第26話 欲擒姑縦(よくきんこしょう)
細菌兵器「ペイル・ライダー」の完成まで、あと8時間。
燕雲の戦線は崩壊寸前だった。
弾薬は尽き、疲労は限界を超え、生き残っているのが奇跡のような状況だ。
『隊長、もう無理です! 正面ゲートが突破されます!』
通信兵の悲鳴に近い報告が響く。
『まだだ! 予備のバリケードを使え! どんな手を使っても食い止めるのよ!』
張瑤が叫ぶが、その声も枯れている。
圧倒的な敵の物量を前に、彼らの抵抗は風前の灯火だった。
『弾切れだ! くそっ、石でも投げるか!?』
『泣き言を言うな! ナイフがあるだろう! 歯でも爪でも使って戦え!』
兵士たちの怒号と絶叫が交錯する。
極限状態の中で、彼らの精神は焼き切れようとしていた。
『アレを……使うしかないか』
陳睿が呟いた。
彼は義手のメンテナンスハッチを開き、古い規格のコネクタを露出させる。
『睿、まさか』
隣にいた林啓明が目を見開く。
『ああ。プロメテウスから鹵獲した、あのスクラップ共だ。使うつもりはなかったんだがな』
彼は地下倉庫に眠っていた、旧式の防衛ロボット群を起動させた。
錆びつき、塗装が剥げ落ちた鉄屑の軍団。
かつて彼らを襲い、仲間を殺した忌まわしい兵器たちだ。
『皮肉なもんだな。俺たちの家族を奪った鉄屑を、今度は俺たちが家族を守るために使うなんて』
林啓明が自嘲気味に笑う。
『道具に罪はねえよ。使う奴がクソだっただけだ。……今からは、俺たちの番犬になってもらう』
陳睿はそれらに敵味方識別装置(IFF)と簡易音声コードを強引にねじ込み、即席の戦力へと仕立て上げていた。
『動くのかよ、これ……』
『動かすんだよ。俺の腕一本くれてやる』
陳睿の額に脂汗が浮かぶ。
神経接続の負荷が、彼の脳を焼いていた。
『行け! ポンコツ共! 最後の花道だ!』
陳睿の号令と共に、廃棄寸前のロボットたちが動き出す。
ぎこちない動きで前線へとなだれ込み、限られた弾薬をばら撒く。
それは戦闘というより、鉄屑による特攻だった。
だが、その予想外の反撃が、モルフェウス軍の足を止めた。
『ははっ、似たようなもんじゃねえか。俺たちも、あいつらも……』
使い捨ての駒。
大いなる意思によって盤上に置かれ、消費されていく存在。
だが、それでも彼らは抗う。
鉄屑には鉄屑の、人間には人間の意地があると言わんばかりに。
『今のうちに仕掛けるわよ』
呉美琳が端末を操作する。
彼女と林啓明が準備していた、「欲擒姑縦」――敵を逃がして捕らえる計略だ。
『美琳、タイミングを間違えるなよ。早すぎればバレるし、遅すぎれば全滅だ』
『分かってるわよ、啓明。あんたこそ、余計な口を挟まないで。……集中させて』
呉美琳の手指が震えているのを、林啓明は見逃さなかった。
彼女もまた、恐怖と戦っているのだ。
失敗すれば、全員が死ぬ。そのプレッシャーが、彼女の細い肩にのしかかっていた。
彼らはわざと捕虜の拘束を緩め、会話を聞かせる。
『C区画の防御壁が故障している』
『あそこを攻められたら終わりだ』
そんな偽情報を囁き合い、捕虜が逃げ出すのを見逃した。
逃げた捕虜が持ち帰る情報は、モルフェウス軍を死地へと誘うための撒き餌となる。
数分後、敵の主力が進路を変えた。
手薄に見せかけたC区画へ、怒涛の如く殺到する。
『かかった!』
張瑤が叫ぶ。
そこは、彼女が設計した「キルボックス」――十字砲火と高低差を利用した処刑場だった。
狭い路地に押し込まれた敵部隊に対し、陳睿のロボット兵団が一斉射撃を浴びせる。
逃げ場のない隘路で、敵は次々と鉄屑と化していく。
『ざまあみろ! こちとら伊達にこの街で生きてねえんだ!』
陳睿が快哉を叫ぶ。
だが、呉美琳の表情は晴れない。
『まだよ……。さらに欺瞞工作を続けるわ。もっと深く、もっと確実に』
彼女は、電力供給の瞬断ログや監視カメラの死角を偽装し、敵のセンサーを欺き続けた。
「そこが弱点だ」と信じ込ませることで、敵の進軍ルートを完全にコントロールする。
物理的な壁ではなく、情報の壁で敵を操る高度な心理戦。
『すごいな……。まるで敵の動きが手にとるように分かる』
林啓明が感嘆の声を漏らす。
『当然でしょ。私は天才ハッカーなんだから。……褒めるなら、あとで高級チョコレートでも寄越しなさいよ』
呉美琳は強がってみせるが、その顔色は紙のように白い。
冷や汗がキーボードに落ちる。
だが、それも長くは続かない。
敵の数は無限に等しく、ロボットたちの弾薬も尽きようとしている。
砂時計の砂が落ちきるまで、あと数時間。
そのわずかな時間が、永遠のように長く感じられた。
『隊長、弾切れです!』
『私のを使え!』
張瑤が予備のマガジンを投げる。
彼女の手持ちも、それが最後の一本だった。
『あと少し……あと少しだけ、耐えてくれ』
張瑤は祈るように、引き金を絞り続けた。
彼女の祈りが通じるか、それとも運命が尽きるか。
限界の時は、刻一刻と迫っていた。




