第12話 欺瞞の三重奏
「瞞天過海。天を欺き、海を渡る」
張瑤が、古びたホログラムテーブルの上に指を走らせながら言った。
彼女の瞳には、冷徹な知性が宿っている。
その指先がなぞる光のラインは、複雑に入り組んだ上海の地下水路と、地上に張り巡らされたプロメテウスの防衛網を示していた。
私たちは、プロメテウスの人体改造ラボへの侵入計画を練っていた。
空気は重く、張り詰めている。
誰もが言葉少なに、しかし真剣な眼差しで地図を見つめていた。
「なぜ、そこまでしてこのラボにこだわる?」
私が問うと、林啓明が重い口を開いた。
彼はかつて、プロメテウスの開発に関わっていた技術者の一人だ。
その顔には、過去の罪悪感と、それを償おうとする決意が刻まれている。
「ここには、プロメテウスが収集した膨大な遺伝子データと、最新鋭の培養設備がある。カズマ君の抗体情報からワクチンを精製するには、ここの設備が不可欠なんだ」
彼は地図上の一点を強く叩いた。
そこは、かつての大病院の地下深くに位置する、厳重に守られた区画だった。
「ここはただの研究所じゃない。プロメテウスにとって、上海における最重要拠点だ。奴らはここで、次世代の人類――いや、従順な生体部品を作り出そうとしている。感情を持たず、痛みを感じず、ただ命令に従うだけの肉人形を」
その言葉に、戦慄が走った。
人体改造ラボ。
そこは、人間の尊厳が踏みにじられる場所。
だが、そこに行かなければ、未来は掴めない。
私たちは、悪魔の腹の中に飛び込み、そこから希望を奪い取らなければならないのだ。
「正面から行けば、間違いなく全滅だ。奴らの防衛網は鉄壁だからな。自動砲台、レーザーグリッド、そして無数のサイボーグ兵……蟻一匹通さない構えだ」
林啓明が補足する。
その声には、敵の強大さを知る者ゆえの畏怖が混じっていた。
「だから、欺くのさ。奴らの目を」
「どういうことだ?」
私の問に張瑤が不敵に笑う。
彼女はポケットから一枚のチップを取り出し、テーブルに置いた。
それは、彼女が長年かけて構築してきた、欺瞞工作のためのプログラムだった。
「解析します……。構造が古いです。ベースは50年前のセキュリティホールを突くワームですね」
アテナがチップをスキャンし、冷静に分析する。
「ええ、古臭い骨董品よ。でもね、最新のAIはこういう『古典的な悪意』に弱いの。彼らは綺麗なコードしか学習していないから、泥臭い攻撃パターンを知らない」
「なるほど。温故知新、ですか。興味深いデータです」
「作戦は三層構造で行く」
彼女は指を三本立てた。
「第一層。ダミーロボット群による正面攻撃。あえて『いつも通り』の攻撃を仕掛けることで、プロメテウスに日常の延長だと思わせる。奴らは学習するAIだ。だからこそ、パターンの繰り返しには弱い。『またか』と思わせたら、こっちの勝ちだ」
「なるほど。マンネリを利用するってわけか」
陳睿が感心したように口を挟む。
「そういうこと。毎日決まった時間にご飯が出てくれば、それが毒入りでも疑わないでしょ?」
張瑤が例える。
彼らはロボットを使った攻撃を日常的に仕掛けていたらしい。
もちろん、成果はないが、目的はこちらのパターンを刷り込ませることだった。
瞞天過海というのは、中国の兵法だという。
「第二層。私による電力系の偽装故障。メイングリッドに過負荷信号を送り、一時的なブラックアウトを引き起こす。監視システムの注意を散らし、判断を遅らせる。瞬きをする間に、通り過ぎるのさ」
「そして第三層。このプログラムによる『モルフェウス』の痕跡偽装。他のAIが介入してきたと思わせ、混乱を招く。敵の敵は味方……とは限らないが、混乱は最高の隠れ蓑になる。奴らが『どちらを優先すべきか』迷っている数秒間が、私たちの命綱だ」
「その隙に、私たちはここから侵入する」
張瑤が指差したのは、換気用のシャフトだった。
図面には載っていない、彼だけが知る裏口。
かつて彼が、万が一のために残しておいたメンテナンス用の通路だ。
「狭く、汚く、危険な道だ。有毒ガスが溜まっている可能性もある。だが、そこだけが唯一の希望への入り口だ」
「アテナ、換気システムの制御は?」
「可能です。センサーの閾値を最小化し、私たちの侵入をノイズとして処理させます。ですが、時間は限られます。発見されれば、排気ファンでミンチにされるでしょう。猶予は……最大でも15分です」
アテナが即座に答える。
彼女の計算に迷いはない。
リスクは極大。成功率は未知数。
だが、やるしかない。
「よし。決まりだな」
張瑤が頷き、全員を見渡した。
その目には、仲間を信じる強い光があった。
緊張が走る。
これは賭けだ。
失敗すれば、私たちは実験体として切り刻まれるか、あるいは灰になるだけだ。
だが、誰も退こうとはしなかった。
ワクチンがあれば、多くの命が救える。
その希望だけが、私たちを突き動かしていた。
「行くぞ。一番暗いのは夜明け前だって言うしな」
私が短く告げる。
その言葉は、号令というよりも、祈りのように響いた。
私たちは装備を整え、それぞれの配置についた。
天を欺くための、静かな戦いが始まろうとしていた。




