Rainbow Bridge is falling down
レインボーブリッジは封鎖するものです。
── 20:00 柿沼壮太(前線指揮所・港区芝浦某ビル3F)
20時、現場は息を潜めていた。無線のわずかなノイズと、控えめなキーボードの打鍵音。その隙間を縫うように、報告と指示が短く飛び交っている。芝浦に設けられた前線指揮所。夜の帳が下りるなか、窓の外にはレインボーブリッジのループ橋がわずかに覗いていた。そこには、自衛隊の車両がずらりと並び、まるで鋼鉄の壁のように静かに睨みを利かせている。
「政務次官、浜松町を出ました。あと十五分で到着予定です」
隣でメモを取っていた連絡将校が、報告書から顔を上げることなく言った。
柿沼は頷いた。若干三十代の外務政務次官。名前は記憶しているが、顔までは知らなかった。ただ、この状況で使節として橋に送り出される男だ。本人の意思か、それとも命令なのか。
「随分と若いのを送ってきたな……」
漏らした独り言に、誰も反応はしなかった。全員が、次の展開を予想しながら黙々と自分の作業を続けている。
うまくいくとは思っていない。けれど、願ってしまう。たとえ一瞬でも、この異常事態を言葉で押し返せるなら——それに越したことはない。柿沼は椅子の背にもたれ、窓の外に目をやる。白く光る橋のループ。その上では、自衛隊の装甲車がエンジンを止めて待機していた。アイドリングの灯だけが尾灯のように赤く瞬いている。誰も口を開かない。ただ、命令を待っている。それが戦場の空気だった。
柿沼は第一空挺団の小隊長だ。戦場に対して冷静で、必要以上に語らず、命令と現場判断を両立させる男だった。今回の呼び出しは「前線に慣れているやつをひとり寄越せ」と陸上総隊から言われた結果らしい。羽田に展開していた部隊の中から選ばれた彼は、文句も言わず、ここにいる。
夕方から今までの動きを、柿沼は頭の中でなぞっていた。情報は断片的だったが、戦場で状況が整いすぎることなどあり得ない。
防衛出動命令が正式に下ったのは、日没直後。そこから各部隊が動き出した。江東区側の湾岸エリアでは、警察が徐々に後退を始め、第32普通科連隊が防衛線の構築に着手した。移行は慎重に進められ、現場での交代は段階的に行われている。港区側では第34普通科連隊が防衛線を整え、第1普通科連隊と中央即応連隊が攻撃部隊としてループ橋の後方に配置された。
指揮系統は陸上総隊が担っており、柿沼の所属する第1空挺団もその隷下にある。空挺団は羽田に展開済み。突入命令が下されるその時を見据え、投入のタイミングを計っていた。偵察は空と地の両面から進められていた。航空偵察機による上空からの目視に加え、ヘリコプターとドローンも投入された。だが、ヘリはあまり近づけていない。初動で出たおおわしの機体が、お台場の空域で撃墜されたという情報が、現場の警戒をさらに強めた。
ドローンによる偵察も芳しくない。敵が展開しているラインメタル製の35mm Skynex対空砲が、投入された無人機の多くを撃ち落としていた。墜落した機体の中には、映像データすら失われたものもある。“敵”がこのような高度な兵器を運用しているという事実は、自衛隊内部でも依然として説明がつかず、不気味さを助長していた。お台場内部の様子は、結局のところ「見えない」ままだ。どれほどの規模で、どういう意図を持った勢力なのか。こちらが知っているのは、ごく一部の装備と、その沈黙だけだった。
柿沼はそれらを全て承知のうえで、今夜の“交渉”というものを理解していた。これは事態を止める試みではなく、“事実としての段階”を整えるための行為。戦闘の前に一度だけ、交渉の姿勢を取ったという履歴を残す。それが記録されれば、開戦の責任は敵側にあるという証明になる——理屈の上では、そういうことだ。だが、それでも柿沼は、交渉がうまくいくことを願っていた。話し合いで終わるなら、それに越したことはない。空挺団を動かす日が来ないに越したことはない。本気で戦闘が始まるなど、できることならまっぴらだった。そのことを理解していない人間など、この部屋にはいない。だからこそ、誰も言葉にしない。キーボードと無線だけが、その認識の共有を黙々と裏打ちしていた。
スクリーンには、橋の遠景が映し出されていた。中継は、前線に設置された高性能監視カメラのものだった。ドローン映像よりも安定していて、風にも揺れず、ズームもできる。だが、どれほど高精細でも、画面の向こうにいる相手の“意志”までは映らない。ループ橋の外側から、政府交渉団の乗った黒塗りの車列がゆっくりと現れる。先頭には簡易な白旗を掲げた乗用車。続いて、警察庁の高官車両と、政務次官を乗せたとされる一台が続いていた。
「映像、安定しています」
前列の通信士が小声で確認する。柿沼は頷いた。車列は、橋の上に無言で並ぶ自衛隊車両の間を通り抜けていく。警備についている第34普通科の隊員たちは直立したまま動かず、まるで時間が止まっているかのようだった。
柿沼は画面をじっと見つめた。
政務次官は車の後部座席に座っていた。姿勢は真っ直ぐで、緊張している様子はなかった。情報資料では、若手の中でも冷静で粘り強いタイプだとされていた。なるほど、こういう場面であっても、表情を崩すことはないのかと柿沼は内心で思う。だが、その落ち着きが本物かどうかは、今の距離からでは判別できない。
「さて、どうなるか」
声には出さず、唇の裏でだけ呟いた。
画面の奥、橋の中央部。そこには敵の装甲車が数台、影のように沈黙していた。砲塔がわずかに動いているものもある。ハッチが半開きのまま停止した車両もあったが、内部は暗く、人影は確認できなかったが、たまに気配を感じた。まるで“見せていない”のではなく、“見せていないことを見せつけている”かのようだ。
スピーカーも、拡声器も、マイクもない。ただ、無言のまま構えているだけ。その沈黙こそが、この数時間で得た最大の情報だった。
警察庁の車両が速度を落とし、ついで政務次官の車もゆっくりとブレーキをかける。距離はまだ数百メートル。だが、このまま近づけば、交渉が始まるという既成事実が生まれる。相手の意図がわからない。わからないからこそ、既成事実こそ大事だった。
誰かが咳払いでもすれば、空気が少しは緩むかもしれない——そう思いながらも、誰一人、声を発さなかった。“もしも交渉が失敗したら”という想定は全員の頭にある。だが、それを口にする者はいない。それがこの場にいる者の、最低限の礼儀だった。
車列の先頭が、橋の中央部に差しかかっていた。
レインボーブリッジの上には風が吹いていたが、映像越しにはまるで空気が凍っているかのような静けさがあった。前線カメラはズームしながら、政府使節団の車列をゆっくりと捉える。車は白いナンバープレートに黒塗りのボディ。武装していないことをアピールするかのように、先頭には小さな白旗が立っていた。
政務次官の乗った車両が停止し、後部ドアが静かに開いた。
次官は一瞬、周囲の空気を吸い込むように顔を上げた。そして躊躇なく、ドアを閉め、自分の足で舗装された橋の上へと立った。胸ポケットから取り出した小型の拡声器を手に持ち、マイクにスイッチを入れる。
「……降りた」
誰かが、映像卓の後ろで低く呟いた。
彼の周囲には誰もいなかった。護衛は数メートル後方に控え、警察庁のスタッフらしき者が口を引き結んで見守っていた。
敵の装甲車は、動かない。砲塔は固定されたままで、乗員の姿もない。どのハッチも閉じたまま、まるで中に人間などいないかのようだった。
「こちらは、日本国政府の正式な全権代表です」
政務次官の声が、マイク越しに微かに震えながらも、はっきりと拡声器から発せられた。
「お台場エリアにおける貴グループの行動は、不法占拠に該当します。直ちに武装を解き、撤退を――」
その言葉の途中で、それは起きた。銃声が、橋の上に響いた。
敵装甲車の窓がスーッと開き、中からライフルを構えた兵士が1人。そしてそのまま、ただ一発。あまりにも自然に、そして躊躇いのない一発だった。
政務次官の身体が、わずかに前のめりに傾いたかと思った瞬間、肩口から胸にかけて血が噴き上がった。次の瞬間、膝から崩れるように倒れた。映像は、ただそれを無音で捉えていた。指揮所の誰かが、呼吸を忘れたような息を漏らした。
「……被弾……政務次官、被弾!」
通信士のひとりが、硬い声で叫んだ。柿沼は手が強張るのを感じた。
後ろに控えていた護衛のひとりが駆け寄ろうとしたが、数人の敵兵士が装甲車近辺に構えるのを見て咄嗟に身を屈め、地面に伏せた。政務次官は動かない。明らかに、即死だった。一気に緊張が走るのがわかった。
交渉は失敗した。ただの失敗ではない。
この沈黙の敵は、意思表示すらせず、ただ撃った。何も語らず、誰も名乗らず、それでも人を殺す。先進国の、代表を。それが「交渉の答え」だった。
「交渉の余地なしだと? ……ふざけやがって」
指揮所内の空気が動く。誰かが椅子を立てる音、紙の擦れる音、無線が途端に騒がしくなる。
「発砲確認。政府使節団、被弾」
「政務次官、負傷。状況乙!状況乙を開始!……援護車両、進出せよ!」
「第34普通科、パッケージの救出、開始します」
橋のモニター映像が切り替わり、後方に並ぶ装甲車列のうち一台、96式装輪装甲車がごう、とエンジンを始動させる。隊員が乗り込み、重々しく車体が動き始めた。自衛隊はまだ撃っていない。ただ、護衛を確保するための機動だ。
「全車、前進位置につけ。WAPCは側面から回り込め。衛生班を――」
指示が飛び交うなか、柿沼は画面をじっと見つめていた。
政務次官は倒れたまま、微動だにしない。あの男の名前を、柿沼は記憶していた。誰よりも若く、誰よりも華やに登用された政治家だったはずだ。その人生が、今、誰にも手を伸ばされることなく終わっていた。
救出のために派遣された96式装輪装甲車が、低いエンジン音を響かせながらゆっくりと橋上へ進入する。随伴する陸自の歩兵数名が散開し、政務次官の倒れた車列へ向かって進んでいた。その視線の先、橋の中央。敵の装甲車が2台、道を塞ぐように横付けされたまま沈黙している。周囲に数人の兵士が展開しているが見えるが、先ほど政務次官を狙撃した者がその中にいたかどうかは判別はできなかった。ただ、彼らの銃口はわずかにこちらを向いている。
政務次官の遺体に這い寄った警視庁のSPが手を振って叫ぶ。
「救護を! 政務次官が負傷!」
先頭の歩兵が応じて駆け出そうとした、その瞬間。乾いた破裂音が、橋の空気を裂いた。
続けて、二発目、三発目。着弾は近い。舗装に火花が散り、黒塗りの車両のフェンダーに弾痕が浮かぶ。
「敵、再度発砲! 複数!」
無線が叫ぶ。
「第34、制圧射撃。許可する。撃て!」
その号令とともに、装輪装甲車の上部機銃が咆哮する。5.56mmの連続音が橋の空間を切り裂いた。甲高い連射音が橋上に響き渡り、銃口の閃光が敵陣へまっすぐ叩きつけられる。続くように歩兵が一斉に小銃を構え、遮蔽の陰から制圧射撃を開始した。
しかし、その応射に対して、敵も沈黙はしなかった。対岸側の敵兵が二名、姿勢を低くしながら小銃で反撃してくる。さらに、左側の装甲車の上部ハッチが開き、そこから機関銃の銃口が現れた。
「機銃くるぞ、伏せろ!」
前衛の隊員が叫ぶ。
乾いた音が連続して響き、橋の路面を火花が走る。舗装に跳弾が弾け、ガードレールが穴だらけになる。自衛隊側も応射を止めず、瞬間的に正面交戦の状態になった。
だが、それは長くは続かなかった。 橋の上が、微かに揺れたように見えた。
画面越しにそれを感じたのは、柿沼だけではなかった。「地震か?」と誰かが口走ったが、それに答える者はいなかった。モニターの隅で、赤い警告ランプがひとつ点灯した。何の異常かはすぐには分からない。ただ、違和感だけが現実を先取りして指揮所を満たしていく。
そのときだった。橋脚の付け根に、閃光が走った。画面越しに見えたのは、わずか一瞬の白い火花。音はなかった。だが、それは確かに何かの“合図”だった。
次の瞬間、橋脚の根元が弾けるように崩れた。爆炎は見えない。だが、鋼材が内部から膨張するように膨れ、次いで粉砕された。橋の片脚が地面ごと沈む。遅れて、爆風による揺れがモニターを震わせる。
支えを失った中央部が、ほんのわずかに——“浮いた”。モニター越しには、橋が一瞬だけ呼吸を止めたかのように、ぴたりと静止したようにさえ見えた。その静止は、落下の予兆だった。
ガタン、と何かが崩れ落ちる音が、指揮所のモニターから遅れて届いた。
「第二橋脚、陥落!」
「中央部、沈下進行中!」
言葉が次々と重なり、報告が交錯する。誰かがマイクを押し間違えたのか、ノイズが一瞬混ざる。誰も混乱していた。
鋼材の軋む音がマイクに拾われる。橋の構造体が、自重を支えきれずにゆっくりと湾曲していく。V字に歪んだトラスがねじれ、鉄の悲鳴のような金属音が響いた。主塔から延びる太いケーブルが、激しく振動を始める。張力に耐えられなくなった一本が、「ばちん」と破裂音とともに切れる。続いて、二本、三本と、連鎖するように弾け飛んでいく。
破断とともに、橋の中央部は一気に沈下を始めた。アスファルトが裂け、白線が歪み、表層の舗装が剥がれていく。まるで何かに引きずり込まれるように、巨大な構造物が湾の中央へと傾いていった。モニターの映像が、少しずつブレ始める。視界の隅で、橋脚の崩れた土台から白煙が立ちのぼり、風に煽られて水平に流れていく。
互いの応戦は、すでに停止していた。だが、その場にいた全ての人間にとって、崩壊は予想以上の速さだった。
96式装輪装甲車が、ゆっくりと前方へ滑り出す。ブレーキをかけたまま、車体の前輪が亀裂の方向へ引きずられる。乗員が何かを叫んだが、マイクには届かなかった。一人の隊員が車体から跳び降りる。地面に転がり、肩を押さえる。もう一人は足を取られ、横滑りに滑落する。鉄骨の断面がそのすぐ下に見えた。
建材の破断音が、断続的に響き始める。鋼材がねじれ、鋲が千切れ、重力が一気に勝ち始めた。トラス構造の中央部が崩れると、両脇の構造がそれに引っ張られる。歯が欠けるように次々と破断し、ついには中央径間全体が折れ曲がる。橋はV字に折れ、開いた口のように開きながら、静かに沈んでいった。若い政務次官も、政府使節団も、警視庁の護衛隊も、救援の部隊も、何もかもが東京湾へ沈んでいく。もう、元には戻らない。
わずか十秒にも満たない間だった。だがその十秒が、指揮所にいた誰にとっても、永遠のように思えた。
柿沼は拳を握った。
ただの1度の交渉で代表を殺し、ただの1度の衝突で橋を落とす。
――どこまでやれば気が済むのだ。
彼らは沈黙のまま、交渉に応じることなく、撃ち、そして道を断った。明らかに、計画された崩落だった。橋脚の構造を把握し、爆薬を仕込み、遠隔で起爆できる体制を作っていた。それだけの準備がなされていた。
「これで、封鎖は完成したな……」
背後で誰かが呟いた。
同意の声はなかった。だが、誰も反論もしなかった。
モニターでは、白煙に包まれながら、橋の残骸が静かに水面へと沈んでいくのが映っていた。鋼材が折れ、アスファルトが砕け、配管やケーブルがむき出しになっている。それが東京湾へ沈んでいく。もう、元には戻らない。
しばらく誰も動かなかった。時間が止まったような数秒があった。
柿沼はただ、その崩れた橋を見つめていた。目を逸らそうとは思わなかった。この瞬間が、何を意味するのかを、全身で受け止めようとしていた。それが軍人としての職責だと、どこかで思っていた。
「これで、言葉の時間は終わりだな」
誰かが低く呟く。その言葉が、最後の合図のように思えた。
柿沼は、息を吸った。拳を緩める。始まる。これで、ほんとうに。
「命令が下りるのは、これからだ」
柿沼は、そう言って立ち上がった。誰にも聞こえなくても構わない。ただ、自分の中で、腹を括った音がした。
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