音のない戦場
── 19:02 (記者会見室・首相官邸1F)
午後七時、総理官邸一階の記者会見室。テレビ局や新聞社、あらゆるマスメディアのカメラが並び、報道陣がひしめく中で、官房長官が登壇した。
黒いスーツ、整えられた髪。目には疲れが見える。舞台袖から登場し、国旗に一礼してから会見台へ向かうさまを、国民の多くがカメラを通して固唾をのんで見守っていた。会見台に置かれた政府エンブレムの前で、官房長官はいつも通りの手順でマイクの高さを調整し、手元の原稿に視線を落とす。
フラッシュが一瞬、静止した。
「ただいまより、政府による臨時記者会見を行います」
報道室長のアナウンスが終わると、官房長官が小さく一礼し、静かな声で口を開いた。
「本日、政府は首都湾岸地域における事案について、国家安全保障会議において協議を行い、午後五時四十五分、内閣総理大臣より、自衛隊に対する防衛出動命令が発出されました」
記者席に、一瞬のどよめきが走り、カメラのフラッシュがけたたましく官房長官を照らす。
「本命令は、自衛隊法第七十六条第一項に基づき、我が国に対する武装集団による実力行使への対応として発令されたものです。同命令の発出にあたり、警察庁・法務省・防衛省・外務省・内閣官房より、必要な法的整理と実施準備がなされたことを、ここにご報告いたします」
官房長官の声は機械的に平坦だったが、言葉はひとつひとつが重かった。
会場の記者たちは鉛筆を走らせる者、タブレットに打ち込む者、そしてため息を漏らす者に分かれていた。思わず他紙や他局の記者に心情を吐露してしまう。そんなざわめきに会場は包まれ、しかし、官房長官が話を続けると、一言も聞き漏らさんと波を打ったように静かになるのだった。
「つきましては、港区および江東区臨海部、並びに接続する区域にお住まいの皆さまにおかれましては、速やかな避難、または屋内退避の徹底をお願い申し上げます。一部、公衆電話網および携帯、スマートフォン等の接続が不自由になる可能性がございます。テレビ、ラジオなどにて情報収集をお願いしたします」
官房長官の口調は変わらない。だが、口にされる地名の重みが、空気を少しずつ濃くしていく。
「現在自衛隊は首都圏を中心に段階的な展開を開始しておりますが、これは防御的配置および安全確保を主目的とするものであり、いかなる形でも市民に対する直接的な実力行使を意図するものではありません。現場においては、住民・避難者・関係機関への最大限の配慮を指示しております。皆様の冷静な行動とご協力をお願い申し上げます」
言葉は淡々と、慎重に、しかし速やかに投下されていく。
会見室には静かな熱気に包まれていた。中継を通じて、この会見は全国へ、いや、おそらく国外にも配信されている。机の上のスマートフォンで会見を同時視聴している記者もいた。メモを取る手が止まり、ただじっと官房長官を見つめている者もいた。
「質問を受け付けます。一社ずつ、お願いいたします」
手が、一斉に上がった。
質疑応答の時間に入ると、記者たちは誰もが立ち上がるようにして腕を伸ばし、早口で名を名乗ろうとした。中には遮るように声を重ねる者もいたが、官房長官は動じず、ゆっくりと一人を指名した。
「第一通信の佐々木です」
選ばれたのは、防衛省詰めの中堅記者だった。
声を整え、抑制のきいた口調で、核心に切り込んだ。
「防衛出動命令とのことですが、この事案は“戦争状態”と政府は認識していますか?」
官房長官は、一瞬だけ視線を落とし、それから明瞭に口を開いた。
「いわゆる“戦争状態”との認定については、国際法上の定義、すなわち国家間の宣戦布告や軍事的衝突を前提とする状態とは異なり、本件はそれに該当するものとは認識しておりません」
言葉を続ける。
「しかしながら、国内法においては、自衛隊法第七十六条に基づき、 “我が国に対する外部からの武力攻撃”またはそれと同等の危険状態と認定される場合、内閣総理大臣は自衛隊に対して防衛出動を命じることが可能です。本件については、警察力による対応が限界を超え、国家機関および住民の安全が実力により脅かされている現状を踏まえ、政府としてはその基準に該当すると判断し、法令に則って命令を発出しております」
官房長官は淡々と回答を続けた。
「したがって、防衛出動は、政府の責任において、法的根拠に基づき正当になされた措置であります」
フロアの空気が一段重くなった。
次に指名されたのは、キー局の若手記者だった。
「テレビアークの赤井です。率直に伺います」
緊張を顔に張り付かせながら、質問を続ける。
「自衛隊による戦闘が行われるということですか? 仮に発砲した場合、その判断責任はどこにあるのでしょうか?」
会場が一瞬、静まりかえった。“発砲”という単語に、幾人かの記者がわずかに息を飲んだのがわかった。しかし、官房長官は表情を変えず、正面をまっすぐ見たまま応じた。
「自衛隊は、自衛隊法に基づく正当な命令と交戦規定のもとで行動しており、武器の使用についても、法令に則った範囲内において、任務遂行と自己防護のために限定的に許容されております。現場での判断は、部隊指揮官の裁量に委ねられる部分がある一方で、その全体は内閣の責任のもと、命令系統に基づいて指揮されております」
本当に、本物の戦闘が起こりえる。官房長官の発言に、記者たちの熱気が上がるのがわかった。
質問は紛糾し、官房長官は淡々と答え続けた。そして、最後に指名されたのは、憲法問題を専門とするフリー記者だった。
「自由報道社の坂元です。今回の出動は、憲法9条の制約に抵触する可能性はありませんか?」
官房長官は、少しだけ間を置いてから答えた。
「現行憲法の下においても、自衛隊による限定的な実力行使は、我が国の平和と独立を守るため、必要最小限度の範囲で容認されていると政府は解釈しております。今回の防衛出動命令は、その法的解釈および関連法令のもとにおいて、政府としての判断により正当に発出されたものであり、憲法に反するものではないと考えております」
官房長官の声には感情の起伏がなかったが、それが逆に、言葉の一つひとつに体温を感じさせなかった。記者は回答を必死にメモに記していく。時間をつげる報道室長アナウンスにも拘わらず、記者たちの挙手が減ることはなかった。
最後に、官房長官は手元の原稿に目を落とし、数秒、視線を動かしてから、静かに語り始めた。
「国民の皆さまにおかれましては、現下の事態に対して、不安や困惑を抱かれていることと思います。政府としても、これが通常の災害や事故と異なる極めて異例の事態であることは、重々承知しております。しかしながら、現在、法に基づいた制度と指揮系統により、対応が進められております。皆さまには、誤った情報や憶測に惑わされず、自治体および政府からの正式な情報に基づいて、冷静な行動をお願い申し上げます」
一呼吸置いて、一文を付け加えた。
「そして──お台場に取り残されたすべての民間人の皆さまの救出を、日本政府は必ず実行いたします。ご無事を、心よりお祈り申し上げます」
官房長官は会釈した。その仕草が終わると同時に、フロアのフラッシュが一斉に弾けた。画面は、その静けさの中で淡くホワイトアウトしていく。
── 19:09 (市ヶ谷駐屯地・新宿区市ヶ谷本村町)
市ヶ谷駐屯地の正門前は、すでに制服組で埋め尽くされていた。陸上自衛隊の迷彩服。階級章とネームプレートを揃えた幕僚たちが、腕にファイルを抱え、あるいはスマートフォンを耳にあてたまま、駐屯地構内を行き交っている。幹部用車両が次々と入り、出入口では交通誘導の警務隊が腕を振りながら怒鳴るでもなく処理を続けていた。
背広組の若い職員は、その流れの中に呑まれぬよう足早に歩く。両手には、命令文書の入った封筒。汗ばんだ指先が角をわずかに湿らせていた。
道路わきには、偵察用ジープ。別の列には3トントラック。隊員たちは各車両に装備を積み込んでいる。誰も声を発さないが、交差する脚と荷の音が地面に伝わっていた。
その背後では、幕僚クラスの佐官たちがホワイトボードの前で無言の確認を交わしていた。中隊長がひとり、襟元を直しながら無線の音量を下げ、次の連絡を待っている。
普段であれば、ここは規律と形式の象徴だ。だがいま、この場所は決断が一斉に“現場に流し込まれる前夜”のような空気に満たされていた。
若い職員は、一段高い隊舎の階段を駆け上がり、臨時に設けられた陸上幕僚監部本部へ入る。中では、通信モニターと紙地図の両方を前にして、幾人かの幕僚達が立ったまま処理を進めていた。命令文書を受け取ると、最低限の確認だけをして、静かに頷いた。
「届きました」──ただ、それだけ。
職員が再び外に出たとき、駐屯地は夕刻の光に包まれていた。だが、その光は、いつもより重く、鈍く、まるで街を包む布のようだった。
フェンスの外、報道陣のカメラがこちらを捉えていた。レンズの先には、もう戻らない日常が揺らいでいた。夕暮れの光が、低く垂れ込めた雲の切れ間から覗いていた。
── 19:21 (国道254号線・練馬駐屯地前・練馬区北町)
東京都練馬区──住宅街のすぐ脇に広がる練馬駐屯地では、すでに数十台の車両が構内道路に整列していた。オリーブドラブの車体には泥が乾いた跡があり、その上に貼られた部隊識別の白いマーキングが、どこかの演習地ではなく、この都市の真ん中にいるという現実を際立たせていた。
90式戦車の砲塔が、トレーラーの荷台に静かに固定される。油圧リフトが軋む音が響き、その上で駆動音がかすかに唸る。
大型の輸送車、燃料補給車、偵察用車両、信管を積んだ弾薬トラック。それらが徐々にゲートへ向けて進み始める。車列の長さは数百メートルに及び、信号のタイミングに合わせて主幹道路へ合流していく。
首都高の高架下には、すでに警察車両による交通封鎖が敷かれていた。歩道橋から見下ろす親子、スマホを構える高校生、フェンス越しに黙って見送る住民たち。都市の光と、戦車の鋼が、まったく別のリズムで交錯していた。
車列が首都高速に乗る。サイレンも警告灯もない。ただ、ゴムのタイヤと金属が路面を擦る重い音だけが、都市の心臓にゆっくりと入り込んでいった。
── 19:33 (裕人宅・タイガーマンション3F・埼玉県和光市)
最初に音に気づいたのは、窓を開けていたからだった。いつもの生活音に混じって、低く唸るようなエンジン音が重なっていた。普通のトラックじゃない──慣れた耳には、それがすぐにわかった。
朝霞駐屯地から南へ数百メートル。大学生の裕人は、ベランダに出てスマホを構えた。
見えた。黒に近い緑の車列。幌付きのトラックに、幌なしの輸送車。後部の一台には、明らかに機関銃用の架台が載っていた。
(……やばい、これマジで“本番”じゃね?)
裕人は急いでSNSを開き、動画を撮りながらつぶやきを打ち込んだ。
《#朝霞 #自衛隊 #防衛出動 これ演習じゃねぇ》
《しかも車両番号、実動用だし。マジでやるのか…》
投稿が反応を拾うより早く、もう一台、別の車両が交差点を曲がってきた。キャビンのガラス越しに、ヘルメットとバイザーが一瞬見えた。
(フェイスガードつけてる……戦地仕様だろ、これ)
動画を止めたあと、裕人はしばらくその場から動けなかった。手のひらに残ったスマホの熱が、妙に現実的だった。遠くで、また別のエンジン音が重なった。東京の西側を、自衛隊がいま、本当に動いている。ニュースで見たあの会見と、この街の風景が、奇妙に地続きになっていく。
(……俺ら、ほんとに“戦争”の中にいるのかよ)
画面には、自分の投稿に「マジか」「えぐい」「帰っていい?」の文字が流れていた。
ベランダの下を、もう一台の車両が通り過ぎていった。誰も乗っていない後部席には、装備用のバックパックが整然と並べられていた。
── 19:46 柿沼壮太(A滑走路脇・千葉県木更津市吾妻)
誰も喋っていなかった。声を出せば、何かが崩れる気がしていた。木更津駐屯地、第1空挺団。彼らは今、装備を整えたまま、滑走路脇の臨時展開エリアに待機していた。
出動を命じられたのは、補給科と通信支援部隊。空挺本隊は「待機」のままだった。だが、全員がフル装備だった。ヘルメット、落下傘、予備マガジン。小銃のクリーニングも済んでいて、ベルトの感触が重い。
柿沼壮太は、ベストの隙間から覗くスリングの張りに、無意識に指を添えた。銃身の冷たさが、訓練の時とは少し違って感じられた。
滑走路の向こう側では、第1ヘリ団の格納庫が忙しく動いていた。軽輸送ヘリがタキシングを開始し、中型のUH-60がゆっくりと滑走路へ向かっている。整備員たちがオレンジのベストを着て、腕を振りながら誘導し、タラップの昇降が繰り返されていた。
(あっちは、もう飛ぶのか)
言葉にはしなかったが、柿沼の中にある“置いていかれる感覚”が、少しだけ強くなった。
彼ら空挺団は「いつでも行ける」装備で静かに立っていた。隣では、すでにエンジン音が何機分も重なっている。
(行くのは、俺たちじゃない)
それは全員がわかっていた。だが、だからといって装備を緩める者はいなかった。“行かない”ことが、次の“出番”を否定するわけではない。
「全装備チェック、三分後完了予定」
短く声を飛ばす。誰も返事はしない。ただ、視線と動作だけで伝わる。
柿沼は手袋の中で拳を握り直した。腹の奥が、少しだけ熱い。
整列した隊員たちの間に、誰ひとり雑談をする者はいなかった。この静けさのまま、いつでも飛べる。いつでも、向かえる。そういう覚悟だけが、この風景に満ちていた。
── 20:00 (お台場上空・港区台場)
夜の東京湾が、光を揺らしていた。対岸の高層ビル群はまだ明かりを保っていたが、いくつかのビルは停電しているようだった。火災の煙が一筋、無風の空に溶け込み、わずかに赤く照らされている。その上空を、一機のヘリがゆっくりと横切っていく。灯火管制はされていない。だが、機体の動きは一定で、はっきりと「監視」だとわかる軌道だった。
ビルの谷間に見える道路には、人影がほとんどなかった。水面は波打たず、対岸の灯がかすかに映る。
遠くで、低い音が響いた。だが、それが地鳴りなのか、ヘリの残響なのか、判断がつかなかった。
お台場は、静かだった。光があり、人がいて、煙が上がっているのに──まるで音だけが失われた都市。都市は、静かに呼吸を止め、次の瞬間を待ち構えていた。
── 同時刻 白石颯太(船着き場・隅田川支流大横川)
灯りは、少なかった。都内とは思えないほどの暗がりに、街の喧騒は遠く、風だけが水面を撫でていた。古びた浮き桟橋が、夜の川に微かに軋む。屋形船の発着場。人影はない。看板すら半分、錆びて読めなかった。
颯太はその端に立っていた。リュックを背負い、コートの前をきちんと留めて、川の向こうを見つめている。
スマートフォンを取り出す。電波は入っていた。だが、画面には何の通知もない。誰からも、何も来ていなかった。彼は一度だけ目を閉じ、それから静かに息を吐いた。
「……いくか」
コートの裾が風に揺れた。その音を最後に、夜はまた静かになった。
ここまで読んでくださりありがとうございました。
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