お前なんかを好きなふりするの、大変だったよ
好評につき、連載版始めました。(注: 短編版とは展開が異なります。)
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ある春の日、太陽がちょうど上がりはじめた頃。
白い漆喰が塗られた壁の、小さな応接間にて。
「お前と、本当に俺が結婚すると思っていたのか?」
茶色の髪に緑色の瞳の青年の声が、部屋に響いた。
エミリアは凍りついた。
喉がカラカラになった。
目の前で足を組んで座る婚約者のはずだった青年が、嘲るようにエミリアのことを笑っていた。
エミリアの脳裏に、幼いときにダリオが田舎に来てくれた記憶が蘇る。
誕生日に秘密だよと言って、商会に飾られていた綺麗な石をくれたこと。
川沿いで一緒に話していたとき、結婚しようと指切りをしたあの瞬間。
そっと夕陽を見ながら握っていた手の温もり。
「……ダリオ様、どういうことなのですか? 昔、好きと言ってくれたのは、婚約してくださったのは——」
「はあ? お前本当に馬鹿だな?」
やれやれ。そう言わんばかりに首を振るダリオ。
エミリアは、膝の上の手をぎゅっと握りしめた。
「誰がお前みたいな魔物臭い田舎者を、しかも魔力なしの無能を好きになるんだよ。全部演技だっての」
そう言って、口を三日月の形に歪めた。
——全部演技。
あの日の手の温もりを思い出そうとしたけれど、なぜかうまく思い出せない。
「親父が機嫌をとれって言うから従ってきたけど、それも俺たちの親父は両方とも死んだから、もう終わり」
終わり。その言葉がやけに耳に響く。
ダリオがドアを指差す。
「じゃあ、そういうことだから。さっさと荷物持って失せろ」
エミリアは慌てて言葉を振り絞る。
「そ、そんな。少しだけ待ってください。お父様同士が決めた婚約ですし、この結婚のため家財を整理してやって来て——」
「知るか。親父たちはもう亡くなっている。それに、お前がどうなろうと俺の責任じゃない」
喉に何かが詰まったように言葉が出てこない。
そんなエミリアを見て、ダリオが口を開いた。
「いいか、魔力なしのクズ野郎。よく聞け」
低い声音が応接間に響いた。
「三割五分。この数字がわかるか?」
エミリアはダリオが何を言いたいのか察した。
口を閉じて、唇を噛み締める。
「お前の親父さんが死んで、最近お前が追加で請求するようになった金だ」
「それは、今までのハンターさんが亡くなり、他から材料を仕入れるようになったからで——」
「嘘をつくな!」
ダリオの怒声が部屋に響いた。
「そもそも魔力がないお前が、満足に魔物を解体できるはずがないんだ。筋力強化魔法も使えなければ、冷却魔法も使えない。そんなお前が鮮度を保ったまま解体できるはずがない」
「以前説明したとおり——」
「戯言を聞く気はない。どうせ他の解体屋にでも外注するようになったから費用が上がったんだろう。この詐欺師め! お前と関わっている解体屋とは今後は取引しないからな! この話は他の商会にもしておく。もう魔物解体屋として働けると思うな」
唾を飛ばしながら、怒りで顔を真っ赤にするダリオ。
その剣幕にエミリアは思わず俯いてしまう。
「おや? 泣けば許されると思っているのか?」
ダリオが嘲るような調子で笑った。
エミリアは、俯いたまま手に込めた力をさらに強める。
このままじゃいけない。そう思って、なんとか言葉を振り絞る。
「……私は、この先どうやって暮らしていけば?」
「そうだな。俺の言うことをなんでも聞くなら、個人的に雇ってやるぞ。昼も、そしてもちろん夜も絶対服従だ」
思わず顔を上げると、足の方からゆっくりと全身を舐め回すように見てくるダリオがいた。
エミリアの背筋に悪寒が走った。
「なんなら、今雇ってやってもいいぞ。ほら、それなら早速服を脱げ」
ニヤニヤしながらダリオが告げる。
エミリアは反射的に立ち上がった。
「お、お断りします」
「……そうか。じゃあさっさと失せろ」
心底面白くないといった調子でダリオがエミリアに告げた。
♦︎
「さあ、さっさと出ていけ」
ダリオの商会の建物から、追い立てられるエミリア。
「じゃあな……いや、ちょっと待て」
何か考える仕草をした後、ダリオが言った。
「そうだ、最後に言いたいことがあった」
「……なんでしょうか?」
もしかしたら、考え直してくれたのかもしれない。
少しばかりの期待を込めて、エミリアはダリオを見つめる。
昔ダリオと指切りをした時の体温が思い出せたような気がした。
ダリオが醜悪な笑みを浮かべた。
「魔力なしのクズのお前なんかを好きなフリするの、大変だったよ」
エミリアの目の前で、扉がバタンと閉じた。
ダリオの体温は再び消えた。
エミリアはその場で固まってしまった。
「わざわざ婚約のために、家だけでなく、解体用の機材なども売り渡して来たって言うのに、この仕打ち……?」
瞳には、気がつかないうちに涙が浮かぶ。
慌てて涙を拭う。けれど涙は止まらない。
通行人の目が痛かったが、それでもしばらくその場から動けなかった。
落ち着いてきた頃、エミリアは両手で頬を叩いた。
「……とにかく、ここにはいられないわ。一旦宿に戻りましょう」
エミリアは近場の宿からダリオの商会にやってきていた。
引きずるように足を動かして、王都の大通りを歩き始めた。
宿屋は、商会から少し歩いたところにあった。
茶色の煉瓦造りで、黒い三角形の屋根に、大きめの煙突がつけられているこぢんまりとしたクラークという宿屋だ。
扉を押す。
ちりーん。
呼び鈴が鳴った。
「はい、いらっしゃーい! すみません、まだ昼営業はしてなくて」
汚れたエプロンをつけ忙しなく動いていた、体格が良く気立ての良さそうな女将さんが出てきた。
「誰かと思ったら宿泊客のお嬢ちゃんかい。どうしたんだい? すごく暗い顔をしているけど」
エミリアの様子を見て、女将さんが動きを止めた。
「……すみません、なんでもありません」
「なんでもないって……ちょっと待ってな」
そう言って厨房の奥に消える。
少し経って、ガラスのグラスを持ってきた。
「これ、飲みな」
「いえ、結構です」
「サービスさ」
そう言って椅子の一つに座る。手でエミリアにも座るように示す。
エミリアは少し迷ったが座ることにした。
「飲みな」
そう言って女将がグラスをエミリアの手元に寄せる。
「……ありがとうございます。いただきます」
「それで、何があったんだい?」
エミリアは話すか迷った。
けど、この先どうすればいいのかもわからない。
それなら、今の気持ちを吐き出したかった。
「実は……」
ことのあらましを話すと、女将は口をぽかんと開けた。
そして聞き終わった次の瞬間、拳でテーブルを思いっきり叩いた。
「なんだい、そのクズは! 私が代わりにぶん殴りにいきたいくらいだね!」
「い、いえ良いんです。私に良くないところがあったからだと思うので。ほら、こんな地味な女ですし」
エミリアの髪の毛は、この世界では珍しい黒色だった。小さい時から、地味だと揶揄われていた。また魔物の解体で忙しいせいで手入れのされていないその髪の毛は、ボサボサでお世辞にも綺麗とは言えない。
「顔は整っているから、磨けば輝くと思うんだけどねえ」
「いえ、私なんて……」
「それより、これからどうするんだい? あのダリオのとこが、取引先だったんだろ?」
「はい、その通りです。取引のほとんど全てがダリオ様の商会、いえダリオの商会とだったので、取引先も無くなっちゃいました」
エミリアは力無く笑った。
「そうかい……」
女将が考え込む顔をした。
「あんた、料理はできるかい?」
「料理……ですか? 簡単なものなら。解体は得意なのですが、料理は自己流です」
「そうかい、解体ができるのかい! 女の子で解体ができるのは珍しいね。うちではホーンラビットくらいしか解体しないけど、ちょっと試しにうちで働いてみるかい?」
「え……?」
エミリアは目を大きく開いた。
女将さんがにっこりと笑っている。
「とりあえず一ヶ月解体と料理を手伝ってもらえるかい。その間の給金は出せないが、まかないを三食出すし、その間は宿の一室に泊まっていいよ」
「……良いのですか?」
「ああ、他人事として切り捨てるには、事情を聴きすぎてしまったしね。その代わり、働きがイマイチだったら、悪いけど一ヶ月で出ていってもらうよ」
「あ、ありがとうございます!」
エミリアは立ち上がって、勢いよく頭を下げた。
先ほどとは別の意味で、涙が溢れそうだった。
♦︎
「じゃあ早速だけど、これやってもらえるかい?」
目の前には、ツノが頭部についた兎、ホーンラビットの塊肉の山があった。
すでに皮は剥がれ、内臓は取られている。
「魔道具の冷蔵庫に入っているものも含めて十匹を処理して欲しい。昼までに、全ての前足と後ろ足、ロースを部位分けしておいてくれるかい?」
「分かりました」
「じゃあ私は各部屋の掃除などしておくから、またくるね」
そう言って女将さんは、厨房から出て行った。
箒で床をはく音が聞こえてきた。
エミリアは目の前のホーンラビットの肉を見る。茶褐色の肉を触って状態を念入りに確かめる。
「血抜きはイマイチね……魔力処理に関しては、ほとんどされて無い。やりがいがあるわね」
肉の状態を確かめたエミリアは、まずは下処理からすることにした。
銀色に淡く光る包丁を取り出す。専用の魔鉄鋼を元に造られた、世界で一本だけの包丁だ。
まずは前足を解体する。
さくっ。肉に包丁が入る。すっと肉の筋に沿って引くように包丁を入れる。
何度か包丁を入れると、前足が取れた。
「ここからね」
エミリアはその次に、切り落とした前足を軽く撫でた。
エミリアには、この世界の普通の人間ならみんな持っている魔力がない。
そのため魔法が、全く使えない。
けれどその代わり、エミリアは魔力の流れを感じることができた。
手で触れることで、魔力の溜まっている箇所を感じ取る。
「ここね」
魔力が抜けるように、包丁で切り目を軽く入れる。
見た目に何も変化はない。けれどエミリアには分かった。
「よしっ!」
下手に切り口を入れると、口当たりが変わってしまう。
いかに小さな切り口で、肉を傷めずに魔力を放出させるかが、解体屋の腕の見せ所だった。
エミリアは次々と、肉を解体しつつ、魔力が抜けるように切り口を入れていった。
しばらくして。
「できたかい?」
「はい、全てできました!」
エミリアが解体した肉は滞っていた魔力が抜けたことで、本来の美しい赤い色味をある程度取り戻していた。
「あら、こんなに色が良いなんて、今日の肉は当たりね。じゃあ、料理を手伝ってもらえる?」
「わかりました」
「うちのメニューは一つだけ。『ホーンラビットのバター焼き。焦がし玉ねぎと赤ワインのソース付き』だけよ。今からレシピを教えるから、それを再現してくれるかい?」
女将が、鉄のフライパンを手に取って魔道具のコンロに火をつける。
肉を並べて、焼き始める。
じゅわっ。肉が焼ける音がする。
「あら、今日の肉は香りも良いわね」
女将が不思議そうな顔をする。
肉に火が通り、表面に狐色の焼き色がついてきた。
「よし、バターを入れるよ」
バターの塊を、鉄のフライパンに入れる。
バターの芳醇な香りが広がる。
「ここで肉に溶かしたバターをかけるのがコツだよ」
「……はい!」
そうしてしばらくバターをかける。だんだんと肉に火が通っていく。
肉の上部を女将が押す。
「親指の付け根くらいの弾力になったら、取り出す」
別の鉄板に肉を乗っけた。
「蓋を置いて、少し休ませる」
エミリアは頷く。
「ここまで、わからないことはあったかい?」
「いえ、大丈夫です。これくらいなら、同時に何皿でも調理できそうです」
「それは、よかった。それにしても、今日の肉は随分と良い肉だね」
女将はにっこり笑った。
「じゃあ取り出すかい」
女将は蓋を取るとホーンラビットの肉を皿へ盛った。
「ここに置いてある、焦がし玉ねぎと赤ワインのソースをかけて、完成だからね!」
完成した。
すごく美味しそうだ。
「今は味見で少しだけ食べて、後で賄いとして食べようか」
エミリアは黙って頷く。
「そこにフォークがあるから、取ってくれるかい?」
「どうぞ」
「じゃあ食べようか」
女将が玉ねぎと肉をまとめて突き刺す。
フォークが肉に抵抗なくぶすりと突き刺さった。
肉汁が、押しつぶされた部分から、どんどんと溢れていく。
女将が少し驚いた表情をした。しかしすぐに元の表情に戻って、フォークを口元に運んだ。
「……」
口を動かす。しばらくそうやって噛んで、女将はやっと飲み込んだ。
黙ってフォークを置く。
「あの、どうしました? お肉、うまく処理できていなかったでしょうか?」
エミリアの肩を女将が掴んだ。
「あんた、どうやったんだい?」
「え?」
「美味しい! 仕入れたのは、いつもの肉のはずだった。こんなに柔らかく、肉の旨みがガツンとくるなんて、どんなに良い状態の肉でもありえない! 何かやっただろう!」
肩を掴んで思いっきり揺らされる。
「あ、あの、ま、魔力処理が、さ、されていなかったので、しておいたくらいです」
肩を揺らす手がぴたりと止まった。
「魔力処理も、やってもらっているはずなんだけどね」
女将が額に皺を寄せる。
「魔力処理の技は秘伝になっていて業者によってやり方に差があるんです」
「そうなのかい! 何にせよ良かった。この調子で、夜も頼むよ!」
エミリアは黙って頷いた。
けど、心臓の鼓動が大きくなっていた。
こんな風に人から期待されるのは、必要とされるのは、いつぶりだろうか。
思わず笑みが浮かぶ。
その日、宿屋クラークに名物料理が誕生した。
誰もが言う。
あそこのホーンラビットの肉は、他とは違ってとても柔らかくジューシーだ。
一度食べたら、他の店のものはもう食べられない、と。
♦︎
そうして数週間が経った。
エミリアはまだ、宿屋クラークで働いていた。
宿屋クラークでは、昼食の時間が終わり、一人を残して客は帰っていた。
「お客さん、もう店じまいですよ」
料理の終わったエミリアは、掃除のために残っていた客に声をかけに行った。
青年が顔を上げる。サラサラとした金髪に青い目、長いまつ毛はとても魅力的で、エミリアは思わず見惚れてしまう。
「……お嬢さん、どうかしましたか?」
「すみません。ぼうっとしていました。お客様、申し訳ないのですが、もう店じまいなので退店いただけますか?」
青年が申し訳なさそうな顔をした。
「すみません、今出ますね」
「急かすようですみません。ゆっくりで大丈夫ですので、お願いします」
エミリアは、にっこりと笑った。青年もにっこりと笑う。
その瞬間だった。
ドンっ。宿の扉が乱暴に開けられる音がした。
振り返ると、そこにはダリオがいた。その後ろには、剣を帯びているガラの悪い男が二人いる。
「おい! 探したぞ!」
「……え?」
エミリアの口がポカンと開き、体が固まった。
それを見てダリオは舌打ちをする。
「お前がいなくなったせいで、売り上げが十分の一以下になった。今までどんな魔法を使って、安く済ませていたのかわからないが、戻ってこい。今なら以前と同じ値段で買い取ってやる」
その傲慢な要求に驚いたエミリアは言葉が出なかった。
その沈黙を肯定と理解したのだろう。
「おい、お前ら連れて行け。丁重に扱うんだぞ」
ダリオの言葉を聞いた、下卑た目の荒くれ者のような男たちが前に出た。
「へへ、お嬢ちゃん。黙って従えば痛い目には遭わせないからよう。こっちにおいで」
思わずエミリアは一歩後ろに下がる。
それを見て、男たちの下卑た目が細められる。
「ダリオ様。このお嬢ちゃんが素直に言うことを聞くように、少しばかり教育しても良いですかい?」
「ああ、体をあまり傷つけるのは困るが、精神的にはどれだけ痛めつけてもかまわん」
「わかりやした」
男たちがいやらしく笑った。
エミリアはもう一歩後ろに下がった。
机に触れた。逃げられない。そう思った瞬間だった。
「知り合いかと思って黙って聞いていたが、ただのクズだったとは」
声のする方を見たら、先ほどの青年だった。
「なんだあ? お前、痛い目見たくなかったら、大人しくしとけ」
青年は細身の体で身長はそれなりに高いものの、目の前のチンピラたちのように筋肉隆々というわけではなかった。
「あの、ご迷惑をおかけするわけにいきません。お心だけで結構です」
泣きそうになるのを我慢しながら、エミリアは青年に声をかける。
青年はにっこりと笑った。
「大丈夫ですよ。この手の屑には慣れています」
「え?」
「なんだと!」
二人のうち一人が青年に掴み掛かろうと、突進してきた。
エミリアは思わず息を飲み込んだ。
「遅い」
次の瞬間、青年が横蹴りを繰り出し、チンピラの一人は吹っ飛んでいった。
がしゃん。
片付けのため置かれていた椅子と机の山にぶつかり埋もれるチンピラ。
エミリアは呆気に取られた。
ダリオたちの方を見ると、ダリオたちも呆然として口を開いていた。
慌てて我に戻るダリオたち。
「てめえ! 何しやがる!」
「何かしてきたのはあなたたちでは?」
「もう容赦しねえ。覚悟しろ」
残されたもう一人の少し背が低いチンピラが剣を抜く。
剣の鈍い鉛色にエミリアの目線が吸い寄せられる。
人を殺せる凶器。
青年は避ける様子を見せない。
「危ないっ」
刃が触れるその瞬間、青年は背を仰け反らせ紙一重で避けた。
「うおっ」
剣が空振り、勢い余って体勢が崩れる。
その瞬間、顎に思いっきり青年の拳が叩き込まれた。
背中から倒れるチンピラ。
「な、何だお前は?」
「ただの通りすがりの冒険者だが?」
「な、舐めやがって」
ダリオが青年に殴りかかる。
青年はダリオの拳をすっと避け、首の後ろに手刀を叩き込んだ。
顔から地面に倒れ、大の字に横たわるダリオ。
「へぎゅ」
「ふう」
青年が準備体操が終わったかのように、軽く伸びをする。
「何の騒ぎだい!」
エミリアが呆然としていると、女将さんがやってきた。直前まで洗濯をしていたのだろう、手が濡れている。
ガラの悪い男たちとダリオが床に倒れているのを見て、目を丸くしている。
「あ、お前ら、覚えてろよ!」
ダリオたちがヨロヨロと立ち上がる。
「おいっ! 今日のところは引くぞ」
ダリオがチンピラに命令し、そしてそのまま開いている扉から逃げるように出ていった。
「これは、どういうことだい?」
部屋の惨状を見て、女将さんが思わず呟く。
「すみません、私が悪いんです……」
エミリアは今見た出来事を話し始めた。
「そうかい……事情は分かった。あいつらが逆恨みして襲撃してきたんだね。辛かったろう」
「いえ……」
そんな言葉と裏腹に、エミリアの頬を涙が伝った。
思わず顔を手で覆う。
その瞬間、体がぎゅっと包まれたのを感じた。
気がつくと女将さんが、自分のことを抱きしめていた。
背中を優しく撫でられ、エミリアは涙が止まらなくなった。
そうしてしばらく泣いた後。
「きっと一回ではなく、これからこいつらは何回もこの店に来ると思います。このままじゃ迷惑をかけてしまうと思います……」
そんなエミリアの声を聞いた女将さんは、口を開いた。
けど、何も言わず、そのまま閉じた。
苦々しく申し訳なさそうな顔をしている。
エミリアも黙ってしまった。
どうすればいいかわからなかった。
「じゃあ、うちに来ますか?」
その時、横で聞いていた青年が突然聞いてきた。
「え……?」
エミリアは思わず目を丸くした。
青年がにっこりと笑った。
「うちのギルドマスターに言えば、ギルドに泊まることができると思います。ギルドなので、下手な輩が喧嘩を売ってくるのは難しくなりますし、何より冒険者たちに守ってもらえると思います」
エミリアはぽかんとした。
「えっと、あなたはどなたでしょうか? また、どうしてそんなことをしてくださるのですか?」
青年はにっこりと笑った。
「ここの宿屋とご飯には昔からお世話になっているので。何か恩返しできるなら、したいのです」
女将さんの方を見ると、女将さんがエミリアの方に頷く。
「確かに、昔から来てくださっている方だね」
エミリアは青年の方を見た。
「すぐに決めるのは難しいと思うので、どうでしょう? 一回僕たちのギルドに来てみて、それから考えるというのは?」
エミリアは口を開いた。しかしすぐに閉じた。
「エミリア、大丈夫。この方は有名だよ」
女将さんがこそっと耳打ちしてきた。
エミリアは青年の方をもう一度見た。
笑顔を浮かべているその顔はとてもかっこいい……ではなかった、信用できそうだった。
「……まずは、見させていただいても良いでしょうか?」
「もちろん大丈夫ですよ。僕の名前はアベルです。冒険者をやっています」
そう言って、アベルは右手を差し出した。
エミリアはおずおずと握り返した。
これがエミリアとA級冒険者であるアベルとの出会いだった。
世界最高の解体職人としてエミリアの名が広まるきっかけであり、愛される幸せをエミリアが掴み取る最初の一歩。
そのことをエミリアはまだ知らない。
好評につき、連載版始めました。(注: 短編版とは展開が異なります。)
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