雪原
男は雪原を歩いていた。何日歩いていただろう。或いは何か月歩いていたのだろう。男は後ろを振り返る。雪がすぐに足跡を埋めるのだろうか。そこに男の歩いた痕跡はなかった。寒さで手が凍えて、飢えで歩く元気ももうなかった。恐らくもう1年は雪原の中を飯も食わずに歩いている。それでもなぜか凍死することも、飢え死にすることもなかった。喉の渇きは雪を喉に入れてやり過ごした。
広大で果てしない白い世界。歩くたびに手足が寒さで痛くなる。筋肉痛はもはや痛みのうちに入らない。地平線の果ても雪に覆われて街も、人の跡も、動物の跡もない。春も、夏も、秋もなくずっと白い冬のみがその大地を覆い尽くしていた。
寒さは背を刺す。雪もまた然り。男の服装はもう真っ白であった。この雪原に足を踏み入れたときはまた、別の色をしていたように思えるがもはや思い出すこともできない。空もまた白かった。青空はもはやこの雪原に踏み入れてから一度とて見たことがない。白い雲が大空を覆う。漠々たる白銀の世界には色というものがなく、ただ白と白との境界線があるのみだった。それどころか男は色という概念を忘れようとしていた。
その雪原で音はゴーゴーとなる風以外なかった。雪を踏む音は暴風音によりかき消される。口からこぼれ出る独り言も歩き続けるほどに疲れが増していき、遂には口から声を発することさえなくなっていった。
男は歩く。そしてまた歩く。後ろを見て足跡がないことに絶望をして天を見る。雪が降り、曇天の雲が空を覆ういつもの景色。退屈な景色から目を逸らし、また歩き続ける。何を目指して歩いたかももうおぼろげにしか覚えていない。ただ、目指すべき何かのために歩いてきたことだけは覚えている。
足が言い始めた。「ああ、私は疲れた。まだまだ見えないあの街を目指すことにもう疲れた。我が主人よ。あそこにちょうど良さそうな街が見える。あそこじゃだめなのか?」男は「黙っていろ。あの街じゃ駄目なんだ。」と答えると今度は笑って「理由がないと無理なんだなぁ。我が主人よ。」と足は言った。すると男は頭を抱えて雪原の中で跪いた。男は寒い大地に頭をうずめて考えていた。(確かに…もはやあの遠い街を目指す必要はないのではないか。むしろ遠くの街に行ってそこが排外的な場所だったら私はまたこの雪原に戻ってくる。行方も知らぬままに雪原を歩くことになる。あそこの街ならば…あそこに見える街の方がいいことだってあるのかもしれない。もはや何のためな歩いているのかわからないのだから…いや…それでも…)男は考えても考えてもその答えを見出すことはなかった。ただ、男の体に雪が積もるだけだった。
来た道も知れず、どこまで来たのかも知れず、ただ自分という存在が白銀の雪原にポツリと存在することしか分からなかった。足跡もない。この孤独な一人旅。男の中にあるあらゆる概念は破壊されつくして、もはや白という概念しか残っていない。男は世界という存在さえなく、自分の中に自分という存在は一切なかった。
進めば進むほどに痛みも、寒ささえも消えていく。感覚というものも消えていく。喉の渇き、痛み、寒さ。この三つは雪原を横断する中で男を最も苦しめたものであった。しかし、その苦痛がもはや尋常なることと脳が解釈したからなのか、ある時期を越えた時からその苦痛さえ感じなくなっていた。最初のうちは苦痛というものが消えて楽になれたと思っていた。しかし、それは大きな間違いであった。全ての概念が放逐された中で感覚が消えるということはもはや何も感じるものがないということである。そして、外部からの刺激により成り立つ感情は前提条件の崩壊と共にこれも失われていく。
街の明かりが見える。その街の明かりに吸い寄せられる。足はそれを明らかに渇望している。しかし、私の感情が、私の願望はそれを欲することは無かった。なぜその街明かりを否定しようとするのかを知らないままに私は足を少しでもその街明かりから遠い所に置く。一歩一歩その街明かりから離れていく。一歩一歩歩くほどに街は離れていく。街の明かりが見えなくなる。彼は概念のない世界を選んだ。また目標が見えないままに雪原を歩き出した。男は未だその白い雪原を、果てしない白銀の世界を歩いている。




