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第24話 引き金を引く指

 戦闘開始から12時間が経過した。

 上海の街は、半ば廃墟と化していた。

 燕雲イェンユンの防衛ラインは徐々に後退し、今は中心部の租界エリア周辺まで押し込まれている。


『識別信号確認……燕雲イェンユン所属、リー伍長です』


 スコープを覗いていた狙撃手が、震える声で報告する。

 照準の先には、ふらふらと歩いてくる1人の兵士。燕雲イェンユンの軍服を着ているが、その目は完全に死んでいる。

 彼もまた、北京で捕まり、改造された1人だった。


『……許可する。撃て』


 張瑤チャン・ヤオの声は、もはや感情を削ぎ落とした機械のように冷徹だった。

 彼女はルールを決めた。

 味方識別信号を発する相手であっても、敵対行動をとるならば即時排除する。

 それは、この戦線を維持するための、最低限の、そして最も残酷な規律だった。


『うぅ……、すまない、リー! 許してくれ、ミン!』


 銃声。

 李伍長だったものが倒れる。

 狙撃手は銃を抱いたまま泣き崩れたが、すぐに次の敵が迫ってくる。

 泣いている暇などない。


『隊長……俺には無理です……。これ以上は……!』


 狙撃手は震える手を抑え込みながら、次の弾丸を装填する。

 だが、その目からは涙が溢れ、スコープが曇って見えない。


『撃て』


 張瑤チャン・ヤオの命令は短かった。

 慰めも、励ましもない。ただ、冷たい事実としての命令。


『お前が撃たなければ、後ろにいる傷病者が死ぬ。お前の家族が死ぬ。……選べ。心を殺して引き金を引くか、ここで全員死ぬか』


 究極の二択を突きつけられ、狙撃手は絶叫しながら引き金を引いた。

 その叫び声は、無線を通じて全員の耳にこびりついた。

 乾いた銃声が響き、かつての仲間が崩れ落ちる。

 狙撃手は銃を投げ捨て、嘔吐した。


 張瑤チャン・ヤオは、無線を切った手で自身の顔を覆った。

 指揮官である彼女が唯一、誰にも見せずに弱音を吐けるのは、この掌の中の暗闇だけだった。

 指の隙間から、押し殺した嗚咽が漏れる。


 彼らは、こんな戦いを何時間も繰り返している……。


「……残酷な任務だ」


 私はその光景を、モニター越しに見ていた。

 視覚センサーが、倒れた兵士の顔とデータベースを照合する。

 『李・リー・ミン。二十四歳。好きな食べ物は小籠包』。

 かつて交わした些細な会話の記録が、ノイズのように思考回路を走る。


「……エラー。最適解が見つかりません」


 私は呟く。

 AIである私にとって、「脅威の排除」と「人命保護」は最優先されるべき行動原理だ。

 だが、今の状況ではその2つが完全に矛盾している。

 脅威を排除しようとすれば、守るべき人間を殺さなければならない。

 人命を守ろうとすれば、脅威を見逃し、結果としてより多くの味方が死ぬ。

 論理の迷路ループに陥り、遠隔操作のレスポンスがコンマ数秒遅れる。


『迷うな、レムナント!』


 通信機から張瑤チャン・ヤオの怒声が飛んできた。

 彼女は土埃にまみれた顔で、カメラを睨みつける。

 その目は赤く充血し、涙の跡が煤汚れの上に筋を作っていた。


『AIのお前が迷ってどうする! 戦場を俯瞰しているお前が揺らげば、私たちは全滅するぞ! 私たちの手を、これ以上汚させるな!』


「……申し訳ない。だが、非致死性の制圧方法は取れないのか。電撃弾や粘着ネットなどを使用すれば……彼らを救えるかもしれない」


『そんな甘い手で止まる相手じゃない! それに、数を見てみろ!』


 張瑤チャン・ヤオが指差す先には、無数の敵影が蠢いていた。

 一人一人を丁寧に捕獲している余裕など、どこにもない。

 波のように押し寄せる「元・仲間」たち。

 圧倒的な物量の前では、効率的な殺戮だけが唯一の生存手段だった。


「でも、彼らを殺せば、救出の可能性はゼロになる。彼らにも家族がいる。待っている人がいるんだ」


「それに、データによれば、初期段階の改造なら逆行処置が可能かもしれない。ノアなら、あるいは……」


『……違うな』


 張瑤チャン・ヤオは静かに、けれど強い口調で私の言葉を遮った。

 彼女は倒れた李伍長の死体を見つめ、哀しげに目を細める。

 その表情は、指揮官のものではなく、姉のような慈愛に満ちていた。


『ここに縛られている魂がある。殺すことでしか、救えないときがあるんだ。これ以上、彼らを化け物として晒し者にするな』


「殺すことでしか……? それは、論理的矛盾だ。生命活動の停止は、全ての可能性の消失を意味する」


『理屈じゃないんだよ、レムナント。あいつらの頭の中を見てみろ。インプラントで無理やり動かされ、意識はあるのに体は言うことを聞かない。自分が仲間を殺す感触を、ずっと感じ続けているんだぞ。それがどれほどの地獄か、想像できるか?』


 彼女は自分の胸を叩く。ドン、と鈍い音が響く。


『長く戦わせるほど、彼らは人間としての尊厳を失っていく。ただの『部品』として使い潰される前に、人間として終わらせてやる。それが、今の私たちにできる唯一の救いだ。……汚れ仕事は私たちがやる。だからお前は、導いてくれ』


 それは、あまりにも悲しい理屈だった。

 だが、戦場の現実がそれを肯定していた。

 生きて虜囚の辱めを受けるより、死して潔しとする。古い時代の武人の言葉が思い出される。

 彼らを「解放」できるのは、死という名の安息だけなのか。


「……分かった。だが、記録には残す。彼らが最後まで人間として戦い、そして散っていったことを。それが、私にできるせめてもの手向けだ」


『ああ……頼む。彼らの生きた証を、誰かが覚えていてくれるなら、それだけで救われる』


「……理解した。戦術支援を再開する」


 私は迷いを捨て、コンソールに向き直る。

 これは戦闘ではない。救済だ。

 狂った神に囚われた魂を解放するための、介錯だ。

 そう定義し直すことで、私は再び指示を出すことができた。

 たとえそれが、自己欺瞞だとしても。


『行くぞ! 1人でも多く、彼らの呪縛を断ち切る! 謝るな! ただ撃て!』


 張瑤チャン・ヤオの号令と共に、彼らは再び死の嵐の中へと飛び込んでいった。

 その背中は、涙で濡れていた。


ヤオ、あんたは強いな』


 林啓明リン・チーミンが、隣で銃を撃ちながら呟く。

 彼もまた、歯を食いしばりながら引き金を引いていた。


『強くなんかないわよ……。ただ、泣くのを我慢しているだけ。部下の前で泣き喚く隊長なんて、誰もついてこないでしょ』


『違いない。……終わったら、酒を奢れよ。一番高いやつをね』


『バカ言わないで。あんたが奢るのよ。副隊長の手当、私より高いんだから』


 軽口を叩き合う。そうでもしなければ、心が壊れてしまいそうだったからだ。

 張瑤チャン・ヤオの声は震えていたが、その手元は正確に敵を捉えていた。


『生きて帰るわよ。みんなで』


『ああ、もちろんさ』


 涙を拭う暇さえない戦場で、彼女たちは戦い続ける。

 罪を背負い、血に濡れた手で、未来を掴むために。

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