第28話 静かなる死の雨
息つく間もなく、モルフェウス軍の第2波が接近してきた。
その数、およそ2300。
洗脳された兵士と新型サイボーグの混成部隊が、怒涛の勢いで押し寄せる。
疲弊した燕雲には、もうこれを受け止める余力は残されていない。
「総員、撃てぇええ! 一歩も引くな!」
張瑤の叫び声が、砲撃音にかき消されそうになる。
彼女の銃口は火を噴き続けているが、迫りくる敵の壁は厚い。
「弾切れだ! 誰か、予備はないか!?」
「こっちもだ! もう撃てるものがない!」
前線から絶望的な報告が次々と飛び込んでくる。
陳睿のロボット兵団も、すでに半数以上が大破し、残った機体もエネルギー切れで動きが鈍い。
「くそっ、ここまでかよ……!」
林啓明が空になったマガジンを投げ捨てる。
敵の先鋒は、もう目と鼻の先まで迫っていた。
「おい、これを使え! ワクチンだ!」
衛生兵が塹壕を這い回り、アンプルを投げ渡す。
林啓明が製造した、「ペイル・ライダー」の中和抗体だ。
これを打たなければ、散布された瞬間に彼らも死ぬ。
「効果が出るまで数分かかる! それまで死ぬなよ!」
「ふざけんな! 打ってる間に殺されるわ!」
兵士たちは泥まみれの腕に直接注射器を突き立て、中身を押し込む。
片手で銃を撃ち、もう片方の手で太ももに注射を打つ者もいる。
消毒も何もない。生きるか死ぬかの瀬戸際で、なりふり構ってはいられなかった。
「ぐっ……! 早く回れ、薬!」
張瑤も自らの首筋に注射を打ち込み、空になった容器を踏み潰す。
血管を焼くような熱さが走る。
抗体が定着するまでのわずかな時間、彼らは無防備な状態で死神の到来を待たねばならない。
「アテナ、まだか!?」
私は通信機に向かって怒鳴るように問う。
ベヒモスの巨体で前線を支えているが、飽和攻撃の前には限界がある。
「今、散布ポイントに到達! でも、風が安定しないわ!」
アテナの声にも焦りが混じる。
細菌兵器「ペイル・ライダー」は、風に乗せて散布する。風向きが変われば、私たち自身に牙を剥く可能性すらあった。
「ええい、ままよ! ノアの計算を信じるしかない!」
アテナは意を決し、銀色のカプセルを開放した。
上空で弾けたカプセルから、目に見えない微粒子が放出される。
頼む、届いてくれ。
『境界線維持。絶対に越えさせるな』
セラフが上空からレーザーを照射し、散布区域の境界を可視化する。
赤いラインが大地に引かれる。
それは、科学の力が引いた「生と死の境界線」だった。
「来るぞ……!」
陳睿が身構える。
敵兵士の一団が、赤いラインを踏み越えた。
銃を構え、私たちに狙いを定める。
「撃たれる! 伏せろ!」
誰かが叫んだ、その瞬間だった。
先頭の兵士が、糸が切れたように膝をついた。
続いて2人、3人と、ドミノ倒しのように倒れていく。
「……え?」
林啓明が呆然と声を漏らす。
銃声はない。悲鳴もない。
ただ、バタバタと人間が倒れる音だけが響く。
「効いてる……本当に、効いてるぞ!」
兵士の1人が歓声を上げようとして、慌てて口をつぐんだ。
目の前の光景が、あまりにも異様だったからだ。
苦しむ様子もなく、ただ静かに命の灯火が消えていく。
有機生命体のみを標的とする死神の鎌が、彼らの命を刈り取っていく。
倒れた兵士たちの顔は、眠っているかのように穏やかだった。
それが余計に恐ろしかった。
血も流れず、悲鳴もなく、ただ「生命活動」という現象だけが停止する。
それは、死というよりも、存在の消失に近かった。
残されたのは、ロボット兵だけだった。
だが、彼らを指揮していた部隊が全滅したことで、統制を失い、その場で立ち往生していた。
第2波は1発の銃弾も撃ち返すことなく、物理的に消滅した。
「……終わったのか」
誰かが呟いた。
風が凪ぎ、戦場に静寂が戻ってくる。
これまで響き渡っていた爆発音や銃声、そして怒号が嘘のように消え失せていた。
聞こえるのは、私たち自身の荒い呼吸音と、風に揺れる瓦礫の音だけ。
だが、その静寂こそが何より雄弁に「死」を語っていた。
数千の命が、叫び声を上げる間もなく、ただスイッチを切られたかのように消滅したのだ。
「……気持ち悪い静けさね」
呉美琳が自身の腕を抱いて震える。
血と泥にまみれた戦場ならまだマシだったかもしれない。
この清潔すぎる死は、人間の生理的な恐怖を呼び覚ます。
見えない死神が、まだそこにいて、私たちの喉元に鎌を突きつけているような錯覚。
「これが、科学の極北か。……俺たちは、神様の真似事でもしたつもりか?」
林啓明が空を見上げて呟く。
その瞳には、深い後悔と、それ以上の諦観が宿っていた。
私たちは戦場跡に降り立つ。
そこには、死体と、動かなくなった機械の残骸だけが広がっていた。
勝利はした。上海は守られた。
だが、歓声を上げる者は1人もいなかった。
あまりにも重すぎる勝利。
足元に広がる死の光景は、私たちの心に深く冷たい影を落としていた。
「勝った……のか? これで?」
陳睿が、義手で瓦礫を握りしめる。
金属が軋む音が、静寂に響く。
「そのようね……」
張瑤が言った。
彼女は涙を見せず、ただ前を見据えていた。
だが、その背中は以前よりも小さく見えた。
彼女が背負った罪の重さが、その背を押し潰そうとしているかのようだった。
「これが、私たちの選んだ道か」
林啓明が、倒れている兵士――かつては人間だったもの――の顔に布をかける。
その手は、微かに震えていた。
敵とはいえ、同じ人間だ。それを虫けらのように殺した感触が、彼の手に残っているのだろう。
「謝罪はしない。だが、せめて安らかに眠ってくれ」
陳睿が静かに手を合わせる。
彼の義手が、夕陽を受けて鈍く光った。
「行くわよ。まだ終わっていない」
張瑤の声が、沈んだ空気を切り裂く。
私たちはこの罪と痛みを背負い、次なる戦いへ向かう決意を固める。
立ち止まれば、彼らの死が無駄になる。
そう自分に言い聞かせて。




