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終末の初恋:男子激減社会での少女たちの選択  作者: 舞夢宜人


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前編:男子1/3社会。愛は義務か、選択か。

あらすじ:

男性の命を奪う伝染病「ゼウス・ウィルス」により、毎年1割近い男性が亡くなり、男女比1:3となった終末的な社会。高校に入学した篠宮悠人は、愛する幼馴染・水瀬陽葵との「処女での添い遂げ」こそが、自身の生存と彼女を守る「義務」だと信じ、陽葵を独占する。しかし、その独占は陽葵の進路の夢を奪う加害へと変質し、ライバルたちの切実な反発と友人の死が、二人の関係を破綻させる。悠人は贖罪の道を選び、陽葵は自己の主体性を回復。ワクチン成功という希望の中、陽葵は正妻として、愛の共同体という新たな未来を創造する。


登場人物:

篠宮しのみや 悠人ゆうと:正義感と愛が空回りする少年。過ちから贖罪の道へ。

水瀬みなせ 陽葵ひまり:自分の純粋な想いを大事にしたい少女。

望月もちづき 隼人はやと:未来を悲観し、享楽的な愛に溺れる。

黒崎くろさき りん:独占を社会の罪と断じる社会派の学級委員長。

緑川みどりかわ まゆ:愛を平等に分かち合うべきと主張する、情動的な少女。

白石しらいし かえで:劣等感から陽葵の破滅を望む陰湿な手段を選ぶ潜伏者。


## 幕一:邂逅と生存の義務


### 第1話 四月、生存の責任


 埃と、真新しい制服の匂いが混じり合う。四月の体育館は、その独特の空気で満たされていた。張り詰め、しかしどこか浮ついた期待が飽和している。俺、篠宮悠人は、割り当てられたパイプ椅子に腰掛けながら、その異様な光景を冷静に観察していた。新入生総代の挨拶が、やけに響くマイクを通して流れている。


 広い体育館を埋め尽くす生徒たち。その大半が、女子だ。ざっと見渡すだけでわかる。黒い詰襟と、濃紺のセーラー服の比率。女子生徒三百名に対し、男子生徒は百名。それが、この国の、この時代のスタンダードだった。


 壇上に立つ校長が、咳払いを一つした。眼鏡の奥の瞳が、俺たち男子生徒が固まっている一角を射抜く。静まり返った空気に、乾いた声が突き刺さる。


「新入生の諸君、入学おめでとう。しかし、諸君らが直面する現実は、我々の時代とは決定的に異なる」

「ゼウス・ウィルスによる男性の致死率は、依然として高い水準にある。諸君らは、ただ学ぶためにここにいるのではない。生き残るため、そして、この国の未来を繋ぐという、重い責任を負うためにここにいる」


 生存のための責任。その言葉が、耳の奥で冷たく反響した。それは希望ではなく、義務の通達だ。俺は無意識に手のひらを開き、爪が食い込むほど強く握りしめた。幼い頃、父親が初期症状を見せたあの夜の、死の恐怖が蘇る。あの時の、すべてが冷えていくような感覚。


 校長は、さらに残酷な現実を突きつけた。


「本日、この場にいる男子生徒は百名。統計上、三年間で約二十七パーセントが命を落とす。諸君らが卒業式を迎える日、男子生徒の数は、七十三名と予測されている」


 七十三。その具体的な数字が、俺たちの間に見えないナイフのように突き立てられた。誰かが息を呑む音が聞こえる。それは、ここにいる四人に一人が、卒業アルバムに載らないという宣告だ。


 俺は、その数字の暴力から逃れるように、視線を彷徨わせた。探しているのは一人だけだ。女子生徒の群れの中に、彼女はいた。水瀬陽葵。背筋をピンと伸ばし、校長を真っ直ぐに見つめている。清潔感のある、優等生然とした横顔。幼い頃から変わらない、俺の隣にいたはずの存在。彼女の父親は、五年前、この病で死んだ。彼女の母親は、今も看護師として最前線にいる。陽葵は、このディストピアの現実を、誰よりも深く理解しているはずだ。


 俺は、陽葵の姿を視界に捉えながら、さきほどの校長の言葉を反芻していた。生存の責任。そうだ。俺が生き残ること。それこそが義務だ。俺の生存戦略は、間違っていない。

 この十年で確立された唯一の知見は、性的相手の数が多ければ多いほど、男性の発症リスクは指数関数的に高まる、というものだ。だからこそ、感染歴のない処女である陽葵と添い遂げること。それが俺の生存戦略だ。

 陽葵自身が病で死ぬことはない。だが、彼女はキャリアにはなる。もし陽葵が、隼人のような享楽主義の男や、あるいは他の誰か(感染源)と接触すれば、彼女はウィルスを運ぶ「容器」と化す。

 その陽葵と俺が接触すれば、俺が死ぬ。

 ならば、俺が陽葵を独占すること。それは、俺の生存本能を満たすための絶対条件だ。俺は、陽葵を「守ら」なければならない。彼女の生命をではない。彼女を「俺専用の、安全なパートナー」として確保し、他者から感染させられ、結果として俺が感染するリスクから「守る」のだ。

 この物理的な隔離と独占こそが、俺に課せられた唯一の「義務」であり、俺が示すべき「愛」の形だと信じている。

 俺は、彼女の存在を、死の恐怖を打ち消すための唯一無二の「お守り」のように、執着を込めて見つめていた。


 重苦しい入学式が終わり、俺たちは各教室へと移動した。一年三組。ドアを開けると、そこでもまた、男女比の歪さが際立っていた。男子はわずか八人。女子は二十五人。俺は窓際の後ろから二番目の席に荷物を置いた。陽葵も、同じクラスだった。彼女は、俺の二つ前の席に静かに座っている。


 ホームルームが始まり、担任の教師が淡々と自己紹介を進めていく。


「じゃあ、五十音順で。まずは、男子から」


 当たり障りのない挨拶が続く。だが、その中で一人、異質な空気を放つ男がいた。


「望月隼人です。趣味は、女の子と遊ぶこと。このクラスの女子全員と仲良くなるのが目標かな。ま、男子は少ないけど、三年間の短い付き合い、よろしく!」


 望月隼人。痩せ型で、着崩した制服。その軽薄な笑みは、さきほどの校長の訓示で凍り付いた空気を意図的に無視するものだった。女子の一部が、その社交的な態度に好意的な視線を向ける。だが、俺には分かった。あれは、死への恐怖から目を逸らすための、享楽的な逃避だ。


 俺の番が来た。


「篠宮悠人です。よろしくお願いします」


 俺は短く告げ、すぐに席に着いた。隼人のような振る舞いは、死を早めるだけの愚行だ。俺の戦略は、彼とは真逆。排他的で、閉鎖的で、確実なものでなければならない。


 女子の自己紹介が続く。


「水瀬陽葵です。父が感染症で亡くなっているので、将来は感染症の研究に進みたいと思っています。よろしくお願いします」


 陽葵の、凛とした声が響く。彼女はまた、優等生としての「役割」を果たそうとしている。その健気さが、俺の胸を締め付けた。同時に、その夢が、俺たちの生存契約の障害になる可能性を、俺はまだ知らなかった。


 ホームルームが終わり、帰りの支度を始める。教室のあちこちで、新しい友人グループが形成され始めている。だが、その輪の中心は、例外なく男子生徒だ。隼人は、すでに五人ほどの女子に囲まれ、軽快なトークを繰り広げている。


 俺は、そんな喧騒を背に、陽葵の席へ向かった。


「陽葵」


 声をかけると、彼女はびくりと肩を揺らし、ゆっくりと振り返った。その瞳には、安堵と、そして「役割」を察知したかのような、わずかな緊張が浮かんでいた。


「悠人……。同じクラス、よろしくね」

「ああ。帰るぞ」


 俺は、それが当然であるかのように言った。


「え……あ、うん」


 陽葵は一瞬戸惑ったが、すぐに頷き、荷物をまとめた。俺たちは、幼馴染として、当たり前のように並んで教室を出た。だが、その瞬間、背中に突き刺さるいくつかの視線を感じていた。それは、隼人に集まっていた好意的な視線とは違う。冷たく、値踏みし、そして非難するような色を帯びた、女子生徒たちの視線だった。


 俺が陽葵を独占すること。それが、このアンバランスな世界において、どれほどの嫉妬と反発を生むのか。俺は、その視線から陽葵を守るように、無意識に一歩、彼女に寄り添っていた。俺の独占は、今日、この瞬間から始まる。これは、愛であり、生存のための義務だ。俺は、自分自身にそう強く言い聞かせた。


---


### 第2話 女子たちの視線


 翌朝、俺は陽葵の家の前で待っていた。昨日、一方的に「帰るぞ」と宣言した手前、それを既成事実化する必要があったからだ。やがて、少し緊張した面持ちの陽葵が玄関から出てくる。俺の姿を認めると、彼女は小さく頷き、駆け寄ってきた。


「おはよう、悠人。待っててくれたんだね」


「ああ。当然だろ」


 俺たちは並んで歩き出す。二人で登校するなど、中学以来のことだった。だが、昨日までの幼馴染としての気楽な空気は、そこにはない。俺たちの間には、「生存契約」という名の見えない緊張が張り詰めている。通学路ですれ違う同じ制服の生徒たちが、俺たちに奇妙な視線を投げかける。特に、女子生徒たちの視線は執拗だった。羨望、好奇心、そして値踏みするような色。その視線が、俺(男子)と陽葵(女子)という組み合わせではなく、陽葵が俺という「希少資源」を独占しているという事実に対して向けられていることを、俺は正確に理解していた。


 陽葵は、その無数の視線に晒され、制服の裾を固く握りしめていた。その横顔には、昨日までの「役割」への緊張とは異なる、明らかな「孤立」への恐怖が浮かんでいる。俺は、その視線から陽葵を隠すように、わざと大きな声で話しかけた。


「昨日の担任、頼りなさそうだったな」


「え? あ、うん。そう、かもね……」


 陽葵は、俺が作った「日常」の会話に、必死に合わせようとしていた。俺はそれで満足だった。俺が彼女の盾となり、外部のノイズから守る。この独占こそが、彼女を守る唯一の方法なのだから。


 教室のドアを開けると、その視線はさらに密度を増した。一年三組。男子八人に対し、女子二十五人。その閉鎖空間において、俺たちの行動は、昨日以上に監視されていた。俺と陽葵が連れ立って入室した瞬間、教室の空気が、湿度を帯びて重くなるのを感じた。望月隼人は、すでに別の女子グループの中心で軽薄な笑いを振りまいていたが、俺たちを一瞥し、面白そうに口笛を鳴らした。

 だが、問題は隼人ではない。女子生徒たちの視線だ。その中でも、特に強い意志を持った三つの視線が、陽葵に突き刺さっていた。

 一人は、黒崎凛。学級委員長に立候補した、知的な眼鏡の奥の瞳。彼女は、俺たちを汚物でも見るかのように冷徹に一瞥すると、すぐに興味を失ったように手元の資料に視線を落とした。彼女の視線は、感情ではなく「論理」による軽蔑を告げていた。二人目は、緑川繭。クラスの人気者で、愛嬌のあるふっくらとした体型。彼女は、凛とは対照的に、あからさまな不満と嫉妬を隠そうともしなかった。その視線は「ずるい」と雄弁に物語っており、陽葵が座席に着くまで執拗に続いた。そして三人目、白石楓。小柄で内気な、目立たない少女。彼女は、教室の隅の席から、本で顔を隠すようにしながら、その隙間からじっとりと、まるで獲物を観察するかのように俺たち二人を見つめていた。

 陽葵は、その三重の視線に耐えるように、自分の席に着くと深くうつむいた。彼女の背中が、「孤立」という重圧に小さく震えている。俺は、その三人の女と、彼女たちに同調する教室の空気を「集団的な嫉妬」と断じた。馬鹿馬鹿しい。俺は俺の生存戦略を実行しているに過ぎない。


 その日の昼休み、事件は起きた。俺が陽葵を誘い、食堂ではなく人の少ない中庭で弁当を広げようとした時だった。俺たちの前に、二人の女子生徒が立ちはだかった。黒崎凛と、緑川繭だった。


「篠宮くん、水瀬さん。少しよろしいかしら」


 凛が、学級委員長としての事務的な仮面を貼り付けて言った。


「なんだ」


「単刀直入に伺います。あなたたち二人の、その排他的な関係。それは、このクラス、いえ、この社会の倫理に反しているとは思いませんか?」


 社会倫理。彼女の父親が大学教授だという背景が、その言葉に妙な権威主義をまとわせている。


「……どういう意味だ」


「現在、男女比は一対三。男子生徒は、社会全体の『希少な資源』です。それを水瀬さん、あなたが個人的な感情で独占することは、論理的に見て『社会的な罪』に該当します。校長先生の訓示を、もうお忘れになったの?」


 凛の冷たい言葉が、陽葵を突き刺す。陽葵は、顔を青くして俯いた。


「ちょっと、凛ちゃん! 言い方きついよ!」


 そう言って割って入ったのは、繭だった。彼女は陽葵の前に一歩出ると、庇うふりをして、その実、ねっとりとした情動的な視線で俺を見上げた。


「でもね、陽葵ちゃん。凛ちゃんの言うことも分かるの。男子は、みんなで支えて、助け合うべきだよね? 私の家、大家族で、男手がないと本当に大変で……。だから、愛情も資源も、平等に分け合うのが一番だと思うな」


 凛の「論理」と、繭の「情動(分かち合い)」。二種類の正義が、陽葵の「独占」を非難する。周囲には、遠巻きに様子を伺う女子生徒たちが集まり始め、「一夫多妻も仕方ない」「でも独占したいよね」という囁き声が聞こえてくる。陽葵は、この集団的な圧力を前に、完全にフリーズしていた。彼女の肩が、助けを求めるように小さく震える。

 俺は、舌打ちを一つすると、陽葵の腕を掴んで立ち上がらせた。


「うるさい。他人に押し付けられる倫理など、クソ食らえだ」


 俺は、凛と繭の横をすり抜け、陽葵を引っぱるようにしてその場を離れた。背中に、凛の冷え切った視線と、繭の「待ってよ!」という甲高い声が突き刺さる。

 中庭のベンチに座っても、陽葵はまだ震えていた。


「ごめ、なさ……私、が……」


「お前が謝る必要はない。あれはただの嫉妬だ。俺が、お前を守る」


 俺は強く言い切った。この反発が強ければ強いほど、俺の「生存契約」の正当性は揺るがない。陽葵は、俺の言葉に、恐怖とも安堵ともつかない、複雑な表情で小さく頷いた。

 だが、俺はこの時、決意を固めていた。あのような集団的な攻撃から陽葵を隔離するには、生半可な独占では足りない。俺は、俺の「義務」として、陽葵の行動と時間を、完全に俺の管理下に置かなければならない。その最初のステップが、明日の放課後から始まる。


---


### 第3話 約束と支配の匂い


 昼休みに起きた黒崎凛と緑川繭による「糾弾」は、俺たちの教室内の立場を決定的なものにした。陽葵は「独占する女」として公然たる嫉妬と非難の対象となり、俺はその「独占する男」として、一種の畏怖と敵意の目で見られるようになった。授業が再開されても、背中に突き刺さる視線の密度は変わらない。陽葵は、その重圧から逃れるように、ノートを取る背中をさらに小さく丸めていた。


 長い一日が終わり、終業のチャイムが鳴る。

 解放感にざわめく教室の中で、俺は迷わず陽葵の席に向かった。周囲の女子生徒たちが息を呑み、白石楓が本の陰から、またあの執拗な視線を送ってくるのを感じる。だが、俺は構わなかった。


「帰るぞ」


 昨日と同じ、拒否を許さない命令。陽葵は、びくりと肩を震わせ、集まる視線に怯えながらも、こくこくと頷いて鞄を手に取った。

 教室を出るまでの数秒間、俺たちはまるで罪人のように、クラス全員の好奇と非難の視線に晒された。その全てから陽葵を守るように、俺はわざと彼女の肩が触れそうなくらい近くを歩き、無言の威圧を周囲に放った。


 校舎を出て、喧騒が少し遠のくと、陽葵は張り詰めていた息を小さく吐き出した。その横顔は青白く、疲弊しきっている。


「……ごめん、悠人。私のせいで、悠人まで……」


「気にするな。俺がそうしたいだけだ」


「でも、黒崎さんや緑川さんの言うこと、本当は……」


「正しくなんかない」


 俺は、陽葵の言葉を遮るように強く言った。


「あいつらは、自分の都合を『社会倫理』だの『分かち合い』だのにすり替えてるだけだ。本質は、俺たちが昨日見た視線と変わらない。ただの嫉妬だ」


 だが、俺も分かっている。俺のこの行動もまた、「生存本能」という名の、あいつら以上に強烈なエゴイズムに過ぎない。陽葵の隣を歩きながら、俺はポケットの中で固く拳を握りしめていた。手のひらに、じっとりと冷たい汗が滲む。

 死の恐怖だ。

 それは、校長の訓示で聞いた「七十三名」という数字のリアリティであり、幼い頃に見た父の苦しそうな顔であり、そして、貴重な男子生徒である俺を狙う、あらゆる「リスク」への本能的な拒絶反応だった。

 陽葵が、もし俺以外の誰かと接触すれば。もし、隼人のような男に誘われ、キャリアとなれば。俺の生存戦略は、その瞬間に破綻する。

 昼休みのあの騒ぎは、その危険性を明確に俺に突きつけた。陽葵はあまりにも無防備で、脆すぎる。俺が彼女を「所有」し、外部の汚染から完全に隔離しなければならない。


 俺たちは、黙って住宅街を歩いていた。春の夕暮れが、二人の影を長くアスファルトに伸ばしている。

 陽葵は、俺の数歩後ろを、うつむき加減についてきていた。彼女が今、何に怯えているのか、俺には痛いほどわかった。

 彼女は、社会からの孤立に怯えている。そして、母子家庭という不安定な足場の上で、俺という「生存の保険」を失うことに怯えているのだ。

 陽葵の母親は、看護師として激務をこなしながら、五年前に夫を亡くして以来、ずっと一人だ。この男女比の歪んだ社会で、一度パートナーを失った女性が、まともな再婚相手を見つけることがどれほど困難か。経済的な困窮と、社会的な孤独。陽葵は、その現実を間近で見ている。

 だからこそ、彼女は「独占」という非難を受けても、俺から離れられない。彼女の生存本能もまた、俺への「依存」を強いている。


 俺は、彼女の家の門の前で、立ち止まった。陽葵も、おずおずと足を止める。


「陽葵」


「……なに?」


 俺は振り返り、彼女の瞳を真っ直ぐに見据えた。逃げられないように、その脆い心を縫い止めるように。


「明日から、俺が迎えに行く。朝も、帰りも、毎日だ」


「え……」


「学校にいる間は、必要最低限、教師以外とは話すな。特に、男とは。昼休みも、移動教室も、全部俺と一緒に行動しろ」


 それは、提案ではない。決定事項の通達だ。

 陽葵の瞳が、俺の言葉の意味を理解し、恐怖に見開かれる。それは、彼女の行動の自由、彼女の主体性を完全に剥奪するという宣言だった。

 だが、彼女は反論しなかった。彼女は、唇を噛みしめ、数秒間、激しく揺れていた。社会的な孤立という恐怖と、俺の支配という恐怖。その二つを天秤にかけ、そして、彼女はゆっくりと、救いを求めるように、俺の制服の袖を掴んだ。


「……うん。わかった。悠人、そばに、いてくれる……?」


「ああ。ずっと、そばにいる。お前を『守る』から」


 その言葉が、彼女の不安を解消する魔法であったかのように、陽葵の表情がわずかに和らぐ。彼女は、俺の支配を、昼休みの集団的圧力から逃れるための「シェルター」として受け入れたのだ。

 俺は、安堵と、そして冷徹な満足感を覚えていた。

 これでいい。これで、俺の生存戦略の第一段階は完了した。

 俺は、彼女の袖を掴むか細い手に、自分の手を重ねた。陽葵の肌は、緊張からか少し冷えていたが、確かに温かい。

 彼女の髪から、昨日、教室で感じたのと同じ、甘い柑橘系のシャンプーの匂いがふわりと香る。

 その匂いは、俺の生存を保証する「契約の匂い」だった。俺は、その匂いを肺いっぱいに吸い込み、幼い頃から俺を苛んできた死の恐怖が、一時的に薄れていくのを感じていた。


---


### 第4話 生存戦略の軋轢


 俺が陽葵との排他的な関係を「支配」という形で固定化し始めてから、数日が経過した。朝は俺が迎えに行き、帰りも必ず一緒。昼休みも中庭のベンチで二人きり。クラス内での会話は、俺以外とは禁止。その徹底した管理は、昨日までの陽葵であれば抵抗したかもしれない。だが、黒崎凛と緑川繭による「糾弾」が、陽葵の脆い心を「孤立」の恐怖で縛り付けた。彼女は、俺の支配を、集団からの攻撃を防ぐ唯一の盾として受け入れた。

 教室での俺たちは、異様な存在として浮いていた。俺たちに積極的に話しかけてくる女子はおらず、男子たちも、俺の放つ刺々しい空気を察して距離を置いている。

 その中で唯一、例外的な存在が、望月隼人だった。


 その日の放課後、俺が陽葵と共に教室を出ようとすると、隼人が数人の女子を引き連れたまま、わざとらしく俺の前に立ちはだかった。その顔には、いつもの軽薄な笑みが浮かんでいる。


「よお、篠宮。相変わらずだな。まるで護衛騎士ガーディアン気取りか?」


「……道を開けろ、望月」


 俺は低い声で警告する。陽葵が、俺の後ろで小さく身をこわばらせた。


「まあ、そう睨むなって。ちょっとお前に話があるんだよ。お前ら、先にカフェテリア行っててくれ」


 隼人が取り巻きの女子たちを手慣れた様子で先に送り出す。彼女たちは、俺と陽葵に嫉妬とも好奇心ともつかない視線を投げながら、不承不承といった様子で教室を出ていった。

 静かになった廊下で、隼人は壁に背を預け、皮肉っぽい笑みを深めた。


「篠宮。お前のやってること、はっきり言って『傲慢』だぜ」


「傲慢?」


「そう。お前、水瀬さんを独り占めしてるだろ。法的には問題ねえけどさ、今のこの状況で、それは『罪』だ。黒崎委員長じゃねえが、社会倫理的に、だよ」


 またその言葉か。俺は苛立ちを隠さずに舌打ちした。


「お前に言われたくない。複数の女子ととっかえひっかえ遊んでるお前のほうが、よほど『死を招く愚行』だ。俺は、俺の生存戦略を実行してるだけだ」


 俺の言葉に、隼人は「ああ、それか」と肩をすくめた。


「処女との添い遂げ、だろ? 統計上の生存率が一番高いってやつ。知ってるよ、そんなの。でもな、篠宮。お前は根本的に間違ってる」


「何がだ」


「いいか? 俺たち残された男子の『社会的な義務』は、種の存続と、女性の幸福だ。人生は短い。俺の母親も病死したからな、よく分かる。いつ死ぬか分からねえなら、俺は一人でも多くの女の子を幸福にしてやりたい。それが俺の『責任』の果たし方だ」


 隼人の言葉は、彼の育った家庭環境、あの疑似的な一夫多妻の家で培われた歪んだ倫理観そのものだった。彼は、自身の死への恐怖と享楽主義を、「社会貢献」という大義名分で完璧に偽装している。


「それがお前の言う『優位性』か? 馬鹿馬鹿しい。リスクを分散するどころか、自ら感染源に飛び込んでどうする。お前の戦略は、ただの自殺志願だ」


「はっ。お前こそ、水瀬さん一人に依存しきって、滑稽だぜ。もし、水瀬さんがお前以外の誰かから感染したら? お前、どうするんだ? お前のその『独占』は、たった一つの感染経路で破綻する、一番脆い戦略だ。違うか?」


 隼人の指摘は、俺の生存戦略の核心、俺が最も恐れている一点を正確に突き刺してきた。

 俺は、一瞬、呼吸が止まるのを感じた。手のひらに、冷たい汗が噴き出す。

 そうだ。だからこそ、俺は陽葵を「管理」している。彼女が他者から感染するリスクをゼロにするために。


「……だから、俺が陽葵を『守る』。お前のような奴らからな」


「守る、ね。それが『支配』の言い換えだって、水瀬さん本人は気づいてるのかな」


 隼人は、俺の後ろに隠れる陽葵に、憐れむような視線を送った。陽葵は、その視線に射抜かれ、さらに深くうつむいた。

 俺は、隼人のその視線が、俺の「所有物」に向けられたことに、激しい怒りを覚えた。


「もういいだろ。俺たちは帰る」


「まあ、待てよ。俺が言いたいのは、それだけじゃねえ。篠宮、お前も『こっち側』に来いよ。水瀬さんだけじゃなく、他の子にも『愛』を分けてやれ。それこそが、お前の言う『生存戦略』のリスク分散になる。それに、独占の『傲慢さ』から解放されたら、お前を非難する奴もいなくなるぜ? 黒崎委員長も、緑川さんも、お前を歓迎するだろうよ」


 隼人は、悪魔のように甘い言葉で、俺を彼の倫理観に引き込もうとする。

 俺は、その言葉を吐き捨てるように否定した。


「ふざけるな。俺は、お前のような刹那的な享楽主義とは違う。俺の『責任』は、陽葵一人にだけ向けられてる。それこそが、俺が生き残るための、唯一の道だ」


 俺の揺るがない拒絶に、隼人は心底つまらなそうに溜息をついた。


「……そうかよ。まあ、せいぜい頑張れや、護衛騎士サマ。お前のその独占戦略が、いつまで持つか見ものだな。でも、一つだけ覚えておけ。女の子は人形じゃない。夢もあれば希望もある一人の人間だ。互いの同意なしに拘束できるものではないぞ」


 隼人は、そう言い残し、俺たちの横をすり抜けてカフェテリアの方へと歩き去った。

 残された俺は、激しい動悸を抑えようと、固く目を閉じた。

 隼人の言葉が、俺の戦略の脆弱性をえぐってくる。

 違う。俺は間違っていない。俺の「添い遂げ」戦略こそが、統計的に最も優位だ。隼人のような多情は、必ず先に破綻する。

 俺は、自分の戦略の優位性を確認するように、隣にいる陽葵の細い腕を掴んだ。


「行くぞ」


「……うん」


 掴んだ腕の、その肌の温かさだけが、俺の生存を保証する唯一のあかしだった。俺は、この温もりを失うことへの恐怖に、再び奥歯を噛み締めた。


---


### 第5話 寂れた夏祭り


 夏が来た。俺たちの関係が「生存契約」という名の支配と依存に移行してから、季節は一度巡り、高校生活最初の夏を迎えていた。俺は、あの日陽葵に宣言した通り、彼女の行動を完璧に管理していた。朝の登校から放課後の下校まで、一分一秒たりとも俺の視界から離さない。教室移動も、昼休みも、常に一緒だ。

 黒崎凛や緑川繭からの公然たる非難は鳴りを潜めた。彼女たちは、俺の徹底した排他性を前に、昼休みの「糾弾」が逆効果であったことを悟ったのだろう。だが、その代わりに、クラス全体を包む空気は、より冷たく、重くなった。陽葵は、その重圧の中で、俺という唯一のシェルターに依存する以外、選択肢を失っていた。


 その日、近所の神社で夏祭りが行われることになっていた。俺は当然、陽葵を連れて行くつもりだった。人混みは最大の感染リスクだ。だが、陽葵を俺の管理下に置いたまま、二人きりになれる「密室」の外へ連れ出すことは、俺たちの関係を強化する上で必要な儀式だと考えていた。


「浴衣、着てみたんだけど……変じゃないかな」


 陽葵の家の前で待っていると、少し恥ずかしそうに彼女が現れた。白地に淡い向日葵ひまわりが描かれた浴衣。それは、彼女の清潔感を際立たせ、幼馴染の少女から、生々しい「女」の輪郭を浮かび上がらせていた。いつもは制服に隠されている細いうなじが、夕暮れの光に白く艶めかしい。俺は、その姿に息を呑んだ。同時に、この姿を他の男の目に晒すことへの、焼け付くような嫉妬と独占欲がこみ上げてくる。


「……別に。似合ってる。行くぞ」


 俺は素っ気なくそう言うと、彼女の手を掴んだ。陽葵の手は、汗で少し湿っている。俺の反応が不満だったのか、それとも人混みへの恐怖か。どちらでもよかった。俺は、その手を強く握りしめ、歩き出した。


 神社へ続く参道は、提灯の赤い光で染まっていたが、そこにある光景は、俺の知る夏祭りのそれとは決定的に異なっていた。圧倒的に、男が少ない。聞こえてくるのは、甲高い女性たちの声ばかり。浴衣姿の女子高生グループ、幼い子供の手を引く母親たち。そして、出店を切り盛りしているのも、ほとんどが女性だ。射的の屋台で客を煽っているのも、法被はっぴ姿の威勢のいい女性。綿あめを器用に巻き上げているのも、白髪の混じった老婆。警備員として誘導灯を振っているのも、女性の警備員だ。

 たまに見かける男性の姿は、望月隼人のように複数の女性グループに囲まれてちやほやされているか、あるいは、俺のように特定のパートナーと腕を組み、周囲を威嚇するように歩いているかのどちらかだった。これが、男女比一対三社会の現実。夏祭りというハレの舞台は、その人口の歪さを、より残酷なコントラストで描き出していた。


 陽葵は、その異様な光景に少し戸惑いながらも、久しぶりの祭りの空気に、わずかに表情を緩めていた。


「あ、りんご飴……」


「人が多い。やめろ」


 俺は、彼女が足を向けようとした屋台を一瞥し、即座に制止した。陽葵の手を引き、俺は意図的に人通りの多い参道の中心を避け、神社の脇道へと逸れていく。


「悠人? こっちじゃないよ」


「うるさい。人混みは危険だ。感染リスクがどれだけあると思ってる」


「でも、せっかくのお祭りなのに……」


「お前は、俺の言うことだけ聞いてればいい。俺がお前を『守る』と言っただろ。外の世界は、お前が思っているよりずっと危険なんだ」


 俺は、正当な理由を告げているつもりだった。事実、不特定多数の人間が集まるこの場所は、キャリアが誰か分からない以上、ウィルスの交換会場のようなものだ。だが、俺の心の奥底には、別の感情が渦巻いていた。陽葵の、あの浴衣姿。それが、俺以外の男の目に晒されることへの、耐え難いほどの独占欲。俺は、陽葵を誰にも見せたくなかった。この美しい生き物を、俺だけの安全な「密室」に閉じ込めておきたい。その欲望が、俺の行動を支配していた。


 俺たちは、人混みを避けて神社の裏手に回り、高台になっている石段を登った。そこからは、提灯の明かりに照らされた、寂れた祭りの全景が見渡せた。眼下に広がる、女性ばかりの喧騒。まばらな男性の存在が、まるで群れからはぐれた動物のように頼りなく見える。楽しげなはずの祭囃子まつりばやしが、そのアンバランスな光景のせいで、どこか虚しく響いていた。

 陽葵は、その光景を黙って見つめていた。彼女の横顔から、さきほどのささやかな高揚感は消え失せている。


「……なんだか、寂しいね。お祭りなのに」


 ぽつりと、彼女が呟いた。


「昔は、もっと……お父さんも、いたのに」


 その言葉に、俺は何も返せなかった。彼女が見ているのは、失われた父親の記憶か。それとも、この活気を失った祭りの風景に、自分自身の未来を重ねているのか。このまま、社会から隔離され、俺という存在だけに縛り付けられ、他の可能性をすべて失っていく未来。

 隼人の言葉が脳裏をよぎる。『女の子は人形じゃない。夢もあれば希望もある一人の人間だ』。

 俺は、その思考を振り払うように、陽葵の肩を強く引き寄せた。彼女の体温が、乾燥した俺の肌に伝わる。


「余計なことを考えるな。ここにいれば安全だ。俺が、お前からすべての危険を遠ざけてやる」


 陽葵は、俺の腕の中で、小さく頷いた。彼女の瞳には、諦念と、そして俺への依存が、暗く揺らめいていた。俺は、彼女の髪から香る柑橘系のシャンプーの匂いを深く吸い込んだ。この匂いさえあれば、俺は死の恐怖から逃れられる。

 この寂れた祭りの風景こそが、俺たちの「密室」の始まりだった。


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### 第6話 独占者の暴力


 夏祭りの夜以降、俺の陽葵に対する管理体制は、さらに強固なものとなった。あの寂れた風景と、陽葵が漏らした「寂しいね」という言葉。それは俺にとって、彼女の心が俺以外の「何か」——過去の思い出や、失われた未来の可能性——に向いているという危険信号だった。隼人の「女の子は人形じゃない」という言葉が、不快な棘のように記憶に残っている。だからこそ、俺は陽葵の思考の隙間を埋めるように、物理的な支配を強化する必要があった。俺は、彼女を「密室」に閉じ込める戦略を、外の世界へと拡張した。人混みは徹底的に避ける。夏祭りの夜のように、彼女の浴衣姿が他人の目に晒されること自体が、俺の生存戦略における許容しがたいリスクだった。俺たちは、学校と家の往復以外、どこにも立ち寄らなくなった。


 季節は秋に移り、文化祭の準備が始まった。クラスが浮き足立つ中、俺たちの孤立はより一層深まっていた。陽葵は、俺の厳格な管理下で、クラスメイトとの一切の交流を断っていた。その結果、彼女はクラスの雑務——文化祭の装飾作りや買い出しといった、男女が自然に交流する可能性のある役割——から、意図的に外されていった。黒崎凛や緑川繭が、その采配の中心にいることは明らかだった。彼女たちは、俺たちの「独占」を社会悪として非難しながら、その実、陽葵を「独占されている女」として集団から隔離することで、俺たちの孤立を助長していた。俺はそれを歓迎した。陽葵が誰とも接触しないこと。それが俺の望む完璧な無菌状態だったからだ。


 だが、その均衡は、予想もしない形で破られた。その日の放課後、俺が陽葵と下駄箱に向かっていると、一人の男子生徒が陽葵の前に立ちはだかった。橋本。別のクラスの、サッカー部だと聞いている男だ。体格が良く、快活な印象で、隼人とは違うタイプの、女子に人気のある男だった。


「水瀬さん。ちょっといいかな」


 俺は即座に陽葵の前に出て、橋本を睨みつけた。


「……何の用だ」


 橋本は、俺の敵意に一瞬怯んだが、すぐに気まずそうに笑い、陽葵に向き直った。


「篠宮、お前じゃない。俺は、水瀬さんに用があるんだ。……水瀬さん、単刀直入に言う。俺と、付き合ってほしい」


 告白。その言葉が発せられた瞬間、俺の頭の中で何かが切れる音がした。全身の血が沸騰し、視界が赤く染まる。手のひらに、一瞬で冷たい汗が噴き出した。こいつは、今、俺の「所有物」に手を付けようとした。俺の生存戦略、俺の「お守り」を、俺の目の前で奪おうとした。死の恐怖が、制御不能な怒りへと直結する。


「……聞こえなかったのか」


 俺は、自分でも驚くほど冷たい声で言った。


「陽葵に何の用だ、と聞いたんだ」


「いや、だから、告白で……」


「失せろ」


「は? なんだよお前、水瀬さんの彼氏でもないくせに……!」


 橋本が、俺の態度に苛立ち、一歩踏み出す。それが、最後通牒だった。


「陽葵に、触るなッ!」


 俺は、衝動のままに橋本の胸倉を掴み、彼を下駄箱の金属製の扉に叩きつけていた。ガシャン、という凄まじい金属音と共に、橋本の苦悶のうめき声が響く。俺は構わず、彼を壁に押さえつけたまま、右の拳を振り上げた。


「やめ、て! 悠人!」


 陽葵の悲鳴が、俺の怒りにわずかな理性を引き戻した。俺の拳は、橋本の顔面の数センチ手前で止まっていた。俺の肩は激しく上下し、荒い呼吸がマスクのように顔に張り付いている。橋本は、俺の形相と、本気で殴りかかってきた暴力性に、恐怖で顔を引き攣らせていた。


「……ひっ……」


 恐怖でフリーズしているのは、橋本だけではなかった。陽葵もだ。彼女は、両手で口を覆い、腰が引けたまま、その場に立ち尽くしていた。その瞳が見開かれ、恐怖に濡れている。彼女は、俺の暴力性に怯えていた。その事実に、俺は急速に頭が冷えていくのを感じた。違う。俺は、陽葵を「守る」ために……。


「……分かったか。二度と、陽葵に近づくな」


 俺は、橋本の胸倉から手を放し、突き放すように彼を押した。橋本は、崩れるようにその場にへたり込み、咳き込みながらも、慌てて俺から距離を取った。周囲には、何事かと遠巻きに眺める生徒たちが集まり始めていた。その中には、黒崎凛と白石楓の姿もあった。凛は冷ややかな目で、楓は相変わらず本の陰から、この一部始終をじっと観察していた。警察官や男性教師の多くが病死によって欠員となっているこの学校では、生徒間の暴力沙汰は、もはや教師が容易に介入できない問題となりつつあった。


 俺は、恐怖で動けない陽葵の腕を強く掴んだ。


「帰るぞ」


「……あ……う……」


 陽葵は、まるで壊れた人形のように、俺の力に引きずられて歩き出した。俺は、周囲の視線を振り切るように、早足で校門を出た。帰り道、陽葵は一言も喋らなかった。ただ、俺に腕を引かれるまま、うつむいて歩いている。俺は、自分の衝動的な暴力に対する自己嫌悪と、しかし「守り切った」という歪んだ達成感の間で揺れていた。あの時、俺は本気で橋本を殴るつもりだった。もし陽葵が止めなければ、殴っていた。俺の生存本能が、死の恐怖が、俺を「独占者」から「暴力の行使者」へと変貌させたのだ。


 陽葵の家の前で、俺は掴んでいた腕を放した。彼女の腕には、俺の指の跡が赤く残っている。陽葵は、俺の顔を見ようともせず、小さな声で呟いた。


「……ありがとう、……助けて、くれて」


 違う。俺は、お前を助けたんじゃない。俺の生存戦略を脅かす敵を排除しただけだ。だが、俺はその言葉を飲み込んだ。彼女が、俺の暴力を「守ってくれた」と誤認し、俺への依存を深めるのなら、それでいい。俺は、彼女の恐怖(フリーズ状態)を、俺の支配の道具として利用することを、この瞬間に受け入れた。


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### 第7話 母と進路の夢


 橋本への暴力事件から数週間が経過した。あからさまな告白は、あれきりなくなった。俺の衝動的な暴力は、俺の独占欲が単なるポーズではなく、実力行使を伴う「本気」のものであると周囲に知らしめるには十分すぎた。だが、その代償として、陽葵は教室でさらに深い孤立に沈んでいった。彼女は、俺の「管理」と、クラスメイトからの「隔離」という二重の壁の中で、完全に表情を失くし、ただ息を潜めるように日々を過ごしていた。俺は、その状態を「守れている」と認識し、満足していた。俺の生存戦略は、順調に進んでいる。陽葵という「安全な容器」は、俺以外の誰にも汚されていない。


 その夜、俺は珍しく陽葵の家に招かれていた。彼女の母親——水瀬美咲さんから、夕食に誘われたのだ。美咲さんは、夫をゼウス・ウィルスで亡くした後、女手一つで陽葵を育ててきた看護師だ。俺が陽葵と毎日登下校していることを、彼女は「娘を気にかけてくれている」と好意的に受け止めているようだった。


「悠人くん、いつも陽葵と仲良くしてくれてありがとうね。この子、学校のこと、全然話してくれなくて」


 食卓に並んだ家庭料理を前に、美咲さんが疲れた笑顔でそう言った。彼女の目の下の隈は、看護師としての激務と、このディストピア社会で一人娘を育てる重圧を物語っている。


「いえ……俺が、一緒にいたくて」


「陽葵も、悠人くんと一緒で安心してるみたい。……あの子の父親が亡くなった時、私たち、本当に大変だったから。悠人くんがそばにいてくれると、私も心強いわ」


 美咲さんの言葉は、俺の行動を「善意」として肯定するものだった。俺は、自分の歪んだ動機——陽葵を感染リスクから隔離するための「支配」——を隠し、曖昧に頷くことしかできなかった。陽葵は、母親の前では「優等生の娘」という役割を完璧に演じていた。学校での孤立や、俺の支配的な管理については、一言も漏らさない。彼女は、ただでさえ疲弊している母親に、これ以上心配をかけたくないのだ。その自己抑圧的な健気さが、俺の支配を容易にしているという事実に、俺は気づかないふりをした。


 夕食後、俺は陽葵の部屋に通された。彼女の部屋に入るのは、本当に久しぶりだった。部屋は、彼女の性格を映したように、教科書や参考書が整然と本棚に並べられ、清潔に片付いている。だが、その空気は、どこか息苦しかった。彼女の私物であるはずのものが極端に少なく、まるで個性を殺したモデルルームのようだ。

 陽葵は、俺に麦茶を差し出しながら、緊張した面持ちで口を開いた。


「あの、悠人……。変なこと、聞いてもいい?」


「なんだ」


「悠人は、将来のこと、どう考えてるの? 進路とか……」


 進路。それは、俺が一番聞きたくない言葉だった。俺の未来は、ただ「生き残る」こと。それ以上でも以下でもない。


「……考えてない。まずは、卒業まで生き残ることが最優先だ」


「そっか……。そうだよね」


 陽葵は、俺の答えに落胆した様子を見せたが、すぐに何かを決意したように、自分の勉強机に向かった。彼女が手に取ったのは、大学のパンフレットだった。新星総合医科大学。それは、この地域で最も偏差値が高い、医学系の難関大学だった。


「私ね、将来、感染症の研究がしたいんだ」


「……なんだって?」


 俺は、彼女の言葉が信じられなかった。


「お父さんが亡くなったのも、今、お母さんがあんなに苦労してるのも、全部あの病気のせいだから。私、看護師のお母さんみたいに、直接患者さんを助けることはできないかもしれないけど……でも、研究室でなら、私にもできることがあるかもしれないって」


 陽葵は、パンフレットの「感染症研究センター」のページを、震える指でなぞっていた。その瞳には、俺がここ数ヶ月、見たことのない強い光が宿っていた。それは、俺の「支配」や「役割」とは一切関係のない、彼女自身の内側から湧き上がる、純粋な「願望」の光だった。


「私、勉強して、この大学に入りたい。そして、ゼウス・ウィルスを……この病気をなくす研究がしたい。それが、私の、夢、かな」


 夢。その言葉を聞いた瞬間、俺の背筋を冷たい汗が伝った。隼人の言葉が、再び脳裏で反響する。『女の子は人形じゃない。夢もあれば希望もある一人の人間だ』。陽葵が、夢を持つこと。それは、彼女が「俺のお守り」という役割から逸脱し、「水瀬陽葵」という一人の人間として、主体的に生きようとしている証拠だ。もし、彼女が本気でこの難関大学を目指すなら。俺の管理下にある時間は減り、彼女は勉強のために俺以外の人間——教師や、あるいは他の優秀な生徒——と接触する必要が出てくるだろう。それは、俺の生存戦略にとって、許容できない「リスク」の発生を意味する。


「……馬鹿なこと、言うな」


 俺は、心の奥底から湧き上がった拒絶を、冷たい言葉にして吐き出した。


「え……?」


「お前に、できるわけがない。そんな夢みたいなことより、お前にはやるべきことがあるだろ」


「やるべき、こと……?」


「俺のそばにいて、俺を『守る』ことだ。それが、お前の『役割』だろ。決めた。その代わり、俺がその夢をかなえてやる」


 俺は、彼女の「主体的な願望」の芽を、俺の「生存の義務」で踏みにじった上で、その夢の管理権すらも奪い取った。陽葵の瞳から、さっきまで宿っていた強い光が、急速に失われていく。彼女の顔が、恐怖と、そしてわずかな「取引」への戸惑いに歪む。俺は、彼女の夢を人質に取ることで、彼女を再び「俺の所有物」という枠の中に完璧に閉じ込めた。これが、俺たちの関係が「加害」へと変質した、決定的な瞬間だった。


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### 第8話 社会倫理の糾弾


 陽葵が「感染症研究」という夢を口にしてから、俺たちの間の空気は微妙に変化した。俺は、あの日、「俺がその夢をかなえてやる」と宣言した。それは、彼女の夢を応援するという「建前」を使い、その夢の管理権すらも俺が握るという、より高度な「支配」の宣言だった。陽葵は、その支配的な優しさ(と彼女は誤認しただろう)を受け入れるしかなかった。俺のそばにいなければ、彼女は夢を追うことすら許されないのだから。だが、一度芽生えた夢の光は、彼女の瞳から完全には消えなかった。俺の管理下にあるという諦念と、それでも新星総合医科大学のパンフレットを密かに読み込む彼女の姿は、俺にとって新たな脅威の火種となった。陽葵の主体性が、俺の支配という殻を内側から破ろうとしている。俺は、その兆候に苛立ち、無意識に彼女への束縛を強めていた。


 文化祭の準備が本格化し、クラスの空気は浮ついている。陽葵は、どのグループにも属さず、俺の隣で静かに参考書を開いている。その姿は、周囲の喧騒から切り離され、まるで透明な壁の中にいるかのようだった。その壁を、再び破る者たちが現れた。昼休みの喧騒の中、俺たちが中庭のいつものベンチに向かおうとした時、三人の女子生徒が俺たちの進路を塞いだ。黒崎凛。緑川繭。そして、今まで遠巻きに観察するだけだった、白石楓。三人が揃って俺たちの前に立つのは、これが初めてだった。その光景は、まるで俺たち二人を裁くための法廷が開かれたかのようだった。陽葵の手が、恐怖で俺の制服の袖を強く掴む。


「またお前らか。何の用だ」


 俺が敵意をむき出しに言うと、凛が冷徹な声で応じた。


「篠宮くん。私たちは、あなたではなく水瀬さんに用があるの。前回はあなたに妨害されたけれど、今日は最後まで聞かせてもらうわ」


「陽葵に話すことも、陽葵がお前たちに話すことも何もない。失せろ」


「いいえ、あるわ」


 凛は一歩も引かなかった。彼女の知的な瞳が、俺の背後に隠れる陽葵を射抜く。


「水瀬さん。あなたが篠宮くんの庇護下に入り、彼を独占し続けているという事実は、このクラスの秩序を著しく乱しています。あなたは、社会的な『希少資源』を不当に私物化している。これは、昼休みに個人的に忠告したレベルの話ではなく、社会倫理に対する明確な『罪』よ」


 凛の言葉は、以前よりも厳しく、断定的だった。彼女の言う「論理」は、俺たちの独占を「個人の自由」の範疇から「社会への加害」へと引きずり出した。


「ま、待ってよ、凛ちゃん! そんな言い方じゃ、陽葵ちゃんが可哀想だよ!」


 すかさず、緑川繭が芝居がかった優しさで割り込んできた。だが、その瞳は笑っていない。彼女は、陽葵の手を掴もうとするかのように、ぐっと距離を詰めた。


「でもね、陽葵ちゃん。私たちだって、必死なんだよ? 男子が少ないって、どれだけ大変なことか、母子家庭の陽葵ちゃんなら分かるよね? 私の家みたいに、家族みんなで一人の男の人を支えなきゃいけない家だってあるんだから。それなのに、陽葵ちゃんだけが悠人くんを独り占めするのは……やっぱり、ずるいよ。助け合いの精神で、私たちにも『分け与える』べきじゃないかな」


 凛の「論理的な糾弾」と、繭の「感情的な要求」。二方向からの圧力に、陽葵は呼吸すら忘れ、青ざめた顔で震えていた。俺は、陽葵の前に立ち、二人を睨みつけた。


「お前たちの理屈は分かった。要するに、陽葵から俺を奪いたいだけだろ。だが、断る。俺の生存戦略は、陽葵と添い遂げることだ。お前たちの言う『分かち合い』など、隼人と同じ愚行でしかない」


「……その生存戦略こそが、傲慢だと言っているのよ」


 凛が冷たく言い放った。その時だった。それまで黙って二人の後ろにいた白石楓が、小さな、しかし芯のある声で呟いた。


「……それに、水瀬さん。あなた、進路の夢があるんでしょ」


 その言葉に、俺と陽葵は同時に息を呑んだ。なぜ、こいつが。陽葵が、夢のことを他人に話したとは到底思えない。


「新星総合医科大学。……感染症の研究がしたいって、言ってるらしいじゃない。そんな立派な夢がある人が、一人の男に『管理』されてて、恥ずかしくないの?」


 楓は、うつむき加減のまま、本の隙間から蛇のような瞳で陽葵を観察していた。どこから情報が漏れた? 陽葵の母親か。あるいは、俺との会話を盗み聞きしていたのか。だが、そんな詮索よりも、楓の言葉が陽葵に与えたダメージの方が大きかった。


「あ……あ……」


 陽葵は、自分の最も純粋な部分、主体性の最後の砦である「夢」を、白日の下に晒され、それを「独占」のダシに使われたことに、激しく動揺していた。楓の攻撃は、凛の論理や繭の情動よりも、はるかに陰湿で、正確だった。凛と繭も、陽葵の「夢」の存在には驚いたようだった。だが、凛はすぐにそれを自分の論理に取り込んだ。


「……そう。夢があるのなら、なおさらよ、水瀬さん。あなたが社会に貢献する夢を持つことと、社会の資源を独占することは、明確に矛盾している。あなたは、自分の夢と、社会への義務、どちらを選ぶの?」


 三方向からの包囲網。論理、情動、そして陰湿な暴露。陽葵は、この集団的な重圧に耐えきれず、ついにその場に泣き崩れた。


「……う……うぅ……っ!」


 その泣き声を聞いた瞬間、俺の怒りが再び沸点を超えた。こいつらは、俺の「所有物」を、俺の「お守り」を、集団で寄ってたかって傷つけている。陽葵の夢は、俺が「かなえてやる」と約束した、俺の管理下にあるものだ。それを、こいつらが土足で踏みにじる権利などない。


「……いい加減にしろよ」


 俺は、泣き崩れる陽葵を背後にかばい、三人を睨みつけた。


「陽葵の夢は、俺の夢だ。こいつのことは、お前たちに指一本触れさせない。陽葵の命も、陽葵の夢も、全部、俺が『守る』」


 俺はそう宣言し、陽葵の腕を引いて無理やり立たせると、三人の間をこじ開けるようにして突き進んだ。背後で、三人が何かを言っていたが、もう聞こえなかった。俺は、陽葵の手を強く引きながら、校舎の裏へと向かう。陽葵は、恐怖と屈辱に声を殺して泣き続けていた。俺は、この集団的な嫉妬が、陽葵の安全だけでなく、彼女の「夢」——俺が管理下に置いたはずの夢——すらも脅かし始めていることに、強い脅威を感じていた。俺の支配は、まだ足りない。


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### 第9話 生存契約の予行


 校舎裏の人目につかないコンクリートの壁に、俺は陽葵を追い詰めていた。昼休みの喧騒も、ここまで来ればほとんど聞こえない。陽葵は、俺に腕を引かれてここまで連れてこられ、背後の冷たい壁に追い詰められ、逃げ場を失っていた。彼女の肩はまだ、さきほどの「糾弾」の恐怖と屈辱で小刻みに震えている。潤んだ瞳が、恐怖に揺れながら俺を見上げていた。


「なんで……あんなこと、言ったの」


 陽葵が、か細い声で俺を責めた。


「『陽葵の夢は、俺の夢だ』って……。悠人、私の夢のこと、馬鹿にしてたじゃない……」


「馬鹿になんかしてない。俺は『かなえてやる』と言った。それは本気だ」


「でも、あの言い方は……っ」


「あれは、あいつらに分からせるためだ」


 俺は、陽葵の言葉を遮り、一歩前に出た。壁と俺の体で、陽葵を完全に閉じ込める。ドン、と俺の手が壁を叩く音に、彼女の体がビクッと跳ねた。俺の内部では、昼休みの出来事によって増幅された死の恐怖が、制御不能な独占欲となって荒れ狂っていた。黒崎凛の論理。緑川繭の情動。そして、白石楓の陰湿な暴露。あいつらは、俺の「所有物」に手を付けようとしている。俺の「安全な容器」を、社会倫理だの分かち合いだのという耳障りな言葉で汚染し、奪おうとしている。それだけではない。陽葵自身も、内側から俺の支配を脅かしている。あの「夢」という名の主体性で。

 橋本への暴力だけでは足りなかった。あいつらへの威嚇も、陽葵の夢を管理するという「約束」も、まだ足りない。言葉や暴力といった間接的な支配では、この恐怖は消えない。俺は、俺の生存本能に従い、より直接的で、根本的な「契約」を彼女に刻み込む必要があった。これは、そのための予行演習だ。俺が彼女の「所有者」であり、彼女が俺の「所有物」であることを、互いの五感に焼き付けるための儀式だ。


「陽葵。お前は、俺のだ」


「……え……」


「お前の体も、お前の夢も、全部だ。あいつらにも、他の誰にも、指一本触れさせない。お前は、俺の生存契約の一部なんだから」


 俺は、彼女の震える顎を掴み、無理やり上を向かせた。恐怖に見開かれた瞳に、冷静な俺の顔が映り込む。俺は、そのまま彼女の唇を奪った。それは、幼馴染の甘いキスなどでは断じてない。抵抗を許さない、所有権を刻み込むための、一方的な「確認作業」だった。陽葵の唇は、彼女の性格のように柔らかく、しかし、緊張で固く閉じられている。俺は、それをこじ開けるように、自分の唇を強く押し付けた。

 陽葵の体が、硬直する。彼女の小さな手が、俺の胸を押そうとして、しかし、力なく俺の制服の胸元を掴んだ。その指先が、俺のシャツを皺くちゃにする感触だけが、彼女のかろうじて残った抵抗だった。

 俺は、彼女の唇の柔らかさを味わうのではなく、その抵抗の弱さを確認していた。彼女の髪から、いつも俺を安心させる柑橘系のシャンプーの匂いが濃く香る。その匂いに混じって、彼女の恐怖が発する、汗のわずかな酸っぱい匂いも感じ取れた。俺は、その二つの匂いを深く吸い込みながら、俺の生存を脅かす「外部」の雑音を頭から追い出した。


「……んっ……ふ……ぅ……」


 陽葵の喉から、苦痛とも戸惑いともつかない、くぐもった声が漏れる。俺は、唇を離さないまま、空いていた手を彼女の制服のブレザーの中に滑り込ませた。薄いブラウス越しに、彼女の柔らかな体温が伝わってくる。その熱は、俺の「お守り」が確かにここに在るという証拠だった。俺の乾燥した肌が、彼女の生きている熱を貪るように感じる。

 俺の手は、彼女の小さな胸の膨らみを求めて、その輪郭をなぞった。B70にも満たない、少女の脆い膨らみ。だが、俺にとっては、それが俺の命を繋ぐ唯一の聖域だった。俺は、その膨らみを、ブラウスの上から、まるで中身を確かめるように、ゆっくりと、しかし執拗に揉みしだいた。

 陽葵の体が、俺の愛撫に、拒絶とは異なる、奇妙な震えを見せた。

 彼女は、この行為を「屈辱」として感じている。理性が、尊厳が、悲鳴を上げている。社会から隔離され、夢を人質に取られ、今、その身体の自由まで奪われようとしている。

 だが、同時に、彼女の歪んだ自己犠牲の精神——『私の身体が、悠人の命の鍵』という初期信条——が、この屈辱の中に、別の意味を見出していた。『悠人が、こんなに必死になって私を求めてる』。『私がいなければ、悠人は生きていけない』。

 俺の支配的な行動が、彼女にとっては「強く求められている」という、ねじ曲がった「愛されている証」として感じられてしまう。彼女は、この屈辱的な瞬間に、自らの存在価値を確認するという、自己否定的な快感を覚えていたのだ。その証拠に、彼女の抵抗は弱まり、掴んでいた俺のシャツの力は抜け、代わりに俺の体にすがるように変わっていく。


 俺は、彼女の反応——抵抗が完全に消え、体がわずかに熱を帯び始めたこと——に満足し、ゆっくりと唇を離した。二人の間には、唾液の細い糸が、契約の鎖のように光っている。

 陽葵の瞳は、恐怖と、屈辱と、そして俺には理解できない微かな熱で潤んでいた。頬は赤く染まり、呼吸が荒く、開かれた唇が艶めかしく濡れている。


「……分かったか、陽葵。お前は、俺の『役割』を果たすんだ。お前の夢も、その体も、全部俺が管理する」


「…………はい。……でも、私は、あなたに守られるのではなく、あなたの隣にいたい。」


 彼女は、フリーズしたまま、かろうじてそう答えた。その最後の言葉——「あなたの隣にいたい」——に、彼女が心の底から求めていた「対等な関係」への、か細い、しかし確かな意志が込められていた。だが、俺は、その本質的な意味に気づかない。あるいは、気づかないふりをした。俺の耳には、最初の「はい」という完全な服従の言葉だけが、勝利の宣言のように響いていた。「隣にいたい」など、支配下にある人間が、所有者に寄せる当然の甘え(依存)程度にしか解釈しなかった。

 俺の心臓を掴んでいた、死への恐怖と嫉妬による冷たい汗が、すっと引いていくのを感じた。安堵だ。俺は、俺の「お守り」を、確かに「所有」している。この「生存契約の予行」によって、俺たちの肉体的な関係は、支配と依存という、決して対等ではない形で、一方的に開始された。


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### 第10話 ウィルス特定の報


 あの校舎裏での「生存契約の予行」は、俺たちの関係を決定的に変質させた。俺は陽葵の唇と肌に触れ、彼女が俺の支配下にあることを「確認」した。その安堵感は、俺の行動をさらに大胆にさせた。文化祭の準備期間中も、俺は陽葵を教室の隅にある俺の席の隣に座らせ、誰とも視線を合わせることを許さなかった。陽葵は、あの日の恐怖と、自己否定的な快感の記憶から、俺の支配に逆らえなくなっていた。彼女は、俺の「所有物」としての役割を、諦念と共に受け入れているように見えた。だが、その一方で、彼女は俺の目を盗んでは、あの新星総合医科大学のパンフレットを、祈るように見つめていた。俺が「かなえてやる」と約束したあの「夢」が、彼女の中で消えずに燻り続けている。俺は、その事実に気づいていたが、俺の「管理下」にある限りは問題ないと、意図的に軽視していた。


 その日、俺たちは学校から直帰し、俺の部屋にいた。陽葵を俺の「密室」に置くこと。それが、ライバルたちの嫉妬や、橋本のような不埒な輩から彼女を隔離する、最も確実な方法だったからだ。俺の部屋は、清潔ではあるが、柔軟剤の匂いと、俺自身の乾燥した肌の匂いだけが満ちている、無機質な空間だった。陽葵は、ローテーブルで黙々と予習を進めている。俺は、その背後にあるベッドに腰掛け、彼女の姿を監視していた。彼女の髪から香る柑橘系の匂いだけが、この無機質な部屋で唯一、俺の生存本能を安心させる要素だった。つけっぱなしにしていたテレビが、唐突に緊迫したチャイム音を鳴らした。


「……臨時ニュースをお伝えします。厚生労働省と、新星総合医科大学を含む合同研究チームが、本日午後、男性にのみ致死的な症状を引き起こす『ゼウス・ウィルス』の、完全な特定に成功したと発表しました」


 その言葉に、陽葵の背中がビクッと跳ねた。彼女は、弾かれたように顔を上げ、テレビ画面に釘付けになった。画面には、見覚えのある大学のロゴと共に、白衣を着た専門家が、難しい表情で会見を行っている映像が映し出されている。


「……今回のウィルス特定は、感染経路の解明、およびワクチン開発に向けた、歴史的な第一歩となります。専門家によりますと……」


 俺は、ニュースの内容よりも、それを見つめる陽葵の横顔に釘付けになっていた。彼女の瞳が、見たこともないほどの強い光を放っている。それは、以前俺に夢を語った時の、あの危うい光だった。だが、今はそれ以上に、渇望と、焦燥と、そして何よりも強烈な「希望」に満ちていた。彼女は、自分の夢が、単なる空想ではなく、現実の社会と地続きになった瞬間を目の当たりにしている。彼女の父親を奪い、母親を苦しめ、そして自分を縛り付けているこのディストピアの元凶。その正体が今、科学によって暴かれようとしている。彼女の唇が、無意識のうちに震えていた。


「……すごい……本当に、特定できたんだ……」


 陽葵のその純粋な感動の呟きが、俺の胸を冷たく抉った。希望。その言葉が、俺にとっては「脅威」と同義だったからだ。俺たちの「生存契約」は、このディストピア社会の「絶望」と「死の恐怖」を前提に成り立っている。俺が陽葵を支配できるのは、俺が「生き残る可能性のある貴重な男」であり、陽葵が「俺の生存の鍵を握る女」だからだ。だが、もし、ワクチンが開発されたら? もし、俺が死の恐怖から解放されたら? その時、俺が陽葵を独占する「義務」も「権利」も失われる。俺たちの関係を縛る、唯一の鎖が断ち切れてしまう。そして何より、このニュースは、陽葵の「夢」に、現実的な翼を与えてしまった。


「……よかったね、悠人。これで、ワクチンができたら……悠人も、もう……」


 陽葵が、涙ぐみながら俺を振り返る。その顔は、純粋な善意と、俺の「生存」を喜ぶ愛情に満ちていた。その瞬間、俺は、激しい自己嫌悪に襲われた。俺は、彼女のその純粋な「愛」に、応える資格がない。俺が先日彼女に行った「予行」は、なんだったのか。あれは、愛ではなかった。ただの「生存本能」であり、「所有の確認」という名の、冷徹な儀式だった。俺は、彼女の「希望」を素直に喜べない。それどころか、彼女が俺の支配から逃れ、「夢」という名の別の世界に行ってしまうのではないかと、黒い嫉妬に駆られている。俺の独占欲と、彼女の幸福を願う愛。その二つが、俺の中で激しく衝突し、俺の思考を麻痺させた。自己嫌悪から逃れるように、俺はそう吐き捨てた。


「……うるさい」


「え……?」


「そんなもの、いつできるか分からない。専門家が『第一歩だ』と言ったのが聞こえなかったのか。希望に浮かれるのは、早い」


「で、でも、可能性が……」


「可能性、か」


 俺は立ち上がり、彼女の前に回り込むと、ローテーブル越しに彼女の肩を掴んだ。


「お前の『夢』とやらは、そのニュースで満足するのか? 研究者になるには、ここから何年もかかる。だが、俺の『生存』は、今、この瞬間も脅かされてるんだ」


 俺は、陽葵の「希望」を、俺の「本能」でねじ伏せようとしていた。この「希望」という名の外部要因が、陽葵の主体性をこれ以上刺激する前に、俺は彼女に「現実」を教え込む必要があった。俺たちの関係は「愛」ではなく、もっと切実な「生存契約」であると。俺は、彼女の瞳に宿った「希望」の光を、俺の「本能」の闇で塗りつぶすことを、この瞬間に決意した。


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### 第11話 契約の履行


 「ウィルス特定の報」という「希望」が、皮肉にも俺の「生存本能」の最後のタガを外した。あのニュースは、陽葵の瞳に、俺の管理下から逃れようとする「夢」の光を再び灯してしまった。俺は、彼女の「希望」を俺の「本能」でねじ伏せ、俺の部屋という「密室」の中で、彼女に「現実」を教え込む必要があった。俺が彼女の肩を掴んだまま、ローテーブル越しに冷たく「俺の生存は、今、この瞬間も脅かされてるんだ」と言い放つと、陽葵の体は恐怖で完全に硬直した。彼女の瞳から、さきほどの希望の光が急速に消え失せ、代わりに俺への怯えが浮かび上がる。それでいい。俺は、彼女に「夢」ではなく「役割」を思い出させる必要があった。


「立て、陽葵」


「え……?」


「こっちに来い」


 俺は彼女の腕を引き、ローテーブルから無理やり立たせると、そのままベッドの縁に彼女を座らせた。陽葵は、何が起ころうとしているのかを察知し、顔を青ざめさせ、小刻みに震えている。彼女は、あの校舎裏での「予行」の記憶に、再び囚われていた。


「悠人、待って……。私、勉強の、続きが……」


 彼女は、本能的な防御機制として、「勉強への逃避」を試みた。だが、俺はそれを許さない。


「勉強は、その後だ。それより先に、お前の『役割』を果たしてもらう。俺の『生存契約』の、義務だ」


 俺は、陽葵の前に膝立ちになり、彼女の震える両肩に手を置いた。至近距離で見つめると、彼女の瞳が恐怖で揺れ、無意識に受け入れの姿勢を示すように、体が硬直していくのが分かった。これが、彼女の「フリーズ状態」の始まりだった。俺の動機は、性的快感ではなかった。これは「儀式」だ。俺の「お守り」が汚されていないか、俺の生存が確かに保証されているかを物理的に確認する、冷徹な義務の履行だった。

 俺は、彼女の制服のブレザーを脱がし、次に、水色のブラウスのボタンに手をかけた。陽葵の指が、俺の手を止めようとかすかに動いたが、俺の冷たい視線に射抜かれ、力なくシーツの上に落ちた。一つ、また一つとボタンが外され、彼女の清潔な、淡い色のインナーウェアが露わになる。B70にも満たない、少女のささやかな膨らみ。その下で、彼女の心臓が恐怖に激しく鼓動しているのが、ブラウス越しにも伝わってきた。


 俺は、彼女の髪から香る柑橘系の匂いを深く吸い込んだ。この匂いが、俺の「安全」の証だ。俺は、その匂いを確かめるように、彼女の首筋に顔を埋めた。陽葵の体が、ビクッと硬直する。


「……っ……ひぅ……」


 彼女の肌は、柔らかく、体温が高かった。俺の乾燥した肌とは対照的な、生命力そのものの感触。俺は、その温かさに触れることで、自分の内側にある「死の恐怖」が一時的に麻痺していくのを感じていた。俺の唇が、彼女の耳朶みみたぶに触れ、首筋を這う。俺の行動は、愛撫というよりも、マーキングに近かった。ここは俺の領域であり、俺の所有物であると刻み込むための行為だ。

 陽葵は、この屈辱的な行為に耐えていた。彼女の歪んだ自己犠牲の精神——『私の身体が、悠人の命の鍵』という、幼い頃から刷り込まれた思い込み——が、この屈辱の中に、別の意味を見出していた。彼女は、目を固く閉じ、父親が死んだあの日の母親の姿を思い出していたかもしれない。「男性の命を守る」こと。それが、今、自分の身体で果たされているのだと、自分に言い聞かせている。

 だが、彼女の身体は、その理屈とは裏腹に、反応し始めていた。俺の唇が鎖骨のくぼみに触れた瞬間、彼女の喉から、抑えきれないか細い喘ぎが漏れた。


「……ん……ぅ……」


 その反応は、快感によるものではない。それは、彼女の身体が、俺の支配的な愛情を「求められている証」として誤認し、自己否定的な快感を覚えてしまった証拠だった。彼女は、この「役割の履行」の対価として、俺に「必要とされている」という歪んだ安心感を見出してしまっていた。

 俺は、その微かな反応を見逃さなかった。俺は、彼女のスカートに手をかけ、その抵抗のない体をベッドに押し倒した。彼女のすべてが、俺の支配下にあることを確認する。これは、愛ではない。これは、生存だ。

 俺は、俺の「生存本能」に従い、彼女の「フリーズ状態」を利用し、俺たちの「生存契約」を、物理的に、そして一方的に履行した。


 行為の後、俺はすぐに彼女から距離を取った。自分の手のひらを見ると、冷たい汗で異常なほど湿っている。心臓が、自己嫌悪で激しく痛んだ。俺は、彼女の「純粋さ」を確認し、俺の「生存」が脅かされていない事実に安堵した。だが、同時に、彼女の「希望」を、彼女の「愛」を、俺の冷徹な「本能」で踏みにじったという罪悪感が、俺の喉を締め付けていた。これは「愛」ではない。「加害」だ。


 陽葵は、シーツの上で、ゆっくりと体を起こした。乱れた服を直すその指先は、小さく震えている。彼女は、悠人の顔をまっすぐには見なかった。その虚ろな瞳は、天井の一点を見つめたまま、その頬を静かに一筋の涙が伝った。彼女の心境は、悠人が思うような単なる「絶望」ではなかった。彼女の歪んだ自己犠牲の精神——『私の身体が、悠人の命の鍵』という、幼い頃から刷り込まれた思い込み——が、この行為を「義務」として受け入れさせている。彼女は「悠人のもの」だから、行為自体を頭ごなしに拒絶するつもりはない。

 だが、それでも彼女は「悲しんで」いた。悠人が求めたのが、彼女の心ではなく、ただの「役割」と「純粋さの確認」であったこと。そこに一切の対等な意志の疎通がなく、ただ一方的に支配されたという事実に、彼女は深く傷ついていた。悠人と別れるつもりはない。しかし、この関係が「愛」ではなく、ただの「義務」であることにショックを受けていた。彼女は、悠人の行動が、いつか変わってくれること——悠人が、守るべき「道具」としてではなく、隣に立つ「パートナー」として陽葵を見てくれること——を、この絶望的な瞬間に、まだどこかで願っていた。


 だが、俺は、彼女のその複雑な願いに気づくことができない。俺は、彼女の涙を、単なる「恐怖の残滓」か「役割を受け入れた諦念」としてしか解釈できなかった。彼女の瞳から光が消えたのを見て、俺は「管理が成功した」と、冷たく安堵した。俺たちの、支配的な性的関係が、この日、この密室で、確かに確立された。


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### 第12話 空席の恐怖


 季節は巡り、最初の学年が終わろうとしていた。三月、体育館の空気は、入学式の時とは比べものにならないほど冷え切っている。埃っぽさは変わらないが、あの春先に満ちていた浮ついた期待は、一年という時間の重みと、じわりと迫る現実の前に、すっかりと色褪せていた。俺、篠宮悠人は、一年前とまったく同じように並べられたパイプ椅子に座り、壇上の校長を見つめていた。


 終業式。その退屈な儀式は、このディストピア社会において、生存を確認する残酷な点呼の時間でもあった。

 あの日、俺が陽葵に「契約の履行」を強いてから、俺たちの関係は「密室」の中でいびつに安定した。俺は、俺の部屋という物理的なシェルターの中で、定期的に彼女の「純粋さ」を確認する儀式を繰り返した。それは、俺の生存本能を満たすための、冷徹な「義務」の遂行だった。行為の直後、俺の掌には、いつも自己嫌悪からくる冷たい汗が噴き出した。だが、陽葵の髪から香る柑橘系の匂いに触れ、彼女の体温を確かめるたびに、俺の内部の「死の恐怖」は確かに薄れていった。俺は、その安堵感あんどかんという麻薬に、あらがえなくなっていた。

 陽葵は、抵抗しなかった。彼女は、俺の「本能」の行使を、彼女の「役割」として受け入れた。あの「ウィルス特定の報」がもたらした彼女の「希望」は、俺の支配によって再び心の奥底に封じ込められた。彼女は、あの夜に流した涙の理由を、二度と口にすることはなかった。ただ、俺の支配下で、父親を亡くしたあの日のように、じっと耐えることを選んだ。俺は、その諦念を、俺たちの契約が強固になった証拠だと、自分に都合よく解釈していた。


 校長の乾いた声が、静まり返った体育館に響く。


「……以上で、この一年間の教育課程は修了となる。諸君らは、春休みを経て、二年生となる。だが、その前に、諸君らに伝えなければならない、重い事実がある」


 空気が、わずかに緊張した。俺は、背筋に嫌な予感が走るのを感じた。


「知っている者も多いだろうが、先日新たな犠牲者が出た。一年五組、鈴木拓也すずきたくやくんが、先月、ゼウス・ウィルスによる多臓器不全のため、逝去した。今年度、我々の学校から、これで三学年の合計で二十七名もの仲間が亡くなったことになる。引き続き衛生対策の実行を厳にして欲しい」


 その言葉が、マイクを通して宣告された瞬間、体育館の空気が凍り付いた。

 「二十七名」。

 その数字が、音の響きを失って、体育館の天井から俺たちの頭上に降り注ぐ。女子生徒の何人かが、「ひっ」と短い悲鳴を漏らし、ハンカチで口元を覆った。男子生徒たちは、皆、顔を青ざめさせ、血の気を失った唇を固く結んでいる。

 俺の脳裏に、入学式の日に突きつけられた、あの数字が蘇る。「七十三名」。新入生百人のうち、卒業までに二十七人が死ぬという「予測」。

 だが、今、校長が告げた数字は、その「予測」が、たった一年で、学校全体(三学年合計)という規模で、いとも容易く現実になったという「事実」だった。

 鈴木拓也。名前も顔も知らない一年五組の男。彼が、「新たな犠牲者」であり、あの入学式の時点から、すでに他の二十六人が、この学園で、この一年で、死んでいた。

 俺は、自分の鼓動が嫌に大きく、そして不規則に鳴っているのを聞いていた。死は、すぐそこにある。俺の生存戦略は、間違っていなかった。橋本への暴力、ライバルたちへの威嚇、そして、陽葵の支配。あれは、すべて正しかったのだ。そうしなければ、俺も、あの二十七人のうちの一人になっていたかもしれない。

 俺は、隣の列にいる陽葵の横顔を盗み見た。彼女は、唇を真っ白になるほど強く噛みしめ、壇上の一点を、射るように見つめていた。その瞳は、恐怖ではなく、五年前の記憶——父親を失ったあの日の絶望——を、再びなぞっているかのようだった。


 重苦しい終業式が終わり、俺たちはそれぞれの教室へと戻った。一年三組。ドアを開けると、そこは春休みの解放感に浮かれるはずの空気ではなく、体育館から持ち帰った「二十七名」という「死」の匂いが、よどのように溜まっていた。担任が、力のない声でホームルームを進めていく。


「……というわけで、春休みの課題は……。ああ、そうだ。鈴木くんのことだが……」


 担任が、言いよどんだ。その視線は、教室の後方、窓際の席に向けられている。そこは、今はもう誰も座っていない、空席だった。

 俺たちのクラスの男子は八人。鈴木は五組だったから、俺たちのクラスの人数は減っていない。だが、あの「空席」は、俺たち一年生の男子生徒全員の、未来の姿を象徴しているかのようだった。

 俺は、陽葵の席を見た。彼女は、自分の席には戻らず、教室の後方、その空席の前に、吸い寄せられるように立っていた。

 机の上には、持ち主が戻らないことを知ってか、ほこりがうっすらと積もっている。だが、そこには、まだ、彼が生きていた痕跡が残っていた。教科書の隅に書かれた小さな落書き。机の側面に、無意識に爪で引っいたような傷。窓から差し込む三月の柔らかな日差しが、その机だけを、まるで追悼するように白く照らし出していた。

 陽葵は、その空席を、ただじっと見つめていた。彼女の瞳から、一筋の涙が静かにこぼれ落ちる。それは、鈴木という個人に向けられた涙ではない。それは、父親を奪い、今また「二十七名」という数字で同級生の命を奪った、この理不尽な病に対する、静かな怒りと絶望の涙だった。

 そして、彼女の視線が、その空席から、ゆっくりと俺へと移動した。

 俺は、その視線に射抜かれた。彼女の瞳が、俺に問いかけていた。次は、あなたなの? と。

 俺の全身を、再び、あの冷たい恐怖が駆け巡った。自己嫌悪? 罪悪感? そんなものは、この「空席」が放つ、絶対的な「死」のリアリティの前には、何の価値もない感傷だ。

 俺は、陽葵のそばに歩み寄り、彼女の震える手を、強く、強く握りしめた。


「……俺は、死なない」


 俺は、陽葵にではなく、自分自身に、そして、あの空席に巣食う「死」の影に向かって、宣告した。


「俺は、絶対に死なない。そのために、お前が必要だ。陽葵。二度と、俺から離れるな」


 俺の言葉は、もう「愛」の形すら装っていなかった。それは、き出しの「生存本能」であり、冷酷な「契約」の再確認だった。

 陽葵は、俺の手を握り返してきた。その力は、驚くほど強かった。彼女は、こぼれる涙をぬぐおうともせず、俺を真っ直ぐに見上げた。彼女の瞳に宿っていたのは、もう絶望ではなかった。それは、あの空席を見て再確認された、彼女の「役割」への、悲痛なほどの「決意」だった。


「……うん。わかってる。私が、悠人を守るから。絶対に、死なせないから」


 彼女は、父親を守れなかった後悔と、俺を失うことへの恐怖を、すべてその言葉に込めた。彼女の「夢」は、今、この瞬間に、再び「悠人の命」という、より優先順位の高い「義務」の下に、完全に封印された。

 ホームルームの終わりを告げるチャイムが、無情に鳴り響く。

 俺たちは、誰もいなくなった教室で、一つの「空席」を間に挟み、ただ立ち尽くしていた。

 「空席の恐怖」が、俺たちの歪んだ絆を、さらに固く、逃れられないものとして縛り付けた。俺たちの高校二年生は、この絶望的な「密室」の合意の上で、始まろうとしていた。


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## 幕二:蜜月と悲劇の衝撃


### 第13話 密室の日常


 高校二年生に進級しても、俺たちの日常は何も変わらなかった。桜は去年と同じように咲き、そして散ったが、俺と陽葵を取り巻く空気は、あの三月の終業式で「空席の恐怖」を共有して以来、より一層、閉鎖的で濃密なものになっていた。クラス替えはあったが、男女比一対三という絶望的な比率は、男子の減少という形でさらに拡大していた。あの一年で、この学園全体で二十七名が死んだのだ。俺たち男子の希少価値は高まる一方で、女子たちの視線はより切実さを増している。新しいクラスメイトたちは、俺と陽葵が常に二人で行動し、他者との間に絶対的な壁を築いていることを数日で理解し、俺たちを「そういうもの」として扱った。それは、一種のれ物に触るような、あるいは、すでに完結した世界を眺めるような、無関心な距離感だった。俺は、その距離感を歓迎していた。陽葵が俺以外の誰とも視線を交わわさず、会話をせず、俺の管理下にあること。それこそが、俺の「生存」を保証する唯一の道だったからだ。黒崎凛や緑川繭のような、俺たちの「独占」を公然と非難する者も、新しいクラスにはいなかった。あるいは、いたのかもしれないが、俺たちが放つ強固な拒絶の空気に、声をかけることすら諦めたのだろう。


 このいびつな安定は、「密室」で完成されていた。学校という「表」の舞台が終わると、俺たちは誰ともすれ違うことのないよう、最短距離で校門を出て、俺の部屋という「裏」の密室へと直行する。これが、俺たち二年生の、揺るぎない日常ルーティンとなっていた。その日も、俺は自室のドアに鍵をかけると、ネクタイを緩めながら、ベッドに鞄を放り投げた。陽葵は、俺の後ろで静かにドアの前に立ち、まるで来客のように小さくなっている。俺が振り返ると、彼女は、あの終業式の日のように、悲痛なほどの「決意」を宿した瞳で、小さく頷いた。それが、儀式の始まりの合図だった。


「……今日も、誰とも話してないな」


 俺は、確認するように言った。


「……うん。悠人が、そうしろって言ったから」


 陽葵は、小さな声で、事実だけを返す。


「ああ。それが正しい。お前は俺の『お守り』だからな」


 俺はそう宣言し、陽葵の前に立った。彼女のセーラー服の白いスカーフに手をかける。ゆっくりと、結び目を解いていく。陽葵は、目を伏せ、なされるがままになっている。この行為は、もはや俺にとって、性的快感を求めるものではなくなっていた。これは「確認作業」だ。俺の「お守り」が、今日も一日、誰にも汚されず、俺だけの「安全な容器」として存在しているかを確認する、生存のための冷徹な儀式だった。スカーフを引き抜き、ブレザーのボタンに手をかける。彼女の髪から香る、あの柑橘系のシャンプーの匂い。その匂いだけが、俺の内部で常にくすぶる「死の恐怖」を鎮静化させる。俺は、その匂いを確かめるように、彼女の首筋に顔を寄せた。陽葵の肩が、ビクッと小さく震える。その肌は、いつも柔らかく、温かい。俺の乾燥しきった肌が、彼女のその生々しい「体温」に触れるたび、俺は「生きている」ことを実感できた。俺は、陽葵という「生命」そのものを、俺の「生存」の燃料にしている。俺は、彼女の体を支配しているこの瞬間に、絶対的な満足感を覚えていた。校長の「二十七名」という死の宣告も、教室の「空席」が放つ恐怖も、この密室で、陽葵の体温と匂いに触れている間だけは、遠い世界の出来事のように感じられた。俺の戦略は完璧だ。俺の支配は成功している。この「偽りの愛」の儀式の中で、俺はそう誤認を深めていた。


 陽葵は、俺の冷徹な愛撫を受け入れていた。彼女の理性が、これは「義務」なのだと、彼女自身に強く命じている。悠人の命は、私のこの身体にかかっている。父親を守れなかった私に残された、唯一の「役割」。その自己犠C%8牲の精神が、彼女の尊厳が上げる悲鳴をかき消し、この屈辱的な時間を「生存の安心感」へと無理やり変換させていた。俺の手が、ブラウスの上から、彼女のささやかな膨らみを、所有権を確かめるようにゆっくりと圧迫する。B70にも満たない、少女の脆い感触。「……ん……っ」陽葵の唇から、小さな吐息が漏れた。それは、あの校舎裏で覚えた感覚。俺に「強く求められている」という、支配的な愛情の確認。その瞬間にだけ訪れる、自己否定的な快感だった。彼女は、この歪んだ瞬間にだけ、自分の存在価値を、社会から孤立した自分の居場所を、確認できるのだ。だが、その日、彼女の内部で、何かが決定的に変わろうとしていた。屈辱と安心感の狭間はざまで、彼女は、これまでとは異なる種類の「熱」が、自分の身体の奥底から湧い上がるのを感じていた。それは、「役割」や「義務」といった、頭で理解している理屈とは、まったく別の場所から生じる、生々しい感覚だった。俺の指が、彼女の肌をなぞるたびに、その熱はじわりと広がり、彼女の意識をしびれさせていく。これは、おかしい。陽葵は、混乱していた。今までは、「悠人に求められている」という事実が、彼女に歪んだ快感を与えていた。だが、今、感じているこのうずきは、違う。悠人がどう思うか、ではない。俺が、悠人の「お守り」であるかどうか、でもない。彼女の身体が、彼女自身の「意思」で、この接触を「求めて」いる。彼女は、自分が「義務」として差し出しているこの行為の中に、自分自身の「性的欲求」が、確かに存在しているという事実に、気づいてしまったのだ。


 その戦慄せんりつが、彼女の体を、これまでとは違う意味で硬直させる。俺の唇が、彼女の耳朶みみたぶみ、首筋をっていく。その生々しい感触が、彼女の内部の「熱」をさらにあおっていく。俺は、その彼女の微かな反応の変化——恐怖とは異なる、熱を帯びた硬直——を、単に「俺の支配に慣れてきた」証拠としてしか受け取らなかった。彼女が、俺の儀式を、より深く受け入れたのだと。俺は、その誤認に満足し、彼女のスカートのホックに手をかけた。陽葵は、目を固く閉じた。彼女の内部で、神聖であるはずの「義務」と、自分自身の生々しい「欲求」が、初めて激しく衝突していた。俺は、そんな彼女の内心の嵐には、まったく気づいていない。俺は、陽葵の柑橘系の匂いと高い体温に包まれながら、冷徹な「儀式」を最後まで遂行した。彼女の「純粋さ」を再確認し、自身の「生存」が脅かされていないことに、絶対的な安堵感を覚える。


 行為の後、俺は、支配を完了した満足感に浸りながらも、習慣化された自己防衛のように、すぐに陽葵から距離を取った。俺の額には、自己嫌悪からくる冷たい汗ではなく、儀式を終えた達成感による、わずかな熱が浮かんでいた。陽葵は、ベッドの上でゆっくりと体を起こした。乱れた制服を、震える手で、一つ一つ丁寧に直していく。彼女の心は、激しく揺れ動いていた。悠人の命を守るという、あれほど絶対的だった「義務」。その神聖なはずの行為に、自分自身の、コントロールできない「性的欲求」が混じり始めている。この「快感」は、果たして「義務」の一部なのか。それとも、「義務」をけがす、恥ずべき「罪」なのか。

 彼女は、制服の最後のボタンを留め終えると、俺の背中に向かって、か細い声を振り絞った。


「……悠人」


 俺は、すでに机に向かい、参考書を開こうとしていた手を止め、少し苛立ちながら振り返った。儀式は終わったのだ。これ以上、何を求める。


「……なんだ」


「……私、ちゃんと、『役割』、果たせてる……かな?」


 それは、彼女なりの確認だった。「義務」を果たした対価として、わずかな承認が欲しかったのだろう。


「……ああ。だから俺は生きてる」


 俺が事実を告げると、陽葵はわずかに安堵したように息を吐き、そして、何かを決意したように、シーツを固く握りしめた。


「……じゃあ、あのね。今度……今度でいいから……私の、話も……聞いてほしい。勉強の、こととか……その、夢の、こととか……」


 やはり、それか。彼女は、あの「ウィルス特定の報」を、まだ諦めていなかった。

 俺は、一瞬の沈黙の後、彼女のささやかな要求を、冷徹に叩き潰した。


「……それは、俺が管理すると言ったはずだ。お前は余計なことを考えるな。俺の言う通りに勉強してればいい。それ以外は、必要ない」


 俺の言葉は、彼女が求めた「対話」の可能性を、完全に遮断した。


「…………はい。だから、悠人に相談しているの。悠人ともっと話をしたいし、一緒にいたいから」


 陽葵は、俺の拒絶に対し、予想外の言葉を返してきた。その瞳は、虚無ではなく、切実な「願い」に濡れていた。

 俺は、その言葉の意味を即座に理解した。「はい」と俺の支配を受け入れた上で、「だからこそ」対話が必要なのだと、彼女は依存の論理で訴えかけてきている。

 だが、俺にとって、その「対話」こそが最大の「リスク」だった。

 俺は、彼女のそのか細い抵抗を、再び踏みにじった。


「……俺たちの『契約』に、そんなものは含まれていない。黙って勉強に戻れ」


 俺は、それだけを言い放ち、今度こそ彼女に背を向けた。

 背後で、陽葵が息を呑む音が聞こえた。彼女は、自分が「性的欲求」という「罪」を犯してまで果たした「義務」が、結局、この程度の価値しかなく、対等な対話の権利すら得られないという事実に、深く絶望していた。

 俺は、彼女のその絶望に気づかないふりをし、参考書に視線を落とした。密室の日常は、こうして、より深く、決して修復できない亀裂を隠したまま、完璧に続いていく。


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### 第14話 死が欠けた世界


 二年生になって最初の数週間が過ぎ、季節は初夏へと移ろうとしていた。俺と陽葵の関係は、あの春休みの直前に「空席の恐怖」を共有し、そして「義務」の遂行という名の儀式を繰り返すことで、いびつなまでに安定していた。俺の部屋という「密室」は、俺たち二人だけの絶対的なシェルターとなった。学校という「表」の社会で受けるあらゆるストレス——男子生徒の減少が加速することによる女子生徒たちの切実な視線、死の日常化という重圧——は、すべてこの密室に持ち込まれ、俺たちの儀式によって浄化(あるいは麻痺)されていった。


 俺は、この「偽りの愛」に満足していた。陽葵は、俺の管理下で、誰とも接触せず、俺だけの「安全な容器」であり続けている。彼女が時折見せる、あの「夢」への未練や、「対話」を求めるか細い抵抗は、俺が冷徹に拒絶することで、その都度、押さえつけることができた。彼女が「性的欲求」と「義務」の間で葛藤していることなど、俺は知る由もなかった。俺の目には、陽葵は、俺の支配に順応し、俺の生存戦略に完璧に組み込まれた「パートナー」として映っていた。


 対する陽葵は、その密室の日常の中で、より深い葛藤に沈んでいた。彼女は、俺の「儀式」を受け入れていた。それは「義務」だからだ。悠人の命を守る。その大義名分が、彼女のすべての行動を正当化していた。だが、彼女の身体は、理屈とは裏腹に、あの「性的欲求」の自覚にさいなまれていた。俺に触れられるたびに、屈辱と生存の安堵感、そして恥ずべき「罪」としての快感が、彼女の内部で激しく衝突する。彼女は、その罪悪感を打ち消すように、ますます俺への「奉仕」と「義務」にのめり込んでいった。彼女は、俺に依存することでしか、自分自身の「罪」から目をらせなかったのだ。


 その歪な均衡が、再び「死」によって揺さぶられたのは、五月も終わろうとする、湿った空気の朝だった。

 ホームルームの開始を告げるチャイムが鳴り、担任が重い足取りで教壇に立つ。新しいクラスにも、俺たちはすっかり馴染なじんでいた。いや、正確には、クラス全体が「篠宮悠人と水瀬陽葵」という、触れてはならない孤島が存在することに、完璧に馴染んでいた。

 担任は、出席簿を閉じたその手で、教壇を強く握りしめた。


「……皆に、辛い知らせをしなければならない。昨日、二年生の、別のクラスの生徒が亡くなった」


 その言葉が発せられた瞬間、教室の空気が、まるで巨大な氷塊ひょうかいになったかのように凍り付いた。息を詰める音、誰かが小さく「え」と漏らす声が、静寂の中でやけに大きく響く。


「二組の、斉藤さいとうだ。……病状が急変し、昨夜、病院で。死因は、ゼウス・ウィルスによる急性呼吸不全だそうだ」


 斉藤。名前は知っていた。時折、廊下ですれ違う、目立たない男子生徒だった。一年生の時、体育の授業が一度だけ合同になったことがあったかもしれない。その程度の、薄い関係性。

 だが、彼が死んだという事実は、一年前の終業式で聞いた「二十七名」という統計上の数字とは、まったく異なる重みを持っていた。あの時は、まだ「一年生」という大きなくくりの中の、顔も知らない誰かだった。しかし、今は違う。「二年生」の、同じ学年の、確かに存在していたはずの「斉藤」という個人が、消えたのだ。

 教室の隅で、女子生徒が一人、声を殺して泣き始めた。彼女は、斉藤と親しかったのだろうか。あるいは、ただ、この理不尽な「死の日常化」に耐えられなくなったのか。

 俺は、そのすすり泣きを、どこか遠い世界の音のように聞いていた。俺の心は、不思議なほど冷静だった。恐怖は、ない。悲しみも、なかった。その代わりに、俺の胸を満たしていたのは、冷徹なまでの「確信」だった。

 斉藤が死んだ。だが、俺は生きている。

 なぜなら、俺は斉藤とは違うからだ。俺は、陽葵という「安全な容器」を完璧に「管理」している。俺は、望月隼人のような享楽的な愚行も犯さず、斉藤のような無防備な日常も送っていない。俺の「添い遂げ」戦略こそが、この死があふれる世界で、唯一正しい「生存」の道なのだ。

 斉藤の死は、悲劇などではない。それは、俺の戦略の「正しさ」を裏付ける、ただの「比較対象」に過ぎなかった。俺は、その冷酷な優越感に、ひそかな高揚すら覚えていた。


 俺は、無意識に、隣の席の陽葵に視線を送った。

 陽葵は、顔を真っ青にさせ、両手で自分の口を固く押さえていた。その肩が、恐怖に小刻みに震えている。彼女の瞳が、おびえるように俺を捉えた。

 その視線が、俺と交錯した瞬間。

 彼女の瞳から、恐怖の色がわずかに後退し、そこに、はっきりとした「安堵あんど」の色が浮かんだのを、俺は見逃さなかった。

 (よかった。悠人は、生きてる)

 その視線は、雄弁にそう語っていた。彼女にとっても、「斉藤の死」は、まず「悠人の生存」を確認するための基準でしかなかった。

 だが、陽葵は、俺とは違った。

 彼女は、俺の無事を確認して安堵した、その直後。まるで自分の心に裏切られたかのように、激しく動揺した。そして、その瞳に、深い、深い「罪悪感」が浮かんだ。

 彼女は、今、自分が抱いた感情を、恥じていた。亡くなった同級生に対し、純粋な「哀悼」ではなく、まず自分の大切な人の「生存」を喜んでしまった、その利己的な感情を。彼女のその複雑な表情——哀悼、安堵、そして自己嫌悪——のすべてが、俺には手に取るように分かった。


 放課後、俺たちは、いつもと同じように「密室」に戻った。

 二人とも、斉藤の死については、一言も口にしなかった。だが、その「死」は、部屋の空気中に、目に見えない粒子のように充満していた。

 陽葵は、俺が命じるより先に、自らスカーフに手をかけた。それは、今日の「死」の恐怖を振り払い、俺の「生存」を確かなものにするための、彼女からの積極的な「義務」の申し出だった。

 俺は、それを受け入れた。斉藤の死によって証明された、俺の戦略の「正しさ」を、この儀式によって再確認する必要があったからだ。


 俺は、彼女の柔らかな肌に触れた。その高い体温が、俺の乾燥した手のひらに吸い付くように伝わってくる。生きている証拠だ。俺は、陽葵の柑橘系の匂いを深く吸い込み、彼女をベッドに導いた。

 陽葵は、俺の冷徹な愛撫を受け入れながら、その瞳を固く閉じていた。彼女の頭の中は、今日、教室で見た「空席」の光景と、目の前にいる俺の「存在」とで、ぐちゃぐちゃになっていた。斉藤くんが死んだ。哀しい。怖い。でも、悠人は生きている。よかった。……よかった、なんて思ってはいけないのに。

 彼女の内部で、「哀悼」と「安堵」と「罪悪感」、そして、第十三話で自覚してしまった「性的欲求」が、おぞましい渦を巻いていた。

 俺の指が、彼女のインナーのレースに触れ、その下の柔らかな膨らみを包み込む。陽葵の体が、ビクッと震えた。それは、恐怖とも快感ともつかない、彼女の葛藤そのものの反応だった。


「……怖いか、陽葵」


 俺は、彼女の反応を、斉藤の死への「恐怖」だと解釈し、冷ややかに尋ねた。


「……ううん」


 陽葵は、小さく首を横に振った。そして、震える腕を俺の首に回し、必死に俺にしがみついてきた。


「悠人が、いるから……。悠人が、ここにいるから……大丈夫」


 それは、俺を慰める言葉ではなかった。彼女が、自分自身の恐怖と罪悪感を打ち消すために、自分に言い聞かせている呪文だった。

 俺は、その言葉を、俺への絶対的な「依存」の証として、満足と共に受け止めた。

 俺の体が、彼女のすべてを覆い尽くす。陽葵は、俺の重みと体温を感じながら、必死に言葉を続けた。


「悠人は、大丈夫。……私が、守るから……。だから、怖がらなくていい……。私と一緒に、生きて……」


 彼女は、俺の背中に爪を立て、自ら腰を寄せてきた。それは、彼女の「義務」と「性的欲求」が、俺の「生存確認」という一点において、奇妙に融合した瞬間だった。彼女は、俺を慰めることで、自分自身を慰めていたのだ。

 俺は、彼女のその必死の奉仕を、俺の「支配」が完全に成功した証として受け取った。斉藤の死という外部の「脅威」が、結果として、俺たちの「密室」の絆を、秘密の共有を、さらに強固なものにした。俺の生存戦略は、絶対的に正しい。俺は、陽葵の体温の中で、その冷酷な確信を、さらに深めていった。


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### 第15話 背信の疑念


 斉藤の死がもたらした衝撃は、しかし、驚くほど速やかに日常のおりの中に溶け込んでいった。高校二年生の教室では、「二組の斉藤」が空席になったという事実が、時折、思い出したようにささやかれるだけだ。死は、この世界において、あまりにもありふれた出来事となっていた。男子生徒の総数がまた一人減ったという統計上の事実は、女子生徒たちの視線をより切実なものに変えたが、俺、篠宮悠人にとっては、自らの戦略の正しさを再確認する出来事でしかなかった。


 俺と陽葵の「密室の日常」は、より強固なものとなっていた。斉藤の死という「外部の脅威」は、陽葵の俺への依存を決定的なものにした。彼女は、あの朝に抱いた「罪悪感」を振り払うかのように、俺への「義務」の遂行に、より積極的になった。俺の部屋で繰り返される儀式において、彼女は自ら俺の首に腕を回し、「悠人は大丈夫」と、まるで自分自身に言い聞かせるように、俺の生存を慰めた。俺は、その必死の奉仕を、俺の支配が完全に成功した証として受け取った。彼女が、あの第十三話の最後に求めた「対話」や「夢」といった、俺の管理を脅かす「リスク」は、斉藤の死によって、再び彼女の心の奥底へと封印されたのだと、俺は満足していた。


 だが、その完璧だと思われた「密室」にも、予期せぬ亀裂が走ろうとしていた。俺たちのクラスには、中学時代から陽葵と親しかった、一人の女子生徒がいた。相田早苗あいださなえ。快活で、裏表のない性格。彼女は、このディストピア社会においても、まれなほど純粋な「友情」を信じているような女だった。

 早苗は、クラス替えで陽葵と同じクラスになれたことを喜んでいた。だが、陽葵が俺以外の誰とも口を利かず、常に俺の影のように付き従い、教室の隅で二人だけの世界を構築していることに、強い違和感を覚えていた。特に、斉藤の一件以来、陽葵の顔色から血の気が失せ、まるで何かにおびえるように疲弊していく様子を、彼女は見過ごすことができなかった。


 その日の昼休み、俺たちはいつものように、教室の喧騒けんそうを避けて屋上へと続く階段の踊り場で弁当を広げていた。そこは、俺たち二人だけの、学校内における「準・密室」だった。


「……悠人、ごめん。ちょっと、お手洗い」


 陽葵が、小さな声でそう言った。彼女の顔色は、今日も青白い。


「ああ。五分で戻れ。それ以上は許さない」


 俺は、管理者の口調で冷たく言い放った。陽葵は、それに「はい」と小さくうなずくと、足早に階段を降りていった。

 俺は、一人残された踊り場で、陽葵の食べ残した卵焼きをはしでつまんだ。完璧な管理だ。彼女は、俺の許可なく、生理現象でさえ自由にすることはできない。

 その時だった。俺が席を外すのを、物陰からずっとうかがっていた気配があったことに、俺は気づかなかった。


 陽葵が、女子トイレの鏡の前で手を洗っていると、背後から思いがけない声がかかった。


「……陽葵ちゃん?」


 陽葵は、ビクッと肩を震わせ、恐怖に引きつった顔で振り返った。そこに立っていたのは、心配そうな顔をした早苗だった。


「さ、早苗、ちゃん……」


 陽葵の声が、かすかに震える。悠人以外のクラスメイトと、まともに言葉を交わすのは、一体、何か月ぶりのことだろうか。


「よかった、やっと二人きりになれた。……陽葵ちゃん、最近、どうしたの? いつも悠人くんと一緒で、全然話しかけられないし……。それに、すごく顔色が悪いよ。何か、あった? 悠人くんに、何かされてるんじゃ……」


 早苗の言葉は、何の裏もない、純粋な心配からくるものだった。その真っ直ぐな「優しさ」が、陽葵の張り詰めていた心の壁に、鋭く突き刺さった。

 ダメだ。悠人との「契約」を話すわけにはいかない。これは、悠人の命を守るための、私だけの「義務」なのだから。

 だが、早苗の優しさに触れた瞬間、陽葵の内部で、必死に抑え込んでいた感情が、せきを切ったようにあふれ出しそうになった。

 つらい。怖い。悠人を守らなければいけないという重圧。彼の「儀式」を受け入れるたびに感じる、あの屈辱と罪悪感。そして、何よりも、自分の「夢」や「対話」を、一方的に拒絶され続ける、この息苦しい日常。

 陽葵は、早苗の優しさに触れて、自分がずっと「嘘」をつき続けているという、強烈な「罪悪感」に襲われた。この純粋な友人を、自分は裏切っている。自分はもう、早苗のような「普通の女子高生」の日常には、戻れない。


「……ううん。なんでも、ないの。篠宮くんは、優しいよ。篠宮くんは、私だけのものだから。私を、守ってくれてるだけだから……」


 陽葵は、涙がこぼれそうになるのを必死でこらえ、作り笑いを浮かべた。溢れそうになる本心(罪悪感)を隠すため、とっさに口にしたのは、彼女自身の「独占欲」を肯定する言葉だった。彼女の心に深く根付いた、悠人の命は自分だけが守るという歪んだ執着が、早苗の純粋な友情よりも、悠人との共犯関係を優先させたのだ。その笑顔が、どれほど痛々しく、歪んでいるか、彼女自身は気づいていなかった。


「私だけのものって……。陽葵ちゃん、それって……」


 早苗は、陽葵の疲弊した表情と、今口にした強烈な「独占欲」との、恐ろしいギャップに言葉を失った。早苗が、その異常さに気づき、さらに一歩踏み込もうとした、その瞬間だった。


「――そこで、何をしている」


 氷のように冷たい声が、トイレの入り口から響いた。

 陽葵の体が、凍り付く。俺だった。陽葵が、約束の「五分」を過ぎても戻ってこないことに苛立いらだち、探しに来たのだ。

 俺は、女子トイレの入り口に仁王立ちし、その視線で早苗を射抜いていた。俺の目に映っていたのは、陽葵の親友ではない。俺の「密室」を侵犯し、俺の「所有物」に不必要な情報を与え、陽葵という「安全な容器」を汚染しようとする、「外部」からの「脅威」そのものだった。

 俺の全身から放たれる、き出しの敵意と独占欲に、早苗は「ひっ」と息をんだ。


「さ、早苗ちゃんは、関係ないの! 私が、ちょっと……」


 陽葵が、慌てて俺と早苗の間に割って入る。


「黙れ。お前は、俺の許可なく、こいつと話すなと言ったはずだ」


 俺は、陽葵の弁解を無視し、彼女の細い腕を強くつかんだ。その力に、陽葵が「きゃっ」と小さな悲鳴を上げる。


「篠宮くん! やめてよ、陽葵ちゃんが痛がってる!」


 早苗が、勇気を振り絞って俺に抗議する。


「部外者は、失せろ。これは、俺たち二人の『契約』の問題だ」


 俺は、早苗にそれだけ言い放つと、陽葵の腕を引きずるようにして、その場を離れた。背後で、早苗が「陽葵ちゃん!」と叫ぶ声が聞こえたが、俺は振り返らなかった。

 階段の踊り場に戻っても、俺は陽葵の腕を離さなかった。俺の指が食い込み、陽葵の白い肌が赤く充血している。


「……痛い、悠人……」


 陽葵の、涙交じりのか細い声が、俺の怒りに満ちた思考に突き刺さる。俺は、ハッと我に返り、掴んでいた指の力を緩めた。彼女の肌には、俺の指の跡がくっきりと赤く残っている。衝動的に力を入れすぎたことに、チリ、と胸が痛んだ。


「……痛かったか?ごめん。でも、なぜ、あいつと話した。俺の命令が聞けないのか」


 俺の口から出たのは、反射的な謝罪と、それに続く冷徹な詰問だった。彼女を傷つけたいわけではない。だが、俺の生存を脅かす命令違反は、それ以上に許しがたい。その内面的な葛藤が、俺の言葉をちぐはぐなものにしていた。


「……ごめんなさい……ごめんなさい……」


 陽葵は、俺のそのちぐはぐな優しさ(謝罪)と怒り(詰問)の板挟みになり、ただ泣きそうな顔で首を横に振るしかできなかった。

 俺は、その謝罪を聞き、舌打ちを一つすると、彼女の腕を完全に解放した。

 この「背信の疑念」は、俺に新たな恐怖を植え付けた。俺の「密室」は、まだ完璧ではない。俺は、陽葵の行動だけでなく、その「心」すらも、外部から完全に隔離しなければならない。俺の支配を、さらに強めなければならないと、俺は冷たく決意した。


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### 第16話 女性の体育祭


 じりじりと照りつける秋の日差しが、乾いたグラウンドの砂埃すなぼこりを白くきらめかせている。万国旗が気だるげに空を泳ぎ、スピーカーからは、この日のために練習されたであろう勇ましいマーチングバンドの演奏が、割れた音で鳴り響いていた。

 体育祭。その言葉が持つ、本来の胸躍るような響きとは裏腹に、俺、篠宮悠人は、この場所に満ちる異様な熱気に辟易へきえきしていた。

 俺たち二年生の男子生徒は、クラスの待機テントの、最も日陰になる後方部分に集められていた。その数は、クラスに八人もいない。対照的に、テントの前方を埋め尽くすのは、体操服に身を包んだ女子生徒たちの圧倒的な数だ。彼女たちの甲高い歓声と、汗の匂いが混じった熱気が、テントの中に充満している。


 これが、俺たちの世界の現実だった。男子生徒の死亡率は依然として高く、労働力も、社会活動も、その大半を女性が担っている。体育祭という学校行事も、その例外ではなかった。開会式で選手宣誓に立ったのは、凛々(りり)しい顔立ちの三年生の女子生徒だった。実行委員長として挨拶するのも女子。応援団長として、低い声を張り上げているのも、学ランを羽織った女子だ。

 プログラムに並ぶ競技名も、その実態を色濃く反映している。「男子選抜リレー」といった、かつての花形種目は消え失せ、代わりに「女子による騎馬戦」や「クラス対抗女子綱引き」といった、力仕事を女性が担う競技ばかりが並んでいた。俺たち男子生徒の役割は、その異様な光景を、希少な賓客ひんきゃくのように眺めていることだけだった。


「陽葵。俺から離れるな。日陰から出ることも許さない」


 俺は、隣に座る陽葵に、改めて釘を刺した。彼女は、俺と同じクラスの、用具係という名目上の役割を与えられていた。もちろん、俺が競技に参加することなど一切許さず、彼女を俺の絶対的な監視下に置くための、唯一の選択肢だった。


「……うん。わかってる」


 陽葵は、青白い顔で小さく頷いた。相田早苗との一件以来、俺は彼女への支配をさらに強化した。俺の許可なく「外部」と接触することは、たとえ相手が女子であっても、俺の生存戦略に対する重大な裏切り行為と見なした。陽葵も、それを理解していた。彼女は、早苗への「罪悪感」を押し殺し、俺の「管理」を、より深く、諦念ていねんと共に受け入れていた。

 だが、その時、俺たちの閉鎖された空間に、迷いなく踏み込んでくる人影があった。


「水瀬さん。用具係の打ち合わせです。こちらへ」


 黒崎凛だった。彼女は、クラス替えで俺たちとは別のクラスになったはずだが、体育祭実行委員会の、用具部門の責任者として、学年全体を統括しているらしかった。彼女は、知的な眼鏡の奥の瞳で、俺ではなく、陽葵だけを真っ直ぐに見据えている。


「……何の用だ。陽葵は、俺の管理下にある。必要なことは俺が聞く」


 俺は、陽葵の前に出るようにして、凛の視線をさえぎった。


「篠宮くん。これは、あなたの個人的な感情の問題ではありません。体育祭の運営という、学校行事における『論理的な決定事項』です。水瀬さんは、三組の用具係として登録されている。彼女には、用具の数量確認と配置という『役割』があります」


 凛は、俺の独占欲など意にも介さず、冷徹な事実だけを突きつけた。


「陽葵はここを動かない。俺が許可しない」


「あなたの許可は、学校運営の論理において必要ありません。水瀬さん、あなたはクラスの一員としての『責任』を果たさないつもりですか? それとも、彼個人の『独占』という非論理的な感情を、公的な『義務』より優先すると?」


 凛の言葉は、巧みに陽葵の良心をえぐった。彼女の言う「責任」や「義務」という言葉は、陽葵が俺の支配を受け入れている、まさにその根幹を揺さぶるものだった。

 陽葵は、俺の背後で、唇を噛みしめていた。俺への「義務」と、クラスメイトとしての「義務」。二つの正義が、彼女を板挟みにする。


「……悠人。ごめん。……行かないと。用具係、だから」


 陽葵が、俺の服のすそつかみ、か細い声で言った。

 俺は、舌打ちをした。ここで俺が無理に陽葵を引き留めれば、それは、あの橋本への暴力や、早苗への威嚇と同じように、陽葵をさらに孤立させるだけだ。

 俺は、凛をにらみつけたまま、陽葵にだけ聞こえる声で言った。


「……行け。ただし、絶対に俺の視界から消えるな。凛以外の人間とは、一切、口を利くな」


「……ありがとう」


 陽葵は、安堵したようにそう言うと、凛の後ろについて、テントの端にある用具置き場へと向かった。俺は、その背中を、獲物えものを狙う肉食獣のように、執拗しつような視線で追い続けた。


 競技が、グラウンドで繰り広げられていく。女子生徒たちが、汗まみれになりながら騎馬を作り、激しくぶつかり合う。その熱狂をよそに、俺は、テントの端で、凛と共に備品の数を数えている陽葵の姿だけを監視していた。

 凛は、手にしたバインダーのリストと、目の前の備品(ゼッケンや綱引きの綱)を照合しながら、陽葵にテキパキと指示を出している。

 陽葵は、最初は緊張でこわばっていたが、凛の容赦のない論理的な指示に応じているうちに、その表情が、わずかに変わっていくのを、俺は見てしまった。

 彼女は、ゼッケンを色別に仕分けし、数を数え、凛に報告する。その単純作業に、彼女は、信じられないほど集中していた。その横顔には、俺の部屋で「義務」を果たす時の、あの屈辱や葛藤の色はなかった。そこにあるのは、与えられた「役割」を完璧にこなそうとする、優等生としての、純粋な達成感。

 凛が、彼女の報告を聞いて、小さく頷く。その瞬間、陽葵の口元に、本当に微かだが、「笑み」のようなものが浮かんだ。

 俺は、その表情に、胸が凍り付くような衝撃を受けた。

 陽葵が、笑った。

 俺の支配下で、俺の儀式によってではなく。俺以外の人間(黒崎凛)の指示によって、俺が管理していない「主体的な活動」の中で、彼女は「喜び」を見出したのだ。

 俺の孤独が、一気に深まった。俺の「密室」は、完璧ではなかった。俺は、彼女の身体を支配し、その行動を管理することはできても、彼女の「心」が、このような外部の活動に「喜び」を見出してしまうことを、防ぐことはできなかった。


「……非効率的ね」


 不意に、背後から声がした。振り返ると、いつの間にか、黒崎凛が俺の隣に立っていた。陽葵は、凛から次の指示を受け、一人で用具の片付けを続けている。


「……何がだ」


「あなたのその監視行為よ、篠宮くん。あなたは、社会の現実から目を背けている」


 凛は、俺ではなく、グラウンドで繰り広げられる女子騎馬戦を見つめながら言った。


「あれが、私たちの社会の現実よ。女性が、男性の代わりに、すべての労働力と責任を担っている。それなのに、あなたは、水瀬さんという、この社会にとって貴重な『労働力リソース』を、あなた個人の『生存本能(愛)』のために独占し、非稼働状態にしている。社会全体が必死に動いているこの体育祭の場で、二人だけがテントの隅で座っている。これほど、社会倫理に反する、非論理的な光景があるかしら」


 凛の言葉は、以前、俺を糾弾した時と同じ「論理」だった。だが、この「女性の体育祭」という、社会の歪みを凝縮したような光景を背景に突きつけられると、その言葉は、以前とは比べものにならないほどの重い「現実」として、俺に突き刺さった。


「守る? いいえ、あなたは彼女の『主体性』を奪っている。彼女は、今、私と備品の確認をしていた時、生き生きとしていたわ。彼女は、あなたの人形(お守り)であることよりも、社会の一員として『役割』を果たすことに、喜びを感じる人間よ。あなたは、自分の独占欲のために、彼女が社会で活躍する未来(夢)と、彼女自身の『喜び』を、同時に奪っているのよ」


 凛の論理的な圧力が、俺の「愛(独占)」と「社会の現実」が、決定的に衝突している事実を、容赦なく暴き立てる。

 俺は、陽葵の、あの微かな「笑み」を思い出した。凛の指摘は、痛いほど正しかった。

 俺は、自嘲じちょうのこもった、乾いた笑いを漏らした。


「そうか?確かに関係は歪かもしれない。俺が陽葵を縛り付けているつもりで、実際には、陽葵が俺を縛っているのかもしれないな。お互いにそれを自覚して疲弊しているのだから、外から見れば滑稽かもな。こうして凛と話しているのだって、あとで俺が陽葵に怒られる」


 俺の予想外の返答に、凛はわずかに目を見開いた。彼女の冷徹な論理は、俺の自嘲的な諦観という、まったく別の次元の感情によって、受け流されたからだ。


「……あなた、自分が何をしているか、自覚があるのね。滑稽で済む問題ではないわ。あなたは、加害者よ」


 凛は、俺の内省的な態度を、論理で説き伏せられない単なる「開き直り」だと断じた。その冷たい視線が、俺の胸に最後のとげを突き刺す。

 俺は、その言葉から逃げることなく、自嘲をさらに深めて、乾いた声で答えた。


「加害者、か。……そうかもしれないな。陽葵に見捨てられないようにしないとなあ。喧嘩して泣いて謝って笑っての繰り返しだよ」


 凛は、俺のその返答に、今度こそ何も言わなかった。彼女の正論は、俺たちが囚われているこの歪みに、罰を与えることはできても、そこから俺たちを救い出す力は持っていなかった。

 俺は、一人、テントの陰で、用具を片付ける陽葵の背中を見つめ続けた。彼女のあの「喜び」の表情が、俺の脳裏に焼き付いて離れなかった。


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### 第17話 抗体検査の噂


 体育祭での出来事以来、俺の独占欲はさらなる陰りを帯びた。黒崎凛に「加害者よ」と糾弾され、そして何より陽葵が俺の支配下ではない「社会的な役割」に微かな喜びを見せたという事実は、俺の「密室」の基盤が脆い砂の上に立っていることを証明していた。俺の愛は、もはや彼女の命を守るという崇高な義務ではなく、自己の生存本能を満足させるためのエゴイズムへと変質している。凛の指摘の通り、これは支配なのだ。だが、この支配を緩めれば、俺の命は、あの空席を作った死の影に、いとも容易く飲み込まれるだろう。俺は、その恐怖にあらがえず、支配を継続する道を選んだ。


 そんな秋の終わり、俺たちの私的な葛藤とは無関係に、社会は大きな転換点を迎えていた。

 放課後、俺の部屋。陽葵はローテーブルで予習を進め、俺はベッドに背を預け、つけっぱなしのテレビを流していた。部屋には陽葵の柑橘系のシャンプーの匂いだけが満ち、それが俺の安堵を誘う唯一の薬だった。その画面に、唐突に緊迫した臨時ニュースが飛び込んできた。


「……本日、画期的な発表がありました。『ゼウス・ウィルス』の抗体検査技術が、臨床段階での成功に至り、感染キャリアの特定が、ほぼ確実に行える見通しとなりました」


 陽葵がペンを走らせる手を止め、弾かれたようにテレビ画面を見つめた。感染キャリアの特定。その言葉は、このディストピア社会の根幹を揺るがすものだった。これまでは男性が発症して初めて「感染者」と判明していたが、この技術が実用化されれば、「誰が」リスクを負っているのかが、白日の下に晒される。


 陽葵の瞳に、感染症研究の夢を抱くあの日のような、強い「希望」の光が灯った。だが、その光は、俺への焦燥の色も濃く含んでいる。


「悠人、これって、すごいことだよね。これで、危険な人が誰か、わかるようになる」


「ああ」


 俺は冷静な顔を保ち、無感情に答えた。俺の心臓は、激しく脈打っていた。俺の戦略の科学的な優位性が証明される一方で、俺の倫理的な劣位性も同時に浮き彫りにされるからだ。そして、ニュースキャスターは、すぐにその倫理的な問題に言及した。


「……この技術の実用化に伴い、特に問題となるのが、複数のパートナーを持つ男性、およびキャリアと判明した女性への対応です。彼らは、社会的なリスクを承知の上で、高い感染率を自ら招いているという、倫理的な非難にさらされる可能性があります」


 俺は、冷酷な笑みを浮かべた。俺の「添い遂げ」戦略が、科学によって証明された。隼人もちづきはやとの「複数愛は社会貢献」という大義名分は、この科学的な事実の前では、単なる「死を招く愚行」でしかなかった。俺は、俺の戦略の優位性に、深い安堵を覚えた。


 その時、陽葵が震える手で、そっと俺の乾燥した手のひらを掴んだ。その手のひらは、俺の肌と比べて、いつも温かい。


「ねえ、悠人、私たちも、受けてみない?」


「何をだ」


「抗体検査。私たち、契約を履行してるでしょ? だから、私たちがキャリアじゃないって、確認しておけば、もっと安心できるよ。悠人が、いつ死ぬか分からないっていう恐怖から、解放される……」


 陽葵の言葉は、俺の「死の恐怖」を和らげたいという、純粋な献身から来ていた。だが、俺の心は一瞬で凍り付いた。

 抗体検査。それは、俺の支配の根拠を根底から揺るがすものだった。陽葵がキャリアでないと確定すれば、俺の戦略の優位性は証明される。だが、もし、万が一、俺が既にキャリアだったら? その事実が判明すれば、俺の独占は、陽葵にとって何の意味も持たなくなる。陽葵は、「私には他に、研究の夢がある」と、俺の支配から逃れるための倫理的な正当性を獲得してしまうだろう。俺の独占は、「生存の義務」という Lie の上で成り立っている。その Lie が、科学的な事実によって暴かれることを、俺は本能的に恐れた。


「……馬鹿なことを言うな」


 俺は、陽葵の手を振り払うように、立ち上がった。


「まだ臨床段階だと言っただろう。そんな不確実な検査を、受ける必要はない。俺たちの契約は、陽葵が俺以外の誰とも接触しないという事実で、すでに成立している。リスクの可視化など、単なるノイズだ」


「でも、ノイズじゃないよ! 悠人の命に関わることなんだよ!? 私だって、毎日、いつ悠人が斉藤くんみたいに……って、怖くて……万が一にも私があなたに感染させることで、あなたを失いたくない。」


 陽葵は、涙ぐみながら必死に訴えた。彼女の言葉は、俺への深い愛情と、俺を失うことへの切実な恐怖、そして自分がキャリアではないことの証明によって俺を守りたいという、歪んだ自己犠牲の責任感が混じり合っていた。


「その恐怖は、俺のそばにいれば解消される。それ以上を望むな。そのために避妊も責任を取ってやってきた……それに、ここまでして陽葵から感染したなら、あきらめもつく。陽葵を悲しませるのは、申し訳ないがな。ごめんな。もしかしたら……というのが怖いだけかもしれない。」


 俺は、彼女の論理と感情を、俺の「責任」という名の支配でねじ伏せた。しかし、その支配的な言葉の最後に、一瞬だけ、自己嫌悪と、支配の根底にある「死の恐怖」という内面的な弱さを吐露した。この言葉は、俺の冷徹な支配が、「もしかしたら」という不確実性に怯えているという、最も脆弱な真実を陽葵に突きつける。


 俺は冷たく言い放つと、陽葵に背を向けた。その時、俺の携帯に、望月隼人からメッセージが届いた。


> おい、篠宮。あのニュース見たか? 俺の戦略のリスクが可視化されたらしいぜ。お前の『添い遂げ』が正しかったってことになるか? カフェテリアに来いよ。論理的に決着をつけようぜ。


 俺は、陽葵に一言、「ここで待ってろ」と告げ、部屋を出た。俺の生存戦略の正当性を証明する機会、そして、隼人の享楽主義が死を招く愚行であることを確認する機会。それを逃す手はない。


 カフェテリアは、抗体検査のニュースで持ち切りだった。女子生徒たちは、恐怖と好奇心がないまぜになった視線を、男子生徒たちに突きつけている。その中で、隼人は一人、テーブルに肘をつき、軽薄な笑みを浮かべていた。彼の周囲には、いつもより女子の数が少ない。既に、彼の「複数愛」のリスクが、周囲に警戒感を抱かせ始めている証拠だった。


「よお、護衛騎士サマ。論理的な優位性が証明された気分はどうだ?」


 隼人は、皮肉を込めて言った。俺は、彼の前に座り、冷たく言い放った。


「気分などない。最初から、お前の戦略は愚行だと分かっていた。お前は、自ら感染源に飛び込んでいったんだ」


「はっ。確かに、科学的にはそうだろうな。俺のリスクは、お前より高い。だがな、篠宮。俺は後悔してねえよ。俺は、複数の女子に『愛』を分け与えることで、俺自身の存在価値を証明した。お前みたいに、一人の女を支配することでしか、安心できない哀れな独占者とは違う」


「支配ではない。責任だ。俺は陽葵の命を守っている」


「守ってる? 違うな。お前は自分の命を守るために、陽葵の未来(夢)を奪い、彼女の行動を支配下に置いた。それは、自己愛を生存の義務で偽装した、最も醜いエゴイズムだ。この抗体検査は、お前の戦略の科学的な優位性を証明したかもしれないが、同時に、倫理的な劣位性も浮き彫りにしたんだよ」


 隼人の言葉が、俺の胸に突き刺さる。俺の冷徹な「自己嫌悪」が、再び顔を出した。そうだ。俺は、隼人の享楽主義を軽蔑しながら、その実、彼と同じくらい、あるいはそれ以上に、陽葵という「人間」の主体性を無視し、加害している。


「俺の戦略は、俺を生き残らせる。お前の戦略は、お前を死なせる」


 俺は、その倫理的な負い目から逃れるように、冷酷な事実だけを突きつけた。

 隼人は、その言葉を聞くと、突然、大きく息を吸い込んだ。そして、その顔から、いつもの軽薄な笑みが消えた。彼の目には、隠しきれない死への恐怖が滲んでいた。


「……かもしれないな。だが、俺は、命を賭けて社会貢献をしている。お前は、命を賭けて自分のエゴイズムを守っている。どちらが先に破綻するか、見物だな」


 そう言い残すと、隼人は立ち上がり、カフェテリアを出ていった。彼の背中は、どこか、覚悟を決めたような、しかし病的な疲弊を滲ませていた。


 俺は、一人テーブルに残り、抗体検査のニュースを睨みつけていた。隼人の言う通り、俺の独占は、倫理的には醜い。だが、俺は生き残る。俺と陽葵は、命の責任という、このディストピアで最も強固な鎖で結ばれているのだ。俺は、自分の戦略の優位性を再確認し、陽葵への支配を緩めないことを、改めて固く誓った。


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### 第18話 欲望の境界線


 じっとりと汗ばむような、梅雨の空気が俺たちの肌にまとわりつく。抗体検査のニュースが世間を騒がせてから数週間が経過していたが、俺たちの日常を劇的に変えることはなかった。検査はまだ、俺たち高校生がすぐにそれを試せるわけではない。結局のところ、それは遠い未来の「可能性」に過ぎず、俺の目の前にある「今日」の死の恐怖を打ち消すには、あまりにも無力だった。

 望月隼人とのカフェテリアでの対立は、俺の心に重い澱を残した。あいつの言う通り、俺の戦略は科学的な正しさと、倫理的な醜悪さを同時に孕んでいる。俺は、陽葵という人間の心を無視し、彼女の未来を人質に取る「加害者」だ。その自覚は、体育祭で黒崎凛に突きつけられて以来、じわじわと俺の内面を蝕んでいた。

 だが、自覚したからといって、俺がこの支配を緩めることはあり得なかった。加害者であろうと、エゴイストであろうと、俺は生き残らなければならない。斉藤が死に、鈴木が死んだあの教室の「空席」の恐怖は、いかなる倫理的な葛藤よりも、俺の本能に強く訴えかける。俺は、隼人への倫理的な劣位性を自覚したからこそ、逆に、俺の唯一の生存戦略である陽葵の「管理」を、さらに徹底する必要があった。


 その日も、俺たちは放課後のチャイムと同時に教室を飛び出し、俺の部屋という「密室」に逃げ込んだ。鍵をかける乾いた金属音が、社会からの断絶を告げる。

 部屋の空気は、いつもと同じだ。俺の柔軟剤の匂いと、陽葵の髪から香る、あの俺の生存を保証する柑橘系の匂い。陽葵は、もう俺に命じられるまでもなく、自らセーラー服のスカーフに手をかけた。それが「義務」であり、斉藤の死以来、彼女が自らに課した「役割」であることを、深く理解しているからだ。

 俺は、ベッドの縁に腰掛け、彼女のその一連の動作を、冷徹な管理者の目で見つめていた。ブレザーが脱がされ、ブラウスのボタンが一つ、また一つと外されていく。彼女の白い指先が、緊張にわずかに震えている。

 俺は立ち上がり、彼女の前に膝立ちになった。ブラウスの隙間から、淡い色のインナーウェアに包まれた、B70にも満たないささやかな膨らみが覗く。俺の視線が、その上を執拗になぞる。


「……今日も、誰とも接触していないな」


 それは質問ではなく、確認作業だった。


「……うん。悠人の、そばにだけ、いたから」


 陽葵は、目を伏せたまま、か細い声で答えた。その答えに満足し、俺は彼女の首筋に顔を埋めた。儀式の開始だ。

 俺は、彼女の髪から香る柑橘系の匂いを、肺の奥深くまで吸い込んだ。この匂いこそが、俺の「お守り」だ。次に、彼女の高い体温。俺の乾燥した肌が、彼女の柔らかく湿った肌に触れる。この熱が、俺の「死の恐怖」を一時的に麻痺させる。俺の唇が、彼女の耳朶から鎖骨へと、所有権を刻み込むように移動していく。

 俺の心は、冷え切っていた。これは愛ではない。「純粋さ」の確認であり、「生存」の確認だ。

 陽葵の体が、俺の冷たい唇の感触に、ビクッと震えた。彼女の細い指が、俺のシャツの背中側を強く掴む。彼女の内部では、今、あの激しい葛藤が渦巻いているはずだ。悠人の命を守るという「義務」。その義務の履行の中で、恥ずべきことに感じてしまう、自分自身の「性的欲求」。

 俺の手が、彼女のブラウスの内側に滑り込み、その柔らかな膨らみを、インナー越しにゆっくりと圧迫する。


「……ん……っ、ふ……」


 陽葵の喉から、苦痛とも快感ともつかない、くぐもった吐息が漏れた。彼女の身体は、俺の支配的な愛情を「求められている証」として誤認し、裏切るように反応してしまう。その事実に、彼女は「罪悪感」を抱いている。俺は、その反応すらも、俺の支配が成功している証拠として、冷ややかに受け止めていた。

 俺は、彼女のその脆い膨らみを、まるで中身を確かめるように、執拗に揉みしだいた。陽葵は、俺の首に腕を回し、その屈辱に耐える。彼女は、この「役割の快感」の対価として、俺との繋がりを、生存の安心感を、得ようとしていた。

 だが、その時。俺は、彼女の反応に、わずかな「違和感」を覚えた。

 彼女の身体は、確かに俺の支配に応じている。しかし、その瞳は固く閉じられ、その意識は、この密室ではない、どこか別の場所へ飛んでいる。

 それは、あの「ウィルス特定の報」を見た時の光。あるいは、体育祭で、黒崎凛の指示に応えていた時の、あの微かな「喜び」の残滓。

 こいつの心は、まだ、あの「夢」に囚われている。


 俺は、行為の最中であるにもかかわらず、唐突に、冷たい声で尋ねた。


「……陽葵」


「……っ、な、に……?」


 彼女の返事は、喘ぎに混じって途切れ途切れだ。


「お前が前に言っていた、あの『夢』。……感染症の研究とやら。まだ、諦めてないのか」


 その言葉は、熱を帯びたこの密室の空気を、一瞬で凍り付かせた。

 陽葵の体が、硬直する。彼女の瞳が、恐怖と、そして、図星を突かれた動揺に見開かれた。俺の手は、まだ彼女の肌に触れたままだ。この、最も無防備で、最も「義務」に縛られている瞬間に、彼女の心の核心を、俺は容赦なく抉ったのだ。


「……そ、れは……悠人が、かなえてくれるって……」


 彼女は、かろうじて俺が以前口にした、あの身勝手な約束にすがろうとした。


「俺が管理する、と言ったんだ。お前が、まだそんな『希望』を個人的に抱いているのかと、聞いている」


 俺の指先に、無意識に力がこもる。陽葵の肌が、赤く圧迫される。


「……っ、あ……」


 陽葵は、その痛みと、俺の詰問によって、ついに、心の奥底に封印していた本音を漏らしてしまった。


「……だって、抗体検査のニュースも……っ。本当に、ワクチンができたら、誰かの命を、救えるかもしれないから……っ。それは、間違って、ない、でしょ……?」


 その言葉を聞いた瞬間、俺の頭の中で、最後の理性が焼き切れた。

 こいつは、まだ、俺の支配が及ばない「未来」を見ている。俺の「生存」という、今、ここにある現実よりも、まだ見ぬ「誰か」の命という、不確実な「夢」を。

 その「夢」こそが、俺の「生存契約」を破綻させる、最大の「危険」であり、俺の「独占」を脅かす、最大の「脅威」だ。

 俺は、彼女の肌から手を離し、代わりに、彼女の両肩を掴んで、ベッドの上に押さえつけた。


「……間違ってる」


「え……」


 陽葵は、小さく息を呑んだ。そのたった一言の否定が、冷たい水のように彼女の喉に流し込まれ、熱に浮かされていた思考を強制的に凍らせていくのを感じた。


「お前が救うのは、『誰か』じゃない。この俺だ。今、ここにいる、俺の命だけだ」


 俺は、彼女の瞳を至近距離から睨みつけ、冷徹に、独占的な否定の言葉を叩きつけた。


「お前に、そんな『夢』は必要ない。お前の身体は、俺の生存のためだけにあればいい。お前の未来は、俺が管理する。それ以外の可能性は、全部捨てろ。お前は、俺の『お守り』であるという『役割』だけを果たせばいいんだ」


 その言葉は、俺の剥き出しの「本能」であり、冷酷な「支配」の最終通告だった。

 陽葵の瞳から、光が消えた。彼女は、この瞬間、初めて、決定的に意識したのだ。

 悠人の「独占」は、これまで彼女が「義務」として受け入れてきた生半可なものではない。それは、彼女の「未来の可能性」そのものを、彼女の「心」そのものを、明確な意志を持って奪い去ろうとする、絶対的な「踏みにじる行為」であると。

 彼女の頭の中で、感染症の研究者になるという「頭で描く夢」と、今、俺の生存の鍵として押さえつけられている「自分の身体」が、決して両立することのない、決定的な「対立」の構図として、焼き付いた。

 陽葵の唇が、絶望に、声もなく震えた。

 俺たちの関係に、修復不可能な、最初の決定的な亀裂が入った瞬間だった。俺は、その亀裂の深さに気づかず、彼女の抵抗が完全に失われたことに、冷たい満足感を覚えていた。


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### 第19話 イルミネーションと不在


 十二月の空気は、ナイフのように研ぎ澄まされ、俺たちの頬を容赦なく切りつけた。吐く息は白く濁り、すぐに乾燥した大気に溶けていく。街は、師走の喧騒と、クリスマス特有の浮ついた熱気に包まれているはずだった。だが、俺、篠宮悠人の目に映る光景は、季節の彩りとは裏腹に、どこまでも色褪せて冷え切っていた。

 駅前のロータリー。巨大なヒマラヤ杉に、何万ものLED電球が飾り付けられ、青と白の冷たい光の滝となって降り注いでいる。イルミネーションだ。その光は、去年と同じように、あるいは去年よりも豪勢に輝いている。しかし、その光の下に集う人々の構成は、決定的に歪んでいた。

 聞こえてくるのは、甲高い女性たちの嬌声ばかり。コートやマフラーで着飾った女子高生のグループが、スマートフォンのカメラを光に向けている。小さな子供の手を引いているのは、決まって母親だ。かつて、この場所を埋め尽くしていたはずの、男女のカップルの姿は、驚くほどまばらだった。数少ない男性は、まるで希少動物でも見るかのように、多くの女性たちの無遠慮な視線に晒されている。

 これが、高校二年の冬の現実。「男性不在」という社会の疲弊は、クリスマスという最も華やかなイベントにおいて、その歪さを最も残酷な形で露呈していた。


「……寒いね」


 隣を歩く陽葵が、白い息と共に、か細い声を漏らした。彼女は、マフラーに顔の半分をうずめ、イルミネーションの光から目をそらすように、うつむき加減に歩いている。

 俺たちの間には、あの梅雨の日、俺の部屋で交わされた会話以来、修復不可能な亀裂が走っていた。あの日、俺は彼女の「夢」を、「俺の生存を脅かす脅威」として、明確に、そして暴力的に否定した。『お前の未来は俺が管理する』。その支配の最終通告は、陽葵から一切の抵抗を奪った。

 彼女は、あの決定的な心の蹂躙以来、まるで感情を失った人形のように、俺の管理下にあることを受け入れた。俺の部屋で繰り返される「儀式」も、彼女は一切の反応を示さず、ただ無機質に「義務」として耐えている。その瞳から光が消えたことに、俺は「管理が成功した」と冷たい満足感を覚えていた。

 だが、その一方で、俺の内面は、黒崎凛に突きつけられた「加害者」という自覚と、陽葵の心を奪い続けているという「自己嫌悪」によって、日に日に苛まれていた。しかし、俺はこの支配を緩めるわけにはいかない。俺の「生存本能」が、それを許さなかった。


 俺たちは、その冷え切ったイルミネーションの光を背に、逃げるように俺の部屋という「密室」へ戻った。鍵をかけ、社会から断絶された部屋の空気だけが、俺の荒んだ本能を唯一、安心させた。

 陽葵は、いつもと同じように、無言でスカーフに手をかける。今日もまた、あの冷徹な「儀式」が始まる。俺は、その無機質な動作を、ベッドの縁に腰掛けて見つめていた。

 だが、陽葵の手が、スカーフを解こうとした、その寸前で止まった。彼女は、数秒間、何かをためらうように指先を震わせ、そして、意を決したように、俺に向き直った。その瞳には、諦念に染まった日常の中では見ることのない、切実な「迷い」の色が浮かんでいた。


「……あの、悠人」


 俺は、彼女の予期せぬ抵抗に、無意識に眉をひそめた。


「なんだ」


「……その、今日、クリスマス、だから……。その……」


 彼女は言葉を選び、必死に、俺の定めた「ルール」の範囲内で、自分の望みを伝えようとしていた。


「……前に、悠人が『かなえてくれる』って、言ったこと……。私の、進路の、ことなんだけど……」


 また、その話か。

 俺の全身が、瞬時に凍り付いた。あの日、俺が「間違ってる」と、彼女の心を完全に踏みにじったはずの、あの「夢」の話。こいつは、まだ、諦めていなかった。

 俺の内部で、「死の恐怖」と、支配が揺らぐことへの「焦燥感」が、黒い炎となって燃え上がった。


「その話は、終わったはずだ。俺が管理すると言った。お前が口を出すことじゃない」


 俺は、冷たく突き放した。だが、陽葵は、今日だけは引かなかった。彼女は、あのイルミネーションの「不在」の光景に、何を思ったのか。


「……管理、してくれるのは、わかってる。でも、……本当に、悠人が、私と同じ大学の、医学部に行ってくれるの……?」


 陽葵の問いは、俺が以前、彼女の夢を奪うために口にした、あの身勝手な約束の「確認」だった。


「当たり前だ。新星総合医科大学。俺が医学部に入り、お前は感染症研究に進む。全部、俺の計画通りだ。お前は、黙って俺の言う通りに勉強だけしていればいい」


 俺は、彼女の不安をねじ伏せるように、断言した。だが、その言葉こそが、俺が最も恐れている「焦燥感」の表れだった。俺の成績は、あの難関大学の医学部に、現時点で到底届くものではない。その「現実」から、俺は目をそむけていた。


「……でも、悠人。今のままじゃ、難しいって、悠人だってわかってるでしょ……?」


 陽葵は、涙ぐみながら、俺が決して触れられたくない「現実」を指摘した。


「だったら、私が……。私が、もっと頑張って、悠人に勉強を教えるから。だから、お願い。私にも、一緒に、計画させてほしい。悠人のためにも、私、本気で……」


 彼女の言葉は、純粋な「献身」だった。俺の「生存」と、俺が口にした「約束(嘘)」を、彼女が「主体的に」支えようという、悲痛なまでの申し出だった。

 だが、俺の耳には、その言葉は、俺の「管理」の不備を指摘し、再び彼女自身の考えで「抵抗」を試みる、許しがたい裏切りにしか聞こえなかった。

 俺は立ち上がり、彼女の肩を強く掴んだ。


「……黙れ。お前は、俺の計画の『道具』だ。道具が、管理者の心配をするな」


 俺は、彼女の献身を、冷酷な言葉で踏みにじった。彼女が俺の「生存」のために差し出した最後の「対話」の試みを、俺は「焦燥感」から拒絶したのだ。


「……あ……」


 陽葵の瞳から、最後の光が消えた。

 彼女は、この瞬間に、決定的に悟った。悠人は、もう、あの頃の悠人ではない。彼は、私の夢をかなえてくれるパートナーではなく、私からすべてを奪う「加害者」なのだと。そして、彼女の夢は、悠人の反応によって、彼の手によって、絶対に「諦めなければならない」のだと。

 陽葵の顔から表情が消え、彼女の手が、スカーフを機械的に解き始めた。それは、今夜の「儀式」の再開を意味していた。

 俺は、彼女のその絶望的な服従を見て、自分の支配が揺らがなかったことに、安堵していた。窓の外では、男性のいない街のイルミネーションが、まるで俺たちの歪んだ密室を祝福するかのように、冷たく、静かに輝き続けていた。俺たちの対立は、この聖なる夜に、決定的なものとなった。


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### 第20話 社会の疲弊


 男性のいないイルミネーションが消え、新しい年が明けた。だが、俺たちの高校二年生、三学期の始まりに、新年の高揚感など欠片もなかった。街は、厳しい寒さと、経済活動の鈍化を示すように、静まり返っている。クリスマスに交わされた、あの決定的な「対立」以来、俺と陽葵の関係は、完全な沈黙によって支配されていた。

 あの日、俺は陽葵の「夢」を、「道具が管理者の心配をするな」という冷酷な言葉で、彼女の献身ごと踏みにじった。その結果、陽葵は、あのイルミネーションの夜に最後の抵抗を見せた心を、完全に心の奥底に封印した。彼女は、もはや俺に「対話」を求めることも、「夢」について語ることもなくなった。

 ただ、冷たい人形のように、俺の部屋という「密室」で、スカーフを解き、ブラウスのボタンを外し、俺の生存本能を満たすための「儀式」を、無表情に受け入れるだけの日々。その瞳から光が消えたことに、俺は「管理が成功した」と冷たい満足感を覚えていた。

 だが、その安堵は、俺が「加害者」であるという自覚と表裏一体であり、俺の心は、陽葵の無抵抗な服従を見るたびに、鈍く痛み続けた。俺は、その胸の痛みから逃れるように、彼女の体をより強く支配し、俺の生存戦略の正しさを確認する行為に没頭していった。


 その歪んだ均衡は、社会の現実という、より大きな圧力によって、皮肉にも補強されることになった。

 一月の終わり。その日、俺はいつものように陽葵を「密室」に連れ帰るため、彼女の家の前で待っていた。だが、玄関から出てきた陽葵の顔は、いつも以上に青白く、その目元は泣きはらしたように赤く腫れていた。


「……遅い。五分もオーバーしている。何があった」


 俺が管理者の口調で詰問すると、陽葵はビクッと肩を震わせ、か細い声で答えた。


「ご、ごめんなさい……。お母さんが、その……」


「おばさんが、どうした」


「……市役所からの、通知が、来て……。来年度からの、保険料が、また、上がるって……」


 保険料。その言葉に、俺は眉をひそめた。

 陽葵は、今にも泣き出しそうな顔で、俯きながら続けた。

「……ゼウス・ウィルスの、せいで……。男性が、どんどん減ってるから、男性の、保険料が、すごく、高くなって……。その、穴埋めのために、……お父さんみたいに、もう亡くなった人の、遺族年金とか、母子家庭への手当が、減らされる、らしくて……」


 俺は、その言葉の意味を即座に理解した。このディストピア社会は、希少資源となった「生存している男性」を守るために、システムを再構築しているのだ。望月隼人のようなリスクの高い男も含め、生き残っている男子の医療費や将来の保障を手厚くする。その財源は、すでに死んだ男の家族、陽葵の母親のような、夫を亡くした女性たちから、容赦なく徴収される。

 俺は、その社会の冷徹なシステムに、暗い納得を覚えていた。そうだ。社会は、俺のような「生存している男」を優遇し、守ろうとしている。俺の生存戦略こそが、社会の理に適っているのだ。


「……悠人、どうしよう……。お母さん、看護師の仕事だけでも大変なのに、これ以上、どうやって……。私の、学費だって……」


 陽葵の瞳から、こらえていた涙が、ついにこぼれ落ちた。

 俺は、彼女のその絶望を見て、黒崎凛に「加害者」と糾弾された時の、あの胸の痛みが、すっと消えていくのを感じた。

 俺は、加害者などではない。

 社会の厳しさが、俺の「独占」の正当性を、今、補強してくれた。


「……陽葵。よく聞け」


 俺は、彼女の震える両肩を掴んだ。


「だから、言っただろ。お前には、俺が必要なんだ。お前が、あの馬鹿げた『夢』を追いかけて、新星総合医科大学なんて目指したところで、誰がお前の学費を出す? お前の母親か? あの人に、そんな余裕はもうない」


 俺の言葉は、残酷な「現実」だった。陽葵は、その事実を突きつけられ、息を呑んだ。


「お前が生き残る道は、一つだけだ。俺との関係を受け入れ、俺の『パートナー』になることだ。俺は、生き残る。俺の父親も、まだ生存している。俺という『希少資源』を確保することだけが、お前と、お前の母親を、あの社会の疲弊から救う、唯一の道だ」


 俺は、彼女の絶望に、俺の「生存戦略」という名の「救い」を与えた。それは、彼女の未来への望みを完全に殺し、彼女を俺の「所有物」として確定させる、最も効果的な支配の言葉だった。


「……あ……あ……」


 陽葵は、もう何も言い返せなかった。

 彼女の「夢」は、今、この瞬間に、「母親の困窮」という、あまりにも重い現実によって、完全に押し潰された。

 感染症の研究者になりたい? そんなことは、この経済的な重圧の前では、許されざる「贅沢」であり、母親を見捨てる「裏切り」でしかなかった。

 彼女に残された選択肢は、悠人の「お守り」として「義務」を果たし続け、将来、彼という「希少資源」の正妻の座を確保することだけ。それだけが、母親を救い、自分も生き残る唯一の道なのだと。

 陽葵は、その場で崩れ落ちるように、俺の胸に顔をうずめ、声を殺して泣き始めた。それは、夢が完全に絶たれたことへの、絶望の慟哭だった。


 俺は、俺の腕の中で泣きじゃくる陽葵の髪を、まるで大切な「所有物」を労るかのように、ゆっくりと撫でた。

 社会の疲弊。夫を亡くした女性の、再パートナー獲得の困難さ。そして、高騰する男性の保険料。

 そのすべてが、俺の「独占」を、揺るぎない「正義」として裏付けてくれた。俺は、陽葵の絶望を、俺たちの「偽りの愛」の、新たな礎とした。


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### 第21話 隼人の倦怠感


 年が明け、寒さが最も厳しくなる二月を迎えても、俺たちの「密室」の日常は変わらなかった。陽葵の母親の経済的な困窮という「現実」が、俺の支配を絶対的なものとして固定したからだ。陽葵は、あのクリスマスに見せた最後の抵抗を完全に諦め、俺の部屋で繰り返される儀式を、ただ無表情に受け入れ続けている。彼女の瞳から光が消え、俺の「道具」に徹する姿を見るたびに、俺の胸には鈍い痛みが走った。だが、その痛みは、教室の「空席」が放つ死の恐怖に比べれば、耐えられるものだった。俺は、その冷酷な自己嫌悪から目をそらすように、彼女の体を支配することでしか、俺自身の生存を確認できなかった。


 世間では、抗体検査の話題が沈静化する代わりに、純粋な「死」の報道が再び日常を覆い始めていた。テレビのニュースは、淡々と、全国のゼウス・ウィルスによる週間死亡者数と、感染者の増加傾向を報じている。それは、俺たち高校生にとっても他人事ではない。この高校でも、インフルエンザで欠席するかのように、男子生徒がぽつり、ぽつりと姿を消し、二度と戻ってこないという噂が、絶えず廊下を流れていた。


 そんな重苦しい空気の中、望月隼人の様子が、明らかに変わり始めたのはその頃だった。

 昼休み。俺が陽葵を伴ってカフェテリアを通りかかった時、いつものように女子生徒に囲まれている隼人の姿が目に入った。だが、その光景は、以前とは明らかに異なっていた。抗体検査のニュース以来、彼のリスクの高い行動は周知の事実となり、囲む女子の数は目に見えて減っていた。そして、何よりも、隼人自身の纏う空気が、あの軽薄で享楽的なものではなくなっていた。


「……だからさ、この新作の香水、マジでヤバいんだって。お前らも一口、匂い嗅いでみる?」


 隼人は、いつもと同じようにハイテンションな声を張り上げ、高価そうなブランド物の香水瓶を振っている。だが、その顔色は、不健康なまでに青白かった。明るく振る舞う声には、疲労の色が隠しきれず、目の下には、どんなに取り繕っても消せない深いくまが刻まれている。

 俺は、その姿を冷ややかに一瞥いちべつした。

 始まったな、と直感した。

 あの無謀な「社会貢献」とやらが、ついに彼の体をむしばみ始めたのだ。


 その日の放課後、俺が陽葵と下駄箱に向かっていると、背後からあの軽快なはずの声がかけられた。


「よお、篠宮。相変わらず、護衛騎士サマはご執心だな」


 振り返ると、隼人が壁に片手をつき、荒い呼吸を隠すように、わざとらしく笑っていた。その額には、まだ肌寒い季節にもかかわらず、脂汗のようなものがにじんでいる。


「……何の用だ、望月」


「別に。……お前、最近、顔色いいよな。なんか、こう、余裕があるっつーか」


 隼人は、俺の健康的な肌の質感を、値踏みするように見つめてきた。俺は、その視線に、かつてないほどの優越感を覚えた。

 俺は、陽葵という「安全」なパートナーと、完璧な「密室」を維持している。一方、目の前の男は、複数の女性との接触という「リスク」を重ね、今まさに、その代償を支払おうとしている。


「……お前こそ、顔色が悪いぞ。例の『社会貢献』も、度が過ぎたんじゃないか」


 俺の皮肉のこもった指摘に、隼人の笑顔が、わずかに引きつった。


「はっ。うるせえよ。これは、ただの寝不足だ。……昨日の夜も、ちょっと、な。社会の期待に応えるのも、楽じゃねえんだよ」


 彼は、甘い香水の匂いをことさらに振りまきながら、虚勢を張った。だが、その声には、明らかに力がなかった。彼が必死に保っているその「ハイテンション」こそが、体調不良を隠すための、彼の最後の「防御機制」であることは明らかだった。


「……そうか。まあ、せいぜい、期待に応え続けてくれ。お前のような奴がいるおかげで、俺の戦略の正しさが証明される」


 俺は、冷酷な言葉を吐き捨てた。それは、俺の心の底からの本音だった。

 隼人の不調は、俺の「添い遂げ」戦略が、統計的にも現実的にも、彼に「勝利」したことを意味している。俺は、この死が溢れる世界で、正しい選択をしたのだ。その安堵感が、俺の胸を満たした。

 だが、その直後。

 隼人が、俺の言葉に反論するでもなく、ふっと、せきを切ったように激しく咳き込んだ。


「……ゴホッ、ゲホッ……! ……くそっ……」


 彼は、慌てて口元をハンカチで押さえる。そのせた背中が、苦しげに波打つのを見た瞬間、俺の胸を満たしていた優越感は、一瞬にして冷水を浴びせられたかのように消え失せた。

 代わりに湧き上がってきたのは、強烈な「自己嫌悪」だった。

 俺は今、何を考えていた?

 友人の、明らかな体調の悪化を見て、「勝利した」と、安堵したのか。

 こいつは、俺の戦略を「傲慢だ」と批判しながらも、一年生の時から、俺と陽葵の関係を、どこか面白そうに見守っていた、数少ない「友人」ではなかったのか。

 その友人が、今、目の前で、あの「病気」の初期症状によく似た咳をしている。それを見て、俺は、自分の冷酷さを、自分のエゴイズムの醜さを、改めて突きつけられた気がした。


「……おい、大丈夫か」


 俺が、思わず声をかけると、隼人は、咳が収まらないまま、俺の手を振り払うように片手を挙げた。


「……うるせえ……ただの、風邪だ。……お前なんかに、心配される筋合いは、ねえよ……っ」


 彼は、そう吐き捨てると、壁伝いに、ふらつく足取りで昇降口へと消えていった。

 俺は、その場に立ち尽くしていた。手のひらに、じっとりと冷たい汗が滲む。それは、陽葵を支配する時の、あの自己嫌悪とは異なる、もっと生々しい「恐怖」だった。

 隼人のあの咳。

 あれは、俺が幼い頃に見た、父親の姿と重なった。

 俺の「生存」は、本当に正しいのか。それとも、友人の「死」を対価にして成り立つ、ただの冷酷な「罪」ではないのか。


「……悠人?」


 俺の後ろで、陽葵が、不安そうな声で俺の制服の袖を引いた。彼女もまた、隼人のただならぬ様子に、何かを感じ取っていた。

 俺は、その陽葵の手を、振り払うように掴んだ。


「……帰るぞ」


 俺は、隼人の背中に落ちた「死の影」から、そして、自分自身の「冷酷な自己嫌悪」から逃げるように、陽葵の手を強く引き、夕暮れの校舎を後にした。


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### 第22話 【悲劇の発生】死の予感


 二月も半ばを過ぎ、暦の上では春が近いというのに、空気はまだ冬の厳しさを手放そうとしなかった。校舎の窓から見える空は、薄い雲に覆われ、鉛色に淀んでいる。あの放課後、望月隼人が苦しげな咳と共にふらつく足取りで去ってから、三日が経過していた。

 翌日、隼人は学校を休んだ。その次の日も。そして、今日も、彼の席は空いたままだった。

 俺、篠宮悠人は、自分の席からその空席を無感動に眺めていた。あの日の隼人の姿が脳裏に焼き付いて離れない。「ただの風邪だ」。そう吐き捨てた彼の虚勢と、脂汗の浮いた青白い顔。俺の胸の奥底では、あの時感じた冷酷な優越感と、友人の不調を目の当たりにした自己嫌悪が、未だに黒い渦を巻いていた。

 陽葵は、俺の隣で、いつも通り静かに教科書に視線を落としている。だが、彼女の指先が、時折その空席の方を向くたびに、微かに強張るのを俺は見逃さなかった。彼女もまた、隼人の不在に、父親を失った五年前の記憶を刺激されているのかもしれない。


 ホームルームの開始を告げるチャイムが鳴り、担任が重い足取りで教室に入ってきた。その表情は、常にも増して暗く、疲弊しきっている。クラスのざわめきが、その異様な雰囲気を察して急速にしぼんでいった。

 担任は、教壇に立つと、何かを振り払うように一度強く目を閉じ、そして、重い口を開いた。


「……皆に、伝えておかなければならないことがある。……望月隼人くんだが」


 その名が出た瞬間、教室の空気が凍り付いた。俺は、心臓を冷たい手で鷲掴みにされたような衝撃に、息を詰めた。隣で、陽葵が息を呑む音が聞こえる。


「……三日前の放課後、体調が急激に悪化し、市内の総合病院に緊急搬送された。……診断の結果、ゼウス・ウィルスによる重度の肺炎と確認された。現在、集中治療室で治療が続けられているが……」


 担任は、そこまで言うと、言葉を詰まらせた。


「……予断を、許さない状況だそうだ」


 予断を許さない。

 その言葉が、俺の頭の中で反響した。風邪などではなかった。俺が「勝利した」と冷たく見下していた、あの瞬間。あいつは、すでに、死の淵に立たされていたのだ。

 俺の全身から、急速に血の気が引いていく。手のひらに、一瞬で冷たい汗が噴き出した。

 罪悪感。

 あの時、俺がかけた言葉はなんだった。『お前のような奴がいるおかげで、俺の戦略の正しさが証明される』。

 俺は、死にかけている友人に、なんと冷酷な言葉を投げつけたのか。俺の「生存戦略」の正しさとは、友人の「死」によって証明される、血塗られたものではなかったのか。

 俺の胸を、これまで感じたことのないほど強烈な痛みが貫いた。それは、黒崎凛に「加害者」と糾弾された時の痛みとも、陽葵を支配する時の鈍い痛みとも違う。もっと直接的で、鋭利な、取り返しのつかない「後悔」の痛みだった。


 放課後のチャイムが、その日はやけに虚しく響いた。俺は、鞄を掴むと、立ち尽くしている陽葵の腕を取った。


「……行くぞ」


「え……。……う、うん」


 陽葵は、俺のその低い声に含まれた、いつもとは異なる焦燥を感じ取ったのか、無言で頷いた。

 俺たちは、いつもの「密室」である俺の部屋ではなく、冷たい風が吹き付けるバス停へと向かっていた。市内の総合病院。それは、陽葵の母親が看護師として勤める、あの場所だった。


 バスの中は、重苦しい沈黙が支配していた。陽葵は、窓の外を流れる灰色の景色を見つめながら、固く唇を結んでいる。彼女の心の中も、嵐が吹き荒れているに違いなかった。

 彼女の父親が、五年前、命を落とした場所。そして今、同級生が、同じ病で死にかけている場所。彼女が「夢」として掲げた、あの感染症研究の最前線。

 そのすべてが、これから向かう一つの建物の中に凝縮されている。彼女の小さな肩が、恐怖と、そして使命感のような悲痛な決意に、小刻みに震えているのが分かった。


 病院のロビーは、独特の消毒液の匂いと、低い呻き声のような喧騒に満ちていた。男性が激減した社会において、医療現場の疲弊は限界に達している。青白い顔をした女性看護師たちが、慌ただしく廊下を駆け抜け、待合室は、ほとんどが女性と老人で埋め尽くされている。

 俺たちは、受付で「望月隼人」の名前を告げた。看護師は、一瞬、俺たち高校生の制服姿と、その名前を聞いて、憐れむような、しかし事務的な視線を向けた。


「……面会謝絶、となっています。……ですが、ご家族から、もし『篠宮さん』という方が来たら、短時間だけなら、と」


 隼人の父親が、俺が来ることを予想していたのか。あるいは、隼人自身が、最後に俺に会うことを望んだのか。

 俺たちは、エレベーターで重症患者用の病棟へと上がった。そのフロアに降り立った瞬間、空気の密度が変わった。死の匂い。それが、この場所には満ちていた。

 陽葵の手が、俺の制服の袖を強く、強く掴んだ。彼女の指先は、氷のように冷え切っている。


 案内された病室のドアを開ける。

 個室だった。名士の息子である隼人への、病院側の最後の配慮なのだろう。だが、そこに満ちていたのは、名士の威光ではなく、ただ、濃密な「死」の予感だけだった。

 無数のチューブと点滴に繋がれ、ベッドに横たわる人影。

 それが、望月隼人だと、俺はすぐには認識できなかった。


「……よう。……来たのかよ、護衛騎士サマ……」


 ベッドから、か細い、掠れた声が聞こえた。

 隼人だった。

 数日前まで、あれほど軽薄に笑い、虚勢を張っていた男は、そこにはいなかった。

 頬はこけ、肌は土気色にくすみ、明るく染めていたはずの髪は、脂汗に濡れて生気なく額に張り付いている。いつも振りまいていた甘い香水の匂いは、薬の匂いと、彼自身の身体が発する、酸っぱい病の匂いにかき消されていた。

 俺は、言葉を失い、そのベッドのそばに立ち尽くすことしかできなかった。

 陽葵は、両手で口を固く押さえ、その光景を直視できずに、俯いた。彼女の肩が、激しく震えている。彼女は今、五年前の、父親の最期の姿を、この隼人の姿に重ねて見ているのだ。


「……ざま、ねえだろ……。……社会貢献も、やりすぎた、みてえだ……」


 隼人は、自嘲するように言ったが、その声には、もう笑う力すら残っていなかった。その瞳だけが、異常な熱を帯びて、俺を、そして、俺の後ろにいる陽葵を見つめていた。


「……でも、6人の女の子が俺の子を妊娠して産んでくれるそうだ。でも……でも……生まれてくる子の姿を見ることは、どうもできそうもない。それが悔しい」


 その言葉は、俺の鼓膜を激しく打ちのめした。六人。彼が「社会貢献」と称して関係を持った、その結果。彼は、自らの命と引き換えに、「種の保存」という彼なりの「責任」を果たしたのだ。

 だが、その直後に続いた「悔しい」という剥き出しの本音。それは、享楽主義者の仮面の下に隠されていた、父親としての純粋な願いであり、死の恐怖から逃れられなかった人間の、最後の弱音だった。

 俺の脳裏を、隼人との、他愛のない会話がよぎる。俺の戦略を「傲慢だ」と笑った顔。俺を「こっち側に来い」と誘った、あの軽薄な笑顔。

 そのすべてが、今、目の前で消えかかっている。

 俺は、親友が今まさに死のうとしているこの瞬間に、自分が「生き残っている」という事実の重さに、押し潰されそうになっていた。俺の「生存」は、こいつの「死」と、地続きだったのだ。

 深い恐怖と、拭いきれない罪悪感。俺は、その二つの感情に縛り付けられ、ただ、隼人の最後の言葉を待つことしかできなかった。


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### 第23話 死の対比


 病室の空気は、消毒液と薬の匂い、そして、生命が尽きようとする者だけが放つ、濃密な匂いで満たされていた。俺、篠宮悠人は、ベッドの上でかろうじて呼吸を続ける望月隼人を、ただ立ち尽くして見つめていた。無数のチューブに繋がれた彼の姿は、数日前までの軽薄な友人の面影など、どこにも残してはいない。俺の背後では、陽葵が両手で口を押さえ、嗚咽を必死にこらえる気配だけが伝わってくる。

 俺は、親友が今まさに死のうとしているこの瞬間に、自分が「生き残っている」という事実の重さに、押し潰されそうになっていた。俺の「生存」は、こいつの「死」と、地続きだったのだ。

 深い恐怖と、拭いきれない罪悪感。俺は、その二つの感情に縛り付けられ、ただ、隼人の最後の言葉を待つことしかできなかった。

 隼人の、異常な熱を帯びた瞳が、俺を捉えて離さない。


「……篠宮……。お前は、正しかったよ……」


 隼人は、途切れ途切れの呼吸の中で、言葉を紡いだ。


「……お前の、その、……独占は、……傲慢で、……利己的で、……反吐が出るほど、ムカついてたが……。……でも、お前は、生き残る。……俺の、負けだ……」


 彼は、自らの死をもって、俺の生存戦略の「優位性」を認めた。

 俺は、その言葉に、勝利の安堵ではなく、奈落の底に突き落とされるような、強烈な罪悪感に襲われた。違う。俺は、お前に勝ちたかったわけじゃない。俺は、ただ、死ぬのが怖かっただけだ。


「……だけどな、……篠宮。……俺は、俺の『責任』は、果たしたぜ……。あいつらも、……子供たちも、……俺が、……生きた証だ……。……お前は、どうだ……?」


 隼人の熱っぽい瞳が、俺の心の奥底を見透かすように、問いかけてくる。お前のその独占は、何を生み出した? お前は、自分の命を守るために、陽葵という一人の人間の未来を、心を、どれだけ踏みにじってきた?


「……お前の、その『正しさ』が、……いつか、……お前自身を、……滅ぼさなきゃ、いいな……」


 それが、俺が聞いた、望月隼人の、最後の言葉だった。

 カチリ、と。

 彼に繋がれていた生命維持装置のモニターが、それまでの不規則な電子音から、無機質で、連続的な、甲高いアラーム音へと変わった。


 ピーーーーーーーーーーー。


 その音が、彼の「死」を、絶対的な事実として、この部屋にいる俺たちに突きつけた。

 陽葵が、「ひっ」と短い悲鳴を上げ、俺の背中に顔をうずめた。彼女の全身が、五年前の悪夢を追体験するかのように、激しく震えている。

 俺は、その震えを受け止めながら、ベッドの上で、もう二度と動くことのない友人の顔を、ただ呆然と見つめていた。

 数秒後、バタバタという慌ただしい足音と共に、陽葵の母親を含む数人の看護師たちが病室になだれ込んできた。


「モニター、フラットです!」

「先生を呼んで! ……篠宮くん、陽葵ちゃん! 二人は、もう、外に出て!」


 美咲さんの切羽詰まった声に、俺たちは、まるで夢遊病者のように、病室から押し出された。

 ドアが閉められ、俺と陽葵は、再び、あの消毒液の匂いが充満する廊下に、二人きりで取り残された。

 陽葵は、俺の腕にしがみついたまま、声を殺して泣きじゃくっている。


 隼人が、死んだ。俺の、生存戦略の「対立軸」であった男が。俺の、唯一の「友人」であったかもしれない男が。俺は、激しいショックと、罪悪感の奔流に飲み込まれそうになっていた。俺の「添い遂げ」戦略は、正しかったのかもしれない。俺は、生き残った。だが、その「正しさ」は、隼人の「死」によって証明されたのだ。俺の「生存」は、隼人の「死」という犠牲の上に成り立っている。

 隼人の最後の言葉が、呪いのように俺の耳にこびりついて離れない。そうだ、俺が陽葵を独占し、社会の「希少資源」を私物化し続けた。その結果、隼人のような「複数愛」を実践する男が、より過剰な「社会的責任」を負わされることになったのではないか。俺の「独占」が、隼人の「リスク」を増大させ、彼の死を早めたのではないか。

 俺の恐怖の性質が、この瞬間に、決定的に変質した。もはや「死の恐怖」ではない。俺が、友人を、間接的に殺したかもしれないという、「加害者」としての、おぞましい「罪悪感」。その事実に、俺は、立っていることすら困難なほどの、激しい眩暈を覚えた。


 陽葵もまた、俺の腕の中で震えながら、別の「真実」に到達していた。隼人の死。それは、彼女の父親の死の、完璧な再現だった。そして、その死にゆく友人の隣で、罪悪感に顔を歪め、震えている男。篠宮悠人。

 彼女は、この瞬間、決定的に悟ったのだ。私と悠人の関係は、愛などではない。それは、悠人の「死の恐怖」と、私の「役割意識」によって縛り付けられた、歪な「契約」だった。そして、その契約が、悠人に、私に「夢」を諦めさせるという「暴力」を選択させ、今また、彼の友人の死に対する「罪悪感」をも背負わせている。この関係は、悠人の命を守るどころか、悠人の心を、深く、深く傷つけている。

 陽葵は、俺の腕の中で、自らの「信じてきたこと」が、音を立てて崩壊していくのを感じていた。俺たちの関係は、「命の責任」を伴った、取り返しのつかない「傷つけ合う行為」そのものなのだと。


 病院の窓から見える空は、相変わらず鉛色に淀んでいた。俺たちは、どちらも、一言も発することができなかった。ただ、友人の「死」という絶対的な現実が、俺たちの「偽りの愛」の仮面を引き剥がし、その下にある醜い真実を、容赦なく白日の下に晒していた。

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### 第24話 高校2年の終焉


 三月の空気は、まだ冬の残滓を引きずって冷え切っていた。体育館の床から、底冷えする寒さが制服越しに這い上がってくる。高校二年生の終業式。一年前、この場所で聞いた「七十三名」という数字の暴力性を、俺は今、まったく別の質量を伴って受け止めていた。

 壇上の校長が、相変わらず抑揚のない声で、一年間の総括と、春休みの過ごし方について形式的な言葉を並べている。だが、その内容は誰の耳にも届いていない。俺たちの意識は、この体育館に集まった生徒の、その数にこそ向けられていた。

 特に、男子生徒がまばらに集められた一角。

 明らかに、数が減っている。

 一年前の終業式で失われた「鈴木」という名前に、俺たちは、数日前、「望月隼人」という、あまりにも生々しい実感を伴う名前を付け加えた。

 俺、篠宮悠人は、パイプ椅子の上で固く拳を握りしめていた。手のひらに、じっとりと冷たい汗が滲む。

 目を閉じると、今も耳の奥であのアラーム音が鳴り響く。ピーーーーーーーーーーー。

 病院の廊下で、俺の腕に顔をうずめて泣きじゃくっていた陽葵の震え。そして、俺の脳裏に呪いのようにこびりついて離れない、隼人の最後の言葉。

 『お前の、その『正しさ』が、……いつか、……お前自身を、……滅ぼさなきゃ、いいな……』


 俺は、あの日から、自分が隼人を間接的に殺したのではないかという、おぞましい疑念に苛まれ続けていた。俺の「独占」が、隼人を「複数愛」という過剰な責任へと追い立てた。俺の「生存」は、友人の「死」を対価にして得られたものだ。

 その耐え難い重圧から逃れるため、俺は、陽葵への支配を、より強固なものにしていた。

 もはや、それは「生き残るため」ですらなかった。陽葵を俺の「密室」に閉じ込め、彼女のすべてを管理し、あの無機質な儀式を繰り返すこと。それだけが、俺を、この耐え難い現実から、友人の死から、目をそむけさせてくれる唯一の麻酔となっていた。

 俺の支配の動機は、もはや「生存」のためではない。このどうしようもない重圧を、俺が「友人の死に関わった」という事実を、「隠蔽」するため。ただ、それだけに変質していた。


 重苦しい終業式が終わり、生徒たちが最後のホームルームのために、それぞれの教室へと戻っていく。俺たちの教室、二年四組。

 ドアを開けた瞬間、俺は息を詰めた。

 そこには、隼人が座っていた席が、がらんとした「空席」として、窓際の光の中に晒されていた。机も椅子も、すでに運び出されてしまったのか。あるいは、最初から、誰もそこにいなかったかのように。

 クラスメイトたちは、その「空席」に誰も視線を向けることなく、春休み前のわずかな解放感を求めて、当たり障りのない会話を交わしている。だが、その声はどこか上滑りしていて、教室の空気に溶け込めずにいた。

 死は、日常になった。だが、友人の机が物理的に消え去るという現実は、まだ、俺たちの日常に、生々しい穴を開けていた。

 俺は、自分の席に力なく座り込んだ。

 隣の席の陽葵も、静かに椅子に腰を下ろす。あの日以来、俺たちは、必要最低限の言葉しか交わしていない。彼女は、病院の廊下で泣き崩れて以来、俺の前で二度と涙を見せず、あの「夢」の話を口にすることもなくなった。ただ、冷たい人形のように、俺の支配を、俺の儀式を、すべて受け入れている。

 俺は、その無抵抗な服従に安堵しながらも、同時に、彼女のその虚ろな瞳の奥に、俺への諦めとは異なる、何か硬いものが宿り始めていることに、気づかないふりをしていた。

 彼女もまた、あの病院で、何かが決定的に変わってしまったのだ。


「――以上だ。春休み中、無軌道な行動は慎むように。では、解散」


 担任の、力のない声が響く。クラスメイトたちが、「さようなら」という気のない挨拶と共に、足早に教室を出ていく。誰もが、あの「空席」が放つ重圧から、一刻も早く逃れたいかのようだった。

 数分後、教室には、俺と陽葵、そして、あの「空席」だけが取り残された。三月の、白々しいほど明るい日差しが、がらんとした空間に差し込んでいる。

 俺は、陽葵に声をかけられなかった。俺の「罪」の意識が、俺と彼女の間に、見えない、しかし絶対的な壁を作っていた。


 先に動いたのは、陽葵だった。彼女は、静かに立ち上がると、俺に一瞥もくれることなく、教室のドアへと向かった。


「……おい。どこへ行く」


 俺は、反射的に、いつもの管理者の口調で声を荒らげた。


「……今日は、お母さんから、すぐに帰ってくるように言われてるから」


 陽葵は、振り返らないまま、冷たい声でそう答えた。


「……先、帰るね」


「待て。俺も一緒に行く」


 俺は、慌てて鞄を掴み、彼女の後を追った。俺の支配が、俺の管理が、拒絶されることへの恐怖。それは、俺の「生存」が脅かされること以上に、俺がこの重圧を隠蔽する「手段」を失うことを意味していたからだ。

 陽葵は、俺が追いつくのを待たなかった。俺たちは、下駄箱までの廊下を、奇妙な距離を保ったまま、無言で歩いた。彼女は俺の支配下にある。だが、彼女の心は、もう、ここにはない。

 陽葵の、その小さな背中を見つめながら、俺は、彼女が、あの病院の日を境に、何かを選ぼうとしていることを、予感していた。彼女が選ぶのは、俺の命を守るための、この歪んだ「契約」か。それとも、俺の支配から逃れ、彼女自身の望む未来を取り戻す道か。

 隼人の「空席」が残された教室で、俺たちの高校二年生は、張り詰めた緊張と、破綻の予感だけを残して、静かに幕を下ろした。


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