後編:男子1/3社会。愛は義務か、選択か。
あらすじ:
男性の命を奪う伝染病「ゼウス・ウィルス」により、毎年1割近い男性が亡くなり、男女比1:3となった終末的な社会。高校に入学した篠宮悠人は、愛する幼馴染・水瀬陽葵との「処女での添い遂げ」こそが、自身の生存と彼女を守る「義務」だと信じ、陽葵を独占する。しかし、その独占は陽葵の進路の夢を奪う加害へと変質し、ライバルたちの切実な反発と友人の死が、二人の関係を破綻させる。悠人は贖罪の道を選び、陽葵は自己の主体性を回復。ワクチン成功という希望の中、陽葵は正妻として、愛の共同体という新たな未来を創造する。
登場人物:
篠宮 悠人:正義感と愛が空回りする少年。過ちから贖罪の道へ。
水瀬 陽葵:自分の純粋な想いを大事にしたい少女。
望月 隼人:未来を悲観し、享楽的な愛に溺れる。
黒崎 凛:独占を社会の罪と断じる社会派の学級委員長。
緑川 繭:愛を平等に分かち合うべきと主張する、情動的な少女。
白石 楓:劣等感から陽葵の破滅を望む陰湿な手段を選ぶ潜伏者。
## 幕三:支配の崩壊と最終決断
### 第25話 【転換点】罪の報酬
望月隼人が死んだ。
その事実は、重い鉛のように俺たちの日常に沈殿し、春が来ても溶けることはなかった。俺たちは高校三年生に進級した。クラス替えが行われ、教室の窓から見える桜は、去年と同じように無感動に咲き誇っている。だが、俺の目に映る世界は、あの日、病院の廊下で立ち尽くして以来、取り返しのつかないほど歪んでしまっていた。
隼人の最後の言葉。『お前の『正しさ』が、お前自身を滅ぼさなきゃ、いいな』。
あの呪いのような言葉が、俺の頭の中で反響し続けている。俺の「生存」は、友人の「死」という犠牲の上に成り立っているのではないか。俺が陽葵を独占したことが、隼人を過剰な「社会的責任」へと追い立て、彼の死を早めたのではないか。
俺の恐怖は、もはや「自分が死ぬこと」ではなかった。俺が「友人を殺したかもしれない」という、おぞましい「罪」の意識。それが、俺の行動原理を根本から変質させていた。俺は、この耐え難い罪の重圧から逃れるために、陽葵への支配をさらに強めた。彼女を俺の「密室」に閉じ込め、彼女のすべてを管理し、あの冷徹な儀式を繰り返すことだけが、俺が犯した罪から目をそむけさせてくれる唯一の麻酔だった。
放課後、俺の部屋。外の喧騒から切り離された密室で、儀式は淡々と行われていた。俺は、陽葵の制服のボタンを、一つ一つ外していく。彼女は、あのクリスマスに最後の抵抗を見せて以来、まるで感情を失った人形のように、俺のされるがままになっている。
俺は、彼女の髪から香る柑橘系の匂いを深く吸い込んだ。この匂いだけが、俺の罪悪感を一時的に麻痺させる。俺は、彼女の華奢な肩を掴み、ベッドの上に押し倒した。これは愛ではない。俺の罪を隠蔽するための、冷酷な「管理」だ。
俺の手が、彼女の淡い色のインナーウェアに触れ、その下の、B70にも満たないささやかな膨らみを、所有権を確認するように圧迫する。陽葵の身体が、ビクッと微かに震えた。
だが、その瞬間。俺は気づかなかった。固く閉じられた彼女の瞼の裏側で、陽葵が、まったく別の「真実」に到達していたことなど。
陽葵は、俺の冷たい指の感触を、暗闇の中で冷静に受け止めていた。隼人の死。それは、五年前の父親の死の、完璧な再現だった。そして、その死にゆく友人の隣で、罪悪感に顔を歪め、震えていた悠人。あの日、病院の廊下で、彼女の信じてきた世界は崩壊した。
私と悠人の関係は、愛などではない。それは、悠人の「死の恐怖」と、私の「役割意識」によって縛られた、歪な「契約」。そして、その契約こそが、悠人を苦しめている。私という「道具」に固執するあまり、彼は友人の死に罪悪感を抱き、私の未来を奪うという、さらなる「過ち」を犯し続けている。私の身体が、彼を縛り付ける「呪い」なのだ。
だが、あの日、彼女は同時に、もう一つの事実に気づいてしまった。この、屈辱的であるはずの儀式の中で、自分の身体の奥底から湧き上がる、あの生々しい「熱」。それは、「義務」でも「役割」でもない。悠人に「求められている」という、歪んだ快感ですらない。
それは、ただ、私自身のもの。この身体は、たとえ悠人に支配されていても、この感覚だけは、私だけのものだ。彼が私を「道具」として求めてくる、その瞬間にだけ、私は、この身体が確かに「自分のものである」と感じることができる。
陽葵の内部で、決定的な何かが覚醒していた。彼女の性的欲求は、もはや「義務」の対価ではない。それは、この絶望的な支配関係の中で、彼女が唯一「自分の意思」で感じることができる、最後の「生」の実感だった。悠人は、私の心を奪った。私の未来も奪った。だが、この「感覚」だけは、誰にも奪わせない。彼女の心は、この瞬間、悠人から静かに、そして決定的に「離反」を始めていた。
「……ん……っ、ふ……」
陽葵の喉から、いつものとは違う、わずかに熱を帯びた吐息が漏れた。
俺は、その変化に気づかない。俺は、彼女の反応を、単なる「服従」の証としてしか受け取れず、自らの罪悪感を隠蔽する行為に、より深く沈んでいった。
その夜、俺の部屋でつけっぱなしになっていたテレビが、何気ないニュースを伝えていた。
「……深刻化する男性不足を受け、政府は、難関国立大学および一部の私立大学において、女性の入学定員枠を、来年度から大幅に拡大する方針を発表しました。特に、新星総合医科大学などの医学・研究分野では……」
俺は、そのニュースを、ぼんやりと聞いていた。
だが、俺の腕の中で、儀式の後、虚ろに横たわっていた陽葵の瞳が、そのニュース速報のテロップを捉えた瞬間、暗闇の奥で、わずかに光が灯ったのを、俺は知らなかった。社会が、皮肉にも、彼女が諦めたはずの「夢」への道を、再び照らし始めていた。陽葵は、俺の支配下で完璧な人形を演じながら、その胸の奥底で、「誰にも決められない自分」を取り戻すための、静かな渇望を燃やし始めていた。
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### 第26話 文化祭の男役
高校三年生の秋風が、グラウンドの砂埃を虚しく巻き上げていた。隼人が死んでから、季節は二つ巡った。だが、俺、篠宮悠人の心に空いた穴は、塞がるどころか、彼の「空席」が教室から物理的に消え去ってなお、より深く、冷たい罪悪感の澱となって溜まり続けていた。
隼人の最後の言葉。『お前の『正しさ』が、お前自身を滅ぼさなきゃ、いいな』。あの呪いのような言葉が、俺の行動を縛っていた。俺は、友人を間接的に殺したかもしれない「加害者」だ。そのおぞましい自己認識が、俺の恐怖の性質を「死」から「罪」へと変質させた。俺が陽葵を支配し続ける動機は、もはや「生存」のためではなかった。この耐え難い「罪」の意識から目をそむけるため。彼女を俺の「密室」に閉じ込め、彼女のすべてを管理し、あの冷徹な儀式を繰り返すことだけが、俺の精神を保つ唯一の麻酔となっていた。
文化祭当日。その空気は、浮かれながらも、どこか決定的な「不在」を抱えていた。校門に立てられたアーチも、校舎の壁を彩る装飾も、そのほとんどが女子生徒の手によるものだ。体育祭の時と同じ、いや、それ以上に、ここは「女性の社会」だった。男子生徒は、その希少性ゆえに客寄せのパンダのように扱われるか、あるいは、俺のように、その喧騒から切り離された存在として、日陰にいるかのどちらかだった。
俺は、陽葵の腕を掴み、人混みを避けるように校舎の裏手を歩いていた。俺の「密室」のルールは、文化祭という「ハレの日」においても絶対でなければならない。
「陽葵。クラスの出し物には行かなくていい。どうせ、女子ばかりの喫茶店か何かだろう。俺の部屋に行くぞ。ここより安全だ」
俺は、いつもの管理者の口調で、決定事項を告げた。陽葵の身体は、この数か月で、俺の支配に完璧に順応していた。彼女は、あのクリスマスに最後の抵抗を見せて以来、俺の言葉に反論することはない。ただ、冷たい人形のように、俺の儀式を受け入れるだけだった。だが、その日。陽葵は、俺の手を振り払うのではなく、しかし、明確な意志を持って立ち止まった。
「……ごめん、悠人」
その、か細いが、芯のある声に、俺は眉をひそめた。彼女は、俺の視線から逃れるように、うつむいたまま続けた。
「今日は、行けない。……私、クラスの、演劇に出るから」
「……なんだと?」
演劇。俺は、その言葉に、思考が停止した。俺の許可なく、陽葵が、そんな活動に参加していたというのか。
「……クラスで、人手が足りなくて。……誰も、やる人がいなかったから。……私が、やるって」
俺の内部で、黒い独占欲が燃え上がった。彼女の行動を、今すぐにでも力ずくで止めさせたい衝動に駆られる。だが、その衝動は、脳裏をよぎった隼人の死に顔によって、強引に抑え込まれた。俺は「加害者」だ。俺が、ここで、かつて橋本にしたような暴力や、早苗にしたような威嚇を繰り返せば、それは、俺の「罪」をさらに上塗りするだけだ。俺の罪悪感が、皮肉にも、陽葵への物理的な支配に、ブレーキをかけていた。俺は、自分の「罪」が、彼女のこの「逸脱」を黙認せざるを得ない状況を作っているという事実に、奥歯を噛みしめた。彼女が、あの春に自覚した、俺の知らない「自分自身の意志」が、俺の罪悪感という名の檻の隙間から、漏れ出し始めている。
「……何時からだ」
「……午後、一番。体育館で」
「……そうか。……なら、それが終わるまでだ。終わったら、すぐに俺のところに来い。いいな」
俺は、それだけを吐き捨てるのが精一杯だった。陽葵は「うん」と小さく頷くと、俺に背を向け、準備室へと小走りで去っていった。
俺は、その小さな背中が、俺の管理下から逃れ、雑踏に消えていくのを、ただ見送ることしかできなかった。俺は、言いようのない焦燥感に駆られ、体育館へと向かった。
体育館は、熱気に満ちていた。だが、その熱気もまた、女子生徒たちのそれだった。客席のほとんどを、保護者らしき女性たちと、他のクラスの女子が埋めている。
俺は、一番後ろの、最も暗い隅の席に身を潜めた。
やがて、ブザーが鳴り、照明が落ちる。古びた緞帳が上がり、スポットライトが舞台を照らし出した。
出し物は、この男女比の歪んだ世界を反映した、古典的な悲劇のパロディ。男役はすべて女子が演じ、数少ない男子生徒は、姫役か、あるいは舞台装置の役しか与えられていない。
そして、陽葵は、その舞台の中央に立っていた。
俺は、息を呑んだ。
そこにいたのは、俺の知る水瀬陽葵ではなかった。
彼女は、まるで宝塚歌劇団の男役スターのような、黒い燕尾服に身を包んでいた。いつもは清潔に切りそろえられているだけの髪は、男役らしくオールバックに固められ、ドーランとアイラインで施された舞台化粧が、彼女の顔立ちを、中性的で、凛々(りり)しいものへと変貌させている。
それは、俺の「密室」で、俺の「儀式」を受け入れる、あの虚な瞳の人形ではなかった。
「――おお、我が愛しの君よ! なぜ、君の家名は、我らと敵対する運命にあるのか!」
陽葵が、腹の底から絞り出した、張りのある声で台詞を放った。その声は、俺の部屋でか細く喘ぐ声とは、まったくの別物だった。彼女は、相手役の女子生徒の手を取り、その甲に、芝居がかったキスを落とす。
S 客席の女子生徒たちから、「キャアアア!」という、黄色い歓声が上がった。
陽葵は、その歓声と、眩いスポットライトを全身に浴び、その「役割」を、完璧に演じきっていた。
俺は、客席の暗闇の中で、凍り付いていた。彼女が、笑っている。それは、体育祭の時に見せた、あの微かな「喜び」の笑みなどではなかった。頬を高揚させ、瞳を輝かせ、自分以外の「誰か」を演じるという活動に、全身全霊で「没入」している。あれが陽葵の本当の姿だというのか。俺が「密室」で、俺自身の生存と罪の隠蔽のために押さえつけ、踏みにじってきた、彼女の本当の「魂」の輝き。俺は、加害者だ。黒崎凛の言葉が、隼人の最後の言葉が、現実の刃となって俺の胸を貫いた。
陽葵は、舞台の上で、強烈な「解放感」を味わっていた。悠人の「生存契約」という、重く、息苦しい「役割」から、一時的に解放されたのだ。クラスメイトという「社会」の中で、まったく別の「男役」という「役割」を与えられた。だが、この役割は、悠人から強制されたものではない。私が、私自身の「意思」で引き受けたものだ。観客の視線が、熱が、スポットライトの光が、彼女の肌を焦がす。この感覚。あの春、絶望の底で自覚した、あの「生」の実感。悠人に支配されている時ではなく、今、この瞬間、私は、確かに「私」を生きている。
演技のクライマックス。彼女は、相手役の姫を抱きしめ、客席に向かって高らかに愛を叫んだ。その視線の先に、暗闇の奥で、小さく身を縮こまらせている、見慣れた男のシルエットを、彼女は確かに捉えていた。悠人。彼女は、舞台の上という、圧倒的に優位な場所から、客席にいる「支配者」を見下ろしていた。その瞬間、彼女は、二人の間の、物理的、そして心理的な「距離」を、決定的に自覚した。私は、ここにいる。あなたは、そこにいる。私はもう、あなたの「密室」だけの人形じゃない。
演劇が終わり、緞帳が下りる。割れんばかりの拍手の中、俺は、誰よりも早く、体育館の暗闇から逃げ出した。陽葵の、あの輝き。あの、俺の支配が及ばない領域。俺は、夜になれば、彼女は俺の部屋に戻り、再び俺の「儀式」を受け入れる「道具」に戻ることを知っていた。だが、彼女の心が、もう、そこにはないことも、知ってしまった。
俺は、自分の「罪」の重さと、そこから生まれる、どうしようもない「孤独」と「焦燥感」に、校舎裏で一人、打ち震えていた。俺たちの関係は、もう、修復不可能なほどに、離れ始めていた。
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### 第27話 感情の爆発
文化祭という非日常の熱狂が、まるで嘘であったかのように、急速に校舎から引いていった。色褪せた装飾が片付けられ、教室は再び、受験勉強という現実的な埃っぽさに満たされた日常を取り戻した。だが、その日常は、俺、篠宮悠人にとって、以前とは決定的に異なっていた。
俺のまぶたの裏には、あの体育館の暗闇で見た光景が、今も鮮明に焼き付いて離れない。黒い燕尾服に身を包み、眩いスポットライトを一身に浴びて、高らかに愛を叫ぶ、水瀬陽葵の姿。俺の「密室」で、感情を失った人形のように虚な瞳をしていた彼女が、俺の知らない場所で、俺の知らない「役割」を演じ、生き生きとした「喜び」に輝いていた。
あの輝きは、俺の支配が及ばない領域の、あまりにも残酷な証明だった。そして、俺が彼女から奪い続けてきたものの、明確な可視化だった。
俺は「加害者」だ。
隼人の死によって刻み込まれた罪悪感は、陽葵のあの輝きによって、さらに深く、揺るぎないものとなっていた。俺は、その罪の意識から逃れるように、放課後、陽葵を俺の部屋へと連れ帰る。だが、もはや、あの冷徹な儀式に、かつての「生存確認」の切実さも、「支配の満足感」もなかった。ただ、自らの罪を隠蔽するための、虚しく、冷たい作業が繰り返されるだけだった。
陽葵もまた、変わった。彼女は、文化祭が終わると、再びあの感情を失った人形の仮面を被り、俺の「管理」を受け入れた。だが、その完璧な服従の下で、何かが決定的に変わってしまったことを、俺は肌で感じていた。彼女の身体は、儀式の中で、義務として俺の支配に応じている。しかし、その瞳の奥には、あの舞台の上から俺を見下ろしていた、冷たい「距離」が宿っていた。彼女の心は、もう、この密室にはない。俺たちは、同じベッドで肌を重ねながら、決して交わることのない、それぞれの孤独に沈んでいた。
秋が深まり、高校三年生の教室は、進路選択という現実的な焦燥感で満たされ始めた。男女比一対三という歪んだ社会構造は、この時期になると、より切実な生存競争の様相を呈してくる。女子生徒たちの間では、数少ない男子生徒を、将来のパートナーとして、あるいは、自らの生活を支える「資源」として、どう確保するかという議論が、水面下で激しく行われていた。
その中心にいたのが、クラス替えで再び同じクラスになった、緑川繭だった。彼女は、クラスの人気者という立場を利用し、一種の「互助会」のようなグループを形成していた。彼女たちの論理は、かつて黒崎凛が俺たちに突きつけた、あの冷たい「社会倫理」とは異なっていた。それは、もっと剥き出しの「情動」であり、日々の生活に根差した「切実さ」だった。
繭の家は、この街でも有名な大家族だった。男性親族の多くが、すでにゼウス・ウィルスで命を落とし、残された数少ない男性たちも、高騰する保険料や医療費に喘いでいると噂されていた。彼女が声高に主張する「分かち合い」の精神は、単なる博愛主義ではない。それは、自らの家族の「経済的な生存」と直結した、必死の叫びだったのだ。
そして、その切実な視線が、今、俺という「健康で、まだ誰にも汚染されていない希少資源」に、集中していることを、俺は重苦しい圧迫感と共に感じていた。
その日、最後の授業が終わるチャイムが鳴り響く。俺は、いつものように、隣の席の陽葵に「帰るぞ」と声をかけ、二人分の鞄を手にした。陽葵も、無言で立ち上がる。俺たちが教室を出ようとした、その時だった。
「――待ってよ、二人とも」
教室の入り口に、緑川繭が、数人の女子生徒を伴って立ちはだかっていた。その顔から、いつもの愛嬌のある笑みは消え失せ、異様なほどの真剣さと、隠しきれない嫉妬の炎が揺らめいていた。
「……何の用だ、緑川さん。俺たちは、急いでる」
俺は、隼人の死以来、心にまとわりつく「加害者」としての負い目を隠すように、努めて冷たい声で言った。陽葵は、俺の背後に隠れるようにして、うつむいている。
「急いでる? そうやって、毎日毎日、二人だけで『密室』に帰るために?」
繭の甲高い声が、静まり返った放課後の教室に響き渡る。残っていたクラスメイトたちが、何事かと、遠巻きにこちらに視線を向け始めた。
「……私たちには、関係ないことだ」
俺がそう言って、彼女の横をすり抜けようとした瞬間。繭は、俺ではなく、俺の背後にいる陽葵に向かって、その感情を爆発させた。
「関係なくないよ! 陽葵ちゃん、あなただけ、ずるい!」
その剥き出しの非難に、陽葵の肩がビクッと震えた。陽葵は、うつむいたまま、蚊の鳴くような声で呟いた。
「……ずるく、ない。……これは、私と、悠人の、問題だから……」
それは、か細いが、明確な「拒絶」だった。文化祭の舞台で得た、あの「解放感」の残滓が、彼女にかつての「フリーズ状態」ではなく、冷たい「抵抗」を選ばせていた。
だが、その陽葵の態度が、繭の最後の理性を焼き切った。
「ふざけないでッ!!」
繭は、泣き叫ぶような声で、陽葵の胸倉に掴みかかろうとした。俺は、咄嗟に陽葵をかばい、繭の腕を掴んで制止する。
「やめろ、緑川さん!」
「離してよ! 陽葵ちゃん、あなたに言ってるの! あなた一人が悠人くんを独占することが、どれだけの人間の生活を脅かしてるか、分かってるの!?」
繭は、俺の腕の中で暴れながら、その瞳に涙を溜めて絶叫した。その叫びは、単なる嫉妬ではない。彼女が背負う「現実」の重みそのものだった。
「私の家は! お婆ちゃんの医療費も、小さい弟たちの学費も、全部、女手だけで必死に賄ってるんだよ! 健康な男の人が、たった一人、家にいてくれるだけで……。それだけで、どれだけの家庭が救われると思ってるの!」
その言葉は、かつて黒崎凛が突きつけた「社会倫理」よりも、はるかに暴力的で、生々しい「正義」の刃だった。それは、俺が陽葵の母親の困窮を利用して、彼女の夢を諦めさせた、あの日の俺の「論理」と、まったく同じ構造を持っていた。
「それを、あなたが! たった一人の『愛』だか『夢』だか知らないけど、そんなもののために、悠人くんを私物化して! どれだけ多くの人の、生存の可能性を奪ってるか、考えたことあるの!?」
俺は、その言葉の前に、立ち尽くすしかなかった。
そうだ。俺の独占は、陽葵の未来を奪う「加害」であると同時に、繭のような、切実な助けを求める人々から「資源」を奪う、「社会的な罪」でもあったのだ。
隼人の死。陽葵の夢の蹂躙。そして今、繭の家族の生存。
俺の「生存戦略」は、いったい、どれだけの犠牲の上に成り立っている?
俺は、自分の行動が、社会の倫理に決定的に反しているという事実を、この繭の感情的な爆発によって、逃れようのない形で認識させられた。
「……陽葵ちゃんだけのものになんて、させない……。悠人くんは、みんなの『希望』なんだから……!」
繭は、ついに俺の腕を振りほどくと、泣き崩れながら、陽葵に最後の言葉を叩きつけた。
「悠人くんを……。悠人くんを、私にも、分け与えなさいよッ!!」
その、一夫多妻の倫理を剥き出しにした「要求」が、教室の空気を凍り付かせた。
陽葵は、その言葉の暴力に、青ざめた顔で震えていた。だが、その瞳の奥には、恐怖ではなく、冷たい怒りの炎が宿っていた。彼女の人生を、他者の都合で振り回そうとする、その理不尽な世界そのものに対する、静かな怒りだった。
俺は、陽葵を守るために、繭の前に再び立ちはだかった。だが、その行動には、かつての橋本を殴り飛ばした時のような、暴力的な覇気は、もう微塵も残っていなかった。
ただ、友人を死なせ、社会の倫理に反し、愛する女の心を壊した「罪人」として、弱々しく、この嵐が過ぎ去るのを待つことしかできなかった。
この感情的な衝突は、陽葵の心に宿った冷たい怒りを、もはや誰にも止められない「離反」へと、決定的に加速させた。
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# 終末の初恋:男子激減社会での少女たちの選択
## 幕三:支配の崩壊と最終決断
### 第28話 進路選択の重圧
文化祭が終わり、そして緑川繭による感情的な糾弾が教室の空気を引き裂いてから、数日が経過した。高校三年生の秋は、重苦しい受験の圧迫感と共に、急速に深まっていた。繭のあの剥き出しの叫び――『悠人くんを、私にも、分け与えなさいよッ!!』――は、俺たちの歪んだ関係を、クラスメイト全員の好奇と非難の前に晒す結果となった。
俺、篠宮悠人は、自分の「罪」の目録に、また一つ、新たな項目が加わったことを自覚していた。隼人の死。陽葵の心の蹂躙。そして今、繭の家族の生存という切実な願いを踏みにじっているという、取り返しのつかない「社会的な罪」。俺の「独占」は、もはや俺一人の生存戦略などという生易しいものではなく、他者の未来を犠牲にして成り立つ、明確な「悪」だった。
だが、俺は、その「悪」から降りることができなかった。俺の行動は、もはや隼人の死への「罪の隠蔽」という麻酔にすぎず、その麻酔が切れれば、俺の精神は、この重すぎる罪悪感に耐えられないだろう。俺は、陽葵への支配を、より強固に、より冷徹に、続けるしかなかった。この支配を継続することだけが、俺の孤独な精神の安定剤だったのだ。
しかし、俺がどれほど強固な「密室」を築こうとも、外部の世界は、容赦なく俺たちの関係に侵食してきた。進路指導室前の廊下。そこには、最新の大学パンフレットと、全国模試の結果が張り出されている。この時期、男子生徒の激減による社会基盤の崩壊リスクが報道される中、政府は、その穴を埋めるために「女性の社会進出」を国策として強力に推進していた。その結果、あの春に発表された「難関大学の女子枠の拡大」が、女子生徒たちの間に、切実な希望の光を与えていた。
俺は、その掲示板の前で、自分の名前を探していた。そこには、残酷な現実だけがあった。俺の偏差値は、新星総合医科大学の医学部が要求する数値には、絶望的に届いていなかった。俺が、陽葵の夢を奪うために口にした、あの「俺がかなえてやる」という約束は、今や、俺自身の能力の低さを証明する、虚しい嘘でしかなかった。
俺は、その事実から目をそらすように、陽葵の名前を探した。彼女の名前は、俺よりもずっと上の、新星総合医科大学(感染症研究)の「A判定」のラインに、小さく、しかし、確かな存在感を持って記されていた。
俺の全身から、血の気が引いていく。彼女は、俺の支配下で、あの感情を失った人形でいる一方で、俺の目を盗み、たった一人で、あの「夢」を諦めていなかったのだ。俺の「管理」など、彼女の心の核心には、まったく届いていなかったという、あまりにも冷たい事実。
その日の放課後、俺は、いつもより強く陽葵の腕を掴み、俺の部屋という「密室」へと引きずって行った。彼女が、俺を裏切り、俺の支配から逃れようとしている。その焦燥感が、俺の「罪悪感」を一時的に上回っていた。
だが、俺の部屋で、いつもの儀式を始めようと彼女のセーラー服のスカーフに手をかけた、その時だった。陽葵は、俺の手を、静かに、しかし、有無を言わさぬ力で振り払った。
「――ごめん、悠人。今日は、無理」
俺は、その予期せぬ抵抗に、一瞬、思考が停止した。
「……なんだと?」
「予備校の、講習があるから。……もう、行かないと」
陽葵は、俺の目を見なかった。彼女は、淡々と、まるで他人に予定を告げるかのように、俺の部屋のローテーブルに置いていた自分の鞄を手に取った。その中には、俺の知らない、分厚い受験参考書が何冊も詰め込まれている。
「……予備校? 俺は聞いていない。誰の許可を得て」
「誰の許可も、いらない」
陽葵は、俺の言葉を遮った。その声は、かつて俺に助けを求めていた、か細い声ではない。文化祭の舞台で響かせた、あの凛とした声の片鱗が、そこにはあった。
「これは、私が決めたことだから。……お母さんも、応援してくれてる」
「おばさんが!? あの経済状況で、お前に予備校代など……っ」
俺の詰問に、陽葵はそこで初めて、俺の顔を真っ直ぐに見上げた。その瞳は、もはや俺の支配に怯える人形のそれではない。そこには、繭に「分け与えろ」と絶叫された時に宿った、あの冷たい怒りと、そして、自らの人生を他人に決めさせてたまるかという、強烈な「決意」が燃えていた。
「だから、私がやるの」
彼女の言葉は、俺の思考を打ち砕いた。
「悠人は、私の夢を『管理する』って言った。でも、悠人は、自分の成績すら管理できてない。……違う?」
その言葉は、俺が掲示板の前で直視するのを避けた、残酷な「現実」だった。俺は、なにも言い返せない。
「私は、もう、悠人の『道具』じゃない。悠人の命を守る『義務』も、もう、私には重すぎる。……ごめん。私は、私のために、勉強しなきゃいけない」
彼女は、俺たちの「生存契約」を、自らの「夢」を追うために、一方的に破棄したのだ。
俺の全身が、カッと熱くなった。支配を失うことへの「危機感」。裏切られたという「怒り」。そして何より、俺の「罪」を隠蔽する「麻酔(儀式)」を奪われることへの「本能的な恐怖」。
俺は、彼女の前に立ちはだかり、その細い肩を掴んだ。
「……ふざけるな。お前は、俺のだ。俺の許可なく、どこへ行くことも許さない。お前は、俺の『お守り』だろうが!」
「……もう、違うの」
陽葵は、俺の掴む手に、痛みに顔を歪めながらも、その視線は逸らさなかった。
「……離して、悠人。……私を、これ以上、あなたの『罪』の、共犯者にしないで」
「……ッ!」
その一言が、俺の心臓を抉った。彼女は、知っていたのだ。俺が、隼人の死に「罪悪感」を抱いていることも。この儀式が、もはや「生存」のためではなく、俺の「罪の隠蔽」でしかないことも。
俺は、彼女のその冷徹な理解に、激しく動揺した。俺が掴んでいた指の力が、無意識に緩む。
陽葵は、その隙を見逃さなかった。彼女は、俺の腕を振り払い、ドアノブに手をかける。
「……ごめん。でも、行かなきゃ」
彼女は、俺に背を向けたまま、それだけを言い残すと、ドアを開け、部屋から出ていった。
バタン、と。ドアが閉まる乾いた音が、静まり返った「密室」に響き渡る。
俺は、その場に立ち尽くしていた。
部屋には、まだ、彼女の柑橘系のシャンプーの匂いが、微かに残っている。だが、その匂いの主は、もう、ここにはいない。
俺の「管理」から、俺の「支配」から、陽葵は、初めて、物理的に逃げ出した。
俺は、彼女が残していった、その微かな香りと、決定的な「不在」の重圧の中で、一人、震えていた。俺の「生存戦略」が、今、まさに、音を立てて崩れ始めていた。
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### 第29話 陰湿な告発
陽葵が俺の部屋のドアを閉めて出て行ってから、三日が経過した。あの夜以来、俺たちの「密室」は崩壊した。俺、篠宮悠人は、放課後、鍵のかかった自室で、陽葵の「不在」という重すぎる現実を、ただ一人で味わっていた。
部屋には、まだ、彼女の柑橘系のシャンプーの匂いが微かに残っている。だが、その匂いは、もう俺の「生存」を保証する「お守り」ではない。それは、俺の支配から逃れた彼女の「自由」の残滓であり、俺の「罪」の隠蔽手段を奪われたことによる、剥き出しの「焦燥感」だけを助長させた。俺の精神の安定剤であったはずの儀式は、もう行えない。隼人の死によって植え付けられた罪悪感は、陽葵の「共犯者にしないで」という言葉によって、より深く、俺の心に根を張っていた。
陽葵は、俺の知らないところで、あの難関大学への夢を追い続けている。昼休みには、彼女の席の周りに、模試の成績を褒める女子生徒たちが集まり、彼女の周りだけが、明るく、未来へと開けているかのようだった。彼女が俺の管理下から逃れ、あの文化祭の舞台で見たような「喜び」を、再び感じている。その事実に、俺は嫉妬と、そして、どうしようもない孤独に苛まれていた。俺の心は、彼女を力ずくで引き戻し、再び俺だけの「人形」にしたいという、支配的な本能と、これ以上彼女の未来を奪い、罪を重ねてはならないという、か細い理性との間で、激しく揺れ動いていた。
そんな張り詰めた均衡が、ある朝、一通の紙切れによって、静かに、しかし決定的に破られた。始業前のホームルーム。教室のホワイトボードの端に、一枚の張り紙が、事務的な文字で貼られていた。
誰もが気づかないような、取るに足らない紙切れだった。だが、それは、この高校三年生の「受験」という、最も切実な生存競争の最中に、冷たい毒を流し込むには十分だった。
張り紙は、「進路に関する意見箱」に寄せられた匿名投稿の、要約だった。内容は、陽葵の進路に関わる、極めて個人的な情報を含んでいた。
> 【進路指導部へ】
>
> 匿名での告発となります。水瀬陽葵さんの難関大学への進学は、社会倫理に反する「独占行為」を隠蔽するための手段ではないでしょうか。彼女は、男子生徒である篠宮悠人くんを排他的に独占し、他の多くの女子生徒から「希少資源」へのアクセスを奪っています。社会貢献の意識が高いと進路調査票に記しながら、その実、私的な感情を優先する利己的な行動は、難関大学の「女子枠拡大」の趣旨に反します。彼女が進路を変更し、「種の保存」や「社会的奉仕(看護など)」といった、より公共性の高い分野へ進むべきではないでしょうか。
その張り紙を見た瞬間、俺の全身が、冷水に浸されたかのように凍り付いた。
俺は、まず、この告発の「論理」に戦慄した。黒崎凛が俺に突きつけた「独占は社会の罪」という、あの冷徹な「社会倫理」が、そのまま、陽葵の進路を攻撃するための武器として利用されている。だが、その裏に潜む「悪意」は、凛の論理とは決定的に異なっていた。
俺は、すぐに気づいた。白石楓だ。
クラスの隅で、いつも本の陰から、俺たちの関係を執拗に観察していた、あの目立たない少女。彼女は、誰からも選ばれない劣等感と、過剰な生存執着を原動力に、俺たちの破滅を望んでいた。陽葵の「夢」を暴露したのも彼女だった。
この告発文は、陽葵の「独占行為」を非難する形を取りながら、その実、陽葵の「夢」と「未来」そのものを嫉妬し、破壊したいという、楓の純粋な悪意から生まれている。楓は、自分が「誰からも選ばれない」という痛みを、陽葵が「選ばれた」という優位性を失うことで、解消しようとしている。その陰湿な手法は、俺の知るいかなるライバルたちとも違っていた。
告発文は、教師によってすぐに剥がされたが、その内容は、すでにクラス全体に静かに、しかし確実に広がり始めていた。女子生徒たちの視線が、再び陽葵に集中する。それは、かつての「嫉妬」とは異なる、値踏みし、裁こうとする、冷たい視線だった。
陽葵は、まだその告発の存在を知らない。彼女は、昼休みのチャイムが鳴ると、いつも通り鞄を持って、予備校へと向かう準備を始めた。その輝く瞳は、「夢」を追う者に特有の、清々しい焦燥感に満ちている。
俺は、その陽葵の姿を見つめながら、耐え難い自己嫌悪に苛まれていた。この告発は、俺の「罪」が招いた結果だ。俺が、陽葵を「道具」として支配し続けた。俺が、彼女を社会から「隔離」した。俺が、彼女の「進路」を「俺の所有物」として軽んじた。その「独占行為」が、楓のような陰湿な「復讐者」に、攻撃の「正当な理由」を与えてしまったのだ。俺は、楓という「悪意」にとって、その独占の論理を提供する「支配者」であり、「共犯者」なのだ。楓が陽葵の進路を妨害するというこの行為は、俺自身の「支配」の論理が、俺たちの関係の外側で、歪んだ形で実行された結果でしかなかった。
俺は、立ち上がろうとした。この告発から、陽葵を守らなければならない。だが、どうやって? 俺が動けば、告発の「事実性」が証明されるだけだ。
その時、予備校へ向かうために教室を出ようとした陽葵が、廊下の角で、突然、足を止めた。彼女は、何事かに気づいたように、青ざめた顔で壁に貼られた進路指導部の掲示板を見つめていた。
掲示板には、告発文そのものはもうない。だが、その掲示物の内容を議論する教師たちの、重苦しい話し声が、廊下を伝って聞こえてくる。
「……匿名ではあるが、内容が具体的すぎる。大学側への進路調査にも影響が出る可能性がある……」
陽葵は、その声を聞き、自分が直面している危機を瞬時に理解した。彼女の顔から血の気が失せ、目元が熱く潤んでいく。だが、彼女は、涙を流さなかった。ただ、唇を噛みしめ、その痛みに耐えることで、自分の感情を押し殺した。
俺は、教室のドアから、その陽葵の小さな背中を見つめていた。彼女は、孤独だ。俺の支配から逃れた代償として、たった一人で、社会的な圧力と、陰湿な悪意に立ち向かわなければならなくなっていた。この「陰湿な妨害行為」は、俺たちの関係を破綻させるための、新たな決定的な一撃だった。俺は、その崩壊が、もう止められないことを、静かに受け止めていた。
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### 第30話 倫理的境界線の侵犯
陽葵が予備校へと向かい、俺の部屋のドアを閉めてから、三日が経過した。その間、俺たちには、いかなる肉体的な接触もなかった。俺、篠宮悠人の心は、隼人の死以来、最も不安定な状態に陥っていた。
陽葵は、放課後、一度だけ俺の部屋に立ち寄り、着替えと参考書を鞄に詰め込むと、すぐにまた出ていく。俺の「管理」を、儀式という形で受けることも、彼女はもう拒否していた。俺の部屋に残された彼女の柑橘系のシャンプーの匂いは、日に日に薄れていく。それは、俺の生存本能を支える「お守り」の効力が、失われつつあることを意味していた。
隼人の死による「罪の隠蔽」という俺の行動原理は、今や陽葵の「不在」という現実によって、無力なまでに晒されている。俺は、自分が彼女の進路を奪い、友人を間接的に殺したかもしれない「加害者」であるという、おぞましい自己認識から逃れられずにいた。この罪悪感と孤独の底で、俺の根源的な「本能」が、再び黒い炎を上げて燃え上がった。それは、支配を失うことへの、強烈な「焦燥感」と「危機感」だった。
陽葵が、俺の支配下にない未来へと、着実に歩みを進めている。進路指導室の掲示板で見た、彼女の新星総合医科大学への「A判定」という確固たる事実。そして、白石楓の陰湿な告発が、進路調査に影響を与えるという、目に見えない「脅威」。もし、陽葵が俺の支配から完全に逃れ、俺の知らない世界で、俺の知らない誰かと出会い、俺の知らない誰かの命を救うという「夢」を叶えてしまったら? その時、俺は、彼女の命を守るという唯一の「正義」の仮面すら剥がされ、ただの、孤独で、罪深い「独占者」として、この死に満ちた世界に取り残される。俺の生存戦略は、完全に破綻するだろう。
俺は、ローテーブルの上に置かれたままになっている、陽葵の鞄に視線を向けた。中には、彼女が予備校で使用している、進路に関する資料が詰まっているはずだ。
俺の心の中で、「愛」と「本能」が、最後の激しい衝突を起こした。(陽葵の夢を奪うな。これ以上、罪を重ねてはならない。)という理性の声と、(支配を失うな。俺は生き残らなければならない。俺が陽葵の未来を管理するのだ。)という、剥き出しの本能の叫び。
最終的に、俺は「本能」を選んだ。
俺は、ベッドから立ち上がり、陽葵の鞄に手をかけた。静かにファスナーを開け、中身を漁る。そこには、予備校の教材と共に、彼女が手書きでまとめた、新星総合医科大学の感染症研究に関する資料が何枚も挟まれていた。緻密に書かれた専門用語の解説。そして、「誰かの命を救う」という、彼女の純粋な願いが滲んだ、真剣な覚悟の痕跡。俺は、それを手に取った。その資料は、彼女の「夢」そのものの重みを帯びていた。
「……こんなものがあるから、お前は俺の支配から逃れようとするんだ」
俺は、そう呟くと、衝動に突き動かされるように、その資料を、力任せに引き裂いていた。バリッ、という、紙が破れる乾いた音が、静寂の部屋に、あまりにも大きく響き渡る。一枚、また一枚と。陽葵の努力の結晶が、無惨な断片となって、俺の足元に散乱していく。
俺の心臓は、異常なほど激しく脈打っていた。冷たい汗が、額から顎を伝って滴る。俺は、今、彼女の「将来の夢」(進路)を奪うという、自らが定めた「倫理的境界線」を、決定的に踏み越えてしまったのだ。だが、その衝動的な破壊行為によって、俺の胸に去来したのは、後悔ではなく、支配を再確認したことによる、冷たい「安堵感」だった。これでいい。これで、陽葵の未来は、再び俺の手の中に戻った。俺は、この罪を、隼人の死と同じように、俺の心の奥底に封印すればいい。
どれほどの時間が経っただろうか。部屋の鍵が開けられる音がし、予備校から帰宅した陽葵が、部屋に入ってきた。俺は、散乱した資料の残骸を、無言で、そして冷徹に見下ろしていた。
「……ただいま、悠人。あのね、今日の講習、すごく」
陽葵は、明るい声を上げようとして、床に目を落とし、その言葉を途中で失った。彼女の視線が、床に散乱する、手書きの資料の破片を捉えた。彼女の顔から、血の気が急速に失せていく。
「……これ……」
陽葵は、床に膝をつくと、震える指先で、資料の切れ端を拾い上げた。感染症に関する、彼女の必死の努力の痕跡。それが、無惨に引き裂かれている。
彼女は、まるでそれが、彼女自身の心臓の破片であるかのように、その断片を固く握りしめた。その瞳が、絶望と、そして、決定的な「裏切り」の感情に満たされ、俺を、真っ直ぐに、しかし恐怖に歪んだ表情で見上げた。
「……悠人が、やったの?」
「そうだ」
俺は、その陽葵の絶望的な視線から逃れることなく、冷酷に言い放った。
「お前は、俺の支配から逃れようとした。あの予備校と、あの資料が、お前の心に、俺の支配を拒否する余地を与えていた。だから、破壊した。お前の夢は、俺が管理すると言ったはずだ」
俺の言葉は、隼人の死による「罪の隠蔽」という動機を隠し、俺の支配を正当化するための、最後の、最も強烈な「暴力」だった。
陽葵は、俺のその言葉を聞くと、床に散乱した破片を握りしめたまま、小さく、声を殺して泣き始めた。それは、悲しみではない。それは、俺の行動が、もはや「生存の義務」などではなく、「愛」の形すら装わない、純粋な「支配」と「加害」でしかないという、冷徹な「裏切り」の認識だった。
「……っ……う、そ……」
彼女の唇から漏れたのは、非難の言葉ではなく、純粋な「絶望」だった。
「……私が、あなたを、死なせたくないから……っ、あなたの、隣にいたくて、頑張ってたのに……っ」
彼女は、俺への「愛」を、献身を、この支配の中で、必死に保とうとしていた。だが、俺は、その彼女の最後の「希望」を、俺自身の「本能」のために、粉々に打ち砕いてしまった。
俺の心臓が、激しく痛む。俺は、彼女の絶望的な涙を見ながら、自分がこの瞬間に、彼女との支配関係を、修復不可能なレベルで決定的に悪化させたことを、自覚していた。俺の「生存」の維持と引き換えに、俺は、陽葵の心、彼女の未来、そして、俺たち二人の間の「信頼」という、最も大切なものを、この部屋で、衝動的に、破り捨ててしまったのだ。
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### 第31話 進路への絶望
夜明け前の空気は、三月の底冷えを思わせるほど冷たく、水瀬陽葵の肌を容赦なく刺した。昨夜、篠宮悠人の部屋で見た光景が、まぶたの裏から消えない。ローテーブルの前に膝をつき、床に散乱した手書きの資料の破片を、彼女はただ、呆然と見つめ続けていた。
感染症研究に関する、彼女の必死の努力の痕跡。それは、悠人の支配から逃れ、彼女自身の人生を取り戻すための、最後の「希望」だった。その希望が、無惨な断片となって、今、この部屋の埃の中に打ち捨てられている。
陽葵の身体は、昨夜、悠人の言葉を聞いた瞬間、氷のように硬直した。
『お前は、俺の支配から逃れようとした。……だから、破壊した』。
その冷酷な告白は、悠人の行為が、もはや「生存の義務」や「愛の形」などという、曖昧な言い訳の範疇に収まらない、純粋な「支配」と「加害」でしかないという、冷徹な真実を陽葵に突きつけた。彼女が、彼の命を守るために献身し、自覚した性的欲求に罪悪感を抱きながらまで保とうとした「生存契約」という絆。そのすべてが、彼のたった一つの衝動的な行為によって、否定された。私があなたのために頑張っていたことが、逆に、あなたに破壊される理由になった。その絶望的な裏切りが、彼女の胸を張り裂けそうにさせた。
陽葵は、破られた資料の残骸を、その場に放置したまま、着替えもせずに、始発のバスに乗って自宅へと逃げ帰った。自宅の自室のベッドに倒れ込んでも、心臓の動悸は収まらない。彼女は、目を固く閉じ、父親が病に倒れたあの日の、無力な自分を思い出す。あの時、私には父を守る力がなかった。だから、悠人だけは守りたいと誓った。その「役割」こそが、私の存在価値を証明する唯一の道だと信じてきた。
だが、今、突きつけられた現実は、あまりにも残酷だった。彼女の「生存の役割」と、彼女の「夢」は、悠人の支配という名の毒によって、決定的に二律背反の構造に置かれている。悠人の命を守ろうとすれば、私の未来は閉ざされる。私の未来を取り戻そうとすれば、彼の支配を崩壊させ、彼の精神を、そして命のリスクを晒すことになる。どちらを選んでも、私は「誰かの未来」を破壊する「加害者」となる。
陽葵は、朝食の席で、母親に「予備校の教材を失くしてしまった」と、震える声で嘘をついた。母親は、疲弊した顔で娘の青白い顔を見つめ、何も言わずにただ静かに頷いた。その母の顔を見て、陽葵は決意を固めた。このまま、悠人の「道具」に戻ってはならない。私が、私自身の意思と力で、私の未来を取り戻さなければならない。
登校後、陽葵は、昼休みを待たずに、まっすぐ進路指導室へ向かった。彼女の胸には、かすかな希望が残っていた。資料を破られたとはいえ、進路希望票は提出している。予備校の模試の結果も出ている。私一人の力で、まだ間に合うかもしれない。
だが、進路指導の教師に会うと、そのかすかな希望も、冷たい現実の前に、粉々に打ち砕かれた。
「水瀬さん。あなたの模試の成績は、新星総合医科大学の感染症研究分野なら、A判定が出ています。これは、本当に素晴らしいことです」
教師は、陽葵の成績を前に、心から褒めた。その言葉に、陽葵の心臓は、一瞬、温かい光に包まれた。
「……ですが、」
教師の声が、突然、重く、低くなった。
「進路指導部には、あなたに関する匿名での告発が寄せられています。あなたが、男子生徒である篠宮悠人くんを排他的に独占し、『難関大学の女子枠拡大の趣旨に反する利己的な行動』を取っている、という内容です」
告発。陽葵は、頭を鈍器で殴られたような衝撃に、息を呑んだ。白石楓の陰湿な悪意が、教師たちの間で囁かれていたあの張り紙が、今、現実の進路指導の場で、彼女の夢を脅かしている。
「匿名とは言え、この種の告発は、大学の進路調査に影響が出ます。特に、あなたの希望する分野は、社会貢献の意識が強く求められる感染症研究です。私的な独占行為と、公共性の追求という、二律背反の矛盾は、大学側が最も忌避するところです」
教師は、目を伏せて、重い言葉を続けた。資料の破棄。そして、この告発。二重の妨害。
彼女が、一人で必死に追ってきた「夢」への道は、悠人の「支配」という名の罪と、楓の「嫉妬」という名の悪意によって、完全に塞がれていた。
陽葵は、自分の身体が、急速に冷えていくのを感じた。
その時、廊下を通りかかった悠人が、進路指導室の扉の隙間から、青白い顔をして立ち尽くす陽葵の姿を見てしまった。彼女の瞳は、絶望と、そして、どうしようもない諦念に満たされている。
悠人は、陽葵のその絶望的な表情を見た瞬間、体中に電流が走ったような衝撃を受けた。
(俺が、やったんだ)。
俺が、彼女の夢の資料を破り、彼女の努力を否定した。俺の「支配」という論理が、楓のような陰湿な「悪意」に、攻撃の「正当な理由」を与えてしまった。俺の犯した「加害」は、もう、陽葵の心だけではない。彼女の未来そのものを、物理的に破壊した。その破壊の大きさが、陽葵の顔の、あの絶望的な涙のない表情に、明確に現れていた。
俺の心臓は、激しく脈打った。今まで、隼人の死や、陽葵への支配を「罪の隠蔽」という形で麻痺させてきた俺の防御機制が、陽葵の究極の絶望を前に、完全に崩壊した。
俺は、自分がこの世で最も憎むべき「加害者」であることを、陽葵の絶望的な顔を見て、逃れようのない形で直視した。
陽葵は、教師の言葉を聞き終えると、頭を下げ、進路指導室のドアを静かに閉めた。その足取りは、力なく、しかし、どこか吹っ切れたような、冷たい決意を滲ませていた。
廊下で立ち尽くす悠人の前を、陽葵は、一瞥もすることなく、通り過ぎていく。
彼女は、もう、俺の存在を、自分の視界に入れてすらいなかった。
その冷徹な無関心こそが、俺の「支配」が完全な「愛の喪失」という負の結果を招いた、最も明確な証拠だった。
陽葵は、進路の夢と、自己の主体性を、俺の支配によって奪われ、絶望の淵に立たされていた。そして、俺は、その陽葵の絶望を前に、自らの「加害性」を直視するという、耐え難い「罪の報酬」を、受け取っていた。
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### 第32話 告発者の意図
夜の帳が下りた俺の部屋は、その静寂の中で、冷たい絶望の箱と化していた。床には、水瀬陽葵の進路資料の無惨な破片が、未だ片付けられることなく散乱している。彼女の柑橘系の匂いは、すでに空気から消え去り、残されたのは、俺自身の皮膚から滲み出るような、冷たい罪悪感の匂いだけだった。
陽葵は、あの日の午後、進路指導室の前で俺に一瞥もくれず立ち去って以来、学校では俺との接触を徹底的に避け続けている。放課後の予備校へ向かう彼女の足取りは、もはや「夢を追う者」の清々しさではなく、「支配者から逃れる」者の明確な意志に満ちていた。その「不在」の重圧が、俺の心を押し潰す。俺は、陽葵の絶望的な顔を見て以来、自分がこの世で最も憎むべき「加害者」であることを、逃れようのない形で直視していた。隼人の死による罪の隠蔽のために、陽葵の未来を破壊するという、取り返しのつかない罪を犯したのだ。
その日の放課後、俺は、昇降口の薄暗い下駄箱の前で、予期せぬ人影に呼び止められた。背中を壁に預け、うつむき加減に立っていたのは、白石楓だった。彼女は、いつも持っている分厚い本を胸に抱き、その内気な外面からは想像もできないほど、明確な意志を瞳に宿して俺を見上げていた。
「……篠宮、くん」
俺は、彼女の名前を呼ぶことすらできなかった。彼女は、俺の「罪の共犯者」であり、陽葵の進路を断つための、あの陰湿な「告発」の実行犯だと、俺は知っている。
「……何の用だ。白石さん」
「ごめんなさい。邪魔をするつもりは、ありません。……ただ、あなたに、私の『意図』を、知ってほしかっただけ」
楓の声は、小さく、しかし、芯があった。周囲の生徒たちが通り過ぎる喧騒の中で、その声だけが、異様に鮮明に俺の耳に届く。
「……告発の、ことよ。水瀬さんの進路を妨害した、あの匿名の手紙」
彼女は、俺の沈黙を、肯定の証として受け取った。
「あれは、私の、優しさだったんです」
「……優しさ、だと?」
俺は、その言葉に、戦慄した。彼女の論理が、俺の理解の範疇を超えた、歪んだ領域にあることを悟った。
「ええ。水瀬さんは、自分で自分の心を殺していた。あなたが、彼女の夢を奪い、彼女の行動を支配下に置くことで、彼女の『命を守る』という、間違った役割を、彼女に強いていたでしょう? でも、彼女の本当の望みは、あの文化祭の舞台で見たような、彼女自身の『自由』と『未来』を生きることだった」
楓の言葉は、俺の行動の核心を、正確に指摘していた。その冷徹な分析能力は、俺の背筋を凍らせる。
「私の告発は、その間違った支配を、社会の論理で『断罪』し、水瀬さんを、その呪縛から『解放』するための、唯一の手段だったのよ」
彼女は、俺の「独占」という罪を、社会の『希少資源の私物化』として断罪することで、陽葵の『主体性の回復』のきっかけを与えたと、心底から信じているようだった。その歪んだ「正義感」に、俺は吐き気を覚えた。
「……ふざけるな。お前は、ただの嫉妬で、陽葵の夢を破壊したかっただけだろうが!」
俺が声を荒らげると、楓は、一歩も引かなかった。彼女の瞳には、俺の怒りに対する怯えではなく、確固たる信念が宿っていた。
「嫉妬? ええ、そうよ。でも、それは、あなた個人の『独占』という、もっと大きな罪を、社会から排除するための、必要な『ノイズ』だった」
彼女は、胸に抱いた本から、薄い資料を取り出した。それは、進路指導室に提出された、俺たちの学校の、男子生徒の死亡率に関する、最新の統計データだった。
「見て。望月隼人くんが死んで、男子生徒はまた一人減った。この社会は、あなたの、水瀬さんへの排他的な『独占』を、もはや許容できないのよ」
隼人の名が出た瞬間、俺の体は硬直した。
「あなたは、自分が生き残るために、最も『安全』な容器を私物化し、社会の『種の保存』という、もっと大きな目的に、貢献することを拒否した。あなたのその『支配的な愛』こそが、この社会にとって、最も危険な『感染源』なのよ」
楓の言葉は、冷たい論理の刃となって、俺の心の最も脆弱な部分を貫いた。俺は、隼人の死以来、ずっとこの疑念に苛まれていた。俺の「独占」が、隼人の「死」を招いたのではないか、と。楓は、その疑念を、社会倫理という、反論不能な「論理」で、俺に突きつけてきたのだ。
「水瀬さんは、感染症研究という、社会に貢献する『夢』を持っていた。その夢を、彼女個人の『安全(あなたの支配)』のために潰そうとした、あなたのその『独占』こそが、この社会の『病気』なのよ」
俺は、その場に立ち尽くした。楓の歪んだ論理は、俺の自己嫌悪を、究極の「社会的な罪」へと昇華させた。俺は、陽葵の進路を奪い、友人の死を招き、社会の復興を遅らせる、このディストピアの「癌」なのだと。
「……私の告発は、水瀬さんを、あなたという『感染源』から引き離し、彼女を、社会にとって、そして彼女自身にとって、最も『論理的最適解』となる道へと、導いたのよ」
楓は、満足したように、静かにそう言い放った。彼女の瞳は、もう俺を見ていない。彼女は、自らが「正義」を執行したことに、静かな達成感を覚えているようだった。
「……もう、これで、あなたに用はないわ」
楓は、そう言い残すと、俺の横をすり抜け、内気な少女の足取りで、夕暮れの廊下へと消えていった。
俺は、その場に、動くこともできずに立ち尽くしていた。
楓の言葉が、俺の心に重い鉛のようにのしかかる。俺の「支配」は、愛ではない。それは、社会の「病気」なのだと。陽葵は、俺の支配という「感染源」から逃れ、たった一人で、孤独な自立の道を歩み始めている。
俺に残されたのは、愛する者を傷つけ、友人を死なせ、社会を欺いた、耐え難い「加害者」としての自己認識と、彼女を力ずくで引き戻すという「本能的な欲望」だけだった。
俺の心臓は、激しく脈打っていた。もう、逃げ場はない。俺は、この罪を、どうすれば償えるのか。
俺の頭の中で、隼人の死の予感と、陽葵の絶望的な顔が、一つの重なりとなって、俺に最後の「選択」を迫っていた。
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### 第33話 命をめぐる選択
その日の放課後、俺、篠宮悠人は、校舎の裏手で予備校へ向かおうとする陽葵を待ち伏せた。彼女の進路資料を衝動的に破り捨て、そして白石楓から「お前の支配こそが社会の病気だ」と断じられて以来、俺の心は崩壊寸前だった。俺に残されたのは、愛する者を傷つけた「加害者」としての耐え難い自己認識と、この支配を失えばすべてが終わるという、剥き出しの「本能的な恐怖」だけだった。
陽葵は、俺の姿を認めると、一瞬、立ち止まった。その瞳に、怯えと共に、俺への深い「警戒」の色が浮かぶ。彼女は、俺の管理下から逃れ、たった一人で自立の道を歩み始めている。その小さな背中は、俺の罪悪感を容赦なく突きつけてきた。
「……待て、陽葵」
俺は、彼女の腕を、かつてないほどの力で掴んだ。その力に、彼女は「っ!」と小さく呻き、抵抗しようと試みる。
「離して、悠人! もう、私には、あなたと、一緒にいる義務はないはずよ」
「義務だと? ふざけるな!」
俺は、その言葉を遮り、ほとんど悲鳴に近い声で叫んだ。
「お前は、俺の命を捨てるつもりか! 俺はお前が破り捨てた資料の代わりを、二度と用意してやれない。お前が俺から離れることは、俺を殺すことと同じだ!」
俺の言葉は、自己の支配を正当化するための、最後の、最も醜い「抵抗」だった。俺は、彼女の腕を引きずり、俺の部屋へと続く道へと、無理やり歩みを進めた。陽葵は、抵抗を続けたが、俺の力に抗うことはできない。彼女の腕には、俺の指の跡が、赤く深く食い込んでいく。
俺の部屋のドアに鍵をかける乾いた音が、この密室の崩壊が、もはや止められないことを告げていた。部屋には、まだ、床に散乱した資料の破片が残っている。その光景が、陽葵の瞳に、俺の行為の「暴力性」を、決定的なものとして焼き付けた。
俺は、陽葵をベッドの縁に立たせ、その身体を壁に追い詰めた。彼女は、恐怖で全身を硬直させ、フリーズ状態に陥っている。その瞳は、絶望と、そして、どうしようもない裏切りの感情に満たされていた。
「……悠人。これ以上、私を、裏切らないで」
「裏切っているのは、お前の方だ!」
俺は、悲鳴のような声を上げ、彼女の細い肩を掴んだ。その掌には、冷たい汗が噴き出している。俺の心臓は、罪悪感と恐怖で、異常なほど激しく脈打っていた。俺は、彼女の制服のブレザーのボタンに手をかけた。これは、俺の罪の意識を麻痺させるための、最後の手段だ。彼女の体温に触れ、彼女の「純粋さ」を確認することで、俺は再び、生存の保証を得なければならない。
「お前の進路も、お前の夢も、俺が破り捨てた。だが、その代わり、お前には、俺の命を守るという、唯一の『義務』が残されている」
俺は、そう言い放ち、彼女のブラウスのボタンを、乱暴に外していく。陽葵は、抵抗しない。ただ、顔を青ざめさせ、目を固く閉じ、俺のなすがままになっている。その無抵抗さが、俺の心に、さらに鋭い痛みを突き刺した。俺の行為は、愛ではない。俺の罪を隠すための、冷酷な「支配」でしかない。
俺は、彼女の首筋に顔を埋め、薄れていく柑橘系の匂いを貪った。彼女の肌の温かさが、俺の冷え切った本能を、わずかに鎮静化させる。俺は、その衝動に従い、彼女の身体をベッドに押し倒した。
「……んん……っ」
陽葵の身体から、か細い吐息が漏れた。それは、屈辱と、そして、彼女の身体だけが裏切るように感じてしまう、あの自己否定的な「快感」の狭間の、苦悶の吐息だった。俺は、彼女の胸のささやかな膨らみを、インナーの上から、執拗に揉みしだいた。その感触だけが、俺を、この罪悪感の淵から、一時的に引き戻してくれる。
行為が最高潮に達した、その瞬間。俺は、彼女の耳元で、絞り出すように、最後の支配的な言葉を囁いた。
「陽葵。お前は、俺の命を守る『義務』がある。……お前を、誰にも、渡さない」
その言葉は、俺の生存本能から生まれた、最も純粋な「独占」の叫びだった。
だが、その言葉を聞いた瞬間、陽葵の身体が、これまでのフリーズ状態とは異なる、激しい痙攣を起こした。彼女の瞳が、固く閉ざされた瞼の裏で、大きく見開かれる。
彼女の脳裏で、俺の「支配」という言葉が、望月隼人の死の光景と、決定的な重なりをみせた。
(俺の命を守る義務。……私が、やらなければ、悠人は死ぬ)。
その「義務」の重さが、隼人の病床での苦しむ姿、そして俺の背中に向けられた、あの「お前の『正しさ』が、お前自身を滅ぼさなきゃ、いいな」という呪いの言葉と、一つの意味を結びつけた。
この「義務」こそが、悠人の心を壊し、彼に「加害者」という罪を負わせ、彼自身を「滅ぼそう」としている元凶だ。
この支配を、この義務を、私が受け入れ続ければ、悠人は死なないかもしれない。だが、彼は、彼自身を殺すだろう。そして、私の心も、完全に消滅する。
陽葵の内部で、長年のトラウマと、自己の主体性、そして悠人への愛が、限界を超えて衝突した。
彼女の瞳から、一筋の熱い涙が、目尻からこぼれ落ちる。それは、悲しみでも、絶望でもない。それは、彼女の心が、この支配に耐えきれず、完全に「破綻」したことの、最初の、そして最後の、涙だった。
俺の腕の中で、陽葵は、ただ震えていた。彼女の心は、もう俺には、永遠に届かない場所へと、決定的に離れていってしまったのだ。
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### 第34話 【オール・イズ・ロスト】絶縁宣言
その夜、篠宮悠人の部屋は、床に散乱した資料の破片と、陽葵の感情的な破綻の残響に満ちていた。俺の最後の支配的な行為――「お前は俺の命を守る『義務』がある」――は、彼女の心を救うどころか、逆に彼女の内部のトラウマを呼び覚まし、倫理的・感情的な破綻を招いた。
俺は、行為の最中に彼女の身体が起こした激しい痙攣を、今も鮮明に覚えていた。彼女の身体は、俺の行為への嫌悪と恐怖で、ビクッと震え続けていた。もはや、俺の愛撫は、彼女にとって「愛されている証」などではない。それは、彼女の未来を破壊する「加害者」の指先であり、彼女の心を呪縛する「支配」の痕跡だった。俺自身、彼女の身体から距離を取った後も、自分の手のひらに残る彼女の肌の熱と、冷たい汗の感触に、激しい自己嫌悪に苛まれていた。
俺は、彼女の身体を優しく抱き起こし、乱れた制服を直してやった。俺の指先が触れるたび、彼女の身体は、再び俺の行為への嫌悪と恐怖で、かすかに震える。もはや言葉はなかった。部屋の静寂は、陽葵の震える呼吸と、俺自身の罪悪感による異常な心拍音だけを響かせていた。
陽葵は、ようやく痙攣を収めると、ベッドの上でゆっくりと身を起こし、俺に背を向けたまま、静かに話し始めた。その声は、驚くほど冷静で、感情の抑揚を失っていた。それは、彼女の心の中の、何かが決定的に「終わった」ことを示唆していた。
「……悠人」
「陽葵。……すまない。俺は、ただ、お前を失うのが、怖くて……」
俺は、情けない言い訳を口にした。その言葉に、陽葵は、小さく、乾いた笑いを漏らした。
「失う? 悠人。あなたは、私を、もうずっと前に失っているわ。あの文化祭の舞台で、私が、あなたから逃れて、私自身の『自由』に気づいたあの時から」
彼女は、そこでようやく、ゆっくりと俺を振り返った。その瞳は、涙の痕で赤く腫れていたが、絶望の色は消え失せ、代わりに、鋼のような冷たい「決意」が宿っていた。その目は、まるで遠い場所にいる他人を見るかのように、俺を無感動に捉えた。
「……隼人くんが、死んだ時。私、悟ったの。私たちがしてきたことは、愛じゃない。それは、悠人という一人の人間を、社会の重圧と、死の恐怖という、二つの大きな罪で、縛り付けていた、ただの『共依存の呪い』だった」
彼女の言葉は、冷徹な論理の刃となって、俺の胸を貫いた。俺が、隼人の死の重圧から逃れるために、彼女の進路を奪い、彼女の心を支配下に置こうとした。そのすべてが、彼女には見透かされていた。彼女は、俺の罪の深さを、誰よりも正確に理解していたのだ。
「私の進路を破壊した時、あなたは『倫理的境界線』を踏み越えた。私を、あなたの『罪の共犯者』にした。そして今、私の身体を、あなたの『義務』という、汚れた言葉で支配した。……悠人、私が、あなたの命を守る『義務』がある。……そうね。私は、その義務から、あなたを『解放』してあげる」
陽葵は、ベッドから降りると、床に散乱した資料の破片を踏み越え、俺の顔を、今一度、真っ直ぐに見上げた。
「私たち、もう、終わりよ」
その言葉は、まるで氷の破片のように、俺の心臓に突き刺さった。俺の口から、情けない呻き声が漏れる。俺の喉は、言葉にならず、ただ熱い嗚咽だけが込み上げる。
「……待て、陽葵! 終わらせるな! 俺が、俺が悪い! だから、償う! お前の夢を、もう一度、俺が何としてでも叶えてやる! だから、俺のそばを離れるな!」
俺は、縋るように彼女の細い足首に手を伸ばした。彼女を失うことへの、純粋な恐怖。この支配を失えば、俺がこの罪の重圧に耐えられないという、根源的な本能が、俺を突き動かした。床に触れた俺の指先は、冷たい汗で濡れている。
「償う? 無理よ、悠人」
陽葵は、俺の手が触れるのを避け、一歩後ずさった。その目は、俺への愛情を完全に失っていた。その冷たさが、俺の罪の大きさを教えていた。
「あなたが、私にしてしまったことは、もう、償いきれない。あなたは、私の心を破壊し、私の未来を奪い、そして、私に、あなたを失うことと、私自身の夢を諦めること、どちらを選んでも『加害者』になるという、絶望的な選択を強いた。……その罪は、あなたの命を差し出しても、償えないわ」
彼女の言葉は、俺への信賞必罰の負の結果の宣告だった。愛の喪失。彼女は、俺の罪に対し、最も残酷な罰を突きつけた。
「私が、この支配から、そして、あなたという『感染源』から完全に逃れることが、私に残された、唯一の『主体的な選択』なの。……ごめん。もう、私には、あなたを必要としてくれる、あなたの隣にいる、『役割』なんていらない」
陽葵は、俺に背を向け、ドアノブに手をかけた。彼女の身体は、俺の支配という重荷から解放されたかのように、軽やかに見えた。
「……絶縁よ、悠人。もう二度と、私に、接触しないで」
バタン、と。
ドアが閉まる乾いた音が、この冷たい密室の空気を震わせた。彼女の柑橘系の匂いは、完全に消え去った。
俺は、その場で崩れ落ちた。愛する者を、自分の手で、支配という名の暴力で、永遠に失った。床に散乱した破れた資料の白い残骸が、俺の足元で、俺の愚行を嘲笑っているかのようだった。俺の「生存戦略」は、完全な破綻を迎えた。残されたのは、隼人の進路資料の破片と、俺の罪悪感、そして、陽葵の「空白」という、重すぎる絶望だけだった。
俺は、両手で顔を覆い、声にならない嗚咽を漏らした。この孤独な絶望の中で、俺は加害者として、愛を失ったという最大の罰を、ただ一人で背負うことになった。
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### 第35話 空席の重さ
愛する者に絶縁を告げられ、篠宮悠人の心は、文字通り、絶望のどん底に落ちた。水瀬陽葵がドアを閉めた乾いた音は、俺の人生の終わりを告げる弔鐘だった。部屋には、床に散乱した資料の破片と、俺の罪悪感だけが、重い空気となって充満していた。
俺は、彼女を力ずくで引き戻すことができなかった。彼女の瞳に宿った、俺への完全な愛の喪失。そして、彼女を解放することが、俺自身の「罪」を償う、唯一の道であるという、残酷な真実。俺の「生存戦略」は、完全な破綻を迎えた。俺は、愛する者を失った「独占者」であり、友人を間接的に殺し、彼女の未来を奪った「加害者」であるという、逃れようのない現実を、たった一人で受け止めるしかなかった。
その日から、俺たちの高校生活は、新たな段階へと移行した。陽葵は、俺との接触を徹底的に避けた。朝の登校は、俺が声をかけるより早く、自宅を出てしまう。放課後の予備校への足取りは、ますます早くなった。教室では、彼女の席は以前と同じ場所にありながら、彼女の存在は、俺との間に引かれた見えない境界線によって、遥か遠い場所へと隔離されていた。その冷徹な「不在」の重圧が、俺の心を押し潰す。
季節は、高校三年生の夏休みへと突入した。受験生にとって、最も重要な時期。だが、俺にとって、それはただの孤独な時間でしかなかった。陽葵は、当然、俺の部屋に来ることはない。俺は、彼女に「絶縁」を言い渡された身だ。二度と接触しないことが、彼女の「主体的な選択」を尊重する、俺に残された唯一の贖罪だと、俺の理性は理解していた。だが、本能は、彼女の「不在」という現実を、死の恐怖として受け止めていた。彼女の柑橘系の匂いも、この部屋から完全に消え失せ、俺は、自らの皮膚から滲み出るような冷たい汗の匂いの中で、孤独に耐えるしかなかった。
夏休みが始まり、学校の教室には、重苦しい静寂が訪れていた。三者面談や自習のため、まばらに生徒たちが登校するだけだ。俺もまた、進路の望みなどとうに失っていたが、自宅の孤独に耐えられず、学校の自習室へ通っていた。
ある日、俺は、あの二年四組の教室に、一人で足を踏み入れた。そこに座りたかったわけではない。ただ、あの時の光景を、もう一度、直視したかったのだ。
教室の中央、窓際にあった、望月隼人の席。あの日、隼人が病死し、消え去った彼の席は、今は何事もなかったかのように、新しい机と椅子に置き換えられていた。だが、俺の目には、その場所に、隼人の「空席の重さ」が、依然としてのしかかっているように見えた。隼人の死は、俺の罪悪感の原点だ。
俺は、隼人の席を避けるように、陽葵の席の前に立った。彼女の席も、当然、がらんとして、誰も座っていない。彼女は、今頃、予備校の自習室か、あるいは自宅で、あの新星総合医科大学への夢を、孤独に追っているのだろう。
俺は、その「陽葵の空白の席」を、ただ見つめていた。
隼人の「空席」は、俺に死の恐怖と加害者意識を突きつけた。そして、陽葵の「空白の席」は、俺に、愛を失った孤独と、罪を償う機会の喪失を突きつけた。二つの「空席」の重さが、俺の心を、容赦なく打ちのめす。この夏休みは、俺にとって、孤独と罪悪感を背負い、ただただ耐え忍ぶための、永遠にも等しい試練の期間となった。
俺は、その場に力なく座り込んだ。床には、誰もいない教室の、冷たい感触が伝わってくる。
(陽葵。……俺は、もう、お前の夢を破壊しない。……俺は、この支配を、永遠に終わらせる。だから、許してくれ)。
その言葉は、もう、彼女には届かない。俺が陽葵にできることは、ただ、彼女の選択を尊重し、俺自身がこの罪を背負って、孤独な絶望に耐えることだけだ。
どれほどの時間が経っただろうか。教室のドアが、静かに開けられた。
入ってきたのは、黒崎凛だった。彼女は、自習室で勉強していたのだろう、一冊の専門書を抱えている。俺の姿を認めると、彼女は、一瞬、驚いたように眼鏡の奥の瞳を見開いた。
「……篠宮くん? なぜ、ここに」
「……関係ないだろ。黒崎さんも、自習か」
俺は、素っ気なく答えた。凛は、俺の刺々(とげとげ)しい態度を気にする様子もなく、俺の隣の列の、一番前の席に静かに腰を下ろした。彼女は、俺たちに絶縁を突きつけられる前、俺の独占を「社会的な罪」として糾弾した、あの論理的な女だ。
「……そうね。私も、進路に関する、新たな制度を追っているから」
彼女は、そこで言葉を切った。そして、静かに、しかし、明確な意志を持って、俺に問いかけた。
「……水瀬さんとは、もう、話していないのね」
「……絶縁を、言い渡された」
俺は、その言葉を口にするのが、あまりにも辛かった。
「そう。……それは、あなたへの、当然の報いよ。あなたは、彼女の心を壊し、彼女の未来を奪おうとした。……支配的な愛は、この社会では、罪なの」
凛の言葉は、冷徹なまでに論理的で、そして、一切の情を挟まない、信賞必罰の宣告だった。俺は、その言葉に、反論の余地がない。
「……分かっている。俺は、加害者だ。……もう、償う機会も、ない」
「いいえ、あるわ」
凛は、そこで初めて、俺の顔を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、俺への非難だけでなく、何か、深い「期待」のようなものが混じっていた。
「水瀬さんが、この支配から解放され、彼女自身の意思で立ち直ること。それが、あなたが彼女にできる、唯一の償いよ。彼女の自立のプロセスを、あなたという『感染源』から完全に切り離して見守ること。それが、あなたに残された、贖罪の道よ、篠宮くん」
凛の言葉は、俺の心を、冷たい真実で塗りつぶした。陽葵の夢を、俺の力で叶えてやるのではない。彼女の「自立」を、俺が邪魔しないこと。それこそが、彼女の意思を尊重し、彼女の愛の喪失を受け入れた、俺の最後の「責任」なのだ。
俺は、その言葉を、深く、深く、心に刻み込んだ。
孤独と罪悪感の中で、俺は、この夏休みの「空席の重さ」を、贖罪の道へと踏み出すための、最後の試練として受け入れることを決意した。陽葵のいない夏。俺の「罪」と、彼女の「空白」だけが残された、孤独な日々が、こうして始まった。
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### 第36話 年内最後の登校
十二月、冬休みを目前に控えた、二学期の終業式前の最後の登校日。校舎全体が、張り詰めた静けさの中に沈んでいた。昇降口から校庭にかけて、冷たい冬の空気だけが、しんしんと満ちている。一年、二年の時とは比べ物にならない、受験生特有の重苦しい熱気が教室の中には渦巻いていた。それは、年明けに迫るセンター試験と、その後の最終試験への緊張感、そして束の間の冬休みへの解放感が混ざり合った、複雑な感情の熱だ。
俺、篠宮悠人の心の中には、この寒さとは無関係に、常に冷たい鉛のような罪悪感が存在していた。水瀬陽葵に「絶縁」を告げられ、進路資料を破ったという俺の罪が白日の下に晒されてから、数ヶ月。その間、俺たちの間に、いかなる言葉も交わされることはなかった。俺の支配は、愛する者を永遠に失うという、最大の罰をもって、完全に終わりを迎えたのだ。
最後のホームルーム。担任は、淡々と冬期講習の資料を配り終えると、生徒たちに向かって、年明けに迫る最終試験に向けた心構えを説いた。その説教も、俺の耳には遠い世界の音のようにしか聞こえない。俺の意識は、ただ、陽葵の背中に集中していた。
彼女の席は、俺から最も遠い窓際から二列目の席にある。だが、その背中は、以前の俺の支配に怯えていた少女の面影は、もうどこにも見当たらない。まるで文化祭の舞台で見た男役のように、まっすぐに伸び、揺るぎない決意を纏っていた。彼女は、俺が奪おうとした新星総合医科大学への進路を、俺の知らない場所で、着実に確実なものにしていると、俺は知っていた。彼女の孤独な自立は、俺の支配という呪縛を打ち破ったのだ。その事実は、俺の罪の深さを証明すると同時に、俺の存在が彼女の未来を破壊できなかったという、一種の救いでもあった。彼女の自立の輝きは、俺の孤独をさらに深めるものだったが、同時に、俺の心をわずかに支える光でもあった。
ホームルームが終わり、生徒たちが一斉に席を立つ。教室は、冬休みの予定を話し合う声と、荷物の擦れる音で喧騒に包まれた。俺は、席を立つことができなかった。陽葵の席と、俺の席の間。その空間の重さが、俺の全身を縫い付けているかのようだった。
俺の心臓は、激しく脈打つ。この瞬間が、俺たちの関係の、最後のページだ。彼女の「絶縁」という主体的な選択を、俺は尊重しなければならない。その葛藤が、俺の冷たい手のひらに、汗となって滲んだ。
俺は、視線を、教室の中央、窓際にあった、望月隼人の席へと向けた。彼の席は、物理的には埋まっている。だが、俺の心には、隼人の「空席の重さ」が、依然としてのしかかっていた。隼人の死は、俺の罪悪感の原点だ。そして、今、その隼人の空席の奥には、陽葵の「空白の席」がある。俺という罪から逃れた彼女の不在が、俺に、愛の喪失という最大の罰を突きつけている。二つの「空席」の重さが、俺の孤独な精神を打ちのめす。
陽葵は、友人たちと軽く挨拶を交わすと、鞄を手に、出口へと向かい始めた。彼女の足取りには、もう、迷いがない。
その時、彼女は、立ち止まった。そして、ゆっくりと、その身体を俺のいる窓際へと向けた。
俺の心臓が、激しく脈打つ。何かが、起こる。俺は、彼女に近づき、もう一度、彼女の目を見て謝罪したかった。あるいは、彼女の髪の、あの柑橘系の匂いを嗅ぎ、俺の生存を保証する「お守り」の感触を確かめたかった。だが、そのどちらも、俺は許されない。
彼女の瞳が、俺の、この孤独な「加害者」の瞳を、真っ直ぐに捉えた。
その視線は、非難でも、憎悪でもない。それは、過去の愛の残滓と、現在の冷たい決意、そして、俺の罪を理解した上で、俺に「生きろ」と告げているような、複雑な感情の混在だった。その視線は、俺の愚行に対する冷徹な断罪であると同時に、俺の命を救うために彼女が自己を犠牲にした、あの歪んだ日々への、微かな「感謝」の念も含まれていた。彼女は、俺の愛の喪失という罰を、この視線で、最後に確定させたのだ。
俺は、その視線に、ただ耐えることしかできなかった。彼女は、何も言わなかった。俺も、何も言わなかった。
その視線だけの、長く、永遠にも感じられる一瞬の後に、陽葵は、静かに、しかし明確な意志を持って、俺に背を向けた。
彼女は、教室のドアを開け、この学び舎から、冬休みという、束の間の解放区へと消えていった。
俺は、その場に、動くこともできずに立ち尽くしていた。
俺たちの関係は、この年内最後の登校日をもって、完全に断絶した。愛を失ったという最大の罰を受け、俺は、彼女のいない未来へと、たった一人で、贖罪の道を歩み始めることになった。この冬休みは、俺の「罪」と「空白」だけが残された、孤独な日々となるだろう。
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## 幕四:責任と希望
### 第37話 孤独な冬
年が明け、高校三年生の教室は、卒業という不可避な現実に向けて、最後の静寂に包まれていた。街全体が新年を祝い、明るい希望に満ちている中でも、俺たち受験生を取り巻く空気は、冬期講習の期間が終わり、自宅での自習という孤独な戦いに戻ったことで、一層冷たく、重苦しくなっていた。一月の底冷えする空気が、窓ガラスを震わせ、張り詰めた緊張感だけを部屋に満たしていた。
俺、篠宮悠人の心の中には、常に冷たい鉛のような罪悪感が存在し続けている。水瀬陽葵に「絶縁」を告げられて以来、俺たちの間に言葉はなく、連絡手段も、もはや存在しない。俺の贖罪は、彼女の「不在」という現実を、ただ静かに受け止め、彼女の自立の邪魔をしないこと。それが、俺という罪を背負った男に許された、唯一の道だと信じている。その理性の糸だけが、俺の破綻した精神を、かろうじて現実の世界に繋ぎ止めていた。
その孤独な日々を、決定的な絶望へと突き落としたのは、共通テストの結果だった。
担任からの電話は、年末の冷たい空気のように、簡潔で、容赦なかった。俺が陽葵の夢を奪うために目標とした、新星総合医科大学の医学部。当然の結果だったが、俺の点数は、その合格ラインに、遥か遠く届いていない。数ヶ月にもわたる、自己嫌悪と罪悪感に苛まれた中途半端な努力は、現実の壁の前で、いとも簡単に粉砕された。それは、俺の努力の不足を証明するだけでなく、俺が陽葵の未来を破壊しようとした、あの過去の愚行が、どれほど無意味で、自己満足にすぎなかったかを、冷徹に突きつけた。
俺の心臓を鷲掴みにするような、激しい動悸が起こる。全身から血の気が引いていくのが分かり、冷たい汗が額に滲み、シャツに張り付く。それは、もう望月隼人の死による恐怖ではない。俺が、愛する者の心を壊し、未来を奪おうとした「加害者」であるという、耐え難い自己嫌悪の生理的な反応だった。心臓が痛むのは、現実の痛みを、脳が身体に転嫁しているからに違いなかった。
(俺は、何も、叶えられない。誰の命も、未来も、救うことはできない。それどころか、最も愛した女の夢を、自分のエゴで踏みにじろうとした、卑劣な男だ)。
俺は、俺自身が定めた「倫理的境界線」を破り、衝動的に陽葵の進路資料を破り捨てた。その時、俺は、俺の存在が彼女の未来を「管理」できると、傲慢にも信じていた。俺の愛こそが、彼女を救う唯一の道だと、歪んだ正義感を振りかざした。だが、結果は、俺の未来が破壊されただけだ。彼女は、俺の支配から逃れ、孤独な努力で「A判定」を勝ち取った。そして俺は、彼女に「絶縁」を告げられ、未来の可能性を完全に失った。俺の「生存戦略」は、完全な破綻を迎えた。俺の独占は、俺自身を滅ぼしたのだ。その代償として、俺の目の前には、底知れない絶望と、愛を失った孤独だけが残された。
俺の部屋は、その絶望を凝縮したような、冷たい箱と化していた。換気のために開けた窓からは、凍えるような冬の風が吹き込むが、その冷たさも、俺の心に巣食う孤独には及ばない。部屋の隅々まで目を凝らしても、陽葵の柑橘系の匂いは、もはや微塵も残っていない。彼女の生活の痕跡が完全に消え去った「空白」の中で、俺は、罪悪感という名の冷たい汗に苛まれる。
俺は、参考書を広げた。ページをめくる指先は、ひどく乾燥し、その皮膚の感触だけが、俺の孤独な存在をかろうじて現実に繋ぎ止めていた。勉強する目的は、もはや受験のためではない。この底なしの「絶望」と「孤独」から、わずかでも意識を逃がすための、逃避行動だった。文字を追う行為は、そのまま、陽葵を支配していた頃の、俺の冷徹な理性の再現でしかなかった。文字は頭に入ってこない。それは、自己欺瞞にすぎなかった。
一方、陽葵は、俺の知らない場所で、その「夢」を孤独に追い続けていた。
俺は、彼女の母親が勤める病院の前を、時折、遠巻きに通ることがあった。陽葵の母親は、過労と経済的な重圧の中で、今も最前線で看護師として働いている。彼女は、娘の夢を応援するために、予備校代を工面し、娘の自立を静かに見守っているのだろう。陽葵の孤独な努力は、俺の支配的な愛ではなく、彼女自身の「誰かの命を救いたい」という純粋な願いと、母親の献身によって、支えられている。彼女の夢が、俺の介入なしに、純粋な愛と献身によって育まれているという事実が、俺の罪の重さを、さらに深く、俺の心に刻み込んだ。
俺は、彼女のいる場所へ、もう二度と近づくことはできない。それが、彼女の自立の邪魔をしない、俺に残された唯一の贖罪だ。この底知れない孤独の中で、俺は、隼人の「空席の重さ」と、陽葵の「空白の席」の重さ、二つの喪失を背負い、ただ耐えるしかない。
俺の頭の中で、隼人の最後の言葉が、再び反芻される。『お前の、その『正しさ』が、お前自身を滅ぼさなきゃ、いいな』。俺の独占は、俺自身を滅ぼした。だが、陽葵の自立は、俺の滅びの上に、確かに輝き始めている。その輝きだけが、俺の孤独な絶望の中で、かろうじて俺の心を支える、遠い「希望」だった。
この冬は、長く、冷たかった。俺の贖罪の道は、愛を失い、孤独に耐え、彼女の自立を遠くから見守るという、果てしなく続く試練だった。高校生活の記憶の多くは、隼人の不在と、陽葵の物理的な断絶という、二つの「男性の喪失」によって占められることになった。俺は、その孤独の中で、自らの過ちを内省し、この罪の重さを、ただひたすらに噛みしめ続ける。
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### 第38話 「責任」の意味
二月の寒さが肌を刺す朝、俺、篠宮悠人は、受験の最終局面がもたらす、張り詰めた緊張感に包まれた体育館に立っていた。共通テストの失敗が確定し、俺の未来は完全に閉ざされた。俺の心は、冷たい鉛のような罪悪感と孤独に苛まれている。俺の部屋には、陽葵の不在が作る冷たい空気が満ち、俺の独占が、俺自身を滅ぼしたという事実だけが、揺るぎない現実として残されていた。
俺は、男子生徒が集まる一角の、最も隅に立ち、冷たい汗を握りしめた手のひらを、ポケットの中で強く握りしめていた。望月隼人の死以来、恒常的となったこの冷たい汗の感触だけが、俺の存在を現実に繋ぎ止める感覚だった。陽葵は、女子生徒の群れの中に立っているが、俺は彼女に視線を送ることはできない。彼女の「絶縁」という選択を尊重することが、俺に残された唯一の贖罪だと、俺は自らに言い聞かせ続けていた。
壇上に立つ校長は、咳払いを一つすると、いつもより厳粛な表情で、マイクの前に立った。その冷厳な視線は、俺たち男子生徒のいる一角を、糾弾するかのように射抜く。
「諸君。残念ながら、この社会は、未だゼウス・ウィルスの猛威から逃れられていない。諸君らの仲間が、この一年の間にも、何名も命を落とした。そして、この現実は、もはや日常となりつつある」
その言葉が、俺の耳に突き刺さった瞬間、俺の胸郭の奥で、心臓が激しく脈打つ。校長の言葉が、俺の罪の原点である隼人の死の光景を、容赦なく俺の脳裏に再現させる。白い病室のベッド。無機質なアラーム音。そして、隼人の最後の言葉。『お前の、その『正しさ』が、お前自身を滅ぼさなきゃ、いいな』。俺の独占は、隼人の死という犠牲の上に成り立っているのではないかという、あの冷たい罪悪感が、再び俺の全身を駆け巡った。
「我々、生き残った男性の『責任』は、何をもって果たされるのか。それは、個人の欲望を満たすことではない。種の存続、そして、この社会の未来という、大義のために、己の身を捧げ、最も効率的に貢献することだ」
校長が口にする「責任」という言葉は、俺が陽葵を支配する唯一の理由として掲げた、あの「生存の義務」という偽りの大義名分そのものだった。俺は、その大義名分の下で、陽葵の体を「お守り」として私物化し、彼女の進路という、社会に貢献する可能性を奪った。俺の行動は、個人の欲望を満たすためだけに終始した、最も利己的な行為だったのだ。その卑劣さを、校長の言葉が、社会の正義という名で、俺に容赦なく突きつけてくる。それは、白石楓の「あなたの支配こそが、社会にとって最も危険な感染源だ」という、冷徹な告発の論理と、完全に一致していた。
俺は、その場に縫い付けられたように立ち尽くした。俺の支配は、愛ではない。それは、この社会の「病気」なのだ。俺は、陽葵の進路資料を衝動的に破り捨てたあの瞬間、彼女の「主体性」という、彼女自身の人生を決定する最も尊い権利を、暴力的に蹂躙した。それは、彼女の愛を、俺への「役割」に固定化しようとした、傲慢な行為だった。
その時、俺は、脳裏に刻まれた陽葵の冷たい瞳、そして彼女が孤独な努力で勝ち取った「A判定」の輝きを思い出した。彼女の存在は、俺の支配が完全に無意味であったことを示していた。彼女は、俺の破壊を乗り越え、自らの力で未来を再構築した。
俺の頭の中で、隼人の死、校長の訓示、そして陽葵の自立という、すべてが繋がった。俺の初期信条、「陽葵との添い遂げこそ、俺の生存と彼女を守るための唯一の『責任』だ」は、完全に崩壊した。
俺は、今、真の「責任」の意味を、絶望の中で突きつけられていた。
責任とは、支配ではない。
責任とは、愛する者の「主体性」を尊重すること。その者の持つ「夢」や「意思」を、自らの生存本能や欲望よりも、高い価値として認め、それを守るために、自らの行動を律することだ。俺がすべきだったのは、彼女の夢を管理することではなく、彼女が自ら道を切り開くための、環境を整えることだった。
俺の胸を貫いたのは、真実の冷たい光だった。それは、愛の喪失という罰を背負った俺にとって、何の慰めにもならない。むしろ、その真実に到達したことで、俺の愛が、どれほど彼女を苦しめたかという、罪の重さを再認識させられただけだった。
朝礼が終わり、生徒たちが喧騒と共に教室へ戻り始める。俺は、その場で動くことができなかった。
俺の贖罪は、今、この瞬間から、始まる。それは、陽葵の愛を取り戻す道ではない。彼女に許しを請う道でもない。それは、彼女の「主体性」を尊重し、彼女の自立を遠くから見守るという、孤独で、厳しい道だった。俺は、その孤独の中で、自らの過ちを内省し、この罪の重さを、ただひたすらに噛みしめ続けることを決意した。
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### 第39話 贖罪の決意
二月の凍てつく朝礼で、校長の口から発せられた「責任」という一語が、篠宮悠人の心に、愛とは支配ではなく相手の主体性を尊重することであるという、残酷な真実を突きつけた。それは、彼がこれまで築き上げてきた独占的な愛の初期信条を完全に打ち砕き、彼の心を奈落の底から、冷たい光の差し込む場所に無理やり引きずり上げた。真実を知った絶望は、新たな行動原理へと転化し、彼は愛する水瀬陽葵を永遠に失ったという重い罰を全身で受け入れ、残りの人生の全てを、その深い罪の償い(つぐない)に捧げる決意を固めた。彼の贖罪の第一歩は、陽葵の「主体性の回復」を最優先し、彼女が自立して未来へ進む道を決して邪魔しないこと、そして、その上で自らも社会の一員としての責任を果たすことにあった。
その日の放課後、人目を避け、自宅の自室に戻った俺は、床に散乱していた陽葵の進路資料の破片を、ローテーブルの前に座り込んで一つ残らず拾い集めた。それはまるで、かつて俺が暴力的に引き裂いた彼女の夢の断片を、拾い集める行為だった。無惨な紙切れとなった資料の断片を、俺は時間をかけて、一つ一つ丁寧に貼り合わせていく。その作業は、まるで割れた魂を修復しようとする、痛ましくも厳粛な儀式だった。俺の独占的な欲望が、一度は彼女の未来そのものを破壊しようと試みたが、彼女が重ねてきた努力の軌跡は、この修復された紙切れのように、俺の記憶の中で、そして俺の心の中で鮮やかに生き続ける。資料の裏側には、彼女が手書きで書き足した、新星総合医科大学の感染症研究に関する、極めて緻密なメモ書きが、微かに鉛筆で滲んで残されていた。その行間から伝わってくるのは、「誰かの命を救いたい」という、利己的な動機とは無縁な、陽葵の純粋な願いだった。俺は、その純粋で重い願いを、俺自身の命をかけた決断よりも、遥かに重いものとして、心の奥底で受け入れた。
俺は、まず、陽葵との物理的な接触を断つという、最も明確で苦痛を伴う行動を、自らに課すことを徹底した。それが、彼女の新たな人生のスタートと自立を、俺という存在が邪魔しないための、唯一の方法だったからだ。彼女が予備校から自宅へと帰宅する時間帯、俺はあえて、自宅から離れた人通りの少ない、孤独な場所を選んで時間を過ごした。学校の校内で、一瞬でも彼女の姿を見かけることがあれば、俺は反射的に視線を逸らし、彼女の視界にすら入らないよう、まるで壁の一部になったかのように、そこに存在しない人間を装った。それは、俺の生存本能と、彼女の温もりを求める愛の渇望に、真っ向から逆らう、最も苦しい自己懲罰の行為だった。彼女の纏う柑橘系の爽やかな匂いを嗅ぐことも、冷たい汗を握りしめた手のひらに、一瞬でも彼女の体温を感じることも、もう未来永劫、許されない。この自ら選んだ孤独こそが、俺が犯した罪の重さであり、俺自身に課した罰に他ならなかった。
次に、俺は、自らの進路に関する、不可逆的な決断を下した。共通テストでの致命的な失敗は、元々目指していた新星総合医科大学の医学部への進学を、現実的に不可能なものとしてしまった。だが、俺は、新星総合医科大学への道を完全に諦めたわけではない。俺は、目標の学部を変更し、もう一度、新星総合医科大学を目指すことにした。医学部ではない、彼女が選んだ「感染症研究」という、社会全体に貢献する分野に、最も近く、陰ながらそれを支えることができる医療支援学部への進学を目指すことにしたのだ。
俺が選び取ったこの進路は、もはや俺自身の「延命」や「生存」のためのものではなかった。それは、陽葵の夢が、将来的に結実するであろう未来を、遠く離れた場所から、陰ながら、決して邪魔をせず、確実に支えるための、俺自身の社会的責任の明確な表明だった。俺が医学を志した当初の動機は、父の病の恐怖からくる、極めて利己的な「生存本能」だったが、今の動機は全く違う。彼女の夢を破壊しようとした「加害者」として、俺は、人々の命を救うという、最も重い「社会的責任」を、自らに課す。陽葵が研究で開発するかもしれない「希望」という名の成果を、現場の最前線で受け止め、それを必要とする人々に届ける人間になる。それが、現在の俺にできる、そして俺だけがすべき、唯一の償いであると、俺は固く信じた。
俺は、その決意を、担任の教師に直接伝えた。担任は、俺の過去の成績と、陽葵との間に起こった一連の出来事、そして俺の精神的な変調を全て知っていたため、俺の急な進路変更の表明に、驚きと困惑の表情を隠すことができなかった。しかし、俺の瞳に宿る、揺るぎない、贖罪に向かう強い決意の光を見て取り、彼はしばらく沈黙した後、静かに頷いた。
「……篠宮。君のその決意が、一時の気の迷いではなく、本物であるならば、私も、全力で君の受験を支援しよう。だが、君の進学は、当然ながら来年度へと持ち越しになる。一年間という長い浪人生活だ。その間、君は、水瀬さんがもう隣にいない場所で、彼女のいない孤独と、過去の罪の重さに、ひたすら耐え続けなければならない。それでも、君の決意は変わらないか」
担任のその言葉は、俺がこれから歩む孤独な贖罪の道のりの厳しさを、改めて俺の心に深く突き刺した。陽葵は、この春、合格を勝ち取った大学で、希望に満ちた、輝かしい生活を送るだろう。その一方で、俺は、彼女が通るはずだった道と同じ場所で、彼女の残像だけを追いながら、孤独な努力を続ける。それは、俺の罪の重さと、愛する者を支配しようとした愚かさを、逃れることなく一年間、噛みしめ続けることを、決定づけていた。
俺は、自分の部屋のローテーブルの上に、時間をかけて貼り合わせた陽葵の進路資料の破片を、小さな、簡素な額縁に入れて丁重に飾った。それは、俺の過去の愚かさと、その愚かさに打ち勝って自立した彼女の、未来へと向かう輝きを、絶対に忘れないための、俺の心の中での厳粛な誓いの証となった。
俺の贖罪の行動は、今、この瞬間から、静かに、そして厳粛な決意と共に、確かに始まった。陽葵への愛は、かつての独占と支配から、「主体性の尊重と社会的責任の遂行」という、全く異なる、新しい形へと、その本質を変えたのだ。この自ら選んだ孤独で、重い努力こそが、篠宮悠人という男にとっての、愛の、最後の形となった。
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# 終末の初恋:男子激減社会での少女たちの選択
## 幕四:責任と希望
### 第40話 再起
二月の寒さが、ようやく緩み始めた頃、篠宮悠人の心は、なおも凍り付いていた。共通テストの失敗という現実が、彼自身の未来を完全に破壊し、陽葵の「絶縁」という決定的な愛の喪失は、彼を孤独の淵へと突き落とした。部屋には、愛する者の不在が作る冷たい空気だけが充満している。彼の独占的な愛が、彼自身の人生を破壊した結果を、彼はただ受け止めるしかなかった。
だが、その絶望の底で、彼は新たな行動原理を見出していた。それが、第38話で獲得した真実、「責任とは支配ではない、主体性の尊重である」という、贖罪の決意だった。彼は、もはや自分の生存を第一とはしない。代わりに、陽葵の未来を遠くから、決して邪魔せず、陰ながら支えるという、孤独で厳しい道を選び取った。その決意だけが、彼を正気に繋ぎ止めていた。
その日、俺は、自室のローテーブルの前に座っていた。目の前には、先日担任から受け取った、私立大学の受験結果通知書がある。すべての大学で、不合格。それは、俺の独占的な行為が、俺自身の人生を破壊したという、当然の報いだった。俺の進路は、一年間の浪人生活、そして来年度の新星総合医科大学・医療支援学部への挑戦へと、確定した。
俺は、その不合格通知書を、静かに、しかし、明確な意志を持って、引き裂いた。衝動的な破壊ではない。それは、過去の自分への、そして、偽りの大義名分であった「支配的な愛」への、最終的な決別だった。破片となった通知書を、床に散乱した陽葵の進路資料の破片の上に重ねる。二つの破片は、俺の過去の愚行の、二重の証だった。
俺は、立ち上がった。部屋の隅々まで目を凝らす。陽葵の柑橘系のシャンプーの匂いは、完全に消え去った。代わりに、俺の皮膚から滲むような、冷たい罪悪感の匂いだけが、部屋に満ちている。だが、その匂いこそが、今の俺を突き動かす、唯一のエネルギー源だった。この匂いを、俺はもう逃避に使わない。この孤独と罪悪感を、行動へと変える。それが、俺の贖罪の始まりだった。
俺は、クローゼットの奥から、中学時代の教科書と、高校一年生の時の参考書を引っ張り出した。埃を被ったそれらの教材は、俺が陽葵への支配を始めた頃、疎かにし、置き去りにしてきた「努力」の象徴だった。俺は、その一つ一つを丁寧に開き、内容を確認していく。俺は、基礎からやり直す。彼女が、俺の介入なしに、自らの力で勝ち取った「A判定」の輝きに、一歩でも近づくために、立ち止まることは許されない。
特に、彼女が夢見た感染症研究に関する知識は、重点的に学び直すことを誓った。俺は、彼女の情熱の対象を、かつて破壊しようとした者として、今度は、その情熱が注がれる未来を、支える側に回らなければならない。
俺が目指すのは、新星総合医科大学・医療支援学部。それは、陽葵が選んだ「感染症研究」という、社会に貢献する分野に、最も近い場所だ。俺の進路は、もはや俺自身の「延命」や「生存」のためではない。俺が彼女にできる償いは、彼女の夢を破壊した「加害者」として、命を救うという最も重い「社会的責任」を、自ら背負うこと。彼女が研究で開発するかもしれない「希望」を、現場で受け取り、それを必要とする人々に届ける人間になることだった。その決意だけが、俺の孤独を、かろうじて埋め合わせてくれた。
俺は、担任にその決意を改めて伝えた。担任は、俺の成績と、陽葵との間にあった一連の出来事、そして、俺の決意の真剣さを理解し、静かに頷いた。
「一年間の浪人生活。その間、君は、水瀬さんがもう隣にいない場所で、彼女の残像だけを追いながら、孤独な努力を続けることになる。それでも、君の決意は変わらないか」。担任の言葉は、俺の孤独な贖罪の道の厳しさを、改めて俺に突きつけた。
俺は、改めて、ローテーブルの上に、時間をかけて貼り合わせた陽葵の資料の破片を、小さな額縁に入れて丁重に飾った。それは、俺の愚かさと、彼女の自立の輝きを、絶対に忘れないための、誓いの証だった。その額縁は、俺の孤独な部屋の中で、唯一、未来へと光を放つ、小さな灯台のようだった。
一年間の浪人生活は、俺の罪の重さと、愛する者を支配しようとした愚かさを、逃れることなく噛みしめ続けることを、決定づけていた。この孤独は、俺の選んだ罰だ。
しかし、その罰の底には、確かな「希望」が芽生え始めていた。俺は、孤独だ。だが、この孤独は、逃避ではなく、俺自身の意思で選んだ「贖罪」という行動に基づいている。俺は、自分の人生を、彼女の存在に依存することなく、自分の意思で、再び歩み始めたのだ。
俺は、重い一歩を踏み出した。まずは、崩壊した学力を、基礎の基礎から立て直す。そして、来年、必ず、新星総合医科大学の門を叩く。その時、俺は、陽葵に顔向けできる、真の「責任」を背負った男になっているだろうか。その問いだけが、俺の孤独な戦いの原動力だった。俺の贖罪の行動は、今、この瞬間から、静かに、そして厳粛に、再起の時を迎えた。俺は、孤独な努力の中で、この罪を償い、彼女の自立という光を、遠くから見つめ続ける。それが、篠宮悠人という男にとっての、愛の最後の形だった。
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### 第41話 希望の予兆
二月が終わり、三月に入ると、大学受験の二次試験が間近に迫っていた。俺、篠宮悠人は、その喧騒から遠く離れた自宅の自室で、孤独な浪人生活の初期段階を過ごしていた。部屋には、愛する水瀬陽葵の不在が作る冷たい空気だけが充満している。俺の贖罪は、彼女の「不在」という現実をただ静かに受け止め、彼女の自立の邪魔をしないこと。その理性が、俺の破綻した精神を、かろうじて現実に繋ぎ止めていた。
毎日、俺は、基礎の基礎から学力を再構築するために、参考書を広げた。机の上には、時間をかけて貼り合わせた陽葵の進路資料の破片が、小さな額縁に入れられて飾られている。それは、俺の過去の愚行と、彼女の自立の輝きを、絶対に忘れないための誓いの証だった。この額縁は、俺の孤独な部屋の中で、唯一、未来へと光を放つ、小さな灯台のようだった。俺は、その光に背を向けることなく、黙々と鉛筆を走らせる。俺の罪の重さと、愛する者を支配しようとした愚かさを、逃れることなく一年間、噛みしめ続けること。それが、俺に課せられた罰であり、贖罪の唯一の道だった。
陽葵は、今頃、二次試験の最終決戦に臨んでいる頃だろう。彼女の選んだ新星総合医科大学の感染症研究分野は、彼女の努力と情熱にふさわしい、輝かしい未来へと繋がっている。俺は、彼女の未来に、決して邪魔をしないという誓いを立てている。俺の贖罪は、彼女の自立を遠くから見守り、彼女の夢の「下支え」となるべく、来年度の受験に向けて、ただ孤独に学力を再構築することだった。その決意だけが、俺の孤独を、かろうじて埋め合わせてくれた。
その日、俺は、二次方程式の解法を復習し終え、束の間の休憩を取るため、習慣化された逃避行動としてテレビをつけた。ワイドショーの喧騒が流れる中、画面が、唐突に、あの時と同じ、緊迫した臨時ニュースのチャイム音と共に切り替わった。そのチャイムの音は、望月隼人の死の直前の、生命維持装置のアラーム音を連想させ、俺の心臓を激しく脈打たせた。
「臨時ニュースをお伝えします。ゼウス・ウィルスに関する、極めて重要な進展です」
その一語で、俺の胸郭の奥で、心臓が激しく脈打った。全身の血が、一瞬で熱くなる。ゼウス・ウィルス。それは、俺たちの人生を歪め、隼人の命を奪い、俺と陽葵の関係を破壊した、すべての元凶だ。その元凶が、今、再び、俺の運命に干渉しようとしている。
「本日未明、新星総合医科大学を中心とする国際共同研究チームが、ゼウス・ウィルスに対するワクチンの最終治験において、極めて高い有効性を確認したと発表しました。これは、パンデミック発生以来、十数年にわたる人類の戦いにおける、歴史的な転換点となります」
最終治験の成功。ワクチン。その言葉が、俺の脳裏に突き刺さった。それは、このディストピア社会の、根本的な前提を覆す、「希望」の光だった。俺の、孤独な贖罪の道の始まりと同時に、社会全体に、不可逆的な変化がもたらされようとしていた。
「政府関係者によると、このワクチンは、まず感染リスクが最も高い、若い男性を最優先で接種する方針が、緊急承認される見通しです。これにより、男子生徒の死亡率は、劇的に低下する可能性が示唆されています」
若い男性を最優先で接種。その言葉の意味を、俺は即座に理解した。それは、俺たちの命を脅かしていた「死の恐怖」からの解放を意味していた。俺が、陽葵との「生存契約」という名目で、彼女を支配し、彼女の夢を奪おうとした、その根源的な動機が、消滅する。俺の全身から、力が抜けていくのを感じた。それは、喜びではなかった。それは、俺の「支配的な愛」を正当化していた、最後の、そして最も強固な鎖が、音を立てて断ち切られた感覚だった。俺の生存は、もはや陽葵の「純粋さ」に依存しない。彼女の身体は、俺の「お守り」であるという役割から、完全に解放される。その事実は、彼女の主体性を尊重するという俺の贖罪の決意を、外側から、社会的な形で、完成させるものだった。
俺は、テレビの前の床に座り込んだ。ローテーブルの上には、貼り合わせた資料の破片が、冷たい光を反射している。俺は、その額縁に触れた。彼女は、このワクチン開発のニュースを、今、どこで聞いているのだろうか。もしかすると、彼女は、このニュースに関わっているのかもしれない。彼女の選んだ道が、今、この社会全体を救おうとしている。その事実に、俺は、深い畏敬の念と、そして、彼女の夢を破壊しようとした自己の卑劣さに、激しい自己嫌悪に苛まれた。
だが、絶望だけではなかった。俺の贖罪の決意が、このニュースによって、さらに深く、強固なものに変わった。俺の罪は、彼女の夢を妨害したこと。償いは、彼女の自立を遠くから見守り、彼女が選んだ未来を支える社会的責任を全うすること。そして、彼女が解放されたこの社会で、俺自身が真の「責任」を背負った男として、再起することだ。
俺は、貼り合わせた資料の破片から視線を外し、窓の外の青空を見上げた。三月の空は、冷たいながらも、確かな光を放っていた。俺は、自分の過ちを内省し、この罪の重さを噛みしめ続ける。そして、来年の春、俺は必ず、新星総合医科大学の門を叩く。その時、俺は、陽葵に顔向けできる、真の「責任」を背負った男になっているだろうか。
この「希望の予兆」は、俺の「生存の義務」という呪縛を解き放ち、俺の贖罪の道を、真の「愛の成熟」へと向かう、最後の試練へと変えた。俺は、その試練を受け入れる。それが、愛を失った俺の、最後の希望だった。
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### 第42話 罪と罰
三月、大学受験の二次試験が終わり、卒業式を目前に控えた冷たい空気の中で、篠宮悠人は、奇妙な虚脱感に襲われていた。彼の自室は、未だ孤独な浪人生の箱の中にある。ワクチン最終治験成功のニュースは、人類の希望という光で、俺の罪の重さを冷徹に突きつけた。俺の生存を脅かしていた「死の恐怖」という根源的な鎖は、音を立てて断ち切られた。俺が水瀬陽葵との「生存契約」という名目で、彼女の純粋さを支配し、未来を奪おうとした、その行為の土台が、完全に崩壊したのだ。俺の独占は、俺自身の生存を確保するためという、偽りの大義名分を完全に失った。
俺は、ローテーブルの前に座り込んだまま、何時間も動けずにいた。部屋には、陽葵の不在と、俺の罪悪感だけが充満している。俺の目の前にあるのは、二重の皮肉だった。
第一の皮肉。それは、俺が生き残るという事実だ。俺は、愛する者の心を破壊し、望月隼人の死を間接的に招いた「加害者」でありながら、生き残る。俺の生存は、俺の支配的な「正しさ」を証明するどころか、その支配が崩壊した後に、外部の力によって、強制されたものだった。
第二の皮肉。それは、俺の生存を可能にした「希望」の光が、陽葵の情熱と努力が注がれた領域から生まれたものだという事実だ。俺は、彼女の夢を最も否定し、物理的に破壊しようとした。その彼女が選んだ道が、今、社会全体を救い、そして皮肉にも俺自身の命を救おうとしている。彼女の純粋な「責任」の遂行が、俺の卑劣な「生存本能」を救済した。
俺の心臓は、激しく脈打っていた。全身の血が、一瞬で熱くなる。俺は、生きて、この罪の重さを、償い続けなければならない。愛する者を永遠に失った上に、彼女の夢に命を救われるという、この耐え難い屈辱こそが、俺に課せられた、最も残酷で、皮肉的な「罰」だった。俺は、この罰を、甘んじて受け入れる。
俺は、貼り合わせた陽葵の進路資料の破片を飾った額縁を手に取った。俺は、その資料を衝動的に破り捨てた、あの罪を忘れることはできない。その愚行は、俺の人生の底に刻まれた、消えない「烙印」だった。この額縁は、俺の罪を忘れないための「罪の証」であり、同時に、陽葵の揺るぎない主体性の象徴だった。
(俺は、生きる。だが、俺の命は、俺のものだけではない)。
俺は、額縁を胸に抱き、冷たい床に膝をついた。彼女の純粋な努力に命を救われた屈辱。それは、俺が彼女の「命を守る義務」という鎖を押し付けたことへの、運命からの回答のように感じられた。俺が背負うべき「責任」は、彼女の命を支配することではない。彼女の主体性を尊重し、彼女が選んだ未来を、俺自身の命と人生を賭けて、社会的、倫理的な側面から支えることだ。
俺は、担任に電話をかけ、この期に及んで受験を辞退する旨を伝えようとした。二次試験直前のこの時期に、俺の進路に不安を覚えた担任は、きっと俺の弱気を疑ったはずだ。
「……担任。俺は、受験を辞退します」
担任は一瞬、絶句したようだったが、俺はすぐさま、彼に先んじて言葉を継いだ。
「違います。何を言っているんですか。もう半年以上まともに話すらしていない相手の事なんかどうでもいいですよ。俺は、俺が選んだ道を進むだけです。俺は、来年度、新星総合医科大学・医療支援学部を受験します。そして、この一年間、俺自身の罪を償うために、すべての努力を捧げます」
俺の言葉は、担任の混乱を招いたかもしれない。その言葉は、まるで陽葵への執着を断ち切るかのような、冷徹な響きを持っていた。しかし、その裏側には、陽葵への依存を完全に断ち切り、彼女の主体性を尊重するという、俺自身の決意が込められていた。彼女に知られることなく、彼女の未来を陰ながら支えるという、孤独な誓い。俺の贖罪は、この冷徹な言葉によって、形作られたのだ。担任は、俺の言葉に含まれた、陽葵への執着と、それを断ち切ろうとする強い意志の両方を、その声のトーンから読み取り、やがて、静かに頷いた。
俺は、再び参考書を広げた。俺は、基礎の基礎から学力を再構築する。孤独な努力の中で、俺の罪の重さと、愛する者を支配しようとした愚かさを、逃れることなく噛みしめ続ける。
この孤独な努力こそが、俺の愛の最後の形だった。愛する者に嫌悪され、拒絶され、それでも彼女の幸福を願い、その未来を支えるために、自らの人生のすべてを捧げる。この「ワクチンによる生存」という皮肉的な罰の中で、俺は、真の「責任」を背負った男として、再起することを誓った。
俺は、窓の外の青空を見上げた。三月の空は、冷たいながらも、確かな光を放っていた。その光は、俺の罪を容赦なく照らし出すが、同時に、俺が歩むべき、贖罪の道の始まりを告げる「希望の光」でもあった。俺は、この罰を背負い、孤独の中で、彼女のいない未来へと、たった一人で、歩み始める。
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### 第43話 雪解け
三月に入り、冷たいながらもかすかに春の息吹を感じさせる空気の中、篠宮悠人は、孤独な浪人生活の初期段階を、自室の冷たい空気の中で送っていた。彼の贖罪は、水瀬陽葵の「不在」という現実をただ静かに受け止め、彼女の自立の邪魔をしないこと。その冷たい理性の糸だけが、彼の破綻した精神を、かろうじて現実に繋ぎ止めていた。彼の罪の重さ、愛する者を支配しようとした愚かさ、そして望月隼人の死という記憶の鎖は、常時彼の心臓を締め付けていた。
毎日、俺は、基礎の基礎から学力を再構築するために、参考書を広げた。机の上には、時間をかけて貼り合わせた陽葵の進路資料の破片が、小さな額縁に入れられて飾られている。それは、俺の過去の愚行と、彼女の自立の輝きを、絶対に忘れないための誓いの証だった。俺は、その光に背を向けることなく、黙々と鉛筆を走らせる。俺の罪の重さと、愛する者を支配しようとした愚かさを、逃れることなく一年間噛みしめ続けること。それが、俺に課せられた罰であり、贖罪の唯一の道だった。
陽葵は、今頃、二次試験の最終決戦を終え、その結果を待っている頃だろう。彼女の選んだ新星総合医科大学の感染症研究分野は、彼女の努力と情熱にふさわしい、輝かしい未来へと繋がっている。俺の贖罪は、彼女の自立を遠くから見守り、彼女の夢の「下支え」となるべく、来年度の受験に向けて、孤独に学力を再構築することだった。その決意だけが、俺の孤独を、かろうじて埋め合わせてくれた。
その日、俺は、基礎的な化学の問題集を解き終え、束の間の休憩を取るため、習慣化された逃避行動としてテレビをつけた。ワイドショーの喧騒が流れる中、画面が、唐突に、あの時の緊迫した臨時ニュースのチャイム音と共に切り替わった。ワクチン最終治験成功のニュース。それは、俺の独占的な愛を正当化していた、最後の、そして最も強固な鎖が、音を立てて断ち切られた瞬間だった。俺の生存は、もはや陽葵の「純粋さ」に依存しない。彼女の身体は、俺の「お守り」であるという役割から、完全に解放される。その事実は、彼女の主体性を尊重するという俺の贖罪の決意を、外側から、社会的な形で、完成させるものだった。
俺は、テレビの前の床に座り込んだ。ローテーブルの上には、貼り合わせた資料の破片が、冷たい光を反射している。俺は、その額縁に触れた。彼女の選んだ道が、今、この社会全体を救おうとしている。その事実に、俺は、深い畏敬の念と、そして、彼女の夢を破壊しようとした自己の卑劣さに、激しい自己嫌悪に苛まれた。
だが、絶望だけではなかった。俺の贖罪の決意が、このニュースによって、さらに深く、強固なものに変わった。俺の罪は、彼女の夢を妨害したこと。償いは、彼女の自立を遠くから見守り、彼女が選んだ未来を支える社会的責任を全うすること。そして、彼女が解放されたこの社会で、俺自身が真の「責任」を背負った男として、再起することだ。
数日後、俺は、偶然、駅前の掲示板に貼り出された新星総合医科大学の広報紙に、陽葵の母親である水瀬美咲さんの、看護師としての献身的な活動の記事を見つけた。そこには、「夫を亡くした悲しみを乗り越え、娘と共に、この病に立ち向かう」という、短くも力強いコメントが添えられていた。
俺の脳裏に、美咲さんの疲弊した笑顔が蘇る。俺は、陽葵の進路を奪うために、彼女の母親の経済的な苦境を突きつけ、彼女の夢を諦めさせた。その裏で、陽葵は、俺との歪んだ関係の中でさえ、母親の苦労を間近に見つめ、孤独な努力を続けていたのだ。俺の支配的な愛ではなく、彼女自身の純粋な情熱と、母親との絆が、彼女を支えていた。
その記事を読んだ瞬間、俺の心に深く根を張っていた、彼女への憎悪と、自分自身の罪悪感の鎖が、音を立てて断ち切られるのを感じた。俺が彼女の夢を破壊しようとしたにもかかわらず、彼女がその純粋な意思を貫き通し、自らの力で未来を切り開いたことに対する、深い「理解」と「畏敬」の念だった。
俺は、彼女を恨んでいた。俺の過ちをすべて彼女のせいにして、俺の孤独を正当化しようとしていた。だが、彼女は、俺の破壊を乗り越え、より強く、より純粋な存在になっていた。俺は、彼女の自立の邪魔をしないという誓いを、改めて固く心に刻んだ。その日以来、俺は、俺自身の贖罪の道に、より一層、集中した。俺の浪人生活は、もはや単なる逃避ではない。それは、彼女の純粋な意思を尊重し、彼女が選んだ未来に、俺自身が真の「責任」を背負った男として、並び立つための、孤独な挑戦となった。
俺は、貼り合わせた資料の破片から視線を外し、窓の外の青空を見上げた。三月の空は、冷たいながらも、確かな光を放っていた。その光は、俺の罪を容赦なく照らし出すが、同時に、俺が歩むべき、贖罪の道の始まりを告げる「希望の光」でもあった。俺は、この罰を背負い、孤独の中で、彼女のいない未来へと、たった一人で、歩み始める。俺の心の中で、彼女への冷たかった憎悪の感情は、溶け始めた雪解け水のように、温かい「理解」の感情へと変わっていた。俺の贖罪は、彼女の心を許すことではなく、彼女の自立を心から受け入れ、彼女の選んだ未来に、俺が真の責任を背負った男として貢献すること。それが、俺の愛の最後の形となった。
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### 第44話 最後の登校
三月、冷たい風が吹きつける卒業式の朝。この学び舎で制服に袖を通す最後の日を迎え、水瀬陽葵は、清々(すがすが)しいほどの決意に満ちていた。彼女にとって、卒業は、篠宮悠人の支配という過去からの、真の解放を意味していた。悠人からの接触は、年明けから完全に途絶え、彼女の「絶縁」という選択が、彼の人生を打ち砕いたという事実は、彼が彼女の主体性を尊重しているという、皮肉的な「贖罪」の形を成していた。
俺の心臓は、終業式の朝と同じく、冷たい鉛を抱えたまま脈打っている。卒業生たちが体育館で卒業証書を受け取る間、俺は、卒業生の保護者に紛れ込むように、会場の最も後方の、陰になる場所に立っていた。冷たいコンクリートの床から立ち上る冷気が、足元から這い上がってくるのを感じた。それは、俺の皮膚に貼りつく冷たい汗と混ざり合い、俺の罪悪感を増幅させる。俺の視線は、壇上に立つ、卒業生代表の答辞を読む、陽葵の姿に釘付けになっていた。
「このディストピアの現実の中で、私たちは、生き残る者としての『責任』を問われてきました。その責任は、社会の期待に応じることではありません。自らの意思と、未来への希望を、決して手放さない、私たち自身の『主体的な選択』にこそあると信じています」
陽葵の、凛とした声が、張り詰めた体育館全体に響き渡る。その言葉は、まるで俺の過去の支配的な愛を糾弾し、俺の心に突きつけた「責任」の真の意味を、全校生徒の前で表明しているかのようだった。彼女は、俺の破壊を乗り越え、真に自立し、強い「個人」として立っていた。その姿に、俺は、自己嫌悪と共に、深い、深い畏敬の念を覚えた。彼女の自立の輝きは、俺の孤独をさらに深めるものだったが、同時に、俺の罪がもたらした破壊を、彼女自身の力で乗り越えたという、俺にとっての、遠い救済でもあったのだ。
式典後、卒業生たちは最後のホームルームのため、教室へ戻っていく。俺は、人波を避け、陽葵のクラスの教室へと続く、薄暗い廊下の隅に、身を潜めた。彼女が、最後にこの場所を去る瞬間を、遠くから見届ける。それが、彼女の自立を邪魔しない、俺の最後の務めだと感じていた。俺の孤独な戦いである浪人生活は、彼女の未来を陰ながら支えるための、果てしない努力だ。その道は、彼女の卒業と共に、さらに長く、厳しいものになる。
陽葵の教室からは、友人たちと別れの言葉を交わす、明るい声が聞こえてくる。その中に、黒崎凛の、冷静で、しかし温かい声も混ざっていた。彼女たちの間で、陽葵の進路が、改めて話題に上っているのだろう。俺の独占的な行為を「社会的な罪」として糾弾した凛は、今、陽葵の自立という「論理的最適解」が実現したことに、静かな満足感を覚えているに違いなかった。陽葵は、俺が夢見た新星総合医科大学の感染症研究分野への進路を、彼女自身の純粋な情熱と努力によって勝ち取ったのだと、俺は知っていた。彼女は、俺が奪おうとしたその未来へと、まっすぐに歩みを進めている。俺には、その輝かしい未来を遠くから見つめることしかできない。
やがて、教室内の喧騒が静まり、友人たちとの挨拶を終え、陽葵は一人で教室のドアへと向かい始めた。紺色のセーラー服と、胸元に飾られた真っ白なコサージュが、彼女の決意を象徴しているかのようだ。彼女の足取りは、力強く、迷いがない。希望の未来へと続く道は、彼女自身の選択によって、切り開かれたものだった。
彼女が教室のドアを開け、廊下へ一歩踏み出した。そして、力強い足取りで昇降口へと向かおうとした瞬間、彼女の足がふと止まった。彼女の視線が、人目を避けるように立っている俺の、この影の場所を、真っ直ぐに捉えたのだ。俺は、反射的に全身の筋肉を硬直させた。彼女は、俺の存在に気づいたのか。俺は、壁の一部になるように、呼吸すら忘れて立ち尽くす。
陽葵の瞳が、俺の、この孤独な「加害者」の瞳を、真っ直ぐに捉えた。その視線は、非難でも、憎悪でもない。それは、過去の愛の残滓と、現在の冷たい決意、そして、俺の罪を理解した上で、俺に「生きろ」と告げているような、複雑な感情の混在だった。彼女は、俺の愛の喪失という罰を、この視線で、最後に確定させたのだ。
俺は、その視線に、ただ耐えることしかできなかった。俺の冷たい手のひらには、懺悔の汗が滲んでいる。彼女は、何も言わなかった。俺も、何も言わなかった。
その視線だけの、長く、永遠にも感じられる一瞬の後に、陽葵の口元が、かすかに、微かに弧を描いた。それは、笑みではない。それは、俺への、複雑な感情が入り混じった、かすかな「感謝」の念を込めた、「別れ」の挨拶だった。彼女の視線が、「ありがとう、悠人。あなたの拒絶が、私を解放した」と告げているように、俺には感じられた。俺の心の中で、冷たかった憎悪の感情は、溶け始めた雪解け水のように、温かい「理解」の感情へと変わっていた。
陽葵は、静かに、しかし明確な意志を持って、俺に背を向けた。彼女は、教室のドアを開け、この学び舎から、彼女自身の力で掴み取った希望の未来へと、消えていった。
俺は、その場に、動くこともできずに立ち尽くしていた。俺たちの関係は、今、ここに、完全に断絶した。愛を失ったという最大の罰を受け、俺は、彼女のいない未来へと、たった一人で、贖罪の道を歩み始めることになった。
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### 第45話 それぞれの選択
四月。冷たい風が去り、春の光が地面を温め始めた頃、篠宮悠人は、愛する水瀬陽葵が卒業した学び舎から、最も遠い予備校の教室へと、孤独な足を踏み入れていた。卒業という一つの時代の終わりは、二人の人生を、決定的に、別々の場所へと引き裂いた。陽葵は夢を掴んだはずだが、俺には彼女の成功を、直接知る資格も、祝福する術もなかった。俺は、その夢を破壊しようとした罪を背負い、浪人という、長く厳しい罰を受けている。彼の浪人生活は、彼女の不在と、自己嫌悪だけが充満する、終わりなき修道院のようだった。
俺の心臓は、三月の卒業式で陽葵と交わした、あの最後の言葉なき視線の記憶を、今も鮮明に反芻していた。彼女の瞳に宿っていた、かすかな「感謝」の念と、俺への「別れ」の決意。彼女は、俺の支配という呪縛から完全に解放され、彼女自身の純粋な情熱と努力によって、輝かしい未来を掴み取った。その事実は、俺の孤独を深く突き刺すものだったが、同時に、俺が歩むべき「贖罪」の道を、明確に照らし出していた。俺は、彼女の主体性を尊重し、彼女の未来を陰ながら支えるという、孤独な誓いを、自身の浪人生活という形で全うすることを選んだのだ。この孤独な努力こそが、俺自身の魂の浄化であり、彼女の主体性への、静かな賛辞だった。
その日、俺は、予備校の自習室の隅、冷たい壁に背中を預けながら、来年度の受験に向けた、膨大な医学関連の参考書を開いていた。朝のニュース番組が、地方大学の合格の速報を淡々と報じている喧騒の中で、俺は必死に目の前の数式に集中していた。浪人という道を選び取って以来、俺の頭脳は、皮肉なほど冷静に、効率を重視して動き始めていた。それは、彼女がいないという、最も根源的な不安が解消されたことで、俺の精神的なエネルギーが、ようやく学力に向かい始めたことを意味していた。だが、その張り詰めた集中力も、一通の郵便によって、静かに破られた。
それは、大学からの合格通知ではなく、俺の母親から送られてきた、卒業アルバムのコピーと、添えられた手書きのメモだった。母親は、俺と陽葵の関係の破綻、俺の浪人生活、そして、俺が陽葵の進路に干渉しなかったという経緯を、すべて把握していた。そのメモは、俺の孤独な贖罪の行為が、俺が意図しない場所で、密かに承認されていたという、皮肉な事実を告げていた。
俺は、参考書の上に広げられたそのメモを、震える指で持ち上げた。メモには、短いながらも、俺の心臓を射抜く、極めて明確な事実が記されていた。
「悠人へ。陽葵ちゃんが、合格したわ。新星総合医科大学の感染症研究よ。あの子のお母さんから聞いたの。本当に良かった。あなたが、最後に彼女の邪魔をしなかったこと、お母さんも感謝しているわ。あなたの選んだ道も、きっと正しい」
俺の全身を、冷たい電流が走った。陽葵の夢が叶った。彼女の努力が、彼女自身の純粋な情熱が、俺の破壊という暴力を乗り越え、結実したのだ。俺は、その報せに、心からの喜びを感じた。その喜びは、俺自身の感情であると同時に、俺の罪の深さを再認識させる強烈な屈辱でもあった。俺は、彼女の未来を最も否定しようとした人間でありながら、その彼女が、今、社会全体に希望をもたらす道へと、力強く歩みを進めた。俺が直接聞く資格もなく、母親を通じて遠回りな形で知るというこの冷徹な現実は、俺と彼女の間に引かれた、決して超えられない断絶の境界線だった。この距離こそが、彼女が掴んだ自由であり、俺が受けるべき罰だった。その罰は、愛する者の成功を、遠くから孤独に見つめ続けるという、最も厳しい形を取っていた。
俺の独占的な愛は、彼女に与えることができた唯一の価値を、最後の瞬間に「拒絶」という形で差し出すことで、ようやく彼女の自立を促した。俺の贖罪の決意は、陽葵の未来という光の中で、冷徹に試され続けていた。俺が彼女にできる償いは、彼女の夢を破壊した「加害者」として、命を救うという最も重い「社会的責任」を、自ら背負うこと。俺の浪人生活は、彼女が選んだ道を、遠くから、陰ながら支えるための、果てしない努力だった。この努力の過程そのものが、俺自身の魂の浄化であり、彼女の主体性への、静かな賛辞だった。
俺は、母親からのメモを強く握りしめ、自習室の席を立ち、予備校の建物の屋上へと向かった。四月の冷たい風が、顔に突き刺さる。その風の中で、俺は、ローテーブルの上に飾られた、貼り合わせた陽葵の資料の破片を見つめ直した。資料の破片が、冷たい光を反射している。俺は、陽葵に顔向けできる資格など、どこにもない。だが、彼女の夢の分野に、一歩でも近づくという、俺の「責任」を果たすための道だけが、俺の目の前に、明確に残された。
この春、陽葵は、夢を叶え、真の自立を達成した。俺は、愛を失い、未来を失った。しかし、俺の前に開かれたのは、彼女の夢を支えるという、新たな「責任」を背負うための、孤独な道だ。俺は、この皮肉な運命を甘んじて受け入れ、来年度の合格に向けた、孤独な戦いを再開する。俺の贖罪の旅は、彼女の未来という光を目指して、静かに、しかし力強く、始まった。俺のこの孤独な努力こそが、愛の喪失という罰を背負った、俺の最後の愛の形なのだ。この道は、陽葵への依存から完全に脱却し、真の自立と社会的責任を背負うための、俺自身の魂の戦いであると、俺は深く理解していた。
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### 第46話 再会
四月、大学の入学式と高校の卒業式が終わり、新星総合医科大学の広大な校庭は、強い春の日差しと、社会的な希望が混じり合う異様な熱気に包まれていた。敷地内には、ゼウス・ウィルスに対するワクチンの若い男性最優先接種のための特設会場が設けられ、連日、多くの男子生徒や浪人生が列をなしている。俺、篠宮悠人もまた、来年度の受験に向けた孤独な浪人生活の合間を縫い、この希望の光を受け取るために、重い足取りでその列に並んでいた。
数ヶ月前まで、俺の命は陽葵の「純粋さ」という鎖に繋がれていた。その彼女が選んだ未来の成果である「ワクチン」によって、社会全体で解き放たれようとしている。俺の生存を保証する根源的な恐怖が消えたにもかかわらず、俺の心臓は、激しい緊張で脈打っていた。それは、彼女の夢の分野の恩恵を受けるという、皮肉的な「罰」を受け入れることへの、精神的な反応だった。俺の贖罪は、彼女の主体的な自立を尊重し、決して彼女の邪魔をしないこと。その誓いを、俺は孤独な努力の中で守り続けてきた。その誓いが、今、この場所で試されようとしている。
接種会場は、新星総合医科大学の医療支援学部の学生や、感染症研究に携わる学生ボランティアによって、整然と運営されていた。静かな秩序と、白い清潔感が支配するその空間は、俺の過去の密室とはあまりにもかけ離れていた。その列を辿っていく途中、俺の視線は、受付の列を誘導している、白衣を着た一人の女性に、否応なく釘付けになった。水瀬陽葵だ。
彼女は、あの紺色のセーラー服ではなく、大学のロゴが入った、真新しい白衣に身を包んでいた。腕には、医療支援の腕章を巻き、テキパキと列を捌き、感染予防の注意点を冷静に伝えている。彼女の横顔は、凛とした美しさに満ち、指示を出す声は、冷静で、迷いがなかった。彼女は、自らの主体的な意思で、今、社会の最前線に立っている。その姿は、俺が支配しようとした、あの過去の影を微塵も感じさせなかった。俺は、彼女の姿を、まるで遠い舞台の上の主人公を見るかのように、ただ見つめることしかできなかった。彼女の成功と自立が、俺の罪を容赦なく照らし出していた。
俺と陽葵の間には、無数の人が並ぶ列がある。俺は、彼女に気づかれないよう、顔を伏せた。彼女の自立の邪魔をしないこと。それが、俺の贖罪の誓いだった。彼女の視界にすら入らないこと。それが、俺の罰の遂行だった。俺の心は、逃げ出したいという本能的な叫びと、この罰を最後まで受け入れなければならないという、理性の間で引き裂かれていた。俺の全身は、冷たい汗と、彼女の近くにいることによる、抑えきれない緊張感で濡れていた。
しかし、運命は、俺の孤独な贖罪の道のりに、最後の試練を与えた。列が流れ、俺が陽葵が立つ受付のすぐ手前に差し掛かった時、彼女は、資料を受け取るために顔を上げた。
その瞬間、陽葵の瞳が、俺の、顔を伏せていた俺の姿を、明確に捉えた。
彼女の視線は、一瞬、凍り付いた。あの卒業式で交わした、最後の冷たい決意が、再び彼女の瞳に宿る。俺は、全身の筋肉を硬直させたまま、彼女の顔を見つめる。数ヶ月の沈黙。二人の間に、重苦しい静寂が降り積もる。その沈黙は、俺の過去の罪の重さを、会場の喧騒から切り離し、二人だけの世界で増幅させた。
陽葵は、すぐにその視線を、俺の胸元に下げた。そこには、俺が接種を受けるための、浪人生の身分証明書と、予備校の学生証が挟まれている。彼女は、俺が浪人し、来年度の新星総合医科大学・医療支援学部を目指しているという、俺の贖罪の決意を、その目で理解した。彼女の冷たい瞳に、感情の波が生まれた。それは、憎悪でも、嫌悪でもなかった。それは、俺が彼女の意思を尊重し、遠くからその未来を支える道を選んだことへの、深い「理解」と、そして、過去の俺の罪を許すことのできない「複雑な感情」の混在だった。彼女の表情は、トラウマを克服し、自らの意思によって運命を掴み取った、強い女性のそれだった。
俺の心臓は、激しく脈打つ。この沈黙を、破らなければならない。俺の贖罪の道は、彼女の未来を尊重することだが、この再会は、俺に最後の言葉を告げる「義務」があることを、突きつけてきた。俺の独占的な愛は、彼女を苦しめた。その真実を、彼女の主体性が勝利したこの場所で、最後に伝えなければならない。
陽葵は、そのまま、俺を無視し、次の列の生徒に声をかけようとした。その時、俺の喉から、絶縁以来初めての、声が絞り出された。
「水瀬……!」
その声は、渇いた空気に吸い込まれるように、か細く、弱々しかった。だが、その声は、彼女の白衣の肩を、ピクリと震わせた。陽葵は、ゆっくりと、しかし明確な意志を持って、俺を振り返った。
俺の瞳には、彼女の未来の輝きが映っていた。その輝きは、俺が支配しようとした過去の罪を、完全に上書きしていた。俺は、彼女に伝えなければならない。俺の支配は、愛ではなかったという真実を。そして、今、俺が選んだ愛は、彼女の主体性を尊重する、真の責任であるということを。この真実の告白こそが、俺の贖罪の完成形であり、彼女への最後の献身だった。
「……待ってくれ。一つ、聞いてほしいことがある」
俺は、彼女の冷たい決意の光を宿した瞳を見つめながら、その真実を伝えるために、覚悟を決めた。沈黙は、今、破られた。俺たちの物語の最終局面が、ここ、希望の光が差す接種会場で、始まる。
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### 第47話 愛と責任の告白
四月。新星総合医科大学の特設接種会場に響く、一瞬の静寂は、篠宮悠人が発した「水瀬……!」という、渇いた叫びによって破られた。白衣姿の水瀬陽葵は、その声を振り切るように次の列の生徒に目を向けようとしたが、彼の「待ってくれ。一つ、聞いてほしいことがある」という懇願に、遂に足を止め、明確な意志を持って彼を振り返った。
彼女の瞳は、数ヶ月の沈黙と絶縁の誓いを背負っている。そこには、俺への憎悪や非難といった激しい感情はなかった。あるのは、過去のトラウマを克服し、自らの意思によって未来を掴み取った者の冷たい決意と、そして、彼の罪と献身的な「非干渉」という贖罪を理解したことによる、複雑な感情の混在だった。俺の心臓は、激しく脈打つ。この再会は、俺の贖罪の道のりにおける、最後の、そして最も重要な試練だった。俺は、彼女の主体性が勝利したこの場所で、俺自身の真実を告げなければならない。
俺は、陽葵との間にあった、一メートルほどの距離を、決して詰めようとはしなかった。その距離こそが、今、俺が彼女の主体性を尊重しているという、唯一の証明だったからだ。その冷たい距離が、俺の罪の重さと、彼女への真の敬意を示していた。
「……話、って。何ですか、篠宮くん」
彼女の声は、公的な場所での対応のように冷静で、感情を一切含まない、フラットな響きを持っていた。それは、彼女がどれほど俺を、自分の世界から切り離そうとしているかを示す、明確な境界線だった。
俺は、その声に深く息を飲み、俯いていた顔を上げた。俺の視線は、彼女の白衣の胸元、新星総合医科大学のロゴを貫き、彼女の瞳へと真っ直ぐに向かう。
「まず、陽葵。卒業、そして合格、心から、おめでとう。君が、その夢を叶えたこと。俺の破壊を乗り越えて、そこに立っていること。……俺は、本当に、嬉しく思う」
俺の言葉は、祝福だった。それは、かつて俺が、彼女の夢を支配し、否定しようとした「加害者」の口から発せられるべきではない、純粋な賛辞だった。その言葉を聞いた瞬間、陽葵の冷たかった表情に、微かな動揺が走った。彼女の瞳が、一瞬、揺らぐ。彼女は、俺の言葉の意図を測りかねているようだった。
「……ありがとうございます。でも、それは、あなたに言う義理は……」
「わかっている。俺には、君に祝福を述べる資格もない。そして、君が、俺に感謝する必要も、義務もない」俺は、彼女の言葉を遮り、深く、しかし明確な意志を持って続けた。「だが、聞いてほしい。俺は、君に、真実を伝えに来た。俺が、この接種会場で、君の恩恵を受けようとしている、この場で」
俺は、ここで立ち止まることはできない。俺の罪の重さと、俺が到達した真の「責任」の意味を、彼女にすべて伝える。それが、俺の贖罪の完成形だった。
「俺が、かつて君に与えようとした愛。それは、愛ではなかった。それは、望月隼人の死と、俺自身の『死の恐怖』から生まれた、支配だった。俺は、君を『生存のお守り』として、君の純粋さを私物化した。君の夢を否定し、進路資料を破り捨てた行為は、俺の支配的な愛を正当化するための、最も卑劣な暴力だった」
俺は、一度、言葉を切った。全身の筋肉が震えている。その告白は、俺の魂のすべての力を使い果たす、重い行為だった。
「そして、俺が今、この場所で、君の夢の成果であるワクチンを接種しようとしている。これは、運命が俺に与えた、最大の皮肉であり、罰だ。愛する者を永遠に失い、その愛する者の純粋な努力に命を救われるという、耐え難い屈辱。俺は、その罰を甘んじて受け入れる」
陽葵は、俺の告白を、目を逸らさずに、ただ静かに聞いていた。彼女の冷たい決意が、徐々に溶け始めている。過去のトラウマが呼び起こされながらも、彼女は、その真実を受け止めるだけの強さを身につけていた。その瞳の奥には、彼女自身の苦しみと、俺の苦しみを理解しようとする、深い眼差しがあった。
「俺が、真の責任の意味を悟ったのは、君が俺の支配を完全に拒絶し、孤独な努力で未来を掴んだ、その主体的な姿を見た時だ。責任とは、支配ではない。責任とは、愛する者の主体性を尊重し、その選んだ未来を、陰から支えることだ」
俺は、最後の言葉を、静かに、しかし、決意を込めて伝えた。
「陽葵。俺は、君の未来を、社会的責任という形で支えるために、来年、新星総合医科大学・医療支援学部を受験する。君のいる場所の、最も近い場所で、君の夢の成果を、必要とする人々に届ける人間になる。それが、俺にできる、唯一の償いだ」
俺は、そこで、言葉を止めた。これ以上、何も付け加えることはできない。俺は、彼女の主体性を尊重し、彼女の人生から完全に手を引くという、最も残酷な「別れ」の宣言をしたのだ。俺の贖罪は、彼女に許しを請うことではない。俺の孤独な誓いを、ただ貫き通すことだ。
「……だから、君に、俺のこの告白への答えは求めない。君が、俺を許す必要もないし、俺のこの道が正しいかどうかを決める必要もない」
俺は、一歩、後ろへ下がった。彼女との間に、物理的な距離を再び作る。
「もし、もしも、君の心の中で、俺のこの選択を、遠くから受け入れる意思があるなら、来年、俺がこの大学の門を叩く時、君から、何か、かすかな、合図をくれるだけでいい。君の人生は、君のものだ。俺は、その選択を、永遠に尊重する。迷惑かもしれないが、けじめとして陽葵に言っておきたかったんだ。作業の邪魔をして、ごめん」
俺は、そう言い残すと、陽葵に背を向けた。沈黙は、破られた。そして、二人の間の愛の再構築の試みは、彼女の主体的な「選択」という、最も厳しい試練の前に、今、委ねられた。俺の贖罪の旅は、ここから、彼女の「愛の証明」という、最後の試練へと突入する。
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### 第48話 新しい始まり
ワクチン接種会場での、あの劇的な告白から一年が過ぎた。季節は再び三月。新星総合医科大学の広大な校庭を包む空気は、卒業と入学の希望に満ち、ゼウス・ウィルスによる男性激減という脅威が収束に向かっていることを、静かに示していた。俺、篠宮悠人は、一年間の孤独な浪人生活を経て、新星総合医科大学・医療支援学部の受験を終え、その合格発表の掲示板の前に立っていた。彼の贖罪の戦いは、この日が最後の審判の日となる。
陽葵が、俺の最後の告白に対して、何の答えも返さなかったことは、俺にとっての厳粛な罰であり、愛の喪失という現実だった。彼女は、俺の人生から完全に手を引くという、彼女自身の主体的な選択を貫いた。俺の贖罪は、彼女の未来を支配することではなく、彼女の選択を尊重し、彼女の夢の分野を、陰ながら社会的責任という形で支えること。その目標だけが、俺の孤独な一年間の戦いを支え続けた。俺の胸には、彼女が夢を叶えるために努力した破片を貼り合わせた資料の額縁と同じ、彼女の純粋な意思の輝きが、深く刻み込まれていた。
合格発表の掲示板には、多くの受験生と、その保護者が群がっている。俺は、人波を避けながら、自分の受験番号を探した。数式を追うような冷静な視線で、貼り出されたリストを辿っていく。そして、その列の、中央付近。俺の受験番号は、明確に、そこに存在していた。
合格。その二文字が、俺の脳裏に突き刺さった。それは、俺自身の未来を、彼女の夢の分野へと繋ぐための、最初の、そして最も困難な一歩が、ようやく認められた瞬間だった。俺の心臓は、激しく脈打つが、それは、かつての「死の恐怖」や「支配欲」からくる動悸ではない。それは、これから始まる、新しい人生への、静かな覚悟の脈動だった。俺の頬を伝う冷たい涙は、歓喜ではなく、過去の罪の重さと、これから背負う責任の重さを感じさせるものだった。
その時、俺の横を、微かな、柑橘系の匂いが通り過ぎた。
俺は、反射的に身体を硬直させた。その匂いは、紛れもなく水瀬陽葵だ。彼女は、新入生を迎えるためのオリエンテーションの手伝いに来ていたのだろう。白衣に身を包んだ彼女は、俺の横を通り過ぎ、数歩進んだところで、ふと立ち止まった。そして、まるで、その場に「何か」が取り残されているかのように、ゆっくりと、その身体を俺の方へと向けた。
俺の心臓は、激しく脈打つ。彼女は、俺の存在に気づいたのか。俺は、呼吸すら忘れて、彼女の視線を受け止めた。
陽葵の瞳が、俺の、この孤独な「加害者」の瞳を、真っ直ぐに捉えた。彼女の視線は、憎悪でも非難でもない。それは、俺の罪を理解した上で、俺に「生きろ」と告げているような、複雑な感情の混在だった。彼女の視線は、合格発表の掲示板を一瞥し、そして俺の胸元に下げられた、浪人生の学生証を、明確に確認した。
彼女は、俺の告白の最後の言葉を思い出したのだろう。俺の心の中で、あの言葉が繰り返される。彼女の瞳は、トラウマの克服と、愛の証明、そして、自らの意思による選択という、激しい感情の渦に巻かれていた。
その視線だけの、長く、永遠にも感じられる一瞬の後、陽葵は、何も言わなかった。しかし、その背中が、俺の心に、一つの確かなメッセージを伝えていた。彼女は、俺の存在を遠くから受け入れるという、主体的な選択をしたのだ。それは、愛の共同体のリーダーとして、俺の贖罪の決意を、彼女自身の人生の設計図の中に、組み込んだことを意味していた。
そして、陽葵は口を開いた。その声は、かつての少女の甘さではなく、対等な立場の人間として、明確な条件を提示する、冷徹な響きを持っていた。
「篠宮くん。これで、あなたは私と同じ、この場所に立つ資格を得た」
その言葉は、合格への祝辞であると同時に、俺の過去の行動に対する負債の残高確認だった。俺の心臓は、さらに強く脈打つ。
「でも、あなたの贖罪は、ここで終わりじゃない。あなたが過去に負った負債の償還は、これから始まるの。あなたの四年間は、私の夢を支える社会的責任を全うするための、償還計画の一部よ。私はあなたのものではなく、あなたが私のものなんですから。全部償還するには生涯かかると思って覚悟して」
陽葵の瞳は、未来のリーダーとしての冷たい決意に満ちていた。彼女は、俺の罪を許すわけではなく、その罪を、彼女の未来のためのエネルギーとして利用することを、明確に宣言したのだ。
「対等なパートナーシップは、その償還を終えて、あなたが本当に社会的責任を負うに足る人間だと、私が認めた、その後の話よ。……入学、おめでとう」
彼女は、俺の告白に対する明快な回答と、対等な関係の開始条件を言葉で提示した。それは、彼女の主体性を重んじる、最も厳しい形で、俺たちの愛の継続を承認した瞬間だった。
陽葵は、静かに、しかし明確な意志を持って、俺に背を向けた。そして、そのまま、研究棟の方へと歩き出した。その背中は、過去の少女の面影を完全に失い、未来の責任を背負う、一人の女性の姿だった。
俺は、彼女の背中が完全に視界から消えるのを見届けてから、ゆっくりと、予備校の鞄を肩にかけた。俺の浪人生活は、ここで終わる。そして、俺は、この大学の門を、新入生として再び叩く。俺は、彼女のいる場所で、俺自身の罪を償い、社会的責任を全うする。
俺たちの新しい始まりは、愛の喪失という悲劇の上に、孤独な努力と、真の責任という、最も厳しい形で、今、静かに幕を開けた。俺たちの愛は、かつての情熱や支配という形を捨て、今、ここに、妥協と継続と責任という、新しい形となって成熟したのだ。
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## 終幕:愛の共同体
### エピローグ
水瀬陽葵は、研究室での長時間にわたる作業の疲労を肩に感じながら、自宅の玄関のドアを開けた。カチリ、と鍵が回る音と共に、部屋を満たすのは、香辛料と出汁の混ざった、どこか懐かしい温かい匂い。そこには、決まって篠宮悠人が、エプロン姿で出迎える。彼の背中からは、冷たい二月の風の中で浪人生として再起を誓っていた、あの厳粛な決意の光が、今も消えることなく、穏やかな家庭生活の熱へと変わっているのが感じられた。
陽葵の意識は、疲労と共に、遠い幼い頃の回想へと飛んだ。
(あの頃、悠人は、いつも私を独占することで、自分の生存を確かめていた)。
まだゼウス・ウィルスが社会を覆う前の、幼い頃の悠人は、父が感染症の初期症状を見せたことがトラウマとなり、常に自分の命を脅かす漠然とした恐怖に怯えていた。その恐怖を打ち消すため、彼は私のそばにいることを、最も大きな「お守り」とした。そして、男女比1:3という絶望的な社会で、高校に入学した私達の関係は、彼の歪んだ生存本能によって、「処女による添い遂げ」という支配的な契約へと変質した。彼の独占は、私を屈辱的な快感へと導き、私の心に深いトラウマを刻みつけた。だが、その支配を拒絶し、孤独な努力で未来を掴んだのは、私自身の主体性だった。
大学卒業後、陽葵は新星総合医科大学の大学院へと進み、感染症研究の道を選んだ。彼女の才能は研究の世界で遺憾なく発揮され、彼女が開発に携わったゼウス・ウィルスに対するワクチンは、今や世界中で若い男性の命を救う希望となっている。一方、悠人は、大学の医療支援学部を卒業後、地元の保健所の職員として就職した。彼の担当業務は、陽葵の研究成果に基づいた疫病対策の業務調整である。彼は、彼女の夢がもたらした「希望」を、社会の最前線で「責任」をもって届けるという、彼の贖罪の形を、家庭の外でも全うしていた。
「おかえりなさい、陽葵。今日は遅かったですね。夕食はもうできています」
悠人は、陽葵の白衣を受け取りながら、相変わらず冷静で口数が少ない。その眼差しは、彼女の疲労を深く気遣っている。陽葵は、疲労を隠せない様子で、彼の肩に頭を預けた。彼の細身ながらも確かな体温と、肌の柔らかい感触が、過去の記憶を呼び覚ます。高校時代、悠人の独占欲という名の支配によって、さんざん身体を合わせていた、あの行為の記憶を、陽葵の方が、皮肉にも忘れられずにいた。彼の献身的な償いの形が、彼女の心を許した瞬間、二人の間にあった愛は、熱い情熱ではなく、対等な信頼と継続という、最も深い形で復活したのだ。悠人の献身的な姿勢は、陽葵の心に深く響き、彼女は彼の存在なくしては、研究に没頭できないことを知っていた。
「ただいま、悠人。……今日はね、新しい変異株の解析が難しくて。少し、抱きしめて」
悠人は、黙って彼女を抱きしめた。彼の役割は、陽葵が研究に没頭できるように、家事のほとんどを完璧にこなすこと。夕食の準備から洗濯、部屋の清掃に至るまで、彼の高い能力は、家庭という最小単位の共同体の「運営責任」に全て注がれていた。彼の贖罪は、生涯をかけて、彼女の主体性を尊び、家庭という責任を全うすることなのだ。
リビングからは、すでに賑やかな話し声が響いている。大学時代に陽葵と和解した、黒崎凛、緑川繭、そして白石楓だ。彼女たちは、悠人を巡る対立の過去を乗り越え、今や、すっかり陽葵と親友になっていた。陽葵につらく当たっていたのも結局悠人のことが好きだったからで、陽葵の管理下とはいえ、打ち解けてしまえば、親密になるのは早かった。そして、この三人の親友たちは、陽葵の承認の下で、学校を卒業するタイミングで、悠人との子供を産んでいた。このディストピア社会が産んだ「愛の共同体」は、四組の母子が共に暮らす、賑やかな大家族を形成していた。
陽葵は、今、二人目の子供を妊娠中である。彼女自身がこの「共同体」のリーダーであり、力関係は対等というにはほど遠く、陽葵の尻に悠人が抑えられている状況である。悠人に言わせると、そのぐらいでないと、支配と被支配の関係にあった二人が、真に「対等なパートナー」として関係を継続することはできない、ということらしい。彼がかつて彼女に与えた屈辱と破壊の罪は、この献身的な奉仕と、陽葵の管理という形で、ようやく償われているのだ。
「明日は、凛の長男の誕生日パーティーよ。悠人、忙しそうだけど、大丈夫?」
陽葵は、悠人の顎にキスを落としながら尋ねた。悠人は、エプロンの紐を結び直し、微笑んだ。彼の両手には、これから仕込みをする大量の食材が握られている。
「ええ、大丈夫です。今夜は早く寝てください。私は、長女の好きなシチューの仕込みと、ケーキの準備がありますから。明日は、四組の母子が揃っての、賑やかなパーティーになります」
もしあのゼウス・ウィルスという病気が無かったら、彼らは違った愛の形になっていたかもしれない。しかし、この終末的な社会がもたらした苦難と、愛の喪失という罰が、彼らの愛を、情熱ではなく、妥協と継続と責任という、最も強く成熟した形へと進化させたのだ。彼らの新しい始まりは、希望の光の中で、今、静かに、しかし力強く、継続している。
【完】




