僕から血液が抜けていくだけではなく、彼女の側からなにかドロドロした粘りけのある液状のものが入ってくるのが感じられた。同じものを補充する輸血とは違う。自分の物とは全く異なる体液が交代で注入されるのだ。それは恍惚すべき感覚以外の何物でもなかった。

 僕が、僕以外のなにかに変わっていく実感。

 待ち望んでいた未来。

 違う自分になれるという悦び。

 自分は何にもなりきれないと思っていた。けれど僕は、彼女の……桜の樹の一部になることができたのだ。

 あの日からずっと、僕は彼女とともに生きている。冬には二人で暖めあい、春になれば協力して、赤みを帯びた花びらを枝に咲かせる。そうやって僕らはこれから先、離れずに生きていく。

 何年、何十年……枯れてしまう時が来るまで。

昔、鬱屈としていたときに書いた一編です。

ハードディスクに埋もれていましたが、もったいないので、載っけてみました。

いま見返すと抽象的で、粗がたくさん見えてしまいます。

びっくりするぐらい、自分のための小説ですね。

今はこういうのを書きたいとは思わないので、あの頃よりは、前に進めたのでしょうね。

感想等ございましたら、是非ください。

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