第33話 北京の静寂
上海での激戦を終えたレムナントたちは、休む間もなく北京へと進軍していた。
モルフェウスの影響下にある首都を解放し、この戦いに終止符を打つために。
だが、目の前に広がる光景は、予想していたものとは全く違っていた。
「……妙だな」
瓦礫の影から偵察用ドローンを操りながら、私は呟く。
北京の都市周辺には、およそ5000の敵兵力が展開している。
だが、そのどれもが動かない。
こちらの接近を探知しているはずなのに、一切の攻撃動作がないのだ。
不気味なほどの静寂が、戦場を支配していた。
「アテナ、敵の様子はどうだ?」
「異常です。全てのユニットが待機モード、あるいはシステムフリーズに近い状態です。攻撃意図が検出されません」
「サーマルスキャンは? 伏兵がいる可能性は?」
「熱源反応は確認できますが、生体活動が低下しています。まるで冬眠状態のようです」
アテナの声にも困惑が混じっている。
彼女の分析でも、この状況は予測不能だったようだ。
「罠か? 我々を引きつけて、一網打尽にするつもりかもしれん」
ベヒモスが警戒心を露わにする。重装甲の指が、愛用のガトリングガンのグリップを軋ませた。
だが、これほどの大軍を無防備に晒すメリットはない。
「映像を拡大します」
セラフが上空からの映像をモニターに投影する。
そこに映っていたのは、虚ろな目で立ち尽くす兵士たちの姿だった。
統一された装備、機械的な整列。
だが、その中身はサイボーグではない。モルフェウスによって洗脳された、生身の人間たちだ。
「……撃てないな」
私は奥歯を噛み締める。
上海での悪夢が蘇る。
彼らは被害者だ。私たちが救うべき人々だ。
戦闘中ならともかく、無抵抗な彼らを一方的に虐殺することは、私の――いや、ノアの正義に反する。
「どうする、レムナント。このまま睨み合っていても埒が明かないぞ」
ベヒモスが低い唸り声を上げる。
彼の言う通りだ。時間をかければ、モルフェウスが再起動をかけてくるかもしれない。
「奴らの指揮系統を叩くことはできないの? 遠隔で無力化するとか」
セラフが提案するが、アテナが即座に否定する。
「試みましたが、外部からのアクセスは全て遮断されています。物理的な接続が必要です」
「つまり、中に入るしかないってことか」
「だが、無抵抗な人間を撃つわけにはいかない」
「綺麗事を言っている場合か! 奴らが動き出せば、我々が全滅するぞ」
ベヒモスの主張はもっともだ。
戦術的には、先制攻撃で無力化するのが正解だ。
だが、私はどうしても引き金を引くことができなかった。
私の迷いを察したのか、セラフが不安そうに声を上げる。
「でも、レムナント。彼らはもう、助からないかもしれない。脳を弄られているなら、元の人格は……」
「それでもだ、セラフ。可能性がゼロでない限り、私たちは彼らを『人間』として扱わなければならない。それが、私たちが機械ではなく、心を持つ存在であることの証明だ」
私は強く言い聞かせた。それは仲間へというより、迷う自分自身への言葉だった。
「甘いな、相変わらず」
ベヒモスが呆れたように言うが、そのガトリングガンの回転は止まっていた。
「だが、嫌いではない。その甘さが、俺たちをここまで生かしてきたのかもしれんしな。……で、どうするんだ? 突っ込むのか?」
「ああ。リスクは承知の上だ。敵の中枢まで強行突破し、直接制御を奪う」
「……ふっ、了解だ。地獄の底まで付き合ってやるよ」
「でも、もし近づいた瞬間に自爆でもされたら……」
「その可能性もある。だが、ここで引けば彼らを救うチャンスは永遠に失われる」
私は仲間たちを見渡した。
アテナは冷静に計算を続け、ベヒモスは苛立ちを隠さず、セラフは震えている。
決断を下せるのは、私しかいない。
「……突入する。敵が動かない隙に、中枢を制圧する」
私は決断した。
反撃されれば即座に危険な状態になる賭けだが、今はそれしか道がない。
彼らを殺さずに無力化するには、コントロールセンターを叩き、洗脳信号を断つしかないのだ。
「本気か? 自殺行為だぞ」
「分かっている。だが、彼らを救うにはこれしかない」
私の言葉に、ベヒモスは短く鼻を鳴らした。
「フン……やはり、甘いな。だが、お前がそう言うなら、背中は守ってやる」
「ありがとう、ベヒモス。アテナ、電子戦の準備を。セラフは上空から監視、異常があれば即座に知らせろ」
「了解しました」
「わ、分かったわ。気をつけてね」
「各機、発砲は厳禁だ。反撃を受けた場合のみ、非致死性兵器で応戦しろ」
静まり返った敵陣の中を、私たちは慎重に進んでいく。
兵士たちの横を通り抜ける際、いつ彼らが銃を向けてくるかと神経を尖らせたが、彼らは人形のように動かなかった。
まるで、糸が切れた操り人形のように。
「不気味だ……。まるで死体の見本市みたいだ」
セラフが震える声で呟く。
風が吹くたびに、彼らの軍服がカサカサと音を立てる。
生気のない目が、虚空を見つめ続けていた。
「おい、こいつを見てみろ」
ベヒモスが一体の兵士を指差す。
その顔には、涙の跡があった。
意識がないはずなのに、肉体だけが悲しみを覚えているかのように。
「……泣いているのか?」
「ああ。どうやら完全に意識がないわけじゃなさそうだ。悪夢の中に閉じ込められているのかもしれん」
「酷い……」
セラフが呟いた。
モルフェウスの洗脳は、精神を破壊するだけでなく、終わりのない苦痛を与え続けているのだ。
怒りが込み上げてくる。
こんな非人道的な行いを、許していいはずがない。
「急ごう。一刻も早く、彼らを解放しなければ」
私の言葉に、全員が頷いた。
足早に市街地を抜け、中枢施設へと向かう。
市内の中枢施設へ到達しても、抵抗は皆無だった。
ゲートは開放され、警備ロボットたちは火花を散らして機能停止していた。
私たちは無人の回廊を駆け抜け、司令室へと雪崩れ込む。
「クリア! ……誰もいない?」
そこには、呆然と立ち尽くすオペレーターたちがいるだけだった。
彼らもまた、洗脳から解放された直後のような混乱状態にある。
「こいつら、何も覚えていないみたいだぞ」
ベヒモスがオペレーターの一人の肩を掴んで揺さぶるが、反応は鈍い。
「誰かがやったんだ。私たちが来る前に」
アテナがメインコンソールに接続し、ログを解析する。
膨大なデータが流れる画面を見つめ、彼女が息を呑んだ。
「信じられません……。高度なハッキングによって、指揮系統(C2)システムが切断されています」
「ノアか?」
「いいえ、ノア様のシグネチャとは異なります。もっと……異質で、攻撃的なアルゴリズムです。まるで嵐のように、強引かつ鮮やかにシステムを書き換えています」
「嵐……?」
第三の勢力。
私たちの知らない誰かが、この戦いに介入している。
敵か、味方か。
警戒を強め、私は周囲を見渡した。
「出てこい! そこにいるのは分かっている!」
私が虚空に向けて叫ぶと同時に、司令室の奥にある扉が、静かに開いた。
そこから漏れ出る空気は、戦場の硝煙とは違う、どこか冷やりとした知性の気配を纏っていた。




