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お台場独立戦争  作者: 陣頭二玖
第二幕
9/24

潮の向こう

── 20:13 白石颯太(レインボーブリッジ直下・港区台場)


 まず、光だった。

 レインボーブリッジの中央付近から、屋形船の窓いっぱいに白い光がパッと差し込み、室内を昼のように照らして消えた。直後、爆発音が遅れて届いた。空気を裂くような「ドン」という重い衝撃。聞いたことのない身体を押さえつけるかのような低音が、ふうりん丸の甲板をわずかに震わせた。


 「なんだ……?」


 颯太が思わず口にする。次の瞬間、屋形船の屋根に瓦礫の降り注ぐ、ガンガンと言う音が響き渡った。急いで部屋から出て屋形船の先頭、操舵席へ向かう。上を見るとレインボーブリッジの白く輝くアーチが、途中から「く」の字に折れるように傾いていくところだった。まるで何かの力に引っ張られているかのように、中央部がゆっくりと、確実に崩れていく。


 「橋脚がやられた……」


 颯太の舵を握っていた船頭が、小さくつぶやいた。顔が引きつっている。爆発の全てを見たのだろう。ゆっくりと、屋形船のちょうど真上にある馬鹿でかい構造物が、重力に従って落ちてくるのが見える。


「嘘だろ……」


 颯太の呟きを無視するが如く崩壊は加速していく。鋼材が軋む音が風に乗って届き、主塔から吊られたケーブルの切れる「バチン、バチン」という破裂音がいやでも耳に届いた。

 やがて中央径間が耐えきれず、V字に折れた。暗闇の中で、巨大な鉄の塊が音を立てて海面へと沈みはじめた。


 「危ない、下がれ!」


 船頭が叫ぶ。次の瞬間、100メートルほど前方に崩れた橋の大きな破片が落下した。その衝撃で発生した巨大な波が、ふうりん丸の方向に押し寄せてくる。


 「掴まれ!」


 叫ぶ間もなく、船体がぐらりと傾く。足元が浮くような感覚。甲板に倒れそうになった颯太は、急いで手すりにしがみついた。波がぶつかる。爆音とともに、激しい水しぶきが甲板を洗い、提灯が一つ、もがれるようにして宙に舞った。横殴りの風が、崩落の粉塵を混ぜて頬を叩いた。


 「くそ、まだ来るぞ……!」


 船頭が叫ぶ。怒鳴っているのか、自分に言い聞かせているのか分からなかった。颯太は体を低くしながら、船の縁から橋のほうを見た。V字に折れた中央径間の残りの部分が次々に東京湾へと落ちていく。自分たちの、すぐそばに。 船体がもう一度、大きく傾いた。


 「船長……これ、沈みますか……?」


 問いかけに、船頭はすぐに答えなかった。だが、視線を逸らすこともなかった。片手でハンドルを握ったまま、もう片方で額の汗を拭い、ゆっくりと言った。


 「わからねえ……が、賭けるには悪すぎるな」


 その目は血走っていた。普段の寡黙な口調とは違う。今だけは、船頭もまた戦場にいる。

 そのときだった。視界の隅で、何かが閃いた。颯太の眼が、瞬間、すべてをスローモーションで捉える。橋のアーチから落ちてくる、白い破片——いや、それは破片ではなかった。鉄骨の塊、数トンはあろうかという鋼材のブロックが、空を裂いて屋形船の真上に迫ってくる。


 「伏せろ!」


 船頭の怒鳴り声とほぼ同時に、それは屋形船の中心部に直撃した。


 「ッ……!」


 轟音がすべてをかき消す。視界が上下に引き裂かれた。船体が「バギィィィン!」という金属音を立てて真っ二つに割れる。縁にあった座卓が宙を舞い、提灯の残骸が火花とともに飛び散った。艦橋の床が傾き、天井が崩れかける中、二人はなんとか姿勢を保った。


 「船はもうダメだ。だが、おまえさんはまだ沈んじゃいねぇ」


 船頭が、膝をつきながら艦橋の床下収納を無理やりこじ開けた。中から取り出したのは、救命胴衣と、小型のスクリューモーターだった。ガソリンではなくバッテリー式で、手持ちでも進行方向を操れる推進装置だ。


 「こんなこともあろうかとよ。うちには一つだけ、玩具みてえなもんがある」


 救命胴衣を羽織りながら、船頭が冗談めかして笑う。だが、その目の奥には焦燥がにじんでいた。手の震えは、洒落では済まされないものだった。


  「ごめんなさい……」


 颯太が言った。声は震えていた。

 「ほんとは……誰にも頼らずに行けたらよかった。でも、俺には無理でした。助けてくれて、ありがとうございます」

 船頭は、眉間にしわを寄せながらモーターを押しつけるように手渡した。

 「おまえさんが頼んだんだろ。俺は、それに応えただけさ」

 そう言ってから、少しだけ笑った。

 「でもまあ……俺も、助けたかったんだよ。そういう顔してたからな、おまえさん」

 颯太は遮った。黒いコートのままだ。救命胴衣は目立つ。水を吸って沈むのは承知の上だった。だから、危険を承知でコートを脱ごうとは思わなかった。

 「行くって、そう決めて来たんです。だったら、最後まで行くしかない」

 「……強情だな」

 船頭は、息を吐いた。

 「なら、行け。振り返るな。いいな」

 颯太は深く頷いた。手にしたモーターの重量がずしりと伝わってくる。自分一人で海を越える。それが、唯一の帰り道だった。



 爆発の余波は、まだ終わっていなかった。レインボーブリッジから落下してくる破片はひとつではなかった。崩落の勢いが増していく中で、次から次へと鉄骨や舗装材が空を裂き、船の周囲に降り注いでくる。

 「うわっ……!」

 すぐそばの水面に、重たい何かが落ちた。水飛沫が屋根を越えて吹き上がる。足元の甲板が急に傾き、どこかのフロアがミシミシと軋む音を上げた。中央に刺さった鉄の塊は、屋形船を内側から断ち割るように構造を破壊していた。

 「もう持たねぇ……ここまでか」

 船頭が吐き捨てるように言った。視線はすでに艦橋の壁に固定されている。そこには救命いかだ用のハッチがあり、彼は迷いなくそこへ向かった。力任せにレバーを引き、手動式のエアボンベを起動する。甲高い「シュゴォォ……」という音とともに、黄色い救命いかだが折りたたまれた布の束から膨らみ始めた。

 「おまえさんは——行け」

 振り返らずに言う船頭の背中に、颯太はひとつだけ深く礼をした。声にならない「ありがとうございました」が喉元までせりあがったが、言葉にすれば泣いてしまいそうだった。


 舷側の一角に立った。風が、顔を強く叩いた。頭上にはまだ、金属の破片が時折カン、と音を立てて落ちてくる。甲板は滑り、足元はすでに水浸しだった。


 「行きます」


 それだけ呟いて、颯太は身を乗り出す。風の音と波の音が一瞬止まったような気がした。飛び込む瞬間、すべてが静かになるのだと、初めて知った。次の瞬間、水が砕けた。



 

 水柱が上がった。屋形船の舷側から黒い人影が跳ね、そのまま夜の海に吸い込まれていく。

 「……ったく、あのガキ……」

 悪態をついたが、笑っているようでもあった。海は暗く、波は荒れていた。颯太が泳いでいるのか、沈んでいるのかすら、すぐにはわからない。黒いスーツに黒い髪。夜の闇と見分けがつかない。光を反射するものは何ひとつなかった。

 船頭はしばらく海面を見つめていた。波の合間に、ちらりとモーターの白い尾が一瞬浮かぶ。そのすぐ後ろに、人影のような揺らぎ。

 「ああ、いたな……よし」

 自分の役目は終わった。そう思った。船の沈みは加速している。船尾側が完全に水をかぶり、艦橋が傾き始めた。浮いていた救命いかだが、流されないよう手綱をかけてある。彼は躊躇なく飛び乗った。手早くロープを切り、備え付けの小型モーターのスイッチを入れる。

 「……動け、っと」


 エンジンは静かに唸り始め、救命いかだが少しずつ進みだす。ふうりん丸から離れていくのを、背後に感じた。

 前方、湾の向こう側。かすかに光が見えた。白く瞬く、甲板灯。海上保安庁の巡視船だ。

 「ったく……もうちょい早く来りゃいいもんを……」

 そう言いながらも、船頭の口元はわずかにほころんでいた。救命いかだは、ゆっくりと光へ向かって進んでいく。その背後で、屋形船の最後の塊が、静かに湾の底へ沈んでいった。



 

 お台場海浜公園。

 普段なら、夜でも明るく、どこか柔らかい空気に包まれている場所だった。観光地としても有名で、昼は家族連れや修学旅行の学生たちでにぎわい、夜はライトアップされたレインボーブリッジを背景に、多くのカップルが歩いていた。ベンチで寄り添い、波の音にかき消されるような小声で話し、手をつなぎながら静かに笑う。そこは、東京の喧騒をいっとき忘れさせてくれる“特別な場所”だった。


 だが、今、その公園に人の気配はなかった。

 照明は最低限しか点いていない。非常時モードの構内照明が点在しているが、その光は心許なく、木々の影ばかりを濃く映し出している。海沿いの遊歩道も、普段なら灯されている足元灯がすべて消えていた。波打ち際のベンチには誰もおらず、砂浜には人の歩いた形跡もない。海の匂いだけが、どこか遠くから湿った風とともに漂っている。

 夜の公園が、これほどまでに“深い”と感じたことはなかった。


 時折、パトロール分隊が現れる。2人か3人で編成された兵士たちが、銃を肩に下げ、手元の暗視ゴーグルで周囲を見回しながら進んでいく。会話はない。歩くときも足音を立てず、まるで音そのものが禁じられているかのような沈黙だった。

 分隊の通過後、またすぐに静寂が戻る。公園の木々は風に揺れていたが、音はほとんどしない。波の音すらも、どこか遠くから響いてくるような、密閉されたような静けさだった。


 立ち入り禁止の柵やバリケードは、要所にだけ簡素に設置されている。だが、それすらも「入るな」という意思というより、「今ここには何もない」とでも言いたげな存在に見えた。光がない。音がない。だが、その“なさ”が逆に、すべてを満たしていた。

 ほんの数日前までは、平凡な幸福の象徴だったはずの場所が、今は、何も起きていないこと自体が異常であるかのように、ただ、そこに在った。


── 20:21 白石颯太(お台場海浜公園・港区台場)


 自由の女神像の足元に、影がひとつ、音もなく身を滑らせた。

 暗い海を泳ぎ切った颯太は、砂浜に這い上がると、その場に倒れ込むように膝をついた。息が白くなる。冷えた海水で全身が重く、動くたびに濡れた衣服が肌に張りつく。右手には、まだあの小型の推進モーターを握っていた。泳ぎの途中で手放すことだけは避けようと、ずっと握りしめていたのだ。今も、指の関節がこわばったまま動かない。


 「……大丈夫、いける……」


 自分に言い聞かせるように呟きながら、片膝を立てて身を起こす。あたりを見回すと、自由の女神像の基部がちょうど風除けになっており、少し奥まった木陰があった。颯太はそこへ身体を滑らせ、まずはモーターをそっと砂の上に置いた。続いて、濡れたコートを脱ぐ。重く、水を吸ってずっしりと腕にまとわりついてくる。砂浜に広げたそれは、まるで何かの遺品のように冷たく見えた。


 胸ポケットから取り出した折りたたみスコップを展開し、足元の砂を手早く掘り始める。救命いかだで使うことを前提に、コードで固定していた簡易工具だ。地面は柔らかく、下に舗装が来る前の浅い層までなら掘れる。20センチほど掘ったところで、まずモーターを埋める。金属の表面に月明かりがわずかに反射したが、すぐに砂で覆われて見えなくなった。

 次に、コート。二つ折りにし、モーターの上に重ねて包み込むように置く。上から砂を戻し、スコップの腹で何度も押し固める。最後に、周囲の雑草を引き寄せて、足跡と掘り跡をかき消した。


 「しばらくここで待っててくれ」


 砂の下にあるコートとモーターに向かって、静かに呟いた。自分が戻るつもりで言ったのか、それとも戻れないと思っていたのかは、わからなかった。

 自由の女神像の陰に身を寄せたまま、もう一度あたりを見回す。波の音は遠く、街灯も消えた公園は、ほとんど闇に包まれている。どこかでパトロール分隊が歩いている気配はあったが、近くに人の声は聞こえない。

 颯太は救命胴衣を外し、濡れたTシャツとズボンだけの格好になる。手のひらで胸を押さえる。心臓が、まだしっかりと鼓動を刻んでいた。


 「……よし」


 深く息を吸い、自由の女神像の陰から、静かに次の一歩を踏み出した。

ここまで読んでくださりありがとうございました。



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