『記憶を消す薬湯を飲まされ続けた私、ある日「忘れられない男」に出会ってしまう~愛した記憶だけが消えないのは、きっとバグじゃない~』
「——蓮くん」
目が覚めた瞬間、知らない名前が唇からこぼれ落ちた。
誰。
誰なの、それ。
私は布団の中で硬直したまま、自分の口から出た音の残響を追いかける。蓮。れん。二文字の、男の名前。胸の奥がきゅうと締め付けられて、理由もなく涙が滲んだ。
おかしい。
私は昨日、何をしていた?
……思い出せない。いつものことだ。
障子の向こうから差し込む朝日が、畳の上に淡い格子模様を落としている。見慣れた自室。見慣れた天井。見慣れた、空っぽの目覚め。
「お嬢様、おはようございます」
襖が音もなく開いて、栗色の髪をお団子にまとめた女性が顔を覗かせた。楓。私の侍女で、たぶん——たぶん、友人と呼んでいい人。たぶん、というのは、私が彼女との思い出をほとんど覚えていないからだ。
「今日のお花、綺麗ですよ」
楓は毎朝、同じ言葉を言う。そのことだけは、なぜか知っている。
「……ありがとう」
私は布団から身を起こしながら、無意識に自分の手首を握った。蓮。その名前が頭の中でこだまする。知らない名前のはずなのに、どうしてこんなに——懐かしいんだろう。
「お嬢様? どうかなさいましたか?」
「ううん、何でもない」
どうせ明日には忘れるし。
いつもの諦めが、今日はなぜか苦い。
***
朝餉の席には、義母——静香様が既に座っていた。白髪交じりの黒髪を上品に結い上げ、細い目で私を値踏みするように見つめる。その視線にはもう慣れた。慣れたというか、毎日リセットされるから、慣れるという概念自体がおかしいのだけれど。
「雪乃。顔色が悪いわね」
「申し訳ございません」
「昨夜の薬湯、きちんと飲んだの?」
「はい、お義母様」
薬湯。毎晩、母が——今は義母が淹れてくれる、私の体のための薬。名門薬師の家に生まれた私は体が弱いから、幼い頃からずっと飲み続けている。そう、教えられてきた。
「ならいいわ。あなたのためを思って言っているのよ」
「……はい」
義母の言葉に、私は人形のように頷く。疑問を持たない。逆らわない。言われたことだけをする。それが氷高家の娘としての正しい在り方だと、誰かに——誰だったかは覚えていないけれど——教え込まれた。
「そうそう、今日は冬嗣が話があるそうよ。午後、書斎にいらっしゃい」
冬嗣。義兄の名前を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
この反応の理由も、私は覚えていない。ただ体が、記憶よりも先に怯えを示す。
「かしこまりました」
私は箸を置き、深く頭を下げた。
***
書斎の扉を開けると、銀灰色の髪をオールバックに撫でつけた男が振り返った。義兄、氷高冬嗣。社交界では『氷の貴公子』と呼ばれる完璧な美貌。その黒い瞳が私を捉えた瞬間、獲物を見つけた蛇のような光が宿る。
「来たか、雪乃」
「お呼びでしょうか、お義兄様」
「ああ。良い知らせだ」
冬嗣は穏やかに微笑んだ。その笑顔が、なぜか怖い。いつも怖いと感じるのに、その理由を翌朝には忘れている。
「お前の婚約が決まった」
「……婚約」
「鷹宮侯爵家の嫡男、悠真殿だ。来月には顔合わせがある」
婚約。結婚。私が、誰かの妻になる。
それを聞いても、心は凪いだ水面のように静かだった。喜びも悲しみもない。だって私には、恋をした記憶がない。友人と笑い合った記憶もない。誰かを大切に思った記憶さえ——。
『蓮くん』
不意に、朝の声が蘇った。
「……っ」
「どうした?」
「いえ、何でも」
「顔色が悪いな。薬湯はきちんと飲んでいるか?」
「はい」
「なら良い」
冬嗣が一歩近づいてきた。長身の影が私を覆う。細い指が私の顎を持ち上げ、顔を覗き込んだ。
「お前には選択肢はない。余計なことを考えるな」
「……はい、お義兄様」
「良い子だ」
その言葉が褒め言葉ではないことくらい、空っぽの私にもわかる。
書斎を出て、長い廊下を歩く。自分の足音だけが響く。私は立ち止まり、窓の外を見た。庭の向こうに、古い蔵が見える。
なぜか、そこに行かなければならない気がした。
蓮。
その名前が、私を呼んでいる気がした。
***
蔵の扉は重かった。
錆びた蝶番が悲鳴を上げ、埃が舞い上がる。むせ返るような古い空気。長いこと誰も入っていなかったのだろう、床には私の足跡だけが刻まれていく。
なぜここに来たのか、自分でもわからない。ただ胸の奥の、消えない痛みに導かれるようにして。
「……何これ」
蔵の奥、埃をかぶった箱の山。その一つを開けると、古い巻物や書物に混じって、一冊の小さな帳面が出てきた。
表紙は色褪せた桜色。角は擦り切れて、何度も読み返された形跡がある。
——これ、私の字だ。
震える手でページを開いた。
『五月十二日
きょう、おかあさまがおくすりをくれた。にがかったけど、がまんしてのんだ』
幼い頃の私の日記。存在すら覚えていなかった。読み進めるうちに、視界が滲んでいく。
『六月三日
れんくんとあそんだ。れんくんはやさしい。わたしがころんだとき、なでなでしてくれた』
蓮くん。
今朝、無意識に口にした名前。
『七月十五日
れんくんがいなくなっちゃった。おとうさまたちがいなくなったから、とおくにいくんだって。やだやだやだ。わすれたくない』
『七月十六日
きのうのこと、おぼえてない。おかしいな。おにわであそんだきおく、ない。でも——でもね、ゆびがおぼえてる。だれかと、ゆびきりした。ぜったいわすれないって』
『七月二十日
おかあさまのおくすり、のむとわすれちゃうのかも。でもふしぎ。れんくんのことだけ、わすれられない。なんでだろう』
最後のページには、震える字でこう書いてあった。
『れんくんと やくそくした
ぜったい わすれない
わすれたら わたしじゃなくなっちゃうから』
——嘘。
帳面を握りしめたまま、私は膝から崩れ落ちた。
薬湯は、体のため?
違う。違う違う違う。
私から記憶を——大切な誰かを——奪うための薬だったの?
「れん、くん……」
涙が止まらなかった。思い出せない。顔も、声も、何一つ思い出せない。なのに胸が張り裂けそうに痛い。この十数年、毎晩毎晩、私は大切な人を忘れさせられ続けてきた。
友人ができなかったのは、私が空っぽだからじゃない。
空っぽにさせられていたんだ。
「酷い……こんなの、酷いよ……」
初めて、自分のために泣いた。
空っぽの器だと思っていた私の中に、消えない感情が確かにあった。
***
蔵を出たのは、もう夕暮れ時だった。
泣き腫らした目を袖で隠しながら屋敷へ戻ろうとして——ふと、思い立った。
このまま帰ったら、また薬湯を飲まされる。
また、忘れてしまう。
この日記を見つけたことも、蓮くんという名前も、全部。
嫌だ。
生まれて初めて、心の底からそう思った。
私は帳面を懐に隠し、屋敷の裏口からそっと抜け出した。行く当てなんてない。ただ、今夜だけは帰りたくなかった。
夕闘の街は、橙色の光に染まっていた。行き交う人々の顔が、どれも知らない。当たり前だ。私には友人がいない。いたとしても、覚えていない。
俯いたまま歩いていた私は、角を曲がったところで——
どん、と誰かにぶつかった。
「っ——」
「……悪い」
低い声。無造作に束ねた濃紺の髪。顔を上げた私の視界に、切れ長の琥珀色の瞳が飛び込んできた。
——息が、止まった。
「大丈夫か?」
「……あ」
知らない顔。知らない声。なのに、なのに——
「あなた……」
胸が締め付けられる。涙が勝手に溢れ出す。どうして。この人のこと、知らないはずなのに。会ったことないはずなのに。
「おい、なんで泣いて……」
「わから、ない……わからないの、なんで、あなたを見ると、こんなに……」
青年の琥珀色の瞳が、大きく見開かれた。
「——お前」
彼が私の顔を覗き込む。その瞬間、彼の表情が凍りついた。
「……まさか。雪乃、なのか?」
名前を呼ばれた瞬間、体中を電流が駆け抜けた。
「なんで、私の名前……」
「覚えてないのか。俺のこと」
「ごめんなさい、私、記憶が……」
「記憶?」
「毎日、薬湯を飲まされてて……前の日のことが、思い出せなくて……」
青年の顔が、苦しげに歪んだ。
「……お前も、か」
「え?」
「俺も同じだ。毎日、何かを忘れてる。でも——」
彼が私の肩を掴んだ。強く、けれど優しく。
「お前のことだけは、何度消されても覚えてた」
「……え?」
「毎朝、知らない女の顔と名前が頭に浮かぶんだ。『雪乃』って。ずっと探してた。お前が誰なのか、なんで忘れられないのか」
夕日の中で、琥珀色の瞳が燃えるように光っていた。
「——やっと、見つけた」
幼い頃の約束なんて、覚えていない。
彼との思い出も、何一つ残っていない。
なのに——心だけが、覚えていた。
「あなたの名前……教えて」
「蓮だ」
その名前を聞いた瞬間、涙が止まらなくなった。
「——やっと、会えた」
日記の中の幼い私が、叫んでいる気がした。
忘れなかったよ。約束、守ったよ。
やっと——やっと会えたよ、蓮くん。
***
「ここが、俺の店だ」
街外れの小さな薬草店。質素だけれど清潔感のある佇まいに、干された薬草の匂いが漂っている。
「……一人で?」
「ああ。親が死んでからずっとな」
蓮は素っ気なく答えながら、店の奥へと私を通した。狭いけれど、整理された作業場。棚には見覚えのある薬草が並んでいて、私は無意識に呟いていた。
「……甘草、当帰、芍薬。記憶に作用する薬草ばかり」
「よく知ってるな」
「体が覚えてるの。頭では忘れても」
蓮が僅かに目を見開いた。
「お前、薬師の素養があるのか」
「氷高家は代々薬師の家系だから。物心ついた時から、体に染み付いて……」
氷高、という名前を出した瞬間、蓮の表情が凍りついた。
「……なんだと?」
「え?」
「氷高家の娘って言ったのか、今」
「う、うん……あの、どうしたの?」
蓮の琥珀色の瞳が、一瞬だけ暗い炎を宿した。すぐに目を逸らされて、私にはその表情の意味がわからなかった。
「……いや。何でもない」
嘘だ。何でもなくない。でも——追及できる関係性じゃない。会ったばかりの、記憶のない私には。
「座れ。話がある」
促されるまま、古い椅子に腰を下ろした。蓮は向かいに座り、じっと私を見つめた。
「まず確認したい。お前、本当に昨日の記憶がないんだな?」
「ない。毎朝、リセットされるの。友達も、恋人も、私にはいたことがない……と思ってた」
「それは薬湯のせいだ。忘却の薬。俺もガキの頃から飲まされてた」
「あなたも……?」
「ああ。施設に預けられてた時代にな。毎晩飲まされて、朝になると何も覚えてない。自分が誰だかもわからなくなる」
蓮の声は淡々としていたけれど、その奥に押し殺した何かを感じた。
「でも、ある時から記憶が消えなくなった。『雪乃』っていう知らない名前と、白い肌の女の子の映像だけが、どうしても残った」
「私も同じ……今朝、目が覚めた時、あなたの名前が」
「それが何でなのか、ずっとわからなかった」
蓮が立ち上がり、棚の奥から古い巻物を取り出した。
「数年かけて調べた。俺たちの記憶が消えない理由」
広げられた巻物には、古い文字で薬術の記録が記されていた。私は身を乗り出して目を凝らす。
「『血の契約術』……?」
「昔の薬師が使った術だ。互いの血を交わし、強い想いと共に誓いを立てると、その記憶だけは決して消えない」
「まさか——」
「俺たちは子供の頃、この契約を結んでいる」
衝撃で、言葉が出なかった。
「覚えてないのは当然だ。契約を結んだ直後に、俺たちの記憶は消された。たぶん——お前の家と俺の家が、敵対していたから」
「敵対……?」
「氷高家と、俺の一族……柊一族は、かつてこの地を二分する薬師の名家だった」
蓮の声に、初めて感情が滲んだ。怒り。悲しみ。そして——憎しみ。
「十五年前、柊一族は取り潰された。禁忌の薬を作ったという濡れ衣を着せられて。俺の親父も母親も、処刑された」
「そんな……」
「その濡れ衣を着せたのが——氷高家だ」
世界が、ぐらりと揺れた気がした。
「私の……家が……」
「お前のせいじゃない。わかってる。だが——」
蓮が私を見た。その瞳の奥に、燃えるような復讐心が見えた。
「俺は十五年間、仇を探してた。記憶を消されながらも、『雪乃』という名前だけを頼りに」
「それで、私を……」
「見つけたら殺すつもりだった」
息が止まった。
「氷高の血を引く者を、一人残らず」
蓮の声は、凍えるほど冷たかった。
「でも——できなかった」
「え……?」
「さっきお前の顔を見た時、体が動かなくなった。殺すどころか、守りたいと思った。十五年間積み上げた憎しみより、名前しか知らないお前への想いの方が強かった」
蓮が苦しげに顔を歪めた。
「なんでだよ……俺の親を殺した一族の娘なのに。なんでお前のことだけ、忘れられないんだ……」
私は、何も言えなかった。
謝る言葉も、慰める言葉も、何一つ浮かばない。ただ——
「私を、憎んでいいよ」
気づいたら、そう言っていた。
「え?」
「私の家があなたの家族を奪ったなら、憎んで当然。私を殺しても——」
「バカ言うな」
蓮が私の手を掴んだ。強く、乱暴に。
「憎めたら楽だった。お前さえ忘れられたら、楽だった。なのに——」
琥珀色の瞳が、揺れていた。
「十五年間、お前の名前を忘れられなかった。顔も声も知らないのに、お前のことを想わない日はなかった。これが契約のせいだとしても——俺は」
言葉が、途切れた。
私たちは、互いの手を握りしめたまま、動けなかった。
憎しみと、消えない想い。
敵同士の血を引きながら、忘れられない絆。
「……ねえ、蓮」
「なんだ」
「私、全部思い出したい。あなたとの約束も、消された記憶も、私の家が何をしたのかも」
「思い出してどうする」
「わからない。でも——このまま何も知らないまま、誰かと結婚して、空っぽのまま死んでいくのは嫌」
初めて、自分の意思で何かを望んだ。
「私は、私の人生を取り戻したい」
蓮が息を呑んだ。それから——ふっと、表情が緩んだ。
「……十五年前と、同じことを言うんだな」
「え?」
「覚えてないのか。お前は昔、俺に言ったんだ。『私は私でいたい。忘れたくない』って」
記憶にない言葉。でも、確かに私の言葉だと感じた。
「だから俺は約束した。『俺が覚えててやる』って。お前が忘れても、俺が全部覚えてるから、安心しろって」
蓮の手が、そっと私の頭に触れた。
優しく、撫でるように。
「——今度こそ、果たしてやる。その約束」
夜の帳が降り始めた薬草店で、私たちの長い旅が始まった。
***
翌朝、目が覚めて——私は息を呑んだ。
覚えてる。
蓮の顔。蓮の声。昨日話したこと、全部。
薬湯は昨夜、飲まなかった。蓮の店に泊めてもらい、朝を迎えた。初めて、記憶が繋がった朝。
「……本当に、消えてない」
自分の手を見つめて、涙が溢れた。これが普通の人の『朝』なんだ。昨日の続きがある、当たり前の朝。
「起きたか」
蓮が部屋の入り口に立っていた。手には湯気の立つ器。
「薬湯じゃない。ただの白湯だ。安心しろ」
「……ありがとう」
受け取った器の温かさが、手のひらに染みた。
「お前、このまま屋敷に戻らないわけにはいかないだろう」
「……うん」
「なら、策がいる。今日から薬湯を飲んだふりをしろ。飲まずに捨てるんだ」
「でも、見張られてたら——」
「だから、協力者がいる」
協力者?
***
屋敷に戻ると、案の定、大騒ぎになっていた。
「雪乃様! どこに行っておられたのですか!」
楓が血相を変えて駆け寄ってきた。その後ろには、冷たい目の義母と、仮面のような微笑みを浮かべた義兄の姿。
「心配したのよ、雪乃」
義母の声は、心配とは程遠い響きだった。
「申し訳ございません。庭を歩いていたら迷ってしまって……」
「庭で迷う? この屋敷で?」
義兄が一歩近づいてきた。黒い瞳が私を射抜く。
「嘘は良くないな、雪乃」
「お義兄様……」
「まあいい。昨夜の薬湯を飲んでいないのだろう? 今日の分は、俺が直接淹れてやる」
心臓が跳ねた。直接、なんて言われたら——
「お待ちください、旦那様」
楓が、義兄の前に進み出た。
「お嬢様のお世話は、私の仕事でございます。薬湯も、私にお任せいただけませんか」
「お前に?」
「はい。旦那様のお手を煩わせるわけには参りません」
義兄の目が細まった。長い沈黙。私は息を殺して見守った。
「……いいだろう。ただし、今後一滴も飲み残しのないように」
「かしこまりました」
楓が深く頭を下げる。義兄は私をひと睨みして、去っていった。
残された私と楓。
「楓……」
「お部屋で話しましょう、お嬢様」
楓の声は、いつになく固かった。
***
部屋に入ると、楓は襖を閉め、私に向き直った。
「蓮様から、連絡がありました」
「え——連絡?」
「お嬢様がこちらに戻られる前に、私のもとへ。『協力してほしい』と」
頭の中が、真っ白になった。
「楓、あなた……蓮を知って……」
「ええ。ずっと、知っておりました」
楓の目が潤んでいた。
「お嬢様。私は、お嬢様のお母様——本当のお母様に、命を救われた者です」
「え?」
「十五年前、柊一族が滅ぼされた時。私の家も巻き込まれました。孤児となった私を引き取り、育ててくださったのが、お嬢様の実のお母様だったのです」
知らなかった。何一つ、知らなかった。
「お母様は、氷高家の所業を深く悔いておられました。だから私を助け、そして——お嬢様を守ろうとなさっていた」
「お母様が……私を……?」
「でも、その前に病で……いえ」
楓の声が震えた。
「本当のことを、申し上げます。お母様は、病死ではありませんでした」
世界が、また揺れた。
「旦那様に——冬嗣様に、殺されたのです」
「うそ……」
「お母様がお嬢様に真実を伝えようとしたから。忘却薬の秘密を暴こうとしたから。だから、消されたのです」
涙が溢れて止まらなかった。
知らなかった。何も知らなかった。毎朝毎朝、全てを忘れさせられて、お母様が殺されたことさえ覚えていられなかった。
「ごめんなさい、お嬢様。私はずっと、お傍にいながら何もできなかった。お嬢様が記憶を失うたびに、最初から友達になり直して、それでも……」
「楓……」
「お花が綺麗ですよ、って毎朝同じことを言ったのは、いつかお嬢様が思い出した時のための目印だったんです。私を覚えていなくても、この言葉だけは——」
楓が崩れ落ちるように膝をついた。
「やっと、お伝えできます。私はずっと、ずっとお嬢様の味方でした」
私は楓を抱きしめた。記憶にない友人。でも、体は覚えている。この温もりを、ずっと傍にあった優しさを。
「ありがとう……ありがとう、楓」
「これからは、協力させてください。お嬢様の記憶を取り戻すお手伝いを。お母様の仇を討つお手伝いを」
「うん……うん……」
私は一人じゃなかった。
忘れていただけで、ずっと傍にいてくれた人がいた。
「楓。薬湯を——飲んだふりをする方法、教えて」
「お任せください、お嬢様」
楓が涙を拭いながら、力強く頷いた。
長い夜が始まろうとしていた。
***
婚約の顔合わせは、三日後に決まった。
その間、私は楓の協力で薬湯を飲んだふりを続けた。毎朝、記憶がある。蓮のことを覚えている。それだけで、世界が違って見えた。
「お嬢様、お支度を」
楓が運んできた着物は、いつもより華やかな桃色。政略結婚の道具に相応しい、美しい衣装。
「……皮肉ね」
「お嬢様?」
「私が初めて自分の意思を持った時に、こうして着飾られて、誰かに差し出されるなんて」
楓が悲しげに目を伏せた。
「でも大丈夫。今日は——演技をするだけだから」
私は鏡に向かって、無表情を作る練習をした。今までは、本当に何も感じていなかったから、演技の必要なんてなかった。でも今は違う。
胸の奥に、蓮の存在が温かく灯っている。
***
応接間には、金髪碧眼の青年が座っていた。
端正な顔立ち。退屈そうに頬杖をつく姿は、絵画から抜け出したよう。これが——私の婚約者、鷹宮悠真。
「初めまして、雪乃嬢。俺が鷹宮悠真だ」
「……初めまして」
「ふうん」
悠真は私を頭のてっぺんからつま先まで眺めて、つまらなそうに言った。
「人形みたいだな」
「悠真様!」
義母が慌てて口を挟む。
「この子は大人しいのが取り柄で——」
「いや、別に貶してない。ただ事実を言っただけだ」
悠真は立ち上がり、私の前まで歩いてきた。
「目の前に婚約者がいるのに、何の感情もなさそうだな。嬉しくも悲しくもない。つまらない」
「申し訳、ございません」
「謝らなくていい。どうせ政略結婚だ。互いに愛情なんて求めてない」
そう言って、悠真は窓際に移動した。
「でもな、雪乃嬢。俺は退屈が嫌いなんだ」
「……と、言いますと?」
「お前、何か隠してるだろう」
心臓が跳ねた。
「俺は人を見るのが得意なんだ。お前、最初に部屋に入ってきた時と今とで、目の光が違う」
「気のせいでは……」
「気のせいじゃない。面白いな、人形じゃなかったのか」
悠真が笑った。初めて見る、人間らしい表情。
「安心しろ、言いふらしたりしない。むしろ——興味が湧いた」
***
その夜、私は蓮に会いに行った。
「婚約者に、怪しまれた」
「……何だと?」
「鋭い人なの。私が何か隠してるって、見抜かれた」
蓮が眉を寄せる。作業台の上には、古い文献と薬草が散らばっていた。
「まずいな。氷高に報告されたら——」
「たぶん、大丈夫。あの人、味方になってくれるかも」
「はあ?」
「勘だけど。彼、この婚約を楽しんでない。むしろ、何か面白いことを探してる」
蓮は信じられないという顔をした。
「お前、人を信じすぎじゃないか」
「ううん。私、今まで誰も信じたことなかったから」
蓮が、言葉を詰まらせた。
「記憶がないと、信じる相手もわからないの。でも今は違う。あなたがいて、楓がいて——だから、他の人も見えるようになった」
「……そうか」
蓮は照れくさそうに視線を逸らした。その横顔を見て、ふと気づく。
「ねえ、蓮」
「なんだ」
「私のこと、まだ憎んでる?」
沈黙が落ちた。蓮は長い間、答えなかった。
「……わからない」
正直な答えだった。
「お前を憎みたい自分と、守りたい自分がいる。どっちが本当かわからない」
「そっか」
「怖くないのか。俺が、お前を殺すかもしれないのに」
「怖くないよ」
私は微笑んだ。初めて、自分の意思で笑った気がした。
「だって、あなたは私を覚えていてくれた人だから」
蓮の琥珀色の瞳が、大きく揺れた。
「十五年間、名前も顔も知らないのに、忘れないでいてくれた。それって——すごく、嬉しいことだから」
「……お前」
「だから私も、あなたを信じる。いつか憎しみが消えても、消えなくても」
蓮が顔を背けた。でも、耳が赤くなっているのが見えた。
「……勝手にしろ」
「うん、そうする」
私たちの距離が、少しだけ縮まった夜だった。
***
調査を始めて一週間。
蓮と楓の協力で、少しずつ真実が見えてきた。
「氷高家が柊一族を陥れた証拠、ここまで集まった」
蓮が広げた資料には、十五年前の記録が詰まっていた。偽造された薬の取引記録。買収された役人の名前。そして——
「これは……お母様の日記?」
「楓が見つけてくれた。お前の母親が、真実を記録していたんだ」
震える手でページをめくる。
『夫と義姉が、恐ろしいことを企てている。柊一族を罪人に仕立て上げ、その財産と技術を奪おうとしている。私は止めようとしたが、聞き入れてもらえない』
『計画は成功してしまった。柊の当主夫妻は処刑され、幼い息子は行方不明。私は——私は、人殺しの妻だ』
『雪乃だけは守らなければ。あの子まで、この家の犠牲にさせてはならない。いつか真実を伝えるために、証拠を集めよう』
最後のページには、震える字でこう書かれていた。
『冬嗣に見つかった。私は殺される。でも証拠は隠した。雪乃、いつかこれを見つけて。お母様は、あなたを愛していた』
涙が止まらなかった。
お母様は、私を守ろうとしてくれていた。真実を伝えるために、命を賭けて。
「雪乃」
蓮が、そっと私の肩に手を置いた。
「お前の母親は、悪人じゃなかった」
「うん……わかった」
「俺も——俺も、わかった。憎むべきなのは、氷高家の当主たちであって、お前や、お前の母親じゃない」
蓮の声が震えていた。
「ずっと、お前を憎めない自分が嫌だった。復讐心を裏切ってると思った。でも——違ったんだな」
「蓮……」
「お前は、俺と同じ被害者だった。十五年間、記憶を奪われて、自由を奪われて、一人で耐えてた」
蓮が、私の顔を両手で包んだ。
「もう、一人で耐えなくていい」
琥珀色の瞳が、まっすぐに私を見つめていた。憎しみは、もうなかった。代わりにあったのは——
「俺が、お前を守る」
その言葉を聞いた瞬間、幼い記憶が蘇った。
泣いている私。頭を撫でてくれる小さな手。
『俺が覚えててやる。お前が忘れても、俺が全部覚えてるから』
「——思い出した」
「え?」
「あなた、昔も同じこと言った。私が泣いてた時、頭を撫でながら」
蓮の目が見開かれた。
「覚えて、るのか」
「今、思い出した。あなたの手、温かかった。私、すごく安心した」
涙が止まらなかった。でも、悲しい涙じゃなかった。
「ずっと探してたの。この温もりを。忘れても忘れても、体が覚えてた。あなたの優しさを」
蓮が、強く私を抱きしめた。
「……すまなかった」
「え?」
「お前を憎もうとした。殺そうとさえ思った。すまなかった」
「いいよ。あなたも、辛かったんでしょう?」
「……ああ。辛かった」
初めて、蓮が弱さを見せてくれた。私は彼の背中をそっと撫でた。
「もう、一人じゃないよ。あなたも、私も」
長い夜が明けようとしていた。
***
「婚約披露パーティーで、全てを暴く」
私の言葉に、蓮と楓が息を呑んだ。
「正気か?」
「正気よ。あの場には社交界の有力者が集まる。氷高家の悪事を公にするには、最高の舞台」
「でも、危険すぎます、お嬢様」
「知ってる。でも——これしかない」
私は二人を見つめた。
「このまま婚約したら、私は一生、冬嗣の道具のまま。真実は永遠に闇に葬られる。お母様も、蓮の両親も、浮かばれない」
「だからって——」
「それに、私にしかできないことがある」
蓮が眉を寄せた。
「どういうことだ」
「冬嗣が私を手放さない理由。それは、私の体質にあるの」
「体質?」
「私だけが持つ、忘却薬を無効化する体質。だから私の記憶は完全には消えなかった。だから蓮との約束が残った」
楓が目を見開いた。
「まさか——冬嗣様は、その体質を……」
「政略に利用しようとしてる。私の血を使えば、忘却薬の影響を受けない人間を作れる。王族や貴族を意のままに操れる」
蓮の顔が蒼白になった。
「そんな……それじゃお前は——」
「薬の材料。それが私の価値」
長い沈黙が落ちた。
「だからこそ、私は戦う。道具じゃない、私の意思で」
私は立ち上がった。
「パーティーまで、あと三日。私は——全ての記憶を取り戻す薬を作る」
「そんなもの、存在するのか?」
「お母様の日記にヒントがあった。忘却薬を中和する薬草の配合。私の体質と組み合わせれば——」
蓮が頷いた。
「俺も手伝う。薬師の腕は、お前に負けてない」
「私も協力させてください、お嬢様」
三人の決意が、重なった。
「三日後——私は、私を取り戻す」
***
婚約披露パーティーの夜が来た。
氷高家の大広間は、きらびやかな照明と花々で埋め尽くされていた。社交界の名士たちが集い、音楽と笑い声が溢れている。その中心で、私は——白い花嫁衣装を纏い、人形のように立っていた。
「美しいわ、雪乃」
義母の声が耳元で囁かれる。
「今日からあなたは鷹宮家の嫁。氷高家の誇りを忘れないように」
「はい、お義母様」
無表情のまま答える。でも、心臓は激しく打っていた。
懐には、三日かけて調合した薬が隠されている。全ての記憶を取り戻す薬。飲めば、十五年分の記憶が一気に蘇る。
「雪乃」
義兄の声が、背後から降ってきた。振り返ると、銀灰色の髪をオールバックに撫でつけた冬嗣が、冷たい微笑みを浮かべて立っていた。
「今夜は特別な夜だ。お前の新しい人生が始まる」
「光栄でございます、お義兄様」
「ああ、光栄に思え。お前のような空っぽの人形でも、使い道はあるのだから」
その言葉に、一瞬だけ拳を握りしめた。でも、まだだ。まだ、その時じゃない。
「さあ、婚約者のもとへ行きなさい。悠真殿がお待ちだ」
***
悠真は、バルコニーで一人、夜空を見上げていた。
「来たか、雪乃嬢」
「お待たせしました」
「堅苦しい挨拶はいい。それより——」
悠真が振り返り、私の目を覗き込んだ。
「今夜、何か企んでるだろう?」
心臓が跳ねた。でも、嘘はつかなかった。
「……はい」
「正直だな。気に入った」
悠真が、ふっと笑った。
「実は俺も、調べたんだ。氷高家のこと。十五年前の柊一族のこと。そして——お前の母親のこと」
「え……」
「退屈だったからな。暇つぶしのつもりだったが、とんでもないものが出てきた」
悠真が懐から、一通の封書を取り出した。
「十五年前、柊一族を陥れた証拠。偽証に関わった役人の自白書だ」
「そんなもの、どうやって——」
「鷹宮家の情報網を舐めるな。氷高の当主なんかより、俺の方がよっぽど権力がある」
悠真が封書を私に差し出した。
「使え。今夜、お前が何をしようとしてるか知らないが、これがあれば援護射撃になる」
「なぜ……私を、助けてくれるんですか」
「言っただろう、退屈が嫌いだって」
悠真が肩をすくめた。
「それに——人形だと思っていた女が、実は炎を隠していた。そういう展開、嫌いじゃない」
「悠真様……」
「さあ、行けよ。お前の舞台だろう」
私は深く頭を下げた。そして——走り出した。
***
大広間の中央で、私は立ち止まった。
懐から薬を取り出す。小さな瓶に入った、透明な液体。これを飲めば、全てが変わる。
「……怖い」
正直な気持ちだった。十五年分の記憶。そこには、きっと辛いものもたくさんある。お母様の死の真相。自分が受けてきた仕打ち。見たくないものも、たくさん。
でも——
『俺が覚えててやる』
蓮の言葉が蘇った。
『もう、一人じゃないよ』
自分の言葉も。
そうだ。私は一人じゃない。
目を閉じて、薬を一気に飲み干した。
***
——記憶が、洪水のように押し寄せてきた。
幼い頃の母の笑顔。温かい手。優しい声。
『雪乃、あなたは特別な子よ。いつか、自分の力で道を切り開くの』
柊家の男の子。蓮。一緒に遊んだ日々。笑い合った思い出。
『俺が覚えててやる。絶対に忘れない』
指切りをした感触。血の契約。永遠の約束。
『ゆきのちゃんと、ずっと一緒にいる!』
そして——暗転。
母の悲鳴。冬嗣の冷たい笑み。薬を飲まされる恐怖。
『余計なことを覚えていなくていい。お前は道具なのだから』
何度も何度も、大切な記憶を奪われた。友達を忘れ、母を忘れ、自分さえ忘れそうになりながら——それでも、蓮だけは忘れなかった。
約束したから。絶対に忘れないって、約束したから。
「——っ!」
膝から崩れ落ちそうになった体を、強い腕が支えた。
「雪乃!」
蓮の声。蓮の温もり。
「大丈夫か」
「……全部、思い出した」
涙が溢れた。嬉しさと悲しさが入り混じって、止まらなかった。
「お母様のこと。あなたのこと。私が奪われてきた、全部」
蓮が、強く私を抱きしめた。
「よく頑張った」
「うん……うん……」
泣きながら、私は顔を上げた。大広間を見渡す。キラキラした照明。着飾った人々。そして——こちらを見つめる、冬嗣の凍りついた顔。
「さあ、行こう」
私は蓮の手を握って、立ち上がった。
「私はもう、都合よく忘れてあげない」
***
「皆様、少々お時間をいただけますでしょうか」
私の声が、大広間に響き渡った。
音楽が止まり、視線が集まる。婚約披露パーティーの主役が、突然話し始めたのだ。当然、皆の注目を浴びる。
「雪乃、何をしている」
冬嗣が険しい顔で近づいてきた。私は一歩も退かなかった。
「お義兄様。いえ——冬嗣様。私、今日、皆様にお伝えしたいことがございます」
「くだらないことを言うな。席に戻れ」
「くだらなくなんかありません。十五年前、この家が犯した罪についてです」
広間がざわめいた。冬嗣の顔が、一瞬で蒼白になる。
「何を——」
「十五年前、柊一族は禁忌の薬を作った罪で滅ぼされました。でも、それは濡れ衣だった」
私は、悠真から受け取った封書を高く掲げた。
「これは、当時の役人の自白書です。柊一族を陥れたのは、氷高家の謀略だった。偽の証拠を作り、罪のない一族を処刑に追い込んだ」
「嘘だ!」
義母が叫んだ。
「この子は頭がおかしいのです! 毎晩薬を飲んでいて、記憶が——」
「その薬のことも、お話しましょうか」
私は義母を真っ直ぐに見つめた。
「私が毎晩飲まされていた薬湯。あれは体のためなんかじゃない。記憶を消す薬だった」
広間が静まり返った。
「私は幼い頃から、記憶を奪われ続けてきました。友人を作らせず、恋をさせず、感情を持たない人形に仕立て上げるために。全ては、政略結婚の道具として利用するため」
「黙れ!」
冬嗣が私の腕を掴んだ。その瞳に、初めて狼狽の色が見えた。
「お前に選択肢はないと言っただろう。余計なことを——」
「私にはもう、選択肢があります」
私は冬嗣の手を振り払った。
「そして——私の母、氷高雪華を殺したのも、あなたです」
「なん……だと……」
広間中が息を呑んだ。
「母は病死ではありませんでした。氷高家の罪を暴こうとしたから、消されたのです。証拠は、母の日記にあります」
楓が進み出て、母の日記を開いた。
「『冬嗣に見つかった。私は殺される』——これが、最後のページです」
義母が悲鳴を上げた。冬嗣の顔から、完璧な仮面が剥がれ落ちていく。
「嘘だ……全部嘘だ! この女は気が狂っているのだ!」
「では、なぜそんなに動揺しているのですか?」
悠真が、ゆっくりと歩み出た。
「俺も独自に調査した。氷高家の不正は、一つや二つじゃない。鷹宮家として、このまま婚姻を結ぶわけにはいかなくなった」
「悠真殿! あなたまで——」
「悪いな、冬嗣殿。退屈な婚約より、面白い暴露劇の方が好みなんだ」
冬嗣が後ずさった。その顔には、もう冷静さのかけらもなかった。
「お前……お前がいなければ……!」
冬嗣が懐から小瓶を取り出した。
「これを飲ませれば、また全部忘れる! 俺の言いなりになる!」
瓶を開けようとした瞬間——蓮が冬嗣の腕を掴んだ。
「それ以上は、させない」
「貴様、何者だ——」
「柊蓮。お前が殺した、柊一族の生き残りだ」
冬嗣の顔が恐怖に歪んだ。
「十五年間、お前を探していた。復讐のために」
「ひ……」
「でも、殺さない。お前には、生きて罪を償ってもらう」
蓮が冬嗣を突き放した。冬嗣は膝から崩れ落ち、小瓶が床に転がった。
「誰か……誰か、こいつらを——」
「無駄だよ、冬嗣様」
楓が静かに言った。
「この広間にいる使用人は、皆、あなたの非道を知っています。もう、誰もあなたの味方はしません」
義母が狂ったように叫んだ。
「嘘よ! 全部嘘! 私たちは何も悪くない!」
「お義母様」
私は、最後に義母を見下ろした。
「『あなたのためを思って』と言いながら、私から全てを奪った。友達も、記憶も、母も。それが悪くないと言うのなら——あなたの心は、とうの昔に壊れていたんですね」
義母が、声にならない悲鳴を上げて崩れ落ちた。
私は振り返り、広間の人々を見渡した。
「皆様、長々とお騒がせしました。私、氷高雪乃は——本日をもって、氷高家を出ます」
蓮が、私の手を取った。
「帰ろう」
「うん」
私たちは、キラキラした広間を背に、歩き出した。
誰も、止める者はいなかった。
***
一年後——。
街外れの小さな薬草園に、朝日が差し込んでいた。
私は縁側に座って、湯気の立つ器を両手で包んでいる。中身は、ただの白湯。薬湯じゃない。
「起きたか」
蓮が奥から出てきて、私の隣に座った。
「おはよう」
「ああ、おはよう」
何気ない朝の挨拶。でも、私にとっては奇跡みたいな言葉だった。
昨日の続きがある朝。記憶が繋がる朝。蓮がいる朝。
「今日は、楓が来るって」
「そうか。いつもの菓子、買っておかないとな」
「うん。甘いもの好きだから」
氷高家は、あの夜を境に没落した。冬嗣と義母は罪に問われ、屋敷は取り潰された。柊一族の名誉は回復され、蓮は正式に一族の生き残りとして認められた。
私は——全てを捨てて、蓮と共にここにいる。
小さな薬草園。二人で始めた、ささやかな暮らし。
「ねえ、蓮」
「なんだ」
「幸せ?」
蓮が、少しだけ目を見開いた。それから——ふっと笑った。
「……別に」
「また、それ」
「うるさい」
蓮の手が、私の頭に触れた。優しく、撫でるように。
「——あ」
この仕草。幼い頃と、同じだ。
泣いている私の頭を撫でながら、『俺が覚えててやる』と言ってくれた、あの時と。
「覚えてる」
「何が」
「昔も、こうしてくれた。私が泣いてた時」
蓮の手が止まった。
「……覚えてたのか」
「うん。ずっと、体が覚えてた」
私は蓮の手を取り、自分の頬に当てた。
「この温もりを、ずっと探してたの」
蓮の耳が、赤くなっていく。
「……やめろ」
「やだ」
「恥ずかしいだろ」
「知ってる」
私たちは、顔を見合わせて笑った。
***
夕暮れ時、縁側で並んで座っていた。
庭の薬草が、橙色の光に染まっている。蓮が育てた薬草。私が手入れした花々。二人で作り上げた、小さな世界。
「雪乃」
「なに?」
「今夜も、薬湯は要らないな」
私は微笑んだ。
「うん。もう、いらない」
忘れることは優しさだと、教えられてきた。
辛いことを忘れれば、傷つかない。悲しいことを忘れれば、泣かなくて済む。
でも、私は選んだ。
痛みも、喜びも、悲しみも、愛しさも——全部覚えていることを。
だって、記憶は私自身だから。
忘れたら、私が私じゃなくなってしまうから。
蓮の手が、そっと私の手を握った。
「——今度こそ、ずっと一緒にいる」
「うん」
「もう、忘れない」
「うん」
夕日が沈んでいく。
新しい夜が始まる。
でも、もう怖くない。
明日もきっと、この記憶は消えないから。
この人が隣にいて、私を覚えていてくれるから。
『忘れられない』ということが、こんなにも——幸せだったなんて。
【完】




