血と暴力の生放送
── 9:25 白石颯太(オフィスフロア・東京ベイシティ22F・新橋)
社内チャットの通知音が止まらない。
「ネット切れた」「橋が封鎖されたらしい」「警察がいる」「銃声?」
どこから集めてきたのか、社員の一人がSNSのスクショを貼り付け始めた。
誰かがぼそっと言う。「これ、やばくないか……?」
フロアのあちこちで椅子が引かれ、誰かの立ち上がる音がする。
マウスを握ったままの手が止まり、モニターの画面を見つめたまま、みんなが何かを探していた。
そのとき、部長が声を上げた。
「誰か、テレビ。ミーティングスペースのやつ、まだ映るだろ。つけてくれ」
ざわりと、空気が動いた。
ミーティングスペースの壁に掛けられたモニターが、ふっと切り替わった。
リモコンを手にした誰かが、地元局やキー局を順にザッピングしていく。
どこも通常の番組を中断し、速報テロップを流しながら、落ち着いた声で「情報収集中」と繰り返していた。
騒がしくはない。だが、画面の向こうもすでに空気が張りつめているのがわかる。
そんな中、ひとつのチャンネルにざわつきが起きた。
「……これ、お台場テレビだ」
画面が切り替わる。
左上に、小さな白字のテロップが出ていた。
《少し前の映像|レインボーブリッジ上》
ハンディカメラのブレた映像。風の音。ピンマイク越しの荒い息遣い。
橋の上にトラックが何台も立ち往生し、行く手を遮るように黒い車列が道を塞いでいた。
画面の端で、黒服の集団が静かに動いている。
「……回して。今すぐ。音も、拾って」
ディレクターの声は低く、張り詰めていた。
少し遅れて、マイクを握る若いアナウンサーの声が入った。
息を整えながら、視線をさまよわせるようにカメラの横に立つ。
「現在、レインボーブリッジ上では……交通が遮断されており、詳細は確認中ですが……複数の車両が足止めされている模様です。黒い車列は……おそらく、何らかの組織的な動きが——」
言葉がかすれた。
視界の奥、道路の向こう側で、大型トラックのドアが乱暴に開いた。
ドン、と響く音。足早に歩いてくる男がいる。反射ベストに作業着、怒気を含んだ顔。
彼は通行止めになった橋の上で足止めされたドライバーらしかった。
「ちょっと! あれ、マイク拾ってる?」
カメラの後ろで誰かが言う。現場音声はざわつき、風の音と共に男の声が大きくなっていく。
「おい! なんだその車は! 通す気ねぇのか、ここどこのもんだ!」
男は中継クルーのすぐ横を通り過ぎた。
息を巻き、腕を振り上げながら、黒服の集団へ向かってまっすぐに進んでいく。
アナウンサーが一歩下がる。「止めたほうが——」と言いかけたそのとき、若いADが慌てて追いかける。
「すみません! ちょっと危ないです、戻ってもらえますか!」
男は振り返らない。
橋上に並ぶ黒い車列へ、怒鳴り声をぶつけながら歩を速める。
「無視すんじゃねえよ! 誰がこんな——おい、てめぇら!」
黒服の数人がわずかに体勢を変えた。
その中の一人が、ほんの少しだけ左腕を持ち上げるように見えた。
その意味は、中継クルーにも、画面越しの視聴者にもわからなかった。
——パアンッ、パアンッ!
音がした。
乾いた、しかし鋭く芯のある破裂音が二度。
反響がレンズを震わせる。
男の体が前のめりに傾き、膝から崩れ落ちた。
作業着の背中が破れ、大きく血が噴き出す。高圧で吹き出したような鮮やかな赤。
高速弾は、命中するとわずかな時間で回転しながら人体内部を破壊し、出口側では着弾点の数倍の損傷を生じさせる。
内臓が破裂し、骨が砕け、筋肉がえぐられる。そう設計されている。
トラックのタイヤが血を弾き、路面に飛沫が散った。
ADが叫ぶ。
「……撃たれた!」
アナウンサーの口が動いているが、声が出ていない。
映像が激しく揺れた。
地面、空、誰かの背中。カメラは転げ、また持ち上げられ、呼吸の荒さがピンマイクに乗る。
通行止めにされていた車列から、人々が叫び声をあげて走り出す。
「撃ったぞ! あれ本物だ、逃げろ!」
「うそだろ……死んだ、あの人……!」
「マジかよマジかよマジかよ!」
「やばいって! 車、車動かして!」
「こっち来てる! 早く早く早く!」
ドアを開けたままの軽トラック。落ちた買い物袋。
走り去る靴音と泣き声が交錯する。誰かが車の下に這い込み、別の誰かは荷台から飛び降りた。
中継クルーの誰かが怒鳴った。「伏せろ! もう録らなくていい!」
だが録画は止まらなかった。
画面の端に、動かなくなった運転手の背中が小さく映っていた。
その向こうで、黒服の集団がゆっくりと前に歩き出す。
「これ——今すぐ送って! 生放送、回線生きてるうちに!」
ディレクターの声が響いた。怒号ではない。はっきりとした命令だった。
そして短く言い添える。
「お前らは逃げろ。カメラは置いてけ。切るのは、俺がやる」
その直後、画面が揺れた。黒服の一人が、カメラの方にゆっくりと顔を向ける。
手にした銃が、ためらいなくこちらを狙う動きを見せた。
——パンッ。
音が一つ。何かがはじけるような、鋭く割れる音。
カメラが跳ねた。視界がぶれ、地面を向いたまま倒れ込む。
舗装されたアスファルトに、赤黒い液体がぱっと飛び散る。
濃く、粘り気をもって、にじむようにレンズの端へ広がっていく。
靴の裏がその中を踏み、肉が擦れるような音がノイズの向こうから聞こえる。
血と油と埃が混じった匂いが、画面越しに伝わってきそうだった。
カメラのレンズに、誰かの手の影が一瞬だけ差し込む。
だが、それもすぐにふっと外れ、映像はそのまま静止した。
映像が止まったまま、音も途切れた。
切り替わった先のスタジオでは、誰も言葉を発していなかった。
カメラはワイドショーのセットを映している。明るい照明。ポップな小道具。
その中央で、司会のアナウンサーが口を半開きにしたまま固まっていた。
長い沈黙の末、彼はようやく喉を鳴らし、声を絞り出すように言った。
「……今の映像は、おそらく……現在確認中の、ええと、映像で……」
その言葉は、誰にも届かなかった。
隣のお笑い芸人が目を見開いたまま動かず、コメンテーターの一人はカンペを見ることすら忘れていた。
もう一人は、手元のメモを握りしめたまま、無言で下を向いていた。
音が、まるで吸い込まれたかのようだった。
長い沈黙のあと、コメンテーター席の端に座っていた政治学者が、メモを握りしめたまま、言葉を絞り出した。
「これは……これは明らかに、国家の主権に対する武力の行使であり……ええと、つまり……」
その言葉が途切れるのと、ほぼ同時だった。
スタジオの奥、セット裏の扉が音もなく開く。
悲鳴があがった。
「来た……!」「やばい、やばい、カメラ止めろ!」
スタッフが一斉に動き出す。照明が一部落ち、カンペが舞い、誰かの転倒する音が響く。
黒服の影が何人も、無言でスタジオに入り込んでくる。
明るいテレビ空間が、じわじわと異物に侵食されていく。
「立ってるな、撃たれるぞ!」と誰かが叫んだ。
銃声。——パンッ。短く乾いた音。
その瞬間、カメラが大きく揺れ、床と天井が切り替わる。
芸人が椅子の下に隠れ、アナウンサーが震える手でマイクを外そうとする。
ADの一人がプロンプターの陰に飛び込み、別のスタッフが「中継切って! 今すぐ切って!」と絶叫する。
もう一発。短い銃声。誰かの息が止まったような音が、静まり返った空気の中に沈んでいく。
画面が乱れた。ノイズが走り、色がじわじわとにじみ始める。
カメラが地面に落ち、レンズ越しに転倒したスタッフの足が映る。
その後ろで、無言の黒服たちがゆっくりと歩いてくる。
レンズに光が反射し、白く滲んだ。
そして、何の合図もなく、白・黄・シアン・緑・マゼンタ・赤・青の縞模様が、画面を機械的に埋め尽くした。
音も映像もない、色だけの無音の試験信号。
何が起きたのかを何も語らず、だがすべてを物語っていた。
ミーティングスペースは、深海のように静まり返っていた。
壁のモニターには、まだ試験信号が映っている。
誰もが立ち尽くし、声も動きもなかった。
コーヒーを持ったままの同僚、椅子から半ば立ち上がった上司、スマホを見つめたままの若手社員。
誰も画面から目を逸らせなかった。
颯太も、その無音の映像を黙って見つめていた。
説明も、警告も、声明もない。ただ、放送だけが続いていた。
ここまで読んでくださりありがとうございました。
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