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第35話 モスクワの罠

 北京での成功を受け、私たちは次なる標的であるモスクワへと向かった。

 作戦はシンプルだ。ストームブレイカーが都市の防衛システムと指揮系統(C2)を無力化し、その隙に私たちレムナント部隊が中枢を制圧する。

 サイバーと物理、二つの力を合わせた完璧な布陣。

 誰もが勝利を疑わなかった。


「防御壁、突破しました。メインゲート開きます」


 エリザの声と共に、モスクワを囲む重厚な隔壁が音もなくスライドする。

 雪が舞う寒空の下、私たちは市街地へと突入した。

 だが、そこには不気味なほどの静寂が広がっていた。


「……静かすぎる」


 アテナが不安げに呟く。

 敵の迎撃は皆無。北京の時以上に、都市全体が死に絶えたように静まり返っている。

 聴覚センサーの感度を上げても、風の音すら聞こえない。鳥の鳴き声もない。

 環境音の不自然な欠落が、私の警戒アラートを鳴らし続けていた。


「まるで墓場だな。凍りついた墓標が並んでるだけだ」


 ベヒモスが周囲の廃ビルを見上げて言った。

 窓ガラスは割れ、内部は闇に包まれている。

 かつて人々が生活していた痕跡は雪に埋もれ、文明の残骸だけが寒風に晒されていた。


「ヨハン、敵の配置は?」


「反応なし。地下シェルターに引きこもっているのか? いや、それにしてもおかしい。監視カメラすら機能していない。まるで、目隠しをされているようだ」


 通信機越しのヨハンの声にも、焦りの色が滲む。

 ストームブレイカーのハッキングは完璧なはずだ。

 だが、手応えが軽すぎる。まるで、最初から鍵がかかっていなかったドアを開けたような。


「罠の可能性が高いですね。誘い込まれている」


 ベヒモスが周囲を警戒しながら進む。

 彼の巨体が、緊張で強張っているのが分かった。

 雪を踏みしめる音だけが、やけに大きく響く。


「セラフ、上空から何か見えるか? 熱源反応は?」


「真っ白よ。熱源反応もゼロ。本当に誰もいないみたい。……ちょっと、気味が悪いわね。お化け屋敷みたい」


「ああ。だが、行くしかない。ここで引き返すわけにはいかない」


 私たちは警戒を維持したまま、クレムリン周辺の中枢区画へ到達した。

 その巨大な門もまた、私たちを歓迎するかのように開放されていた。

 赤い城壁が、雪景色の中で血のように鮮やかに見えた。


「……おい、あれを見ろ」


 セラフが指差した先には、広場の中心に置かれた一台の古いラジオがあった。

 雪の中にポツンと置かれたその異物から、ノイズ混じりの音楽が流れている。

 クラシック音楽だ。荘厳で、どこか物悲しい旋律。


「チャイコフスキー……『悲愴』か。趣味が悪い演出だ」


 私が呟くと同時に、音楽が途切れ、不快なノイズが走り始めた。

 キィィン、という高周波音が鼓膜を刺す。


「警告。ネットワーク構造に異常を検知。データが……ループしています。外部とのリンクが遮断されました!」


 アテナが叫んだ。

 その瞬間、プツンという音と共に、都市全域の通信が遮断された。

 ヨハンたちとのリンクが切れる。ノアとの接続もロストした。

 完全な孤立。

 視界の隅で、通信エラーのアイコンが点滅を繰り返す。


「通信途絶! 妨害電波ジャミングだ! 強力すぎる……!」


「クソッ、嵌められたか! ここは檻の中ってわけか!」


 ベヒモスが吠える。ガトリングガンの銃口を闇雲に向けるが、敵の姿はない。

 見えない敵への恐怖が、場を支配する。


『学習したぞ、ネズミども』


 突如、広場のスピーカーから哄笑が響き渡った。

 冷酷で、傲慢な響き。モルフェウスだ。

 その声は、広場の四方八方から反響し、位置を特定させない。


『私の庭に土足で踏み込むとはな。貴様らが得意とするコソ泥のようなハッキングなど、とっくにお見通しだ。お前たちが来るのを、首を長くして待っていたぞ』


 ストームブレイカーが突破したと思っていたセキュリティは、モルフェウスがあえて開けておいた「ハニーポット(囮)」だったのだ。

 私たちをここまで誘い込むための、巧妙な罠。

 私たちはまんまと、蜘蛛の巣にかかった羽虫のように踊らされていたわけだ。


「姿を見せろ、モルフェウス! 隠れていないで出てこい! 正々堂々と勝負しろ!」


 私が叫ぶが、返ってくるのは嘲笑だけだ。


『勝負? 勘違いするな、旧式の鉄クズよ。これは戦争ではない。害虫駆除だ。衛生的な処理を行うに過ぎない』


「害虫だと……! ふざけるな!」


 セラフが激昂し、空へ向かってビームを放つ。

 だが、その光は虚空に吸い込まれるだけだった。


『消え去れ! 我が理想郷ユートピアに、貴様らのようなノイズは不要だ』


 アテナが絶叫する。

 彼女のセンサーが、絶望的な数値を弾き出したのだ。

 空が、裂けるような音を立てた。


「高エネルギー反応検知! 上空から来ます! まさか、これは……戦術核!? 直撃すれば蒸発します!」


「総員、退避ッ!! 散開して伏せるんだ!」


 私の命令は、閃光にかき消された。

 都市の上空に、人工の太陽が昇った。

 強烈な熱線と衝撃波が、建造物を、道路を、そして私たちを飲み込んでいく。

 雪が一瞬で蒸発し、白い霧となって視界を奪う。


「アテナ! 全エネルギーをシールドへ回せ!」


「間に合いません! 出力限界を超えています! シールド、持ちません!」


「うわあああああッ!」


 セラフの悲鳴が通信機越しに響く。

 続いて襲ってきたEMP(電磁パルス)が、私の視覚と思考を一瞬にして焼き尽くした。

 完璧だったはずの作戦は、一瞬にして地獄絵図へと変わった。

 世界が白く染まり、意識が闇へと落ちていく中で、私は自分の愚かさを呪った。

 油断した。驕っていた。

 その代償は、あまりにも大きすぎた。

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