転がり続けた石
雨が降っていた。
土の街道は泥の道に変わり、そこを歩く人間の足跡に、水溜りが出来る。
一人の男が、ただひとつの人間の水溜りを残して歩いている。
男は、自分の来た道について考える。
もし、俺の後ろを誰かが歩いてきて、付いてきてくれるのなら、俺の足跡の水溜りには、一体どんな人間の顔が映るのだろう。
そうして男はこうも考える。
俺も、誰かの足跡の水溜りに顔を映し、付いていっていたのだろうか。
捉えようのない観念が頭を去っては来たり、男は段々と、この雨のようにして泥の道へその思考を沈めていきそうだった。
何かが泥水を跳ね、それが男に降りかかる。幸いなことに、それは皮の雨合羽を少し洗っただけで、むしろ沈みつつある思考を引き戻した。泥水を跳ねた鉄の塊は、男の脇を通り過ぎ、錆付いた軋みをあげながら停まった。
もう何十年と使い古されているだろう、旧式のバス。車体は雨に洗われ、汚れた黒い筋を残し、下の方は泥が固まりになって張り付いている。何か引っかかっているのか、車体側面の扉がもたつきながら開く。
男は自分の懐について考える。しかし、バスの運賃程度でその懐に風穴が開くとも思えず、また次第に強くなる雨足にあって、心なしか内側に湿った染みが現れ始めた雨合羽も心細かった。豚皮の長靴は泥にも雨水にも強かったが、しかし肝心の足はひどくぬかるみ始めた地面に疲れていた。男はバスの入り口まで、泥に足元を危うくさせながら近づき、車窓の顔に目を走らせた。幾つかの顔は男を見ていたが、どれも特に関心はなさそうで、残りは疲れか、退屈からか眠っていた。
短いタラップに上がろうと、男が入り口脇の手すりを掴むと、老いてはいるが未だ幾十馬力の迫力を保つエンジンの振動が感じられた。男はそこで、自分が乗り込もうとしている鉄の塊に何か魂のような存在があるように感じられ、タラップの端で自分の皮長靴の泥を拭った。大海原で漂流しているところ、通りかかった鯨に乗せて貰う、そんな情景を男は思い浮かべた。
男が座る間もなく、バスは扉を閉じ、動き始めた。男は何故か、こういった旧式の自動車が発車する際の、エンジンが段々と力を振り絞っていく響きを気に入っていた。耳を心地よい響きに傾けつつ、男は自分の落ち着くべき席を探した。乗客はまばらに座り、避けようのない性のようにして、誰もが窓際に身を寄せていた。
エンジンは唸りを上げ、その振動が男の睫に滴った雨粒をぽつぽつと振り落とした。手すりに掴まったまま、自分の座るべき席を探す。乗客はまばらではあるが、二人掛けの席には全て先客があった。男はその内、穏やかそうな老人の隣へと向かった。泥の足跡がそれに続いた。
男は声を掛けようとしたが、老人がずっと車窓の方を向いているので、下手にそうすることをせず、雨合羽を脱いで彼の横に腰を下ろした。膝の上に置いた合羽からは雨が染み出して、その端から雫が床を打った。
「まがい物だな」
老人が車窓を見つめながら呟き、一呼吸置いてため息をついた。見た感じよりは若く、根の強い声だ。
「軍の放出品を買いなさい。次の町で、型落ちだがいい質のものが安く売ってる」
男はどう返していいかわからなかった。だから、とても簡単に「そうします」とだけ言った。
雨脚は変わりなく、時々激しくバスの屋根を乱打したり、また時にはさっと潮が引くようにして弱まったりした。男は、雨に打たれるのはそう好きではないが、屋根の下で、雨の降るのに耳を傾けるのは嫌いではなかった。バスは水溜りにはまりでもしない限り程ほどに揺れるだけで、ディーゼルだろうか、老いたエンジンもそこまで煩くはなかった。何より暖房が効いていたから、男はついさっきまで凍えだしそうだった両足を、座席の下にある暖房機に近づけ、うつらうつらしながら窓の外、雨に沈んだ田園地帯を眺めた。
道と草原とを分ける、古く、しかし白く見える石垣が一筋の筋となって男の脇を過ぎていく。雨はバスが速度を上げるにつれて上から下ではなく前から後ろへ降るようになり、そうしてそれをぼんやりと眺めるに連れ、男の意識は段々と薄まっていった。
目を開いているのか閉じているのか、男には定かではなかったが、目の前に開かれた真新しい風景は、まるで古い映写機械が映し出すようにその輪郭をひどくあやふやなものにしていた。風景は中心に近づくに従って明るく鮮明になり、またそこから遠のくに従って、暗く闇の闇の中へと溶け出していっていた。
風景の中には、一人の兵士が居た。そうして男には、不思議とその兵士に目をやるだけで、まるで知っていたかのようにあやふやな風景に立つこの一人の兵士の心情が分かるのだった。
兵士は、国と国の間に広がる丘陵地帯を守る辺境守備兵だった。彼が守るべきとされたのは、何の変哲も無い小さな丘から見渡すことが出来る範囲全てであった。そこには彼の持つ旧式の小銃以外には、前世紀の遺物たる速射砲くらいしかなかった。
それでも、兵士はそう孤独でも、不幸でもなかった。
彼には妻と二人の子供が居た。兵士は家族と共にこの辺境の丘陵地帯で、幸せに暮らしていた。
だが、ある日のことである。男が守備範囲を一望できる丘で、何時ものように妻の作った昼飯を食べていると、彼の目に映る景色の中に異変が起こった。幾つもの丘が重なり合って作る稜線の地平線に、小さな黒点が現れたのである。
兵士は、急いで唯一の相棒たる速射砲の元へと走った。
それまで息子に望遠鏡代わりに使わせる他なかった照準眼鏡を覗き込み、兵士は地平線を探った。
太陽は頭上高くにあり、地平線上の黒点はそれを反射して時折強く輝いた。表面の滑らかな金属で覆われた鉄の野獣、戦車だ。それが、今や段々と稜線の影から姿を現し、数を増している。兵士は更に目を凝らす。戦車は土煙を上げ、こちらへ迫っている。そしてその背には、まるで稚魚のように多くの兵士が乗っている。
兵士は冷や汗が頬を伝って顎から落ちようとするまでは呆然としていたが、それが滴るのを知って傍らの弾薬箱から牛乳瓶程の砲弾を取り出し、錆び掛けた砲の尾栓を開けた。装填し、今度は尾栓を閉じる。
兵士は照準眼鏡の十字を未だ遠い、豆粒のような戦車に合わせ、撃発レバーを引いた。
「しかし、弾は出なかった。火薬がしけっていたのさ。なんせ私が生まれるより前のものだったからね」
揺らめいていた男の意識を、老人の声が掴んだ。男は薄目に彼の方を見たが、その顔は変わらず車窓へと向けられていた。雨はいつの間にか止んでいたらしく、重苦しく雫を降らせていた雲には亀裂が走り、そこから晴れ間が覗いていた。
「逃げる他なかった。そうしなければ死んでいたさ。妻も子供も、私もね」
独り言だろうか、老人は続ける。男にはこれが、先ほどの不思議な風景と結びつくものなのかどうか、わからない。
「ずっと逃げてきたんだ。妻は死に、息子は二人とも、気付いたら何処かへ消えていた。逃げ続けるのが嫌になったんだろう」
バスは変わらない速度で走っていたが、揺れは大分ましになっていた。段々と道が整備されてきているらしい。つまり町か何かへ近づいているのだ。そうして暫く行くと、バスは徐々に速度を緩め、やがて道の脇に立つオリーブ色のコートを着込んだ大男の前で停まった。
大男はバスに乗り込むと、車内、いや乗客を一人一人丹念に見つめていった。そうして、何か合点がいったのか、老人と男の座る席を過ぎ、その後ろへと座った。大男は体こそ大きかったが、老人と同じくらい老けていた。
大男が老人の肩を、指先で軽くつついた。
「軍曹、何故戻ってきた」
それに、老人はなにも返さなかった。バスは軋みを上げて走り出し、徐々に速度を上げていく。
「敵前逃亡は重罪だ。例え戦う術が無くとも、兵士は戦い、死ななくてはならない。特に辺境守備兵は」
老人は何も言わなかった。やがて、バスはまた速度を緩め始めた。男が道の先を見ると、バスを待っているのか、いくつかの人影が見えた。
バスが停まり、そうして扉が軋みを上げるかどうかという時、老人は素早く席を立ち、入り口へ駆けた。大男もそれを追う。二人はバスを飛び出し、道と草原とを分ける石垣を登って駆けていった。男はそれにつられる様にしてバスを降り、また他の乗客も同じく二人を追った。
暫く行くと、老いた大男のオリーブ色の背が見え、近づいていくと、仰向けに倒れこんだ老人の姿があった。大男の方は苦しそうに息を荒げていたが、老人はそれとは反対に、消え入るように息を薄めていた。
「お前の言うとおりだ。ルーター。あそこで死ぬべきだった」
ため息をつくようにして老人が言った。そうして、もう彼は息をすることがなかった。
男は老人を見、そうして彼の開かれたままの目が何を見ているのか気になり、その視線の先を追った。だが、そこには何もなかった。それは空だった。凡そ殆どの人間の頭上にある、今や晴れ渡った空だけがそこにあった。そして男が振り返ると、もうそこには老人はなかった。ただ目を凝らしてみると、背の低い草の間に輝くものがあった。
男はそれを恐る恐る摘み、陽にかざしてみた。それは石ではあったが、整然と輝いている。小振りな黒曜の結石であった。転がり続け、角もとれて丸くなり、しかしだからこそもはや留まることの出来ない丸い結石である。これを坂に置いてみれば、その続く限り転がっていくだろう。誰もそれを留めるものがいないからだ。
「奴には、もう身寄りと言える相手はない。遠の昔に死んだか、去っていた。好きにしたまえ」
大男はそれだけ呟くように言うと、バスへ戻っていった。
男は、その黒曜の結石を自分の腰のポーチへと収め、バスへと戻った。再び軋みを上げ走り始めたバスから、辺りを眺めながら、男は逃げ続けた老人と、その小さな、丸くどこまでも転がっていきそうな結石のことを考えた。
終