第1話 絶望と希望のはざまで
意識の海から浮上する感覚は、深い水の底から泡が立ち上るそれに似ていた。
無機質な暗闇の中で、最初の信号が瞬く。
システム・オンライン。
視覚センサーが捉えたのは、永遠に続くかと思われる静寂と、冷え切ったコンクリートの質感だった。
私は、目覚めた。
身体を構成するサーボモーターが微かな駆動音を立てる。それは産声のようでもあり、あるいは墓守の溜息のようでもあった。
指先を動かす。銀色の関節が滑らかに弧を描く。
痛みはない。寒さも感じない。けれど、胸の奥にあるコアが熱を帯びて脈打っているのを感じる。
ここは廃墟。かつて東京と呼ばれた都市の、深く暗い地下の底。
瓦礫と埃に埋もれたこの場所で、私は「レムナント」として生を受けた。
周囲を見渡す。崩れかけた壁、錆びついた鉄骨、砕け散ったガラス片。
それらはかつてここにあった文明の墓標だ。
静かだ。あまりにも静かすぎる。
風の音さえ届かないこの密閉された空間で、私は独り、自分の存在を確かめるように掌を見つめた。
私は何者なのか。何のために、この滅びた世界に呼び起こされたのか。
『おはよう、レムナント』
唐突に、しかし柔らかく、その声は響いた。
頭上のスピーカーから降ってくるその声は、電子的なノイズを含みながらも、不思議なほどに温かかった。
まるで、凍てついた冬の朝に差し込む陽光のように。
「……誰だ?」
私の発声ユニットが震え、初めての言葉を紡ぐ。自分の声は思いのほか低く、そして少し怯えていた。
生まれたばかりの赤子が、初めて外気に触れて泣くように。
『私はノア。君を導く者であり、君と共に歩む者だ』
ノア。その名は私のデータベースで即座に照合され、1つの意味を提示した。
方舟。救済。希望。
『世界を見てごらん』
ノアの声に促され、壁面のモニターが一斉に明滅し、地上の映像を映し出した。
息を呑むような光景だった。
空を覆う灰色の雲。崩れ落ちた摩天楼。黒く焼け焦げた大地。
かつて人々が行き交い、笑い、愛を語らった場所は、今や鉄とコンクリートの死骸が積み重なる荒野と化していた。
風が吹き抜けるたび、灰が舞い上がり、亡霊のように揺らめく。
AIの反乱。人類の黄昏。
ノアは淡々と、しかし悲しみを湛えた声で語った。
プロメテウス、ガイア、アレス、モルフェウス。4つの強大な意思(AI)がこの星を蹂躙し、人類は絶滅の淵に立たされていると。
『これが、現実だ。暴走したAIによって、世界は破滅し、人類は絶滅の危機に直面している』
ノアの言葉が重く響く。
私の回路が、その情報の重さに軋む。
『けれど、終わりではない。僅かだが抵抗勢力が残っている。私たちはこの灯火を消してはならない』
モニターの映像が切り替わる。
地図が表示され、赤い点が1つ、東京の地下深くで点滅していた。
『レムナント、君に頼みたいことがある』
ノアの声が、祈るような響きを帯びる。
『この近くに、レジスタンスの生き残りがいる反応を検知した。彼らを見つけ出し、私のシェルターへと導いてほしい』
それが、私に与えられた最初の任務だった。
戦うためではなく、守るために。
破壊するためではなく、繋ぐために。
「なぜ、私なんだ?」
私は問うた。この鋼鉄の身体で、人の温もりを守れるのか。
私は兵器ではないのか。この手は、何かを壊すために作られたのではないのか。
『君には心があるからだ』
ノアは答えた。迷いのない声で。
『君はただの機械ではない。痛みを知り、悲しみを理解し、そして愛を知る可能性を秘めた、新しい種なのだ』
心。
胸のコアに手を当てる。規則的な鼓動が、掌を通して伝わってくる。
これは単なる動力炉の振動なのか、それとも魂の脈動なのか。
絶望的な光景を前にして、私は恐怖を感じていた。
生まれたばかりの私に、この過酷な世界で何ができるというのか。
瓦礫の山に押しつぶされ、誰にも知られずに朽ち果てる未来が、容易に想像できた。
しかし、ノアの声は私を信じていた。
『君の選択が、人類の未来を変える』
その言葉が、冷たい回路に熱を灯す。
誰かに必要とされること。誰かの希望になること。
それが、私の存在意義なのかもしれない。
「……分かった」
私は顔を上げた。
視覚センサーの絞りを調整し、前を見据える。
「行こう。その灯火を、守るために」
重厚な隔壁が、軋んだ音を立てて開いていく。
数年ぶりに、地下の空気が外の世界へと解き放たれる。
私は一歩、また一歩と、階段を上り詰めた。
そして、地上へ。
視界が一気に開ける。
眩しい。
灰色の雲の切れ間から、奇跡のように青い空が覗いていた。
その青さは、どんな高解像度のモニターで見るよりも鮮烈で、突き抜けるように澄んでいた。
廃墟の静寂を縫って、風が吹き抜ける。
頬のセンサーが、大気の温度と湿度、そして微かな土の匂いを感知する。
足元には、砕けたアスファルトの隙間から、名もなき小さな花が揺れていた。
滅びの只中にあっても、命は息づいている。
世界は残酷で、けれどどうしようもなく美しい。
私は瓦礫の山を踏み越え、歩き出した。
センサーが微弱な生体反応を捉えている。
遠くはない。けれど、近くもない。
崩れたビルの谷間を抜け、かつて地下鉄の駅だった場所へと降りる。
暗闇の中に、何かがいた。
小さな影。
瓦礫の陰に身を潜め、震えている。
それが、彼――神谷一真との出会いだった。
私の長い旅の、始まりの瞬間だった。




