自衛隊法第七十六条
── 17:24 永田 隆一(東京湾岸緊急対策本部・首相官邸B3F)
時刻は、午後五時を回った。外の空は鈍い灰色に沈み、地上に長く伸びた影を落としている頃合いだ。
おおわしの撃墜から、すでに七時間が経過している。だが、この間、敵からの攻撃はなかった。あの一撃を最後に、装甲車も歩兵も、ただ“そこにいる”だけの存在に戻っていた。静かすぎる沈黙が、状況をより不気味にしていた。
一方で、都心の受け入れ施設は限界に達していた。徒歩や車で避難してくる市民。けが人。疲れ切った警察官たち。東京ビッグサイトを封鎖された今、芝浦・三田・高輪側の公共施設や港区立の体育館などが臨時拠点となり、防災無線とSNSで誘導された人々が、ひとところに集まり続けていた。
官邸の地下では、会議が継続してる。もはや“議論”とは呼べないほどの混乱と疲労が、全員の表情を曇らせている。誰かが声を荒げ、誰かが言葉を詰まらせ、誰かが過去のマニュアルを持ち出す。議事録用のキーボードが、遅れて打鍵音を響かせる。その繰り返しだ。
永田は別席で端末と睨み合っていた。目の前にあるのは、敵勢力に関する報告用レポートの草稿。内閣情報調査室の中堅として、敵勢力の正体を何としてもつかまねばならない。
つかまなければならないのだがさっぱりわからないのが正直なところだ。車両識別、服装の類似性、使用装備の生産国、既知兵器との照合、国際輸出入の記録、PMCデータベースとの突合──すべての検索が、既知の分類に一致しなかった。
BTR-90はロシアの協力者に確認を取ったが、特に各基地にて変化があったようには見られないと報告を受けた。ACVも米国担当者は特に記録上の変化なしを回答した。米軍担当者の困惑した回答が思い出される。中国側はむしろ積極的に回答をしてきた。今回の事件と潔白であることを強く証明したいのだろう。96式もあったので、自衛隊背広組は会議でやり玉に挙げられていた。しかし、こちらも国内各基地へ問い合わせたが記録通りに保管されていた。つまるところ、造ってもいない各国の兵器が突如臨海地域に展開したことになる。迷彩パターンに至っては、いずれの防衛産業カタログにも存在しない。
「……どうやって、調達した?」
思わず小さく口に出た。もちろん誰も答えはしない。
ふと、会議室の空気が変わったのを感じ取った。
永田は気配を察して、ゆっくりと視線を動かすと、視線の先には疲れきった表情の警察庁長官がいた。先ほどまで、警視総監と肩を寄せ合うようにして、何か短く言葉を交わしていたのを記憶している。
警察庁長官が静かに立ち上がり、それと同時に会議室がシンと静かになった。
「総理、よろしいでしょうか」
淡々と続ける。
「本日ここまでの経緯、警視庁・警察庁それぞれの調整と情報収集、全て確認いたしました」
一息おいて、言葉を続ける。
「結論として、この事態は──我々、警察の管理・対応能力を、すでに超えています」
ざわめきはなかった。誰も驚いていなかった。むしろ、ついにその言葉が出たか、という空気が一瞬、流れた。
「湾岸地域の署は沈黙。救助要請も、通信回復も叶わず、各所のバリケードは、装甲車の前で意味を成しません。現場の士気は保たれていますが、装備も法的限界も……今後の維持は困難です」
淡々とした口調。だが、それは覚悟の上に乗せられた言葉だった。それを聞きながら、永田は胸の奥がわずかに重くなるのを感じた。警察力で対応できない。つまるところ──
「警察では、対応できない、そう言っている。間違いないかね?」
総理大臣が慎重に聞き直し、警察庁長官は無言で頷く。
「総理、国家安全保障会議の招集を、検討すべきかと存じます」
官房長官が口をはさむ。その場の誰もが理解していた。“臨時対策”では、もう足りない。ここから先は国家の意思そのものが、判断を下す。
会議室の誰もが黙ったまま、総理の一挙手を待っていた。警察庁長官の“限界宣言”の余韻が、まだ空気に残っている。総理は、テーブル上の水に触れることもなく、ゆっくりと口を開いた。
「わかりました……これより、本会議を国家安全保障会議の臨時会合として位置づけます」
その言葉に、わずかに場の空気が引き締まる。誰かが静かにペンを走らせ、数人の秘書官が動作を止めた。結論はすでに、誰の胸の内にも形をなしている。この先に進む道を、全員が理解している。あとは、いつ、どの言葉でそれを告げるか。それだけだった。
官房長官が立ち上がり、総理の言葉を改めて、室内の全員に言い聞かせるよにうに繰り返す。
「ただいまの総理発言を受け、ここに、本対策会議がNSC臨時会合へ移行した事を宣言します」
一瞬間を開け、発言を続ける。
「本会議は内閣官房設置法および国家安全保障会議設置法に基づき、政府として必要な措置を検討・決定するものとします。構成員はこの場に着席する現職各大臣および局長級、必要に応じて補佐官・参事官等を含みます」
官房長官の宣言が終わり、室内はしんと一瞬しずまる。総理は再び前を見たまま口を開いた。どこか機械的に、そして慎重に発言を選んでいる様子だった。
「再度確認したい。現在、敵対勢力が首都圏湾岸部を占拠し、警察力では排除不可能である、ということで間違いないか」
官房長官と防衛大臣が同時に頷き、官房長官が回答する。
「その通りです。法的措置および装備の面から、警察対応は限界にあります」
書記官が忙しそうに発言を書き留める。
「よろしい。では、防衛大臣、本事案に対応可能か意見をおねがいします。」
防衛大臣が静かに手を上げる。
「今回の事態は、国際法上の“戦争”とは異なる構造を持っています。相手は国籍不明で、国家または国家に準ずる組織への所属等不明です。つまり、自衛隊法第76条の防衛出動要件に照らして“外部からの武力攻撃”に該当するか、厳密な法解釈と前提条件の整理が必要です」
総理がうなずくと、官房長官が出席者に声をかける。
「内閣情報調査室」
官房長官は永田と上司の方をちらりと見て、言葉を続ける。
「現在確認されている敵勢力について──我が国に対する“外国勢力”と認定できる情報はありますか?」
室長に目配せされ、永田が立ち上がる。会議室の視線が集中するのを感じながら、動揺せず、簡潔に応じた。
「内閣情報調査室 分析統括官の永田です。国籍・所属を明示する言語、文書、記章、通信はいずれも確認されておりません。また、使用装備に複数の外国製兵器が含まれているのは確かですが、各国政府および現地協力者等からの無関係および把握済みの兵器数との変化なしとの回答を得ています。また、我々の感知するいかなる勢力からも関与声明等確認がありません」
一拍置き、永田は言葉を選ぶように言い添えた。
「現時点では、“外国の政府ないし軍に属する組織”であるとの判断には至っておりません」
永田の回答を聞き、官房長官が次の根拠を確認する。
「法務省。本事案は外部からの“外部からの武力攻撃”に相当しますか?」
テーブルの向こうでいかにも法務官僚といった壮年の女性が短く起立し、無表情のまま口を開いた。
「法務省刑事局参事官の江波です。現時点で確認されている事象は、特定の政治主体による宣戦布告、あるいは国際法上の軍事行為には該当しておりません」
法治国家である日本はある種儀式的な手順を踏まなければ前に進むことはできない。
「しかしながら、国内の行政機関が武装勢力により複数同時に制圧され、民間人が拘束され、国家機能の一部が実力で奪取されている状況にあります」
だからこそ、わかりきった結論を出すにも、このように手順を踏むしかないのだ。
「これらは、自衛隊法第76条において定められる “我が国に対する外部からの武力攻撃”と同等の危険状態と認定される余地があり、また、政府としてはそのように評価・判断する裁量を有すると考えられます」
総理が尋ねる。
「仮に──だが」
ゆっくりと前屈みになり、テーブルに両肘を置き、そして言葉を選ぶような沈黙のあと重々しく言った。
「今、自衛隊の出動を命じたとして。現場で戦闘が発生し……民間人に被害が出た場合、あるいは敵とされる者を殺害した場合。それは、法的にどう扱われることになる?」
「刑法第三十五条において、法令により正当な職務を行う行為については、違法性が阻却されると明記されています」
それだけを述べると、江波は再び静かに腰を下ろした。
「わかりました。ここまでの意見を踏まえ、本事案への対応可能か──防衛大臣に、回答を求めます」
総理の声が会議室に静かに響いた。防衛大臣は、無言のまま一度目を閉じ、椅子の背を離す。
「対応可能です」
短く言い切ったあと、補足を加えるように続ける。
「首都圏を管轄する各方面隊の即応部隊は、すでに準備に入っています。市ヶ谷、練馬、朝霞、木更津──いずれも装備点検・部隊配置・輸送路の確保を進めております。指令が下り次第、第一陣は数十分以内に展開可能です」
言葉は明瞭だった。しかし、少し間をおいてから会議室全体を目配せして続ける。
「ただし、戦闘は都区内に及びます。市街地、民間インフラ、避難者、第三者。従来の展開とは、全てが異なります。これは明確に、武力の行使を伴う国内展開になります」
そして、総理の目をまっすぐ見つめながら続ける。
「ご判断いただきたく存じます」
総理は何も言わず、しばし両手を組んだまま俯いた。会議室内は重苦しい沈黙に包まれ、全員の目が総理に注がれた。とはいえ、結論は皆がわかっていた。
「防衛出動を、命じます」
国家が武力を持って応じると──戦後初の防衛出動命令がくだされた。
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