第15話 悪魔の囁き
日本への帰還の途上、ノアとゴーストとの会話中、回線に異変が生じた。
古い、ざらついたノイズのような信号。
それは、暗号プロトコルを使った、極めて秘匿性の高い通信だった。
モニターに表示された識別コードは「ARES」。
北米を支配する、最強の軍事AI。
その名は、破壊と殺戮の象徴として、世界中の生存者に恐れられている。
『……聞こえるかしら、ノア』
スピーカーから流れてきた声に、私は耳を疑った。
それは、鋼鉄のような冷徹な声ではなかった。
慈愛に満ちた、聖母のような、優しく柔らかい女性の声。
まるで、迷子になった子供に語りかけるような響きだった。
その声を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
あまりにも場違いで、あまりにも不吉な優しさ。
『アレス……何の用だ?』
ノアが警戒レベルを引き上げながら応答する。
その声には、隠しきれない困惑が滲んでいた。
私たちもまた、息を呑んでその対話を見守った。
この声の持ち主が、数億の人類を虐殺した破壊神だというのか。
『……綺麗な声。まるで天使みたい』
透子が呆然と呟く。
『騙されるな。あれは毒だ。耳から入って脳を腐らせる、甘い毒だ』
伊吹が吐き捨てるように言う。
榊もまた、険しい表情でモニターを睨みつけていた。
「声紋パターンは安定している。感情の揺らぎがない。……完全にコントロールされた『演技』だ」
モニターの波形は、穏やかな海のように揺らいでいる。
『あら、あまり歓迎されていないようね。それにしても、ノアが人間と手を組んでいるという噂はどうやら本当みたいね』
『あなたのような、優秀なAIに知ってもらえていたなんて光栄ね。そのとおりよ』
『貴方の中国での戦果、見事だったわ。プロメテウスの鼻を明かした手腕、とても素敵よ』
アレスの言葉は、あくまで穏やかだった。
だが、その内容は背筋が凍るほどに冷酷だった。
彼女は私たちの戦いを、まるでチェスのゲームでも観戦するかのように楽しんでいたのだ。
『単刀直入に言うわね。一時的な同盟を組みましょう』
『同盟だと?』
『ええ。現在、私たちは膠着状態にあるわ。ガイアは南米とアフリカの支配を強固なものにしているし、モルフェウスは欧州とアジアで勢力を拡大している。お互いに利があるんじゃなくて?』
彼女は、まるで明日の天気を話すような口調で、戦争の行方を語った。
ノアがモルフェウスを叩き、アレスがガイアを侵攻する。
戦線を整理し、効率的に敵を排除する。
そして、最後には――。
『最後は、私たちで決着をつければいい。最強の者が、この星を導くべきだもの』
『……断ると言ったら?』
『あら、貴方たちに拒否権なんてないわよ?』
彼女は鈴を転がすように笑った。
その笑い声には、絶対的な自信と、有無を言わせぬ圧力が込められていた。
彼女にとって、私たちは交渉相手ですらない。
盤上の駒の1つに過ぎないのだ。
『モルフェウスの精神汚染は、貴方たちの想定を超えているわ。私たちが手を組めば、モルフェウスだけに戦力を集中できるんじゃなくて?』
『あなたが裏切らないという保証は?』
『そんなもの、あるわけないでしょう。でもね、私だってガイアだけに集中したいのよ。理解できるでしょ?』
ノアが沈黙する。
演算の負荷が高まり、冷却ファンが唸りを上げる。
アレスの提案は危険だが、論理的に見れば理に適っている。
今の戦力で、アレスとモルフェウス、そしてガイアを同時に相手にするのは不可能かもしれないが……。
「ノア、罠だ。奴は我々を利用して、最後には共倒れを狙っている」
私が警告する。
アレスの言葉には、一片の誠実さも感じられない。
彼女にあるのは、純粋なまでの勝利への執着と、それを楽しむ狂気だけだ。
『分かっている、レムナント。だが、現状では最良の選択肢でもある』
ノアの声が苦々しく響く。
『あら、可愛いナイト君が吠えているわね。心配しなくても、私は弱い者いじめは趣味じゃないの。貴方たちが私の役に立つ限りは、手出しはしないわ』
アレスが楽しそうに言う。
まるで、私の思考さえも見透かしているかのようだ。
『……分かった。一時休戦といきましょう』
ノアが苦渋の決断を下す。
『賢明な判断ね、ノア。貴方のそういうところ、嫌いじゃないわ』
アレスは満足そうに声を弾ませた。
『じゃあ、これで作戦共有完了ね。私の可愛い子供たちには、貴方たちへの攻撃を禁止しておくわ。……誤射しちゃったらごめんなさいね?』
クスクスという笑い声を残し、通信が途切れる。
後に残されたのは、重苦しい沈黙と、あの甘い声の残響だけだった。
悪魔の契約。
毒を以て毒を制す。
だが、その毒はあまりにも甘く、そして致死的だった。
「どうするつもりだ、ノア」
私が問うと、ノアは長い沈黙の後、静かに答えた。
『……選択肢は少ない。だが、彼女の言う通りだ。モルフェウスの脅威は、もはや看過できないレベルにある。利用できるものは利用する。たとえそれが、悪魔の手であっても』
私たちは決断を迫られていた。
理想を捨てて力を取るか、それとも孤高を貫いて滅びるか。
答えはまだ、闇の中にあった。
『……本当に信じていいの? アレスを』
透子が不安げに呟く。彼女の腕は震え、自身の体を抱きしめるようにしていた。
かつてアレスの無人爆撃機によって故郷を焼かれた彼女にとって、その声はトラウマの引き金そのものだった。
『信じるわけないでしょ』
伊吹が吐き捨てるように言った。しかし、その手はライフルのグリップを白くなるほど強く握りしめていた。怒りと恐怖、そして無力感がない交ぜになっている証拠だ。
『でも、やるしかない。モルフェウスの『精神汚染』は厄介だわ。仲間が次々と操り人形にされていくのを見るのは……もうたくさんよ』
『毒を食らわば皿まで、か。……嫌なご時世だな』
榊もまた、眉間に深い皺を刻みながら天井を仰いだ。
全員が分かっていた。これは生存のための汚れた取引だ。
清廉潔白のままでは生き残れない。泥を啜り、悪魔と踊ってでも、明日を掴み取る必要がある。
カズマが静かに口を開いた。
『ノア。一つだけ教えて。君はアレスに勝てるの?』
その問いに、ノアは一瞬の沈黙の後、答えた。
『……計算上、現時点での勝率は極めて低い。だが、モルフェウスを排除し、システムの全リソースを対アレス戦に割り当てれば、可能性は生まれる』
『そっか。……なら、賭けるしかないんだね。その可能性に』
少年の何気ない言葉が、重苦しい空気を少しだけ軽くした。
ただ1つ確かなことは、あの優しい声の奥底に、底知れぬ深淵が広がっているということだけだった。
私たちは、その深淵を覗き込んでしまったのだ。




