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お台場独立戦争  作者: 陣頭二玖
第二幕
7/24

ふうりん丸

── 18:15 白石颯太(隅田川川岸・両国国技館横)


 何をどうすれば、帰れるんだろう。そんなことを、もう何度も頭の中でぐるぐると回していた。


 両国まで来た。途中の記憶は曖昧だ。道を選んだつもりもなかった。ただ、通れる場所をつないでいったらここに着いていた。新橋からたかだか両国まで、朝から夕方までかかってしまった。身体は悲鳴を上げていたが、それよりも心の方がずっときつかった。詩織の声を、朝の顔を、膨らんだお腹を思い出すたびに、胸の奥が焼けるように痛んだ。ただただ、焦がれる様な思いに押しつぶされるようだった。


 詩織は今、どうしているんだろう。あの高層階の部屋で、電気もないかもしれない空間で、腹の子を守りながら、ひとりでじっと夜を待っているのかと思うと、息が詰まりそうになる。強い人だ。俺よりよほど冷静で、我慢強くて、でも今だけは——俺が、あの人のもとに帰らなきゃいけない。


 スマホの通知は今も断続的に届いていた。ニュース速報が、ひっきりなしに画面を占める。

 「“お台場独立”なる声明は、政府として正式に承認したものではない」

 「不法占拠に対し、警察当局が引き続き対応中」

 そんな見出しが次々と流れてくる。


 けれど、実態は明らかだ。あの装備。あの沈黙。警察の範疇でどうにかなる相手ではない。誰がどう呼ぼうと、あそこはもう“奪われた”のだ。


 詩織からの連絡は、昼前から途絶えたままだ。通信アプリには既読がつかず、通話は「接続できません」の音声ガイダンスだけを繰り返す。お台場の電波障害——それは今や報道でも明らかになっていた。


 喉が渇いていた。足元の自販機を試してみたが、どのボタンを押しても「売切」ランプが点灯するだけだった。補充など、もう何時間も行われていないのだろう。缶の見本すらどこか色あせて見える。

 「どうすればいいんだよ……」

 思わず声が漏れる。


 方法はいくつも頭に浮かんだが、すぐに消えた。橋は通れない。海底トンネルも閉鎖された。陸路はすべて封鎖されていて、警察のバリケードだけでなく、そもそも敵が道を塞いでいるという噂もある。ドローン? 無人船? 笑える。そんなもん、どこで手に入る。どこかのSNSで、「ドローンでお台場に荷物を飛ばしてみた」という動画が流れてきたのを思い出した。届いたらしい。けれど、人間が乗れるようなものじゃないし、そもそも自分は飛べない。誰かに頼るにも、今この東京で、自分のためにそんな危険を冒してくれる人間がいるとは思えなかった。


 隅田川を見下ろしながら、手すりに寄りかかる。川の水がゆっくりと流れていく。帰る手段が、ない。


 そのときだった。川上の方から、ふっと明かりが現れた。提灯。ゆらゆらと、風に揺れている。音もなく近づいてくる小さな船が、橋の下をくぐって静かに岸へと寄ってくるのが見えた。

 屋形船だ。

 どういうつもりか知らないが、こんな状況で、まだこんな風情のある船が走っているのか。電飾の色も形も古めかしく、観光目的というより、どこか“住んでいる”ような雰囲気があった。


 颯太は歩き出していた。考えるより先に、身体が動いた。川辺の階段を降りながら、心臓の音がだんだん大きくなる。この船なら、もしかしたら——



 船が岸に横付けされると、舳先のあたりからひょっこりと男が顔を出した。白いタオルを頭に巻いた、初老の船頭だった。焼けた肌に深い皺、半袖の上からでも腕の太さがわかる。見た目はどこにでもいそうな江戸っ子気質の職人風だが、その目だけは妙に鋭かった。


 「……あの、すみません」

 颯太は声をかけた。どんな言葉から入るべきかわからず、咄嗟に出たのはそれだけだった。船頭は無言でじっとこちらを見ていたが、やがて低く口を開いた。


 「乗せねぇよ」


 回答は短かった。言い切るような調子で、理由を聞く間もなく、まるでこちらの意図などとっくに見透かしていたかのような返しだった。


 「お台場に行きたいんです。あの、妻が、あそこに……」

 言いながら、自分でも焦っているのがわかった。息が荒くなっていた。

 「妊娠八ヶ月で、ひとりで家にいて、連絡がつかなくて……だから俺、どうしても、あそこに行かなきゃならなくて……!」


 船頭はしばらく何も言わなかった。川の音と、自分の鼓動だけが聞こえる。

 けれど、彼の口から返ってきた言葉は、やはり短かった。


 「……無理だよ。あそこは今、戦場だ」


 船頭は一度、こちらを無言でじっと見た。そして、口を開いたときの声は、先ほどよりもはっきりしていた。


 「運河の先にゃ巡視艇が張ってる。ヘリも出てる。下手すりゃ撃たれるぞ。乗せた俺も終わりだし、あんたも途中で沈むだけだ」


 彼の口調に、同情も怒りもなかった。ただ事実を告げるだけの、職業としての拒絶だった。

 最後に、「悪いけど、今は客を取る時期じゃねえ。さっさと家に帰んな」と言い残すと、男は踵を返し、船べりに腰を下ろした。



 

 船頭が視線を外した瞬間、もうダメだと思った。でも足は動かなかった。諦めて帰れるほど、軽い気持ちでここまで来たわけじゃない。ここで説得できなかったら、もう他に手段はない。道路も海も塞がれて、空も使えない。誰にも頼れないなら、自分の口で、心で、通すしかない。


 「……一回だけでいいんです」

 自分でも、何を言っているのかわからなかった。

 「ほんとに、ちょっとでいいんです。岸まで、できるだけ近くまでで……帰れなくてもいい。行くだけでいいんです」


 船頭は反応しなかった。その背中に向かって、俺はさらに言葉を絞り出した。


 「一度だけ……詩織が、入院したことがあって……俺、仕事で帰れなかったんです。たった一晩だけだったけど、ずっと後悔してて……だから、今度こそ、今度だけは、って……」


 足元がにじんだ。こらえきれなくなって、視界がぼやけた。


 「たぶん……たぶん、あの人、怖がってるんです。俺が行くって言えば、きっと信じてくれる。あの人、そういう人だから。だからお願いです。お願いします……乗せてください。お願いします……」


 土の上に、ぽとん、と何かが落ちた音がした。自分の涙だと気づくまで、少しかかった。


  「警察にも頼れなかった。自衛隊も動いてない。誰も、あの島に近づこうとしないんです。妻がそこにいるのに、誰も行ってくれないんです。だから俺が、行くしかないんです……行かなかったら、一生後悔するのは俺なんです……」

 

 しばらくの沈黙があった。隅田川の水音と、どこか遠くで鳴るサイレンだけが、夜の空気を揺らしていた。


 船頭はゆっくりと立ち上がり、無言のまま船べりに手をかけた。そして、こちらに顔を向けないまま、ぽつりとつぶやいた。


 「名前は?」

 「……白石です。白石颯太」

 「……そうか」

 

 男はひとつ深くため息をつき、手ぬぐいで目元をこすった。そして、あくまで川の方を見たまま、ぶっきらぼうに言った。


 「……くそ、男が泣くな。仕方がねえだろうが」


 それだけ言うと、提灯を吊るしていたロープを引き寄せ、静かに灯りを絞った。


 「昼間、一度だけ、遠巻きにお台場を回ったんだよ。辰巳や芝浦のあたりは見張りがきつかった。桟橋も封鎖されててな、近づきゃすぐに気づかれる。中央防波堤の南側もだ。妙な武装船が停まってて、こっちが見られてる気がした」


 颯太には目もくれず、作業する手を止めることはない。しかし、颯太に言い聞かせるように言葉をつづけた。

 

 「……けど、潮風公園の方は、レーダーっぽい車が何台かいたくらいでな。意外と、夜ならバレずに近づけるかもしれねぇ」

 

 そして、天を仰ぐように視線を空へ移し、独り言ちる。

 

 「今夜は、風が穏やかだ。月も隠れる……乗んな」


 その背中に、颯太は無言で深く頭を下げた。目の奥がまた熱くなるのを感じながら、地面に頭を擦り付ける。


 男は舵の方へ戻りながら、ひとつだけ言葉を残した。


 「出発は、夜だ。帰ってくるときは、胸張ってな。行くだけじゃ、終わんねぇんだから」


── 20:00 白石颯太(船着き場・隅田川支流大横川)


 夜の帳がおり、首都高7号小松川線の下を走る隅田川支流の船着き場はシンと静まり返っていた。

 船べりを跨ぎ、ふうりん丸に足を乗せた瞬間、身体の重心がわずかに揺れた。川面の呼吸を吸い込むように、船が静かに揺れる。木の床板は想像よりも滑らかで、古びた造りの割にどこか温もりがあった。舳先では、船頭が黙ってロープをほどいていた。エンジンの唸りはなく、船は流れに逆らわず、音も立てずに岸を離れていく。提灯の光だけが淡く揺れ、背後の街灯を少しずつ遠ざけていった。

 岸のコンクリートが、すうっと後退していく。颯太は船の縁に腰を下ろし、リュックを胸に抱える。隅田川の冷たい風が、じわりと顔に触れた。


 「本当に行くんだな?」


 操舵席の方から、船頭の声が聞こえた。


 「……はい。」

 口に出してみて、ようやく自分がそれを覚悟していたことに気づいた。


 「よし。それなら行こう」

 船頭は短く言って、また無言に戻った。


 ふうりん丸は川を南へと下っていく。永代橋をくぐり、越中島の方へ抜ける。佃の街明かり不自然なほど静かで、灯りがついているビルもあれば、真っ暗なまま沈黙している建物もある。湾岸一帯が、どこか歪んで見える。そのまま豊洲大橋を、息を殺すように静かに潜り抜ける。夜の海に明かりを消した屋形船が、静かに静かに航行する。

 川の上は、まるでこの世の外側のようだった。船だけが、ひとつの時間の流れを保ちながら進んでいく。


 「俺ァな、天涯孤独ってやつでさ」

 ふいに、船頭が呟いた。

 「子もいねぇし、親も死んじまって、今じゃ住所も船の中だ」


 颯太は驚いて、思わず振り返ったが、男は視線を川の先に向けたままだった。


 「だからまあ、たまにはこういう客を乗せるのも悪くねぇ。どうせ一人で沈むよりゃ、誰かの役に立って沈むほうが、まだ粋ってもんよ……まぁ、沈むつもりは、ねぇけどな」


 夜の川を進む船の中、颯太は言葉を失ったまま、ただ黙って頭を下げた。


 ふうりん丸は、やがて東京湾の入り口、竹芝ふ頭のあたりにさしかかる。付近のオフィスからは全員退去したのだろう。陸の灯りは少なくなり、ビルの影が黒い壁のように連なっていた。視界の先に、レインボーブリッジ——白いアーチが、闇の中にぼんやりと浮かんでいる。一見、いつも通りの姿だった。けれど、何かが違う。


 「……あれ、照明が落ちてるな」


 船頭が小さくつぶやいた。よく見れば、橋の上部を照らすはずのライトが消えている。ほんの一部だけ、赤く点滅する非常灯が風に揺れているのがわかる。


 小さな屋形船の船上からは、橋の上の様子は全く分からない。それでも、大きな気配を感じた。


 「……橋の上に、何かいる?」

 思わず声に出してしまった。

 「いるな。あれは……見張りか、あるいは……」


 船頭は言葉を切り、操舵の手をわずかに緩めた。


 そして、さらに遠くの空を見上げる。暗い夜空を、音もなく横切るいくつもの点。低空で旋回するヘリコプターだった。川風に乗って、かすかにプロペラの音が流れてくる。


 「さぁて、いよいよヤバそうだ」

 船頭の声が、低く響いた。


 静けさが、やけに重たい。まるで、この静寂そのものが何かを飲み込む前触れのように感じられた。


ここまで読んでくださりありがとうございました。


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