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お台場独立戦争  作者: 陣頭二玖
第一幕
3/24

それでも、行く

 テレビの前にいた誰もが、動けずにいた。試験信号の縞模様が、無音のまま壁のモニターを染めている。それを見つめたまま、ミーティングスペースの空気は凍っていた。


 上司は、ひときわ前に出て、画面を睨んでいた。眉間に深い皺を刻み、腕を組んだまま小さく呼吸している。普段なら的確に現場を回す人だった。何かあればまず彼が指示を出す。けれど今は、何も言わない。何もできない。ただ、黙って映像の余白を睨みつけていた。


 背後では、ざわめきが広がっている。誰かがスマホを握りしめ、「マジで放送止まった」「さっきの本物だよな」と繰り返す。椅子が引かれ、立ち上がる人、席に戻る人、モニターから目を逸らせない人。誰もが動揺しているのだ。空調の音すらやけに大きく聞こえた。


 ようやく、上司が口を開いた。


「……業務は、各自の判断で。帰れるやつは、慎重にな」


 命令ではなかった。諦めにも似た響きだった。

 


 颯太は席に戻った。だが、すぐには椅子に座らず、カバンの取っ手に手をかけたまま、しばらく身動きできずにいた。


 社内チャットはもう動いていなかったが、スマホのSNSはまだ生きていた。地名と道路名が断片的に流れてくる。「ゆりかもめ封鎖」「台場側、警察のバリケード」「海岸通り通行不可」「竹芝の橋が通れない」短くて浅い言葉のなかに、現実がじわじわとにじんでいた。


 行くなら今しかない。だが本当に帰れるのか、安全なのか、しばし逡巡する。何の気なしにスマホを取り出し、画面をスワイプすると、未読のチャットが目に入った。


 「今日はちょっと張ってる。ゆっくり帰ってきてね」


 朝、玄関先で笑っていた詩織の声が、その言葉から滲んできた。


 

 隣の席の同僚が、小さく声をかけた。


「おい、白石……。行くのか? 危なくないか?」


 颯太は少しだけ息を吐いて、うなずいた。


「……行けるところまで行ってみる」


 そう答えると、ようやくカバンを肩にかけた。

 財布、スマホ、社員証——最低限だけポケットに移し、あとは手ぶらに近い格好で立ち上がる。


── 9:46 白石颯太(新橋駅前・新橋)


 新橋駅は、都市の血流の要だ。JRと地下鉄とゆりかもめが交差し、スーツ姿の人々が波のように流れていく。構内には構内の時間があり、改札前には改札前のざわめきがある。SL広場には、日替わりでマイクを握る誰かが立ち、聞いているのかいないのか、サラリーマンが横を通り過ぎていく。午前と午後、週の前半と後半、晴れと雨で、流れる人の速度も雰囲気も変わる。これが新橋の日常で、都市の一部であり、同時に都市の「ふつう」を象徴する場所だった。


 だが、今日の新橋駅は違った。


 改札の表示は全て「運転見合わせ」に変わり、エスカレーターもホームも沈黙している。駅前には人が集まっていた。だが、その動きはどこか鈍い。電車を待つでも、改札を通るでもなく、ただその場に立ち尽くす人々。手元のスマホを握りしめて動かない男。駅構内をじっと睨む女性。小声で「どうする?」と囁きあう学生たち。


 警察官がロープを張って、半ば諦めたように人々を誘導している。その声も怒鳴りではない。むしろ押し殺すような、沈んだ音だった。


「現在、全線で運転を見合わせております。駅構内への立ち入りはご遠慮ください。再開の見込みは未定です」


 その放送が流れるたび、怒号とため息が混じる。 「マジで止まってんのかよ」「家、遠いんだけど」「嘘だろ……」誰かが何かに怒っているが、その矛先はどこにも向かわない。


 颯太は、駅前の柵の影で立ち尽くしていた。気づけば、肩にかけたバッグがじっとりと汗を吸っていた。ここにいても何も変わらない。かといって、どこへ行けばいいのかもわからない。


 

 だが、詩織はあの部屋にいる。ひとりで。そのことだけが、彼を動かした。


 

 とりあえず——と、心の中でだけ呟いて。颯太は、お台場方面へと歩き出した。あてもなく、ただ足を前へ出す。


── 10:30 白石颯太(路上・東都新聞ビル前・築地)


 築地に入った瞬間、音が変わった。

 

 絶え間なく鳴るサイレンが、ビルの谷間を反響し、方向感覚を狂わせる。救急車、パトカー、消防の指令車——すべてが同時に鳴っている。だが、それぞれが向かう先は別々だった。


 本願寺の前では、白く巨大な車両が展開されていた。スーパーアンビュランス。災害級の事態にしか出動しない特殊車両が、今はただ黙ってそこおり、勝鬨方面から救急隊がひっきりなしに担架を運んでくる。傷を負った市民、顔に包帯を巻かれた警官、制服が血に染まったまま意識のない若い隊員。次から次へと、負傷者が運ばれてくる。無造作に駐車され、ドアが開け離れたパトカーからは警察無線が叫び声のように飛び交っているのが漏れ聞こえてきた。

 消防も出ていたが、ホースは引かれていない。現場の指揮に追われ、隊員たちは無線を抱えて走り回っていた。現場の把握も、制圧も、誰にもできていない。人数だけが足りなかった。


 颯太がふと目をやると、遠く勝鬨橋の向こう側に異様な車両が見えた。都市迷彩を施された装甲車が、まるで地面に根を張るように停まり、道路を塞いでいた。その天井には、黒く鈍い光を放つ機関銃が搭載されている。砲身は、明らかに築地側を向いていた。

 

 警察官たちは、その手前にバリケードを築いていた。だが、誰の目にも明らかだった。警官が持つ盾も、防弾チョッキも、パトカーの車体すら——あの銃弾を前にすれば、紙と変わらない。規制線の内側に立つ彼ら自身が、それを理解しながら目を逸らしている。


 何かがもう始まっている。だが誰も、そう口には出さなかった。


── 12:21 白石颯太(茅場町駅前・中央区日本橋)


 佃は、案の定すでに通行規制が敷かれていた。勝どきや築地の状況を思えば、予想の範囲だ。だが、その先の箱崎も、清澄も同様だとは思っていなかった。警察が道路を塞ぎ、立ち入りを制限していた。通れる道はなく、つまり、隅田川を渡れなかった。橋という橋は、どれも通行禁止、あるいは進入不可。ウォーターフロントの東へ向かう導線は完全に麻痺していた。


 混雑と混乱は加速している。歩道は人で埋まり、車道にも群衆が溢れていた。歩こうとしても、前に進めない。立ち止まることもできない。怒鳴り声、ため息、子どもの泣き声、誰かの咳——都市は崩れてはいないが、機能もしていない。


 そこかしこで、噂が交錯していた。「永代橋は通れるらしい」「さっき自衛隊の車両が来てた」「敵ってロシアじゃないの?」誰も裏を取ることなどできなかったが、黙っていることだけはできないのだ。声を出していなければ、不安に呑まれてしう。


 時間の経過とともにスマホの通知は、ますます乱れていた。ニュース速報には「首都圏で全面交通マヒ」「都内の避難所、順次開設中」「救急・消防機能が一部停止」だが政府からの発表はなく、自治体や報道各社のバラバラな更新だけが積み重なっていく。画面を眺めていても、正しい情報など何ひとつ掴めず、かといって噂話はもっと眉唾だ。できることはただ歩くのみだった。妻の、詩織の待つ、お台場へ。


── 18:14 白石颯太(国技館入り口・墨田区横綱1丁目)


 そんななか、颯太は両国までたどり着いた。何度も引き返し、道を変え、足が棒になったような疲労を感じながら——ようやく隅田川を渡れた。橋を越えたとき、少しだけ風が吹いた気がする。

 避難所となっていた両国国技館の入口で配られた水を受け取り、体育館のような観客席に腰を下ろた。薄暗い空間には人のざわめきが充満していて、どこか誰かが、静かに泣いていた。


 冷えたペットボトルを手にし、キャップを外して、水を一口飲んだ。そう言えば、オフィスを出てからここまで何も口にしていなかったことをふと思い出す。スマホにはニュース速報の通知ばかりが来る。通知のたびに確認してしまうが、詩織からのメッセージが来ることはなかった。


 水をもう一口、今度はグッと飲み欲し、少しだけ息が整った。その瞬間だった。スマホに通知が届く。


 

《速報:不明武装勢力が、お台場エリアの独立を一方的に宣言》



 動画は2分足らずだった。


 映し出されたのは、昼間にも見た、あのワイドショーのセット。明るさは落とされ、照明は最低限。背景のスクリーンには何も映っていない。机の端には、拭き残された赤黒い痕がかすかに残っている。その中央に、グレーの作業着を着た男が立っていた。濃いサングラスで顔はよくわからない。背筋を正し、顎を引き、両手を胸の前で穏やかに組んでいる。


「この放送は、広域住民の皆様および関係各位に向けた、正式な通達でございます」


「本年、本日、午後6時をもちまして、東京湾臨海副都心、通称“お台場エリア”は、当方管理下に移行いたしました」

「当該区域における行政、治安、交通、通信、その他すべての公的機能は、旧体制より適切かつ合法的に移譲されております」

「これにより、当区域は新たな自治的管理体制の下、安全かつ秩序ある統制を開始しております」


「つきましては、区域内にお住まい・ご勤務の皆様におかれましては、現時点ではご自宅・職場内での待機をお願いいたします」

「安全が確認されない限り、屋外への移動・接触は極力お控えいただきますよう、深くお願い申し上げます」


「万が一、当方からの指示に反する行動が確認された場合には、状況に応じ、必要な措置を講じさせていただきます」


「皆様の冷静なご理解と、円滑なご協力を心よりお願い申し上げます」

 「なお、外部からの不当介入や干渉行為に対しては、状況に応じ適切な対処を実施いたします」

 

 「以上、通達とさせていただきます」


 それだけだった。音楽も効果音もない。ただ、徹底して抑制された語りと、背景に滲む不穏さが全てを物語っていた。



 颯太は、水のボトルを手に持ったまま、画面を閉じた。目を伏せ、息を吐き、それでも怒りだけは止められない。


 「……ふざけんなよ」

ここまで読んでくださりありがとうございました。


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